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豊倉賢略歴
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2005C-5,5  豊倉 賢 “ 5年振りのヨーロッパとISIC16に参加して ”


  1999年3月早稲田大学選択定年制度の適用を受けて退職し、その年の9月に英国、Cambridgeで開催されたISIC14, また翌2000年にオランダのDen Haagで開催された世界塩国際会議とその直後にSwedenのStockholmで開催されたWPCに出席した。今年5年振りに9月8日より23日までの2週間西欧4カ国を家内と一緒に旅行したが、それは家内にとっても6年振りの学会参加であった。家内は1980年に私と4ヶ月ヨーロッパに滞在して以降、ほぼ毎年のように国内外で、大勢の欧米の友人にお目に掛かり親しくなっていた。特に1986年に東京で開催された世界化学工学会議以後は晶析の国際会議等で開催されるSocial Programに参加して、陰から国際会議の発展に寄与してきた。最近は、WPC設立当初に貢献した先生方の多くは退職され、また、一部の先生方は他界されて工業晶析の発展を支える研究者・技術者の世代も変わった。今回は1981〜2年に早稲田大学・豊倉研究室にフンボルト派遣研究員(協定により日本学術振興会受けいる研究員)として在籍していたドイツHalle大学教授・工学部長のJ.Ulrichが、前任者のUMIST 教授で前学長のJ.Garsideの後を引き継いて2002年にWPCの第3代国際議長に就任した。豊倉はUlrich教授活躍の様子をWPCその他よりで数年前から耳にしており、豊倉自身も彼の学者としての見識・人柄考えて近々WPCの国際議長に就任するのでないかと予想し、彼が世界晶析グループのトップになって国際会議を主催する時にはもう一度ISICに参加しようと考えていた。今回はUlrichがドイツDresdenで国際会議主催することになったので、この機会に家内と一緒にヨーロッパを歩いて、最近25年間の変化を自分の目で確かめ考えてみようと訪欧を決めた。


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(豊倉 賢)

「1968年以降の訪欧を思い出した:  5年振りのヨーロッパとISIC16に参加して」

1)はじめに:1968〜2000年 の訪欧を振る帰りそれとの関連での今回の訪欧スケジュール
2)9月8日成田発BA機にてロンドン経由ベルリン着; 9月10日までベルリン滞在:  
  ・・・・5年振りのヨーロッパへの飛行と到着ベルリンの3日間・・・・

3)9月11日汽車にてベルリンよりドレスデンへの移動とシンポジウム初日の行事:
4) ISIC16のシンポジウムセッションとそこでの目玉総合討論・・・世界のWPCを発展させるために
5) 9月14日以降の行程: パリとロンドンで見・経験した最近の新事実 
6) 今回の旅行をふりかえって:



1)はじめに:1968〜2000年 の訪欧を振る帰りそれとの関連での今回の訪欧スケジュール

  私が初めてヨーロッパを訪問したのは米国アラバマ州にあるTVA公社Fertilizer Development Center における研究生活修了直後の1968年10月末であった。当時はベトナム戦争末期で、ヨーロッパに着いた2〜3日後にニクソン氏が大統領選で勝利したニュースをパリで聞いた。この訪欧では、私はまずLondonに着き、その翌日UCLにMullin研究室を訪問することになっていた。その時のロンドンは当時よく言われていたように建物の壁は黒く全体として暗い感じであった。このことは数年後に再度ロンドンを訪問した時、ロンドンの町の暖房は石炭から石油に変え、建物の壁をクリーンアップしたので明るくなったろうと云われたことを時々思い出している。最初のUCL訪問時にはMullin教授は大陸に出張していて会うことは出来なかったが、丁度その時チェコスロバキヤから客員教授として来ていたNyvlt博士に会うことが出来た。この時、Nyvlt博士から「 豊倉がMullin教授にアメリカから送った豊倉の博士論文“Design Method of Crystallizer”の英訳論文の話を聞かされ 」、それが、ヨーロッパにおける日本の晶析研究評価の切っ掛けになった。この時の訪欧ではまずヨーロッパに足を入れ、ヨーロッパ人はどのような人種なのかを知ることを第1目的にした。またこの旅行では日本良き競争相手と思っていたドイツ人はどのような顔をしていて、どのように道を歩いているかを自分の目で見たかった。Londonの後Amsterdam, Frankfurt, Paris, Geneva, Romaに立ち寄った。スイスではJungfraujochに登山電車で登り、初めてスイスの山を見て感動した。当時はまだヨーロッパに行く日本人は少なく、豊倉がTVAを出発して一週間くらい旅行してAmsterdamの空港に着いた時、初めて日本人に会った。この人は初めての海外出張で、アメリカを廻ったヨーロッパに来たが、この人も日本を発って初めて日本語を話した日本人は豊倉であったと云われた。その後1970年代にはISICに参加して論文を発表するために3年毎に日本人の訪欧団を結成した。そこではアメリカから参加した晶析研究者らを含め多くの欧米の研究者・技術者と交流を重ねた。その様子は1992年に出版した「晶析工学の進歩」に掲載しているのでご覧下頂きたい。 今回の訪欧は短期間であったが、過去の訪欧時に見聞きしたこと比較して考えさせられることは沢山あった。卒業生の中にはこれから海外に出かける人、国際会議に参加する人、国外で仕事する人など大勢いると思う。特に今回5年振りの訪欧では当然知って筈のことでも変わっていて、ちょっと分からなかったことがあった。この様な変化を見て、世の中は生きていると感じることもしばしばあった。今回の旅行では大勢の人の知っていることでも旅行者なるが故に気がつかないことがあり、そのような簡単なことを知らないで困ることもあった。今回経験したことの中には卒業生の参考になることもあるのでないかと思い、2週間の旅程の順に経験したことを列記する。

