1999年3月早稲田大学選択定年制度の適用を受けて退職し、その年の9月に英国、Cambridgeで開催されたISIC14, また翌2000年にオランダのDen Haagで開催された世界塩国際会議とその直後にSwedenのStockholmで開催されたWPCに出席した。今年5年振りに9月8日より23日までの2週間西欧4カ国を家内と一緒に旅行したが、それは家内にとっても6年振りの学会参加であった。家内は1980年に私と4ヶ月ヨーロッパに滞在して以降、ほぼ毎年のように国内外で、大勢の欧米の友人にお目に掛かり親しくなっていた。特に1986年に東京で開催された世界化学工学会議以後は晶析の国際会議等で開催されるSocial Programに参加して、陰から国際会議の発展に寄与してきた。最近は、WPC設立当初に貢献した先生方の多くは退職され、また、一部の先生方は他界されて工業晶析の発展を支える研究者・技術者の世代も変わった。今回は1981〜2年に早稲田大学・豊倉研究室にフンボルト派遣研究員(協定により日本学術振興会受けいる研究員)として在籍していたドイツHalle大学教授・工学部長のJ.Ulrichが、前任者のUMIST 教授で前学長のJ.Garsideの後を引き継いて2002年にWPCの第3代国際議長に就任した。豊倉はUlrich教授活躍の様子をWPCその他よりで数年前から耳にしており、豊倉自身も彼の学者としての見識・人柄考えて近々WPCの国際議長に就任するのでないかと予想し、彼が世界晶析グループのトップになって国際会議を主催する時にはもう一度ISICに参加しようと考えていた。今回はUlrichがドイツDresdenで国際会議主催することになったので、この機会に家内と一緒にヨーロッパを歩いて、最近25年間の変化を自分の目で確かめ考えてみようと訪欧を決めた。
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「1968年以降の訪欧を思い出した: 5年振りのヨーロッパとISIC16に参加して」
1)はじめに:1968〜2000年 の訪欧を振る帰りそれとの関連での今回の訪欧スケジュール
2)9月8日成田発BA機にてロンドン経由ベルリン着; 9月10日までベルリン滞在:
・・・・5年振りのヨーロッパへの飛行と到着ベルリンの3日間・・・・
3)9月11日汽車にてベルリンよりドレスデンへの移動とシンポジウム初日の行事:
4) ISIC16のシンポジウムセッションとそこでの目玉総合討論・・・世界のWPCを発展させるために
5) 9月14日以降の行程: パリとロンドンで見・経験した最近の新事実
6) 今回の旅行をふりかえって:
1)はじめに:1968〜2000年 の訪欧を振る帰りそれとの関連での今回の訪欧スケジュール
私が初めてヨーロッパを訪問したのは米国アラバマ州にあるTVA公社Fertilizer Development Center における研究生活修了直後の1968年10月末であった。当時はベトナム戦争末期で、ヨーロッパに着いた2〜3日後にニクソン氏が大統領選で勝利したニュースをパリで聞いた。この訪欧では、私はまずLondonに着き、その翌日UCLにMullin研究室を訪問することになっていた。その時のロンドンは当時よく言われていたように建物の壁は黒く全体として暗い感じであった。このことは数年後に再度ロンドンを訪問した時、ロンドンの町の暖房は石炭から石油に変え、建物の壁をクリーンアップしたので明るくなったろうと云われたことを時々思い出している。最初のUCL訪問時にはMullin教授は大陸に出張していて会うことは出来なかったが、丁度その時チェコスロバキヤから客員教授として来ていたNyvlt博士に会うことが出来た。この時、Nyvlt博士から「 豊倉がMullin教授にアメリカから送った豊倉の博士論文“Design Method of Crystallizer”の英訳論文の話を聞かされ 」、それが、ヨーロッパにおける日本の晶析研究評価の切っ掛けになった。この時の訪欧ではまずヨーロッパに足を入れ、ヨーロッパ人はどのような人種なのかを知ることを第1目的にした。