Home | ホームページ設立の趣旨 | 掲載予定の記事について
豊倉賢略歴
| apppendix | 新規掲載記事


2005C-5,3 鵜池靖之 1972年学部卒  (工学士)

 

豊倉先生との同行記(2005年9月15〜19日)

16th International Symposium on Industrial Crystallization はProf. Joachim UlrichをそのChairmanとして2005年9月11〜14日にドレスデンで開催されました。豊倉先生はこのシンポジウムに参加され、その後、ロンドン経由でまた日本へ帰国されるので、その中間の位置にあるスイスへ奥さんと共に寄られました。出発日まで週末にかけての五日間を利用してフランスのChamonixでのハイキング旅行を希望されたので私も同行しました。私が住んでいるBaselはスイスの北西部に位置し、シャモニーへはそこから南方へ列車を乗り継いでフランス国境を越え約5時間かかります。

前日までの愚図ついた天気は豊倉先生がBaselで一夜を過ごしておられる間に快晴の日に変化してしまい、午後一時過ぎにシャモニーに着くとこの機会を逃すまいとホテルに荷物を置き、急いでハイキングの支度をし、ヨーロッパで一番標高の高いモンブラン山(4810m)に対面しているBrevent山(2525m)へのケーブル登山口駅に急ぎました。そこからはモンブラン山塊の展望台として有名な頂上までケーブルで登り、頂上の駅から中間駅までモンブランを見ながら一時間半のハイキングコースを歩き下れば、そこでの最終便が午後5時なのでシャモニーまでゴンドラに乗って帰って来られるはずだ、と三人共々に確信を持って片道切符を買い、登りの便に乗り込みました。中間駅Planprazは標高2000mなので、何か予期されなかった理由のためにもしも最終便に乗り遅れた場合には、初秋のまだ長い日照時間ではあるとしてもシャモニーまで標高差1000mを日暮れまでの二時間で歩き降りるのは当然無理であるのが明らかなので、口には出さなくても、矢張り一抹の不安を私は心の中に持っていました。

頂上での最高に素晴らしい展望を急いで観覧した後は早速下り始めました。計算では時間は充分あるのだから、急いで歩いて足をくじいたりする事が無いようにゆっくりと行ってくださいと言っても、豊倉先生は二本の慣れないハイキングストックを説明したと通り上手に使いながら速過ぎるほどの速度で石の多い道を下って行かれました。私は先生の速度を更に速めないようにとわざとゆっくりと下っていきましたので、二人の距離差が大きくなるばかりでした。その差が数百メートルになって、一時間余りで中間駅へ着いてしまい、最終便まで待たずに売店で飲み物を注文する余裕が出来ました。

シャモニーには予定よりも早く戻れたので、行く時には昼休みで閉まっていた町のツーリストインフォーメーションを訪ねると日本語を上手に話すフランス女性が対応してくれ、標高2400mに位置し夏の数ヶ月を除き何時も凍結しているLac Blanc(白い池)にある山小屋がまだ営業しているのを知ったので、これで奥さんが希望されていた予ねてからの願いを叶えられると喜び、シャモニーでの三泊目をこの山小屋で過ごすように宿泊の予約をする事が出来ました。 更に今日の歩き具合を評価・反省して、豊倉先生はこれからのためにハイキングブーツを買うように希望され、運動具店でドイツ製の履き心地の良い本式の登山靴が丁度あったのでそれを買われました。 いくら理論が良く出来ていても、装置が悪いと化工実験からの良い結果は得られにくいというのがこれにぴったりの言い訳でした。

翌日はモンブランへの主な登山口になっているのに、まだ日本からの旅行者が殆どない標高2350mにあるNid Aigleまでピニオン・ラック歯車付き(=アブト式)で急坂を上り下りする登山電車(Tramway)で行き、そこからモンブランへの登山者が行く山道を行けるだけ登っていく事にしました。氷河の割れ目クレバスを越え、そこから標高差2500mを登ろうとしている登山者に混じり、その人たちの歩く速度と登山の装備は違うけど私達も同じ道を登っていきました。大きな石の多い山道にはやはり登山靴が要求されます。豊倉先生も話す事は少なくなりましたが、黙々と登られました。

出発点からの標高差400mの岩山に非難小屋があり、そこからは更に岩山と氷河が始まるので我々がここまできたことで充分だと採点し、昼食を取って早めに下山する事に決めました。モンブラン登山者は更に1km先の標高3100mにあるRousse小屋か更に上部3800mのGouter小屋をベースとして、天気さえ良ければそこから一日がかりで標高差1000m、5kmの氷河を登ってモンブラン(4810m)に登頂し、またベース小屋へ戻ってきます。出発したベース小屋まで戻れない人のためにはその中間に標高4362mのVallot非難小屋があります。モンブラン登頂に成功し、上から下ってくる若い登山者たちは高山用の装備:ザイル・ピッケル・アイゼン・ヘルメットを持ち、昨日の好天気で日焼けした顔に誇りと満足の表情をして難なく早々と飛ぶように私達を追い越して下山していきました。中には疲れた様子を隠せなく表現していた登山者もありました。