  旅行スケジュール:
ウ)9月8日成田発BA機にてロンドン経由ベルリン着; 9月10日までベルリン滞在
エ)9月11日汽車にてベルリンよりドレスデン移動;9月13日までドレスデン滞在
オ)9月14日汽車にてフランクフルト経由バーゼル着;バーゼル泊
カ)9月15日バーゼルよりマルテイーニ経由シャモニー着;9月19日までシャモニー滞在
キ)9月19日シャモニー発ジュネーブ経由にてTVGにてパリ着;2泊滞在
ク)9月21日シャルル・ド・ゴール空港よりBA機にてロンドン(泊)経由23日成田着


2)9月8日成田発BA機にてロンドン経由ベルリン着; 9月10日までベルリン滞在:
  ・・・・5年振りのヨーロッパへの飛行と到着ベルリンの3日間・・・・


  戦前は海外旅行と云えば船で行くものと相場は決まっていた。私の大学院時代は博士論文を纏めたら早く留学するようにと城塚先生からよく言われたものであった。その時先生は君らが留学するときは飛行機で行くことになるだろうから、今から考えておくようにとも云われた。私は、在学中に助手になっていたが学科内人事枠のことがあって、助手在任期間が長くなりそうになったので、1966年に急遽米国留学を決めた。当時国際線の旅客機も既にジェット機になっていたが、今の飛行機と較べると小さくエコノミークラスで片側3人の一列6人であった。それでもアメリカ東海岸までの航空運賃は片道500ドルを超え、1ドル360円の公式レート約18万、大体私の早稲田大学の半年分の給料であった。その後エコノミークラスの航空運賃は安くなり、日本人の給与で容易に欧米に行けるようになった。そのためか1980年代には大勢の若者が海外に出かけるようになり、一見国際交流が活発になって好ましいことはあった。しかし、安易に海外に行けるようになると次第に気楽に海外に出かけて、余り収穫を考えない人が多くなったような気がしている。そのような気持ちで国際会議に参加するようになると軽い気持ちの海外出張は、諸外国の研究者・技術者にマイナスのイメージを与えないか心配するようになっている。(エ)のドレスデンのISICに少し記述する。)

  その後国際線のエコノミー症候群が話題になり高齢者はビジネスクラスを利用するようになったが、なかなかビジネスクラスのデスカウントチケットはなかった。ただ、欧米への往復航空券では夫婦割引があり、それでは一人の帰国航空賃は無料になっていたので家内が行く時はそれを使っていた。今回6年振りに家内と一緒にヨーロッパ往復をするので航空運賃は昔と較べてどうかと旅行社に尋ねたところ、昔、夫婦割引適用の二人で往復120万円くらいの航空料金と同じ条件のものでは160〜70万位だが、同じ航空会社の便を使って往復し、週末利用を避けると可成り安くなる航空券があると聞き、今回は15年前に一度乗ったことのあるBAを使うことにした。BA機については過去の経験より、クラブワールドの名称があり、座席が広くて乗り心地がよいことを覚えていた。一方最近までよく利用していたJALは、最近トラブルの発生が多くしかも値段は他のヨーロッパ航空会社の飛行機使用より大幅に高かった。特に今回のBA機には新しい座席が使用され、ビジネスとしては世界で初めて座席が水平に伸びて全く横になって寝られると云うのも魅力であった。

