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豊倉賢略歴
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2005C-6,2 秋谷鷹二 1972年大学院修士課程修了  (工学修士)

 
  秋谷さんはこのホームページに昨年4月(2004C−1,2)および10月(2004C−4,4)に記事を執筆・掲載したので、秋谷さんの簡単な紹介はそこで行った。今回は秋谷さんが早稲田大学大学院修士課程修了後、初台にあった東京工業試験所およびつくば移転後の研究所での仕事の概要を紹介して頂いた。卒業生はご存知と思うが、一昨年7月に(財)造水促進センターに常務理事として迎えられ世界を股に掛けて活躍している。特に造水センターの仕事は人類永年の課題である水の問題を世界規模で取り組んでおり、豊倉が時々お目に掛かる元工業技術院院長の石坂先生は今もって高い関心も持ってその仕事を見守っており、先日も秋谷さんのことを話題にしていた。秋谷さんが書いたこの記事では日本の産業技術に関する政府機関のことや海外への技術移転ことも触れられている。若い卒業生には今後研究職としての活躍を希望している人も多くこれらの人にとっても、また産業界で活躍する人にとっても秋谷さんの記事は参考になることが多いと思う。 (05年11月 豊倉記)


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(秋谷 鷹二)

転職して2年が過ぎました

 15年6月30日に31年間勤務した産業技術総合研究所を退職しました。在職中は、卒業生の皆さまには大変にお世話になりありがとうございました。厚く御礼申し上げます。同年7月1日より(財)造水促進センターに常務理事として着任しました。この度、豊倉先生から、ホームページに最近の状況を報告するようにとのお誘いをいただきました。良い機会ですので、研究所生活と財団生活について小生が経験した事を紹介したいと思います。特に小生の国立研時代の生活は、通常の研究職とはかなり異質でありましたので、この機会にその点を紹介することも面白いと思います。それでは、以下に述べます。

1)研究職へのきっかけについて
卒業生の皆さまは、民間会社、大学や教育研究機関、家業の相続、自営(ベンチャーも含む)など幅広い分野でご活躍と思います。私は、小学校のころまでは、ブラジルに移民し、そこの広大な原野を開拓していくのが将来の夢でした。それが、中学を卒業し、高校へ入学したころから何となく研究職もなかなか良いものではないかとの気持ちがかすかに心の底にたまって参りました。しかし、研究職は、いずれにしても高嶺の花であるということには代わりは無く、せめて研究者の自伝などを読むのがやっという高校生活でした。

 早稲田にどうにか入学し、恐れていた落第もせずに無事卒業の可能性を見出したころに、大学院への推薦入学の募集がありました。早速に父母に推薦が取れたら大学院への進学を了解するようにお願いし、手続きに入りました。幸い、最低限での成績でしたが、大学院への進学が許可され、夢の様な気持ちでした。この頃から、ひょっとしたら研究職に就けるかもしれないとの気持ちが沸き出しました。たしか城塚先生にお話をしたと思います。先生は、笑いながら、それではとりあえず上級職公務員試験を受けるようにと指示された事を思い出しております。その後、早速に、公務員試験対策用の問題集を購入し、卒論用の文献調査の傍ら、問題集に挑戦しておりました。どうにか、公務員試験にも受かり、豊倉先生から東京工業試験所を紹介いただきました。どうにかこちらも内定をいただきました。豊倉先生からのご紹介でしたので、大丈夫と思っておりましたが、最終的な合格通知をいただくまでは、安心できず不安な日々でもありました。

2)国立研究所生活のスタート、しかし現実は。
 やっとのおかげで就職して、海水淡水化のプロジェクトに従事しました。この事が、現在のポストのご縁に繋がった事と思います。
 しかしながら、この頃は、工業技術院傘下の在京研究所はつくば移転問題で大混乱でした。東京工業試験所では、組合活動が盛んで、研究所の建物の壁はすべて組合のビラに占領されているような状況でした。この様な状況の中でも引っ越しのための計画作成、研究所建物自体の設計プラン作成などが着々と進められているという大変な時代でした。小生も、いつの間にか、この移転問題の作業グループに繰り込まれ、研究現場へは、ほとんど顔を出すことが出来なくなりました。国立研の研究員の評価の基本は明示されていない時代でしたが、論文数が基礎になっている事は明白でした。ほとんどの時間を移転作業に従事しましたので、実験時間はほとんどとれず、研究所への泊まり込みも続き、研究論文作成の観点からは非常に厳しい立場を強いられました。