私達が登山者で満員になった登山電車にやっと乗れ、シャモニーへと戻った頃から天気が急変し夕食を済ましホテルへ戻った時には天気予報で聞いたよう雨が降り出し、翌朝になってもやみませんでした。今日は何時もより遅く7時に朝食を取り、今晩は山小屋に泊まるので二日分の食料を用意し、小雨模様の中を昼前のバスでPrazまで行き、ゴンドラに乗継いで標高2400mのIndexまで行きました。豊倉先生は72歳なのでVeteran扱いで大人の半額=子供の料金でした。この歳になって初めて「得」に遭ったとは本人の感想でした。

Indexでは雨がまだ止まず、気温が低く、震えながら昼食を取っているうちに小降りになったので、行動開始と豊倉先生を先頭にLac Blancへと雨に濡れながら大きな石だらけのガレ場4kmの道をトラバースしながら歩きました。小屋まであと1キロぐらいだろうと思えるところまで行くと、雨は止んだけど濃い霧になり、平たくなった地形に小さな湖の水は見えたけれども、濃霧のために小屋らしきものが見えず、地図上で現在地点と照らし合わせているうちに目前にふと黒い大きな四角形が現れ、そこに山小屋があることを確認できました。

急に霧が薄くなり、私達からほんの近くの所に無人の非難小屋と私達が今晩泊まる予定である有人の山小屋が在り、先月にやっと氷の融けたLac Blancが白い水をたたえた地図の上で予想していた以上に小さい湖であるのが判りました。小屋に着き、登山靴からそこに供えてある部屋靴に履き替えた後、二階の登山者が寝る大部屋で今晩私達が寝るベットの位置を案内されて、一階の食堂へ降りていった頃には霧も薄らぎ対岸のモンブラン山塊が見え始めました。

その中腹2500mぐらいには水平の雲が横にたなびき流れ、4000mの山々が天空により高く見えました。モンブランは雲に隠れて見えません。しかし、夕食が7時に始まるので皆と共に食卓につきスープが配られた頃、回りが急に明るくなり、夕日に照らされた山頂とそれを取り巻く雲が見事なアーベントロートになったので、夕食を中断して、外へと写真を取りに出かけました。昨日から泊まり、昼間は寝て、夜になって夜空を写すために埼玉から来られた写真家さんはビールを注文したまま、外で写真を取るのに熱中し、テーブルには暗くなってから戻ってこられました。彼が言う事には、「昨晩と全く同じ食事だから、今晩はあまり食欲も無いよ。食べんでもいい。」と言われ、皆で笑いました。

豊倉先生は早起きが得意なので、消灯の早い早起きの山小屋ではもう寝ようと9時過ぎには暗くなったベットに入りました。今晩は泊り客が少ないので隣の掛け布団を集めることができて寒くなく、重ねて寝た夜半には暑すぎるくらいの夜でしたが、「もう6時半ですよ」との声で目を覚まし外が少し明るくなっているのを知りました。服を着込んで氷の張った寒い外に出てみると、周りの山々はモルゲンロートで、今日の一日が力強くすでに始まっているのを思わせられました。

外で写真を取っているうち7時になり、朝食が始まり、その後埼玉の写真屋さんも戻って来られました。昨日は雨だったけど、晴れたこの夜中には何度も起きて外に行き、既にセットされていた写真機で多くの写真が取れたので満足だから、今日はスイス南部のSaas−Feeに行ってそこで写真を撮ると張り切っておられました。快晴の今日、山小屋から8kmのハイキングコースを歩いて、標高1900mにあるゴンドラの中間駅まで下って行き、シャモニーへ戻るのが私達のプログラムです。途中の見晴らしは最高で、いつも対岸のモンブラン山塊のとがった針状(=Aiguille)の山々が目前にありました。氷河の上部にある等間隔で見える縞模様の線や、垂直方向に向けて立つ針状の氷の塊群など、なぜそのような現象が起こるのであろうか、水の結晶と関連があるのではないか、など専門以外のことも話し合いましたが、その説明は得られませんでした。登山靴と二本のハイキングストックで装備された豊倉先生の調子も最高で、難なく予定よりも早く、昼には中間駅に着いたのでそこで軽い昼食を取り、午後三時にはシャモニーへ戻ってきました。

好天気と素晴らしいハイキングコースに恵まれ、今日が最後のハイキングでした。町田の自宅で毎日犬を連れての早足運動を続けておられるその努力の甲斐があり、シャモニーでの石ころの多いハイキングコースでもよく歩かれたと感心しました。先回のZermattではマッターホルンの登山口であるへんリ小屋まで登ったけど、霧のために景色が見えなかったから、次回にまたこの靴でトライしましょうと提案しておきました。

翌日はシャモニーから7時40分発の電車でスイスへ戻り、ジュネーブからフランスの高速列車GTVでパリへと行く予定になっていましたが、この早朝にホテルを出て急いでシャモニー駅に行き電車を待っていると、シャモニーからスイスの国境まで走っているフランスの電車が不通であることが知らされ、私達はタクシーでスイス国境まで連れて行かれました。そこからは予定していたスイスの電車に乗り、ジュネーブには予定通りに着き12時50分発のTGVでパリへ行かれました。私はバーゼルへと戻りました。

鵜池靖之(スイス在住)




top

Home | ホームページ設立の趣旨 | 掲載予定の記事について
豊倉賢略歴
| apppendix | 新規掲載記事