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豊倉賢略歴
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2005C-4,3 棚橋 純一 1974年大学院博士課程前期修了(工学修士)

  棚橋さんは数年前まで早稲田応用化学会の会長を務めていたので、研究室の卒業生は皆棚橋さんのことを知っていると思うが、今年3月末に日本化学工業株式会社社長職を佐藤源一氏に譲られ、同社代表取締役会長・取締役会議長に就任されたと伺い、この機会に研究室のホームページに記事を書いて貰いたいと考えた。大会社の社長は毎日が如何に忙しいか、化学工学会で親しかった現職社長を見て知っていたので、同社執行取締役の山崎康夫氏に様子を伺い、同社の株主総会終了後の6月以降であれば執筆してもらえるかも知れないと聞いた。7月初めに直接棚橋さんに8月掲載のHPに間に合うように執筆を依頼してお引き受けいただいた。その時棚橋さんは丁度ヨーロッパに出張中で、ヨーロッパからメールで返事をもらったが、これが現職社長の仕事の進め方かと改めて知った。

 豊倉は同期の友人が日本化学工業に就職していたので会社のことは知っていたが、TVAに滞在中に日本化学工業の社員が出張者として2度来訪し、お世話したことがあったのでこの会社は世界に知名度の高い素晴らしい企業であることを知っていた。帰国して数年経った頃研究室に棚橋さんを迎えた。そのころの棚橋さんの印象は真面目で誠実な学生であり、同期の仲間と共に協力しあって伸び伸びと研究を行って、学生生活を楽しく送っていたようであった。棚橋さんが大学院在籍した1972年に世界で初めて晶析国際会議がチェコスロバキアのプラハで開催されることになり、参加して修士論文で行っている研究成果をそこで発表する気があるなら申し込んでみてはと誘った。最近の大学院学生は気楽に海外の学会に参加して論文発表を行うようになっているが、当時は稀なことであった。晶析研究のアメリカ第一人者であったIowa State UniversityのLarson教授は1972年春、1年間滞在したイギリス、ロンドンのUniversity College LondonのMullin 研究室から帰途豊倉研究室に寄ることになり、棚橋さんと車2台で羽田国際空港にLarson教授夫妻と4人の子供を迎えに行った。これは、アメリカでは普通のことであったのでその通り行ったことであったが、Larson教授は以降棚橋さんの事を良く覚えていた。同年の8月に開催されたSymposium on Industrial Crystallization では、棚橋さんの申し込んだ論文は口頭発表論文として受理され、見事な英語で論文を発表した。最近の学生は気楽に海外に出かけるようになったが、この頃は海外旅行時に持ち出せる外貨は旅行者一人当たり500 ドルの制限があり、また、海外旅行のガイドブックも日本交通公社発行の本があった程度で、一人で海外に出かけると言うことは大変な時代であった。しかし、棚橋さんは臆することなく、一人でヨーロッパに出かけたようで、豊倉とは1ヶ月振りにプラハで会ったときにはヨーロッパ旅行を堪能していたように見えた。棚橋さんの卒業後の様子は, 棚橋さん自身がこのHPの記事として書いた「 代表取締役会長就任にあたって 」をご覧頂きたいと思う。豊倉はこの記事を読んで、いろいろのことを考える事が出来た。豊倉自身が経験した昔のことを思い出す機会となり、それを思い出して自分過ごしてきた人生を振り返るとこれからの残された人生に向かって新しく挑戦する力を与えられる気がした。また、現在第一線で活躍している卒業生や混沌としている将来に向かって飛び込もうとする若い卒業生にさらなる活力を与えて貰える気がしている。 ( 05 年7月、豊倉記)

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(棚橋 純一)

「代表取締役会長就任にあたって」


   この度平成17年4月1日をもって、私は日本化学工業株式会社の代表取締役会長に就任いたしました。平成元年の社長就任以来様々な方のご支援を受けたこと深く感謝しております。同時に会長だなんて未だそんなに老け込む直ぐ、1970年私が学部3年後期の「化工数学」の授業だったと思います。新進気鋭の助教授として、皆様もご承知の先生独特の少し甲高い声で授業をされていたのが印象的でした。その後卒論・大学院の修士課程と先生の研究室で学ばせていただいたのが既に30年以上も前になるとは、全く光陰矢の如しとはよく言ったものです。私が豊倉研究室在籍中に一番印象に残っている先生の言葉は次の二つです。一つは「オリジナリティー」ということ。二つ目は「世界が我々の研究に注目している」ということ。豊倉研究室のOBの方々は先生から直接これらの言葉を聞いていると思います。したがってここでは各々の詳しい説明は省略します。とても印象的な言葉であり、先生の研究に取り組むこの基本姿勢が先生を晶析研究の分野で世界第一人者と認めさせたものと思っております。