またこの旅行では日本良き競争相手と思っていたドイツ人はどのような顔をしていて、どのように道を歩いているかを自分の目で見たかった。Londonの後Amsterdam, Frankfurt, Paris, Geneva, Romaに立ち寄った。スイスではJungfraujochに登山電車で登り、初めてスイスの山を見て感動した。当時はまだヨーロッパに行く日本人は少なく、豊倉がTVAを出発して一週間くらい旅行してAmsterdamの空港に着いた時、初めて日本人に会った。この人は初めての海外出張で、アメリカを廻ったヨーロッパに来たが、この人も日本を発って初めて日本語を話した日本人は豊倉であったと云われた。その後1970年代にはISICに参加して論文を発表するために3年毎に日本人の訪欧団を結成した。そこではアメリカから参加した晶析研究者らを含め多くの欧米の研究者・技術者と交流を重ねた。その様子は1992年に出版した「晶析工学の進歩」に掲載しているのでご覧下頂きたい。 今回の訪欧は短期間であったが、過去の訪欧時に見聞きしたこと比較して考えさせられることは沢山あった。卒業生の中にはこれから海外に出かける人、国際会議に参加する人、国外で仕事する人など大勢いると思う。特に今回5年振りの訪欧では当然知って筈のことでも変わっていて、ちょっと分からなかったことがあった。この様な変化を見て、世の中は生きていると感じることもしばしばあった。今回の旅行では大勢の人の知っていることでも旅行者なるが故に気がつかないことがあり、そのような簡単なことを知らないで困ることもあった。今回経験したことの中には卒業生の参考になることもあるのでないかと思い、2週間の旅程の順に経験したことを列記する。
旅行スケジュール:
ウ)9月8日成田発BA機にてロンドン経由ベルリン着; 9月10日までベルリン滞在
エ)9月11日汽車にてベルリンよりドレスデン移動;9月13日までドレスデン滞在
オ)9月14日汽車にてフランクフルト経由バーゼル着;バーゼル泊
カ)9月15日バーゼルよりマルテイーニ経由シャモニー着;9月19日までシャモニー滞在
キ)9月19日シャモニー発ジュネーブ経由にてTVGにてパリ着;2泊滞在
ク)9月21日シャルル・ド・ゴール空港よりBA機にてロンドン(泊)経由23日成田着
2)9月8日成田発BA機にてロンドン経由ベルリン着; 9月10日までベルリン滞在:
・・・・5年振りのヨーロッパへの飛行と到着ベルリンの3日間・・・・
戦前は海外旅行と云えば船で行くものと相場は決まっていた。私の大学院時代は博士論文を纏めたら早く留学するようにと城塚先生からよく言われたものであった。その時先生は君らが留学するときは飛行機で行くことになるだろうから、今から考えておくようにとも云われた。私は、在学中に助手になっていたが学科内人事枠のことがあって、助手在任期間が長くなりそうになったので、1966年に急遽米国留学を決めた。当時国際線の旅客機も既にジェット機になっていたが、今の飛行機と較べると小さくエコノミークラスで片側3人の一列6人であった。それでもアメリカ東海岸までの航空運賃は片道500ドルを超え、1ドル360円の公式レート約18万、大体私の早稲田大学の半年分の給料であった。その後エコノミークラスの航空運賃は安くなり、日本人の給与で容易に欧米に行けるようになった。そのためか1980年代には大勢の若者が海外に出かけるようになり、一見国際交流が活発になって好ましいことはあった。しかし、安易に海外に行けるようになると次第に気楽に海外に出かけて、余り収穫を考えない人が多くなったような気がしている。そのような気持ちで国際会議に参加するようになると軽い気持ちの海外出張は、諸外国の研究者・技術者にマイナスのイメージを与えないか心配するようになっている。(エ)のドレスデンのISICに少し記述する。)