 実際使用してみると寝心地は確かに良かったが、JALの機内サービスに慣れた旅行には多少違和感はあった。この日はロンドンのヒースロー空港経由でベルリンに入った。飛行機がロンドンに着いたときは30分近く遅れていたが、ロンドンからベルリンに発つ飛行機も1時間くらい出発が遅れたので、ロンドンでの乗り換えも充分余裕があってスムースにベルリンに着くことが出来た。しかし、成田空港で預けた荷物は飛行機と一緒にベルリンには着かずそれを受け取るための手続きをしなければならなかった。この様なことは15年前にチューリッヒ空港で経験したことはあったので、荷物が着かなくてもそれ程気にならなかった。普通の国際空港では荷物を受け取る場所の一部に未着荷物の手続きをするところがあるが、ベルリンの空港にはその様な場所は見あたらなかった。幸い、同じ便で東京から来た人が別にもう一組いて、その人達を出迎えに来ていたドイツ人がBA機で来るはずの荷物不着手続きをする部屋に案内したので、私達もそれに付いて行った。実際後に付いていって見るとその部屋は、飛行機が着いて入国手続きをするところから500メールくらいは離れていたのであろうか空港ビルの商店や事務所が沢山あるところを通り抜けたところで、もし、家内と二人だけだったら探すのは大変だったと思った。その部屋では、荷物が着かなかった時の事情をこの部屋まで案内してくれたドイツ人が事務所の職員に説明してくれたので、私は不着荷物の特徴やベルリンの滞在ホテル等の説明をしただけで、BAの職員が必要書類を作成して呉れた。そこでは、荷物が着けば今夜中か翌日にはホテルに届けると云う話を聞き、作成書類の控えを受け取ってその部屋を出た。そこでは、ホテルに着いてから困るであろうとの配慮からかTシャツ入りの化粧セットが貰えた。ベルリン空港は前に一度スイス人と来たことはあったが、今回は実質初めてのようなもので、まずユーロの交換をし、それからホテルに行くことを考えていた。日本を出発する前に入手した資料では、両替所は空港では遅くまで開いていると書いてあったので特に気にしてなかったが、飛行機が遅れその上荷物のトラブルがあったので、手続きの済んだ時には夜大分遅くなっていて、空港内の人の動きも疎らになっていた。荷物の不着手続きをした部屋から出たところで運良く案内所を見つけたので、そこで両替所を尋ねたところ空港の両替所はもう遅いので閉店したとの答えが返ってきた。この案内所でユーロは全然持ってないがホテルに行くにはどうしたらよいかと尋ねたら、タクシーに乗ってホテルまで行き、ホテルに着いてそこのフロントで両替をしてタクシー代を払えとアドバイスしてくれた。その晩は云われた通りタクシーを拾い、ホテルに着いてから車と運転手をその場に待たせて2階のホテルのフロントで両替してタクシー代を払った。その時少しチップを弾んだらタクシーの運転手は愛想よく立ち去っていった。ホテルのチェックインをしたとき飛行機に預けた荷物がベルリン空港に着かなかった話をして空港で作成してもらった荷物不着の書類を見せたところ、その書類のコピーを撮って空港の問い合わせてくれた。結果は今夜はまで荷物は着いてないが、ホテルは24時間開いているので荷物は着いたら夜中でも届けてくれるとのことであった。これで、この夜の出来事は一段落させて部屋に入ったが、ベルリンでの印象はタクシーの運転手を含めて皆親切で良かった。これは日本人に対する信用のためか、日本人旅行者の多くはそれなりにチップを払っているためかなと思った。

  翌朝食事に行く前にフロントによって荷物のことを聞いて見たが、まだ来てないので電話をしてみると云ってすぐ対応を取ってくれた。しかし、先方の電話は混んでいて通じなかった。あげくのはて後程電話して分かったら部屋にメッセイジを入れると云うこととなった。このことについては昼頃部屋に帰って直接空港の係りに電話をしたら、朝の便で荷物は着いたので既にホテルに届ける手配をしていて、今は車で配送中なので間もなく着くことであろうと云うことであった。この荷物の一件はこれで解決したが、荷物が送れて実質的に迷惑したのはベルリンに着いた翌日の朝までで、娘に云われて荷物は着かないことがあるから出来るだけ機内に入れて持って行くように言われたことが役に立った。事前の情報では、BA機のクラブワールドの乗客一人につき9kgの荷物2コまで機内に持ち込むことが出来ると言うことであったので助かった。

  9月9・10日のベルリンでは11日と14日に旅行するベルリン〜ドレスデン、およびドレスデン〜バーゼルへの汽車の座席予約を最初に行った。ヨーロッパ大陸の旅行は1980年以来日本でユーレルパスを購入しそれに所定の手続きを行って一等車でゆったりと旅をして来たが、 ヨーロッパの汽車の座席予約はしなくても最近まで困ることはなかった。その頃は座席予約をする人は少なく、予約しなくても座席に座れないことはなかった。しかし、数年前から予約する人は次第に増えてきていたので、今回はベルリンで座席予約を自分で行うことにしていた。ベルリンで宿泊するホテルの予約は諸々の便利さを考えて、Zoologischer駅の近所(徒歩5分くらい距離にあるSwissotel)に日本からインターネットで予約した。従って、汽車の座席予約にホテルに近いZoo駅のホーム下の旅行案内所で行った。ここでは日本のJRみどりの窓口同様コンピュウターシステムが完備していて簡単に一人3ユーロで一区間の予約が出来た。この時ユーレルパスを見せて指定席を取ったが、相手をしてくれた女性はユーレルパスは一等車に乗れると云うことを知らなかったためか、二等車の席を予約していた。それはこの場の確認ですぐ気がつき訂正発行してもらった。