それでも、最終的には移転作業も円滑に済み、つくば研究学園都市への移転も無事終了しました。これで、やっと研究に専念できるという時代を喜んでいる時に、今度は企画室への併任の辞令を頂戴しました。企画室という響きは、ある意味では良いものもありますが、当時の国立研究所の企画室は雑用係です。工業技術院へ提出する資料の文書整理が主な仕事でした。これほど面白く無い仕事はありませんね。唯一の救いは、誤字脱字を見つけてプロジェクト担当部長に訂正を指示する事でした。しかしながら、これだけでは面白くないので、勝手に営業活動に徹することにしました。要は工業技術院の担当官との接触を多くし新規プロジェクトへの感触を探る事です。これは、非常に厳しかったですが、その反面とても面白い事もありました。この様な活動を通じて、おかげさまで、総額で80億円、8年計画のプロジェクトを立ち上げることが出来ました。

その後、企画室への併任解除の辞令もいただきましたが、現実としては相変わらず企画畑の仕事が続きました。最終的には、再度の企画室への併任となりました。今回はエネルギー技術研究調整官との肩書きでした。国家公務員では「官」という名称がつくポストは偉いそうですが、小生の場合には、その実体は前回の併任時と同じです。結果的には官がついた分責任が重くなりました。典型的な例として会計検査がありました。一般的な議論として会計検査に係わる費用の方が、検査により国庫に戻される金額より大きいので、会計検査制度を取りやめにするべきだと云う議論があります。しかしながら現場では、やはり会計検査が必要との経験をさせられました。内容の詳細についてはここで述べることは出来ませんが、結果的に小生の名前は会計検査院に登録され、指摘された問題については一年間勉強をしたということで終了しました。その後の一年間は、常に緊張の日々でしたが、幸い次回の会計検査では、本件についての特段の指摘も無く、無事終了しました。やはり会計検査という緊張感が無いと現場での予算の使い方に弱さが出て来ると思っています。この経験は、現在の財団経営にあたっての原体験となっております。何が、何処で役に立つのかは分かりませんが、それぞれの現場でベスト尽くすことが大事だという事を改めて実感しております。

 再度企画室に併任になり、そのために工業技術院に挨拶に出かけ、担当官に名刺を手渡した時の驚きは忘れられません。開発官(通産省のプロジェクトの責任者)に挨拶したときに、小生の古い名刺を取り出され、所属が変わりましたねと指摘されました。開発官の引き継ぎ事項は多岐にわたるのでしょうが、一番のポイントは人脈の引き継ぎです。一般的な議論として、ウソをついても官僚は二年で交代するから、何ら問題無いと豪語する輩もおりますが、いわゆる官僚の世界では、そこまで含めてしっかりと引き継がれております。卒業生の皆さまには、この点については十分ご理解をいただき、会社のため、ご自身の為、ご家族の為となるようにご配慮をお願いします。

 こんな感じで年月が過ぎて行きました。もちろんオリジナルな研究を忘れた事は一度もありませんが、段々オリジナルな研究という名前が一人歩き始めておりました。そんな時に、豊倉先生から、いままでの研究成果をとりまとめて学位論文とするようにとの暖かく、かつ厳しいご指導をいただきました。この作業の中で未だに忘れられない事が二つあります。一つは、研究室にご指導をいただきに参りましたが、当方の準備不足を厳しくご指摘いただき、「秋谷さん(君だったかもしれません。先生は卒業後は秋谷さんとお声をかけていただいております)、あなたと一時間を過ごしても、自分で研究進めても同じ一時間だよ」との趣旨のお諭しをいただきました。あまりにも自分自身に情けなくなり、ただちに帰ったと思います。キャンパスから新大久保の駅にどの様に歩いたのかは記憶にありません。もう一つは鶴川のご自宅で相変わらず厳しいご指導をいただきながらも、昼食に先生のお手製の肉うどんを美味しくいただいた事です。どちらも具体的なご指導の内容は記憶にはありませんが、今でも強く記憶に残っております。