その後国際線のエコノミー症候群が話題になり高齢者はビジネスクラスを利用するようになったが、なかなかビジネスクラスのデスカウントチケットはなかった。ただ、欧米への往復航空券では夫婦割引があり、それでは一人の帰国航空賃は無料になっていたので家内が行く時はそれを使っていた。今回6年振りに家内と一緒にヨーロッパ往復をするので航空運賃は昔と較べてどうかと旅行社に尋ねたところ、昔、夫婦割引適用の二人で往復120万円くらいの航空料金と同じ条件のものでは160〜70万位だが、同じ航空会社の便を使って往復し、週末利用を避けると可成り安くなる航空券があると聞き、今回は15年前に一度乗ったことのあるBAを使うことにした。BA機については過去の経験より、クラブワールドの名称があり、座席が広くて乗り心地がよいことを覚えていた。一方最近までよく利用していたJALは、最近トラブルの発生が多くしかも値段は他のヨーロッパ航空会社の飛行機使用より大幅に高かった。特に今回のBA機には新しい座席が使用され、ビジネスとしては世界で初めて座席が水平に伸びて全く横になって寝られると云うのも魅力であった。
実際使用してみると寝心地は確かに良かったが、JALの機内サービスに慣れた旅行には多少違和感はあった。この日はロンドンのヒースロー空港経由でベルリンに入った。飛行機がロンドンに着いたときは30分近く遅れていたが、ロンドンからベルリンに発つ飛行機も1時間くらい出発が遅れたので、ロンドンでの乗り換えも充分余裕があってスムースにベルリンに着くことが出来た。しかし、成田空港で預けた荷物は飛行機と一緒にベルリンには着かずそれを受け取るための手続きをしなければならなかった。この様なことは15年前にチューリッヒ空港で経験したことはあったので、荷物が着かなくてもそれ程気にならなかった。普通の国際空港では荷物を受け取る場所の一部に未着荷物の手続きをするところがあるが、ベルリンの空港にはその様な場所は見あたらなかった。幸い、同じ便で東京から来た人が別にもう一組いて、その人達を出迎えに来ていたドイツ人がBA機で来るはずの荷物不着手続きをする部屋に案内したので、私達もそれに付いて行った。実際後に付いていって見るとその部屋は、飛行機が着いて入国手続きをするところから500メールくらいは離れていたのであろうか空港ビルの商店や事務所が沢山あるところを通り抜けたところで、もし、家内と二人だけだったら探すのは大変だったと思った。その部屋では、荷物が着かなかった時の事情をこの部屋まで案内してくれたドイツ人が事務所の職員に説明してくれたので、私は不着荷物の特徴やベルリンの滞在ホテル等の説明をしただけで、BAの職員が必要書類を作成して呉れた。そこでは、荷物が着けば今夜中か翌日にはホテルに届けると云う話を聞き、作成書類の控えを受け取ってその部屋を出た。そこでは、ホテルに着いてから困るであろうとの配慮からかTシャツ入りの化粧セットが貰えた。ベルリン空港は前に一度スイス人と来たことはあったが、今回は実質初めてのようなもので、まずユーロの交換をし、それからホテルに行くことを考えていた。日本を出発する前に入手した資料では、両替所は空港では遅くまで開いていると書いてあったので特に気にしてなかったが、飛行機が遅れその上荷物のトラブルがあったので、手続きの済んだ時には夜大分遅くなっていて、空港内の人の動きも疎らになっていた。荷物の不着手続きをした部屋から出たところで運良く案内所を見つけたので、そこで両替所を尋ねたところ空港の両替所はもう遅いので閉店したとの答えが返ってきた。この案内所でユーロは全然持ってないがホテルに行くにはどうしたらよいかと尋ねたら、タクシーに乗ってホテルまで行き、ホテルに着いてそこのフロントで両替をしてタクシー代を払えとアドバイスしてくれた。その晩は云われた通りタクシーを拾い、ホテルに着いてから車と運転手をその場に待たせて2階のホテルのフロントで両替してタクシー代を払った。その時少しチップを弾んだらタクシーの運転手は愛想よく立ち去っていった。ホテルのチェックインをしたとき飛行機に預けた荷物がベルリン空港に着かなかった話をして空港で作成してもらった荷物不着の書類を見せたところ、その書類のコピーを撮って空港の問い合わせてくれた。結果は今夜はまで荷物は着いてないが、ホテルは24時間開いているので荷物は着いたら夜中でも届けてくれるとのことであった。これで、この夜の出来事は一段落させて部屋に入ったが、ベルリンでの印象はタクシーの運転手を含めて皆親切で良かった。これは日本人に対する信用のためか、日本人旅行者の多くはそれなりにチップを払っているためかなと思った。