この日の予定はベルリン市内のZoo駅から勝利の塔、Hoffjager AlleeムBudapester StrムEuropa Centerを通ってホテルに歩いて帰った。その途中家内はホテルの近かくのデパートに寄って娘に何か土産を探していたが、買うようなものはなかった。翌10日はTageskarteを購入しZoo駅前からバスに乗ってPergamon Museumをまず見学した。その後博物館島に面したスナックで一休みしながら昼食を軽く取り、Altes Musium でエジプト美術を鑑賞した。その後再びバスに乗って、Astoro Belrin-mitteまで行き後は歩いてBrandenburger Tor, Belrinの壁跡を見てSony Centerまで歩き、バスに乗ってホテルに戻った。これら観光を通して、ベルリンは流石ヨーロッパを代表する大都市で、ヨーロッパのリーダー国の片鱗を見ることは出来た。特にPergamon Musiumは紀元前のオリエント文明が展示してあり、そこに展示された膨大な資料にドイツの実力を感じた。また、中学・高校時代に無味乾燥に思えたオリエント文明の偉大さに目を覚ました気がした。Altero Musium に展示されていたエジプト美術はまだ修復中の美術館にその一部を展示していたに過ぎなかったためか、西欧各国に展示されていたエジプト美術と較べるとまた来てよく見る必要があるような気がした。東ドイツ崩壊の遺跡は考えさせられることはいろいろあったが、その周囲の環境と合わせて当時を想像すると尋常でなかったことは容易に推察することが出来た。1980年以降フランクフルト以西のライン川流域のルール地方工業都市と較べると同じ国かと疑いたくなる気がした。ホテルの傍にあったカイザー・ビルヘルム記念教会のように第2次世界大戦で爆撃された悲惨な姿を見ると、この教会の荘厳さと同時に日本が空爆にあった当時の姿も自然と目の前に浮かんできた。全体的に見るとベルリンは東ドイツの西ドイツへの吸収?後十数年を経過したが、まだ復興途上にあるようで、市内のあちこちで街作りの建設工事が行われていた。それは日本の昭和30年代を思わせる気がした。街の中ではクレジットカードは使えたが、ホテルや両替所を除くとユーロのトラベラーズチェックは殆ど使えなかった。その点旅行者にとって不便を感じたが、その反面新興国のような未来に対する魅力を感じた。いずれにしても大都市ベルリンの本当の姿、魅力は他の東西ヨーロッパの大都市と比較しても容易には掴み得ないもののあることを感じた。

3)9月11日汽車にてベルリンよりドレスデンへの移動;9月13日までドレスデン滞在シンポジウム初日の行事:

  11日は朝10時30分頃ホテルを出て、Zoo-駅からDresden,Usti, Praha, Budapest行きのEICに乗った。乗った汽車はZooに隣接した大きな樹木の公園や前日訪れたPergamon Musiumを車窓から眺めながら東に走った。この汽車がベルリン東駅に着いた時数人の乗客が同じ車両に乗って来た。その時コンパートメント外の通路を見ると、Georgia TechのRousseau 教授が大きな荷物を抱えて自分座席を探していた。私が驚いて席から立ち上がるとRonもすぐ気が付いた。すると、Sandraもすぐやって来て、私の家内と4人で再会を喜びあった。家内はSandraとDresdenシンポジウムのSocial Program参加申し込みの様子などお互いに話し合って、汽車はまだベルリン東駅を出たばかりなのに、学会がすでに始まったように賑やかになった。このようなアメリカ人との再会を見ていた同じコンパートメントに座っていた乗客ドイツ人夫妻は自然に私たちと話をするようになった。

そこでは、この人達は前に西ドイツに住んでいたが、最近はDresden郊外で生活していると話した。理由はいろいろあるようだが、旧東ドイツは物価が安く生活しやすく、特にDresden北方郊外は良い葡萄が実り、ワインの生産地として有名で、この地域は裕福であるとのことであった。また、この人は日本に行ったことはないが、兄弟は電気関係の技術者で日本に行ったことがあり、特に、日本で行っているリニヤモーターカーの実験テストには強い関心を示していた。ベルリンからドレスデンまでの乗車時間は約2時間でいろいろ話をしていたら思いの外早く着いた。この日の目的到着駅、Dresden Hbfは工事中で駅前付近の交通機関もまだ充分整備されていなかった。Rousseau教授夫妻と汽車から一緒に降り、駅前に出たがタクシーの乗り場が分からず、4人であっちこっち探してやっと見つけた次第であった。この駅に着いたのは午後2時頃の比較的閑散とした時間帯であったが、客待ちの車はなく、タクシーが戻って来るのに数分待ってやっと乗った。

Dresdenで豊倉が泊まるホテルの予約はシンポジウムの主催者側が確保していたシンポジウム会場に便の良いartotelに取れていた。その予約を確認した時浴槽付きの部屋に出来ないかと問い合わせたところ、それなら一泊30ユーロアップでスイートの予約に変更しないかとのメールをホテルより事前に受けたので最終的にはその部屋を予約した。ホテルに着いてその部屋に入ってみると、事前に連絡のあったように確かに広い部屋であったが、部屋の中の調度は西側ヨーロッパのホテルより可成り異なっていたのでそれでよかったと思った。ベルリンでは特に感じなかったが、ここに来て1972年にプラハで泊まったホテルを思い出して、旧東ドイツの国の設備はまだ西側の国のものより大分劣っているような気がした。

  このシンポジウムのレジストレーションとウエルカムレセプション11日午後5時〜7時と午後7時〜9時30分にシンポジウム会場であったエルベ河岸に面したドレスデンのInternational Congress Center で開催された。豊倉は両方続けて出るように思い、午後6時30分頃コングレスセンターに行くとセンターの入り口で日本から参加している数人の大学の先生方とすれ違った。そこで、会場の様子を聞くとまだレセプションの準備は出来てないようなので、レジストレーションを済ませたので街に出て食事をしようと思うとのことであった。豊倉はそのままレジストレーションを行い、更に、家内が予約した12・13日のSocial Programの確認を行った。それを済ませたところでその奥の方を見ると既にウエルカムレセプションは始まっていたのでそのまま合流した。そこには、既に150〜200人くらいの人達がいて飲み物やつまみをもってお互いの再会を祝して歓談をしていた。