 この様にして、どうにか早稲田大学から工学博士の学位をいただきました。これで一人前になれたかなととても嬉しかった事を今でもしっかりと覚えております。授与式の時には、同窓の西出先生もご出席いただき、とても感激しました。この時の写真は、今でも机の上に並べ、当時の感激を思い出すとともに、研究に限らず仕事にはオリジナルな要素をどの様に織り込んでいくのかを考えております。

3)(財)造水促進センターにおける経験
 この様な流れの中で、国立研究所生活を31年間、大過無く過ごした時に、現職場である、(財)造水促進センターへ出向のお誘いをいただきました。この財団は、通商産業省傘下の公益法人として、昭和48年5月に設立された団体です。設立後30年というタイミングでした。公益法人の中では歴史がある方に属します。財団の主な業務は、大きく分けて三分野に分けられます。始めは「海水の淡水化」です。当時工業技術院の大型プロジェクトである「海水淡水化と副産物利用」において世界に先駆けて開発された「高流速長管式多段フラッシュ蒸発装置」の海外普及を目的としました。海水淡水化については、その後も冷凍法による淡水化やRO膜法海水淡水化等の研究開発を続け、世界でも有数なポテンシャルを有する団体です。二番目は、河川開発に替わる水資源として下水・廃水の処理・再利用技術の開発・普及促進です。本財団では、この活動の一環として同じく工業技術院の大型プロジェクトである「アクアルネッサンス’90」に参画し、民間企業と共同で我が国で初めて下水・排水処理に嫌気性処理を導入するとともに、膜分離処理システムを開発した経験を有しております。ここで、開発された膜分離技術が、現在の多くの下水・排水処理技術へ応用され、我が国の処理技術の優秀さの基礎となっています。この様な技術開発を通じて、代替水源を確保できたとしても、実際に工業用水を利用する際の工業用水使用合理化が必要です。そこで、三番目として、財団では、この観点から水使用合理化診断を事業として継続的に実施しています。これらの三本柱は、いずれも新しい水資源として捉えられることができます。そこで、財団設立の折には、新しく「造水」の概念を定義し、この構想により財団の名称を「(財)造水促進センター」としました。ちなみに英文名では「Water Re-Use Promotion Center」と称しております。皆さまには「造水センター」よりも「Water Re-Use」の方が概念をご理解いただくには、あるいは適切ではないかと思います。

 設立後、すでに30年の歴史がありますと、その活動範囲も広くなります。海水の淡水化については、大型プロジェクトで利用していた茅ヶ崎の研究所をプロジェクト終了後も引き続き有効利用し、RO膜法海水淡水化技術の開発を行い、国内外に我が国の逆浸透法海水淡水化技術の有効性を明らかにしてきました。これらの成果は、海外でも評価され、日本メーカーの大規模逆浸透法海水淡水化プラントの受注に繋がっております。また、現在では、オマーンやカタールにおける逆浸透法海水淡水化に係わる研究協力を実施中です。小生は常務理事・国際協力部長としてプロジェクトの統括責任者として、プロジェクトの進捗ならびに現地への効率的な技術移転について苦労しております。さらに、中近東諸国からの協力依頼は、今後も続くと予想され、そのための協力体制の確立を考えているところです。

 廃水処理・再利用について最近のトピックスは、オゾンによる廃水高度処理プラントを愛知万博長久手会場内政府館の排水処理プラントとして設置しました。さらにオゾンにより高度処理された処理水は政府館の外壁に流され、政府館の冷房効率の改善に有効利用されました。当該プラントは、会期中は一般公開されましたのでご覧になった方も多いと思われます。また、新エネルギー・産業技術開発機構(NEDO)のホームページにも公開されましたので、ご興味のある方は、そちらを覗いて下さい。廃水処理・再利用についても、近年は海外展開が多くなりました。小生が着任してからの事業としては、タイ、フィリピン、マレーシアやイランがあります。我が国の水産業の進出支援まで含めますと、さらにベトナムやパキスタン、中国とも関係があります。先日は、技術調査でインドを訪問しましたが、計画途中でしたがデリー市内で爆弾の破裂があり、その余波で予定を変更し、急遽帰国しました。我々の様な財団の活動においても「危険への対応マニュアル」が必要不可欠となってきております。海外でのご活躍の多い方からの、危険マニュアル作成についてのお知恵を拝借できると幸いです。