翌朝食事に行く前にフロントによって荷物のことを聞いて見たが、まだ来てないので電話をしてみると云ってすぐ対応を取ってくれた。しかし、先方の電話は混んでいて通じなかった。あげくのはて後程電話して分かったら部屋にメッセイジを入れると云うこととなった。このことについては昼頃部屋に帰って直接空港の係りに電話をしたら、朝の便で荷物は着いたので既にホテルに届ける手配をしていて、今は車で配送中なので間もなく着くことであろうと云うことであった。この荷物の一件はこれで解決したが、荷物が送れて実質的に迷惑したのはベルリンに着いた翌日の朝までで、娘に云われて荷物は着かないことがあるから出来るだけ機内に入れて持って行くように言われたことが役に立った。事前の情報では、BA機のクラブワールドの乗客一人につき9kgの荷物2コまで機内に持ち込むことが出来ると言うことであったので助かった。
9月9・10日のベルリンでは11日と14日に旅行するベルリン〜ドレスデン、およびドレスデン〜バーゼルへの汽車の座席予約を最初に行った。ヨーロッパ大陸の旅行は1980年以来日本でユーレルパスを購入しそれに所定の手続きを行って一等車でゆったりと旅をして来たが、 ヨーロッパの汽車の座席予約はしなくても最近まで困ることはなかった。その頃は座席予約をする人は少なく、予約しなくても座席に座れないことはなかった。しかし、数年前から予約する人は次第に増えてきていたので、今回はベルリンで座席予約を自分で行うことにしていた。ベルリンで宿泊するホテルの予約は諸々の便利さを考えて、Zoologischer駅の近所(徒歩5分くらい距離にあるSwissotel)に日本からインターネットで予約した。従って、汽車の座席予約にホテルに近いZoo駅のホーム下の旅行案内所で行った。ここでは日本のJRみどりの窓口同様コンピュウターシステムが完備していて簡単に一人3ユーロで一区間の予約が出来た。この時ユーレルパスを見せて指定席を取ったが、相手をしてくれた女性はユーレルパスは一等車に乗れると云うことを知らなかったためか、二等車の席を予約していた。それはこの場の確認ですぐ気がつき訂正発行してもらった。
この日の予定はベルリン市内のZoo駅から勝利の塔、Hoffjager AlleeムBudapester StrムEuropa Centerを通ってホテルに歩いて帰った。その途中家内はホテルの近かくのデパートに寄って娘に何か土産を探していたが、買うようなものはなかった。翌10日はTageskarteを購入しZoo駅前からバスに乗ってPergamon Museumをまず見学した。その後博物館島に面したスナックで一休みしながら昼食を軽く取り、Altes Musium でエジプト美術を鑑賞した。その後再びバスに乗って、Astoro Belrin-mitteまで行き後は歩いてBrandenburger Tor, Belrinの壁跡を見てSony Centerまで歩き、バスに乗ってホテルに戻った。これら観光を通して、ベルリンは流石ヨーロッパを代表する大都市で、ヨーロッパのリーダー国の片鱗を見ることは出来た。特にPergamon Musiumは紀元前のオリエント文明が展示してあり、そこに展示された膨大な資料にドイツの実力を感じた。また、中学・高校時代に無味乾燥に思えたオリエント文明の偉大さに目を覚ました気がした。Altero Musium に展示されていたエジプト美術はまだ修復中の美術館にその一部を展示していたに過ぎなかったためか、西欧各国に展示されていたエジプト美術と較べるとまた来てよく見る必要があるような気がした。東ドイツ崩壊の遺跡は考えさせられることはいろいろあったが、その周囲の環境と合わせて当時を想像すると尋常でなかったことは容易に推察することが出来た。1980年以降フランクフルト以西のライン川流域のルール地方工業都市と較べると同じ国かと疑いたくなる気がした。