豊倉も久しぶりにあった大勢のヨーロッパやアメリカの知人に挨拶し、また日本人ともお互いに今回の参加を確認しあった。また日本から来ていた企業の人達にはお目当てにしていた欧米の研究者や技術者を紹介したり、日本の大学の先生に紹介された学生達ともいろいろ話をした。 家内は久しぶり会った欧米の人達と再会を喜び合いいろいろ話し合っていたようであったが、参加者の奥様方とはお互いに参加を申し込んだSocial Programを確認し、翌日以降の約束をしていたようであった。このレセプションの2時間はあっという間に経過して人の数が減ってきた9時過ぎにこの会場を後にして、翌日家内が参加するSocial Program 参加者の集合場所を確認しながらホテルに帰った。

ホテルに帰って食事をしようと思い、レストランを探しているとUlrich教授夫妻とOffermann博士が先にレストランに入りテーブルを探しているのを見掛けたのでその仲間にジョイントした。この日は夕方雨が降っていたのでテラスにあるテーブルの多くは濡れていたが、建物近かくの余り濡れてない場所を選び、そこに腰掛けた。そして、飲みものや簡単な食べものを注文していたところに、このホテルに泊まっていたスイスのWPCdelegateを務めるDr. R. Spruijtenburg 夫妻がやって来て、ジョイントした。この人達は皆日本通で日本に来たことがあり、その時の話や晶析シンポジウム話など、過去のいろいろなことを思い出して旧交を暖めた。特に食べ物の話は皆好きで、2000年にOffermann博士の家に川喜田さんとお邪魔した時に、豊倉が彼の家で作った手打ちうどんと天ぷらのことが話題になり、またOffermann 博士が調理した特製ホワイトアスパラカスや柘植先生がその後彼の家で煮たすき焼きの話など話題が尽きなかった。

会食が可成り進んだ頃、会場の始末を見届けて戻って来たUniv. Kurlsruhe のM.Kind 教授がテーブルにジョイントして盛り上がった。彼は今年の5月来日した時に都内見物に行った先を説明しながら楽しかった・満足だったと話していた。ここに集まった人達は皆過去のことをよく覚えていて、それを楽しそうに話していたが、分野をリードするような人達は過去のことをよく覚えていて、それを話すことによってそこにいる人達を楽しませると同時に自分も楽しんでいるようであった。この様な場には不得意な日本人は多いようであるが、国際的に活躍する人はよく考えておく必要があるなと思った。

4) ISIC16のシンポジウムセッションとそこでの目玉総合討論・・・世界のWPCを発展させるために

 豊倉は12・13の両日終日シンポジウムセッショんに出席した。ここで発表された論文の中には日進月歩の著しい成果が上がっていると思われる分野があった。その詳細は当日の配布されたproceedingを見て頂くとして、今回のシンポジウムで12日行われた総合討論会 “From Vision to Products in Industrial Crystallization ”に豊倉は新しく体系化される工業晶析分野の可能性を感じ、非常に高い関心をもった。その時パワーポイントで示された項目はproceeding に掲載されており、その背景状況もproceedingに記述されているのでそのコピーを別ページに添付する。(以下タイトルをクリックしてください。)

16th International Symposium on Industrial Crystallization
 (11-14, Sept, 2005)

From Vision to Products in Industrial Crystallization
Wolfgang Peukert: University Erlangen, Axel Eble: Bayer Technology Services

ここに記述された内容に対しては当然のことで、研究者は個々にいろいろな意見はあるものである。しかし、上記のものは概ね妥当なものであり、それに対して個々の研究者が研究対象とする分野に限定すると、深くシャープに突っ込んだ研究成果が得られ、それらを纏めることによって新しく構築される工学理論体系やそれを活用して見いだされる新製品の発見、およびそれらを新しく合理的に生産する技術を提出することが出来、産業界の発展をもたらす。従って、この機会に個々の研究者が考えてる「研究ビジョッション」を明記した上でそれとの関連でこれまでにどのような研究を行い、どのような成果を上げて来たか、将来その成果をどのように「工業晶析」の発展に繋げるかが重要である。今回の討論を公開で行ったということは、各研究者の研究は「これからどのような研究を行うか」を纏め、他の研究者と討議をしながら研究を進める時代になったと感じた。今回のシンポジウムでこの様なことが討議されたと云うことは研究組織の責任者はその組織の研究者の考えを収集し、それを建設的に活用する責務があるように感じた。

    国際会議の一番重要な目的は研究者や技術者が協力して工学・技術の発展を目指して活動する機会を作り、その成果を上げることである。それを円滑にすすめるためには参加者の懇親会やSocial Programへの参加を密にし、中心的に研究を行うメンバーファミリーの親睦を図ることは必要である。1980年頃までは欧米の主要研究メンバーのご夫人方、Mrs Mullin, de Jong, Larson, Rousseau等はISICにほぼ毎回出席されて居られたが、1980年代になってからは日本研究者のご夫人方も定期的に参加するようになり、東京で開催された世界化学工学会議以降は参加者も安定してきた。 この様な親睦を図る会としては現在のISICでは次のA), B)企画されている。