   さて、修士課程修了後、元々アメリカのビジネススクールで勉強をしたいと思っていた私は、豊倉先生のご紹介を受け、豊倉先生が渡米中に研究をしておられたTVA(Tennessee Valley Authority )の研修生として8ヶ月を過ごしました。アメリカ合衆国アラバマ州フローレンスと言う、南部の田舎町での生活は、アメリカの人々の温かい心に触れる機会を私に与えてくれました。渡米前はアメリカと言うのはニューヨークに代表されるような大都会の文明中心というような私の想像はことごとく外れました。実にのんびりとした雄大な自然の中で人々がそれを満喫しながら生活する様が非常に新鮮でした。私は今でもアメリカが大好きですが、中でも私はアメリカの田舎、そこに住む人達、また自然がこよなく好きです。その後私が入学したミシガン大学のビジネススクールでの生活は、又別の機会あればその詳細を書いてみたいと思いますが、アメリカの大学生が良く勉強するのには驚かされました。勿論豊倉研究室でも勉強したつもりですが、違った質の勉強をみっちりとさせられました。

   卒業後当時日本化学工業株式会社と技術提携関係にあった、シカゴにある農薬メーカー(Velsicol Chemical Corp. )本社と東京支社に勤務しました。そこでは、ビジネススクールで勉強できなかったような生のアメリカ流合理的なビジネスの進め方について教えられました。そして1981年に日本化学工業株式会社に入社しました。実に学部卒業後10年が経っていました。

   1989年7月、いわゆるバブルの最盛期を過ぎた頃に日本化学工業株式会社での私の社長としてのキャリアが始まりました。入社8年目の私が創業者棚橋寅五郎の孫として社長になったことで、社員の方々にはずいぶんと不安があったと思います。

   当時の日本化学工業株式会社は、産業構造変革による需要構造の変化、国内同業他社とのシェア争い、輸入品との価格競争、またすでに始まっていた国内産業の空洞化、更には東京都への土地売却交渉の長期化など問題が山積の状況でした。その頃、世間では社長交代パーティーが盛んに行われていましたが、当社も社長就任披露を都内のホテルの宴会場にて執り行いました。 私は、その晴れがましさとは裏腹に難問山積みの会社の前途に不安を覚えたのは事実です。 しかし日本経済のバブルがはじけた後、そのバブルとは全く無縁で何も恩恵を受けなかった当社は、幸いにそれによって影響されることはありませんでしたが、なかなか業績が回復しないという苦しい状況を経験しました。 その間、肥料事業など不採算事業の撤退や不採算工場の閉鎖など従業員の方々に多大なご苦労をおかけしたことなど、今になって心苦しく思い返されます。

   東京都との土地売却交渉も順調に進み始めると一気に新しい展開が動き始め、本社に隣接する亀戸工場の閉鎖やその設備の移転などもスムーズに進みました。 平成5年には創業100周年を迎えることができました。当社の百年という長い歴史の中で大きな節目であると同時に大きな転換点にあると強く意識しました。その後の新研究棟の建設、電子材料市場の拡大に伴う製品の拡販、設備拡充、各地での商業施設の展開など積極的にすすめることができました。この頃までには当社の経営内容も大きく変わり、毎年の決算時に損失の心配をするよりも、利益の大きさが議論できるようになりました。

   この間いくつか中・長期の経営計画を作りました。これらの中・長期の経営計画はその達成に社員の皆さんに全力を尽くしていただくためのものであることは勿論ですが、当社がそれからの数年間どちらの方向へ向かっていくのかを社員の皆さんに知っていただくためでもありました。 最終的には実績と目標との乖離が大きくなったこともありました。 しかし、それがどういう原因でそうなったかを追求し、その反省を次の計画に組み込むことを何度も繰り返したことが強く印象に残っています。こうした積重ねの結果、平成17年3月末で終了した当社の中期経営計画「NVC−111」は全社員の努力によって、最終年度の目標を達成する見込みがつきました。平成17年3月末で終わった当社の平成16年度は過去最高の売上と経常利益を計上することができました。これを機会に15年続けてきた社長の職を佐藤源一氏に譲り、新しい指導者の下で新しい中期経営計画「Challenge NVC」に挑戦していただきたいと決心しました。

   今後私は、代表取締役会長・取締役会議長として経営の監督を中心に、会社の日常業務から一歩離れたところで会社を眺め、M&A等を含む長期的な経営課題を検討・実行へ移すべく努力する所存です。

   最後になりましたが、この文章の冒頭にも書いたように今までに本当に様々な方のご支援を受けました。勿論生まれてからは親、兄弟や親戚一同、留学時代も含めて学校時代には恩師、同級生とクラブ活動や研究室を通じて知り合った仲間達、日・米で就職してからは取引先の方々や同じ会社の皆さんと、本当に様々な方々のご支援を受けました。本当に感謝の気持ちで一杯です。人間絶対に一人では生きて行けず、日常の自分を取り巻くあらゆる人達との交流から人生が成り立っていると言うことをつくづく感じるようになりました。まだまだ、これからもこの人間の“輪”あるいは“和”というのはどんどん拡がると思います。自分が受けてきたこの様々なご支援に対して、少しでも報いることができるようにするにはどうしたら良いのか、永遠の課題かもしれませんが、私は考え続けて生きたいと思います。

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