ホテルの傍にあったカイザー・ビルヘルム記念教会のように第2次世界大戦で爆撃された悲惨な姿を見ると、この教会の荘厳さと同時に日本が空爆にあった当時の姿も自然と目の前に浮かんできた。全体的に見るとベルリンは東ドイツの西ドイツへの吸収?後十数年を経過したが、まだ復興途上にあるようで、市内のあちこちで街作りの建設工事が行われていた。それは日本の昭和30年代を思わせる気がした。街の中ではクレジットカードは使えたが、ホテルや両替所を除くとユーロのトラベラーズチェックは殆ど使えなかった。その点旅行者にとって不便を感じたが、その反面新興国のような未来に対する魅力を感じた。いずれにしても大都市ベルリンの本当の姿、魅力は他の東西ヨーロッパの大都市と比較しても容易には掴み得ないもののあることを感じた。
3)9月11日汽車にてベルリンよりドレスデンへの移動;9月13日までドレスデン滞在シンポジウム初日の行事:
11日は朝10時30分頃ホテルを出て、Zoo-駅からDresden,Usti, Praha, Budapest行きのEICに乗った。乗った汽車はZooに隣接した大きな樹木の公園や前日訪れたPergamon Musiumを車窓から眺めながら東に走った。この汽車がベルリン東駅に着いた時数人の乗客が同じ車両に乗って来た。その時コンパートメント外の通路を見ると、Georgia TechのRousseau 教授が大きな荷物を抱えて自分座席を探していた。私が驚いて席から立ち上がるとRonもすぐ気が付いた。すると、Sandraもすぐやって来て、私の家内と4人で再会を喜びあった。家内はSandraとDresdenシンポジウムのSocial Program参加申し込みの様子などお互いに話し合って、汽車はまだベルリン東駅を出たばかりなのに、学会がすでに始まったように賑やかになった。このようなアメリカ人との再会を見ていた同じコンパートメントに座っていた乗客ドイツ人夫妻は自然に私たちと話をするようになった。
そこでは、この人達は前に西ドイツに住んでいたが、最近はDresden郊外で生活していると話した。理由はいろいろあるようだが、旧東ドイツは物価が安く生活しやすく、特にDresden北方郊外は良い葡萄が実り、ワインの生産地として有名で、この地域は裕福であるとのことであった。また、この人は日本に行ったことはないが、兄弟は電気関係の技術者で日本に行ったことがあり、特に、日本で行っているリニヤモーターカーの実験テストには強い関心を示していた。ベルリンからドレスデンまでの乗車時間は約2時間でいろいろ話をしていたら思いの外早く着いた。この日の目的到着駅、Dresden Hbfは工事中で駅前付近の交通機関もまだ充分整備されていなかった。Rousseau教授夫妻と汽車から一緒に降り、駅前に出たがタクシーの乗り場が分からず、4人であっちこっち探してやっと見つけた次第であった。この駅に着いたのは午後2時頃の比較的閑散とした時間帯であったが、客待ちの車はなく、タクシーが戻って来るのに数分待ってやっと乗った。
Dresdenで豊倉が泊まるホテルの予約はシンポジウムの主催者側が確保していたシンポジウム会場に便の良いartotelに取れていた。その予約を確認した時浴槽付きの部屋に出来ないかと問い合わせたところ、それなら一泊30ユーロアップでスイートの予約に変更しないかとのメールをホテルより事前に受けたので最終的にはその部屋を予約した。ホテルに着いてその部屋に入ってみると、事前に連絡のあったように確かに広い部屋であったが、部屋の中の調度は西側ヨーロッパのホテルより可成り異なっていたのでそれでよかったと思った。ベルリンでは特に感じなかったが、ここに来て1972年にプラハで泊まったホテルを思い出して、旧東ドイツの国の設備はまだ西側の国のものより大分劣っているような気がした。