 水使用合理化については、我が国では世界の状況に比べ、はるかに進んでいると思われます。しかしながら、最近のシミュレーション技術である「ピンチテクノロージー」を適用すると、さらに合理化が可能である事が分かりました。現在、財団では複数のプラントにおける工業用水の使用合理化へ「ピンチテクノロジー」の適用を検討しております。まだまだ不十分な点もありますが、今後の詳細な検討が楽しみとなる成果が得られております。ご興味のある方は、ご連絡をいただければ幸いです。

 最近の事業として、みなさまにご紹介しておきたい事業としてCDM事業があります。CDMについては、すでにご承知の方が多いと思いますが、温暖化ガス排出権取り引きのためのClean Development Mechanismです。要は海外において温暖化ガス排出量を削減する事業を実施すると、削減量に応じて温暖化ガス排出権を取得することができます。この活動の詳細については、それぞれの解説書によりますが、財団では主に東南アジア地区の排水処理設備に注目し、現地での廃水処理設備を我が国の省エネルギー型の設備、あるいは廃水処理設備から特別な処理も無く放出されているメタンガスの回収・再利用を図り、これにより我が国の温暖化ガス排出権の取得を目指しております。昨年はNEDOのFS事業としてフィリピンにおける製紙工場の排水処理設備についてFS調査を実施してきました。今年度もFS調査を実施すべく、準備と整えております。  (財)造水促進センターでは、この様な業務をわずかな人数でこなしております。トップは通産省ご出身の専務理事です。技術系としては常務理事である小生の責任となっているようです。どちらの公益法人の経営も、厳しくなっているのが現状です。これを解決するには、新規なビジネスへの対応が重要との認識で財団内は一致しております。それでは、新規なビジネスは何処にあるのかという事が問題点となります。国立研の研究員時代のネットワークを最大限に利用させていただいておりますが、これだけでは不十分です。早稲田の団結との暖かいキーワードにより、皆さまからの事業提案をいただけると幸いです。事業としては、海水淡水化に係わる技術開発、関連する各種FS調査、廃水処理・再利用技術の開発、同様に各種FS調査などがあります。関連する話題をご存じでしたら、是非とも下記メールあてにご連絡をいただければ幸いです。

 最後になりますが、この様な駄文を載せていただく機会をいただきました豊倉先生には厚く御礼申しあげます。同時に、読みにくい、自分勝手な文章ですが、お読みいただきました皆さまに御礼申し上げます。皆さまのご健康と益々のご発展をお祈り申し上げます。

以 上

連絡先
〒103-0013
東京都中央区日本橋人形町3-5-4
MS-2ビル 5F
(財)造水促進センター
常務理事 秋谷 鷹二(アキヤ タカジ) 
tel 03-5644-7565
fax 03-5644-0686
e-mail: akiya@wrpc.jp
URL : http://www.wrpc.jp


略 歴
昭和41年4月 早稲田大学理工学部 応用化学科 入学
昭和45年3月 同上 卒業(工学士)
昭和45年4月 早稲田大学大学院理工学研究科 修士課程 入学
昭和47年3月 同上 終了(工学修士)
昭和47年4月 工業技術院 東京工業試験所 入所
昭和54年10月 つくば研究学園都市へ移転。名称を化学技術研究所に変更。その後、工業技術院傘下の化学系3研究所の統廃合により物質工学工業技術研究所として再スタート。
平成13年4月 独立行政法人 産業技術総合研究所として改組
昭和63年10月 「晶析操作を用いる化学プロセスの開発に関する研究」により早稲田大学より工学博士の学位を取得。
●従事した研究課題●
海水の淡水化と副産物利用の利用に関する研究、省エネルギー技術(高性能圧縮式ヒートポンプ技術、ケミカルヒートポンプ技術、ケミカル蓄熱技術)の開発に関する研究に従事。

平成15年6月30日 産業技術総合研究所を退職
平成15年7月1日 (財)造水促進センター常務理事兼国際協力部長
兼CDM事業推進室長に就任。
現在に至る。

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