A) 研究者間の人間的な交流を円滑にするような企画: そのためには今回のISICで企画され ウエルカムレセプションやその2次会、エルベ河上で開催されたボートパーテーのような機会を充分活用することが重要と思う。また必要に応じては1978年にワルシャワで開催されたISICの時にDr.P.Karpinskiにお世話願ったように日本人と欧米人の親睦を図る会を持つようなことも有効と思う。特に日本国内で国際会議を開催するときなどは効果的に会を開催することが出来るので、国際会議の開催企画者はそのことを充分考えていただけたらと思う。今回久しぶりに国際会議に参加して、日本の参加者はボートパーテーの利用などもっと前向きに考えてだけたらと思った。

B) 最近日本から国際会議に参加するご夫人方が多くなって非常に良い傾向と思っている。し かし、Social Program に参加する方は学会参加者の割に少ないように思えた。今回のISIC では全般的にご夫人方の参加は少ないようであったが、それはヨーロッパで企画されるSocial Program にヨーロッパからの参加者が少なく傾向があるのは止もうえないことであるので、アメリカや日本からの参加者が増加することにすることによって本番のISICが 将来発展する期待できるのでないだろうか? 日本の工業晶析のリーダーの先生方の工夫お願いしたい。

5) 9月14日以降の行程: パリとロンドンで見・経験した最近の新事実

  14日の朝食後、豊倉はシンポジウム会場に出かけ当日のプログラムセッションが始まる前に数人の人達にお別れの挨拶をしてドレスデンを汽車で発った。ホテルでタクシーを呼んで貰い、11日に着いたDresden Hbfに行った。前にも書いたようにこの駅やその周辺は建設中でこの日にタクシーを降りた駅の様子は11日に着いた時と全く違っていたように思えた。駅の中の案内や汽車の発着を示す時間表の掲示もちょっと不完全なような気がした。ドイツ語の全く話せない私は、時間に余裕を持って駅に着いていたので、これまでに経験した西側ドイツの駅を思い出して駅に設置されていた掲示板を探し、それをよく見て自分の乗車する汽車が発車するホームと車両の位置を事前に確認した。予定の汽車が出発するホームには20分くらい前に別の汽車が入ってきたが、それは数分停車した段階で出ていき、その後豊倉が乗車する汽車が入ってきた。ヨーロッパの汽車で旅行した人は皆経験していることと思うが、汽車は定刻になると独りでに静かに動き出すので(実際は日本の汽車と同じように車掌、運転手、駅員の間ではそれなりの合図・連絡は取っているので、車掌の行動を見ていると発車するタイミングは事前に分かるが、それが分かるようになったのは可成り経験を積んでからであった。)、予め自分の席に座っている方が安全であった。

この汽車に乗るときには、汽車の行き先を車両にぶら下がっている行き先表示でキチンと確認すること(特に長距離列車や国際列車では車両を切り離したり、別の列車に繋いだりするので確認する必要がある。)また座席を予約した場合車両番号(これは日本の汽車の車両連結番号ではないので注意)を座席予約券で確認し、さらに着席するとき予約席付近にある予約表(昔は予約された区間を記入していたカードが入っていたが、新しい車両では電光掲示されるようになっていた。)で自分の予約区間と一致することを確認しておくとよい。(そのことは、予約しないで乗車する時は自分の乗車区間が記入されてない座席に座ると良い。)この様にして自分の指定席を確認して座っていると汽車はフランクフルトに向かって定刻に出発した。しかし、Dresden 付近は工事をしていたので次のDresden Neustadt まで徐行運転していたので8分間の予定乗車時間の範囲を通過するのに倍の時間を要して10分近くの遅れが生じた。

この日はFrankfurt (main)Hbfで汽車を乗り換えてBasel SBBへ行く予定であったが、そのFrankfurtでの汽車の乗り換え時間は12分であったのでそれまでに遅れ時間を挽回できるか気にしながら乗っていた。多くの場合、ヨーロッパの主要列車の各座席にはその列車の運行案内と乗換駅の接続案内が置いてあり、それによるとBasel SBBに行く汽車のFrankfurt駅発車ホームはその時乗っている汽車の到着ホームの隣であったので何とか予定の汽車に乗れるのでないかと期待していた。ここで乗車した汽車はヨーロッパの在来線で使用するように最近開発された新型車で走行中の車内は静かであったが、営業速度は100km/h 以上の高速で走っているとカーブでは今までの車両より揺れは少し大きいようであった。この日はその後の汽車の運行は順調で、この8分間の遅れを取り戻して、定刻にFrankfurt に到着した。そこではまず Basel SBBに行く汽車の発車ホームの変更がないかを家内が確認して、荷物を運んでホームを移動した。その後は予定通り国境を越えてBasel SBB駅に無事着いた。Basel 駅のホームでは鵜池さんの出迎えを受けて、鵜池さんに予約をお願いした駅前のしゃれたホテルに一緒に行った。その晩は鵜池さんの奥様の運転でドイツ領に大きなモールにある中華レストランに案内して頂き、4人で再会を祝して夜遅くまで晩餐会を行った。