このシンポジウムのレジストレーションとウエルカムレセプション11日午後5時〜7時と午後7時〜9時30分にシンポジウム会場であったエルベ河岸に面したドレスデンのInternational Congress Center で開催された。豊倉は両方続けて出るように思い、午後6時30分頃コングレスセンターに行くとセンターの入り口で日本から参加している数人の大学の先生方とすれ違った。そこで、会場の様子を聞くとまだレセプションの準備は出来てないようなので、レジストレーションを済ませたので街に出て食事をしようと思うとのことであった。豊倉はそのままレジストレーションを行い、更に、家内が予約した12・13日のSocial Programの確認を行った。それを済ませたところでその奥の方を見ると既にウエルカムレセプションは始まっていたのでそのまま合流した。そこには、既に150〜200人くらいの人達がいて飲み物やつまみをもってお互いの再会を祝して歓談をしていた。
豊倉も久しぶりにあった大勢のヨーロッパやアメリカの知人に挨拶し、また日本人ともお互いに今回の参加を確認しあった。また日本から来ていた企業の人達にはお目当てにしていた欧米の研究者や技術者を紹介したり、日本の大学の先生に紹介された学生達ともいろいろ話をした。 家内は久しぶり会った欧米の人達と再会を喜び合いいろいろ話し合っていたようであったが、参加者の奥様方とはお互いに参加を申し込んだSocial Programを確認し、翌日以降の約束をしていたようであった。このレセプションの2時間はあっという間に経過して人の数が減ってきた9時過ぎにこの会場を後にして、翌日家内が参加するSocial Program 参加者の集合場所を確認しながらホテルに帰った。
ホテルに帰って食事をしようと思い、レストランを探しているとUlrich教授夫妻とOffermann博士が先にレストランに入りテーブルを探しているのを見掛けたのでその仲間にジョイントした。この日は夕方雨が降っていたのでテラスにあるテーブルの多くは濡れていたが、建物近かくの余り濡れてない場所を選び、そこに腰掛けた。そして、飲みものや簡単な食べものを注文していたところに、このホテルに泊まっていたスイスのWPCdelegateを務めるDr. R. Spruijtenburg 夫妻がやって来て、ジョイントした。この人達は皆日本通で日本に来たことがあり、その時の話や晶析シンポジウム話など、過去のいろいろなことを思い出して旧交を暖めた。特に食べ物の話は皆好きで、2000年にOffermann博士の家に川喜田さんとお邪魔した時に、豊倉が彼の家で作った手打ちうどんと天ぷらのことが話題になり、またOffermann 博士が調理した特製ホワイトアスパラカスや柘植先生がその後彼の家で煮たすき焼きの話など話題が尽きなかった。
会食が可成り進んだ頃、会場の始末を見届けて戻って来たUniv. Kurlsruhe のM.Kind 教授がテーブルにジョイントして盛り上がった。彼は今年の5月来日した時に都内見物に行った先を説明しながら楽しかった・満足だったと話していた。ここに集まった人達は皆過去のことをよく覚えていて、それを楽しそうに話していたが、分野をリードするような人達は過去のことをよく覚えていて、それを話すことによってそこにいる人達を楽しませると同時に自分も楽しんでいるようであった。この様な場には不得意な日本人は多いようであるが、国際的に活躍する人はよく考えておく必要があるなと思った。
4) ISIC16のシンポジウムセッションとそこでの目玉総合討論・・・世界のWPCを発展させるために
豊倉は12・13の両日終日シンポジウムセッショんに出席した。ここで発表された論文の中には日進月歩の著しい成果が上がっていると思われる分野があった。その詳細は当日の配布されたproceedingを見て頂くとして、今回のシンポジウムで12日行われた総合討論会 “From Vision to Products in Industrial Crystallization ”に豊倉は新しく体系化される工業晶析分野の可能性を感じ、非常に高い関心をもった。その時パワーポイントで示された項目はproceeding に掲載されており、その背景状況もproceedingに記述されているのでそのコピーを別ページに添付する。(以下タイトルをクリックしてください。)