  翌15日は鵜池さんに朝7時30分頃ホテルに迎えに来て頂きBasel SBB駅より汽車でChamonixに行った。ここでの4日間については鵜池さんにこのHPに詳しく書いて頂いてるので、山に関心のある方はそれを読んで下さい。Chamonixで私の感じたことは次の「今回の総括」の中で書きます。

  鵜池さんの記事に書いてあるように19日はGeneveに汽車で行き、そこからTGVでパリ・リヨン駅に向かった。TGVは前にも数回乗ったことはあったが、日本の新幹線より一台の車両は小さく、コンパクトな感じがしたが、揺れは少なくスピードは速く優れた汽車だとこの時も思った。TGVで着いたパリはやはりヨーロッパ大陸の一大拠点でこの大都市を訪れたことは多かったので、パリの街をタクシーで走っても余り外国と云う感じは持たなかった。パリで定宿のように使っていたホテルは1980年に早稲田大学のフランス語の先生に紹介されたはソルボンヌ大学に近いホテルで、そこは10年近く利用していたが、1990年頃からは市内の交通の便を考えてバンドーム広場に近いRue du Mont-Thaborにあった地産系のホテルを使用した。しかし、このホテルは最近経営者が変わったようで様子が分からなかったので、今回はそのホテルの向かいにあったホテルを予約しそこに2泊した。このホテルに着いたときは午後5時過ぎであったがまだ明るかったのでオペラ通り近辺で食事しようと出かけた。この時驚いたことに町並みは全く昔と変わってないのにそこにある店は随分変わっていた。

前回来た6年前くらい前に食事をした中華レストランは皆姿を消し、またオペラ通りにあった日本人客を対象対象に商売をしていた化粧品屋も殆ど姿を消していた。 結局、ホテルの傍の昔からあったが、入ったことはなかった中華レストランに入った。翌朝はまずオペラ座の傍にある三越パリ店やギャラリー・ラファイエットにまず行き、簡単な買い物をして一度ホテルに帰って荷物を置いてからコンコルド広場に出てシャンゼリゼ大通りを凱旋門に向かって歩いた。凱旋門の付近では娘に依頼されたルイ・ヴィトンの品物を購入しに行ったが、前回までシャンゼリゼ通りにあった店は100メートルくらい離れた横道に移転していた。そこでは日本人客は疎らで、中国人客が大勢買い物をしていた。この店の25年間の推移を思い出すと初めは凱旋門からエッフェル塔に向かったところに店舗があったが、それが日本のバブル期にはシャンゼリゼ通りに移って巨大店舗を構えていた。それが今回また移転していることをみると世界に有名な店舗も時代の流れをいろいろ考えて木目細かい営業政策で経営しているように思えた。購入して来た商品も10年前のものに較べて素材の品質は低下してるようで、家内は店員が出した商品にいろいろ注文付けて古い規格の商品を出してもらって購入してきたようだったが、それでも10年前に購入したものの方が良さそうだと言っていた。帰りはサントノーレ通りをエリーゼ宮の前を通ってホテルに戻った。

今回はパリの街で中国人のグループを非常によく見掛けたが、それは、かっての日本人観光客がパリの街を歩く姿に似ていて、それから中国経済の活況を想像していた。ホテルの傍の中華レストランでは昼食時に中国人団体で賑わっていたが、また同じレストランで、夕方にも中国人の団体が入っていた。その日の夕方団体客が居なくなってから食事に行って、中国のどこから来ているのか女将さんのような人に尋ねたら、世界中の中国人がパリに来て会っていると聞いて、ベルリンの崩壊の前にハンガリーのバラトン湖付近に東西ドイツ人が車でやって来て旧交を温めていたと云うハンガリーの人の話を思い出して何か東洋の大きな力を感じた。

  21日は午前中にパリ・シャルル・ド・ゴール空港を発ってロンドン・ヒースロー空港に向かった。ロンドンは1980年にUCL の客員教授と1ヶ月間滞在したところで、家内はこの間毎日地下鉄に乗り、歩いてロンドンの街を廻っていたので、自分の街のように知っていた。今回は爆弾テロの後と云うことで、地下鉄やバスに乗ることを止めてオックスフォード、ニューボンド、ピカデリー、リージェント等の通りを歩いてロンドン滞在の用件を片づけた。ここで特にその時気の付いたこと2件を記述する。

A) ホテルはオックスフォードストリートに近い比較的大きなホテルであったが、部屋の鍵 の戸締まりが効かなかった。その様な経験はなく夢にも思っていなかったので、部屋に入って一休みし、お茶を飲んで出かけようとして部屋の外に出て鍵が効かないことを知った。何しろ早く出かけないと仕事が済まないので、直ぐ処理してもらおうとフロントに行って鍵の分かる人を手配を依頼した。ところが、来たテクニシャンは、すぐ直せるかどうか分からないのでフロントに行って部屋を替えるように申し出たらとアドバイスしてくれた。(自分からは言い出す立場でないから自分で云えと話しながら)そこで、フロントに行き部屋を替えるように申し出た所に、修理に来た人もここに来て、事情を話して呉れたためか?直ぐ取り替える部屋を探すからチョット待ってくれと云われて、この件は落着した。・・・旅行をしていると何が起こるか本当に分からないと感じた。
B) もう一件はロンドンの街を歩いていると先日テロにあった有名な赤い2階建てのバスが 数珠繋ぎでのろのろ運転をしていて、外から見るともうあの事件は忘れているかのように通りに人は沢山歩いていた。それは政府機関がきちんと対応をとり、国民はそれを信じて、自信を持って平常な生活をしているように思えた。流石に大英帝国だなと感じた。

6) 今回の旅行を振り返って:

海外、海外旅行については皆それぞれ異なった思いがある。大学・大学院在学時代、将来に大きな夢を持つフレッシュな社会人、社会出てある種の仕事をして比較的狭い範囲の責任ある仕事を任される若手管理者、社内・社外で責任ある地位につき日本・世界を視野に入れた責任ある立場の人、時として世の中の風向きで自ら描いてきた人生の道から少し離れて新たなエネルギーを充電している人、そして目出度く定年を迎え新しい人生を送って居る人など、種々の人生を送っているが世の中におり、豊倉は幸いこれら異なる立場で毎日を送っている人達に並列に同時に会い、時には議論し、一緒に仕事をしている。国内に居ると相手は殆ど日本人であるが、今回のような旅行をすると欧米先進国で活躍する人から最近では中国・韓国・東ヨーロッパ・南米等でリーダー的な活躍をしている人とも会い、それぞれの立場で種々のことを考える機会が持てる。街に出ると道端に座って汚い帽子のようなものを自分の体の前に置いて無心に頭を下げている人も目に入ることがある。今回の記事は本来であればこれらの全てを記述すべきかも知れないが、このHP関係のある人と機会があれば話し合う対象になりそうなことに絞って書いた。それでも書いた対象範囲が広く、自分の思いを整理するという意味では不十分に終わってしまった。それでも今回の旅行を振り返ってみると、

ウ) この国際会議で新しい発展に対する刺激的な示唆があったこと。それも、私が気心の最もよく分かっているヨーロッパの現国際議長のJ. Ulrich教授の下で議論されたと言うことは、これからの工業晶析に夢を抱かせるもので、老骨にむち打っても可能な範囲で彼を支援した気になった。その意味では彼は私に更に新しいものへ向かって挑戦する刺激を与えて呉れた。
エ) 短い期間であったが、全て自分で調べ、判断しながら旅行をしたと云うことは、過去の経験を生かすことの重要さを再認識したが、また、新聞などの情報のみでは対処出来ない新しい事柄も経験した。特に、クレジットカードを使用する時PIN ( Personal Identity Number?) の打ち込みをいわれ、その未登録によるトラブルを経験した。帰国後若い人は日本でもPINのことは知っていると娘から聞いたが、年寄りの中には私のような人が可成りいるようだった。この件を含めて過去の経験のみ歩いていると思わぬことも経験した。特に、過去に訪問したことのない國、久しぶりに訪問する場合は可能な範囲で情報を集め何が起こっても対処できるように準備しておくことの重要性を再認識した。
オ) 1999年にCambridgeで開催されたISICに参加した時には、欧米の親しい研究者から豊倉退職したら晶析についての仕事はどのように続けるのか聞かれた。そして、今回もまた同じことを尋ねる欧米の研究者はいた。 定年退職者が現職時に行った仕事と関連のあることへ関与することについて個々に考えることで、余り話はすることでないと考えている。ただ、参考にしようとする親しい人に話すことはお互いのためになることで、それはやぶさかでないと考えている。今回これまでWPCのInternational ChairmanだったイギリスのJ. Garside 教授からまじめに尋ねられた。彼は現在今まで務めてきた公式の役職からは引退し、学会等の名誉職的な役職は複数続けているようだが、仕事そのものについては今までのようなことはなく、リラックスした毎日を過ごしているが、秘書がいなくなったのでその意味では大変だと云っていた。私の毎日については彼に話したが、この様な話は国内の人との話では個々にいろいろな人が拘わってくるので話しにくいことがある。しかし、外国の人との話となると現実から離れて冷静に話せ、また聞くことも出来て非常に有益であった。

  今回の旅行についてはここに記述した記事したある程度書いたので、これからそれを読み直していろいろ考え続けたいと思っている。

7) むすび

  出かける前には、これが我が人生最後の海外旅行と家内とも話し合って出かけた。その間、日本のことを殆ど忘れ、何が起こるかびくびくしながら気楽な毎日を送ることが出来た。このような生活を送っていると、毎日の雑念は洗い流すように忘れ、清々しい気持ちで帰国できた。これは定年退職後人生を送っているものの特権かも知れない。この定年退職者しか送ることの出来ない人生の世界から、それと隣り合わせた現職の人達が活躍する社会をみた時、何か現職の人達に喜ばれるものが見出せそうな気がする。そうなると、また自分の心の中に新しいものを見つけるための海外旅行をしたくなるようになるのでないか?それが出来る体力を保つように心掛けることも必要であろう。

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