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豊倉賢略歴
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2005C-4,2 柿野 滋 1969年学部卒 (工学士)

  柿野さんが昭和43年度に城塚研究室に配属した時豊倉はアメリカ合衆国アラバマ州のTVA公社肥料総合開発研究所の招聘研究員として米国に滞在していた。当時の早稲田大学化学工学研究室は石川研究室と城塚・平田研究室からなり、豊倉が城塚研究室で始めた晶析研究は豊倉の渡米前に訪米中も城塚研究室で継続することを決めていた。そこでの研究体制は城塚研究室所属の大学院修士課程の和田さんや鶴岡さんを中心に行うことになっていたので、柿野さんはこの大学院学生と共同で晶析研究を行っていた。豊倉が帰国したのは昭和43年11月で、柿野さんに会ったのは帰国してからであった。その意味では、柿野さんと晶析についての討議をしたことはほとんどなかった。実際柿野さんと城塚研究室に一緒にいた期間はごく僅かであったが、その時の印象は明朗で礼儀正しい学生で優秀な早稲田大学応用化学科の学生の一人であったと云うことで、その時以来この印象は忘れることがなかった。卒業してからの柿野さんの活躍の場はほとんど愛知県と種子島であり、時々頼りは頂いていたので元気に活躍していたのは知っていたが、会う機会は余りなかった。しかし、東京に出張された時で、時間のあったときには大学に来てくれ、数回会ったこと記憶している。2〜3ケ月前であったと思うが日本火薬工業会の専務理事になって、東京暮らしを始めるという挨拶をいただき、研究室の卒業生に卒業してからの様子を紹介して貰えないかと相談したところ、気持よくHPに掲載する記事の執筆を引き受けていただいた。

  今回HPに掲載する記事を読んで、柿野さんが卒業してから活躍した場所は本当に素晴らしい所であったことを知りました。特に特に種子島での生活は私が渡米してアメリカで生活した田舎町の生活とよく似ていると感じました。私が家族と生活したアラバマ州の町は種子島と違って当時はドライステイトでお酒は飲めませんでしたが、それさえ我慢すれば酔っぱらいのいない明るい町で、元気で生活を楽しんでいた老人は大勢いました。今の日本は平均寿命が世界で1〜2をあらそう長寿国になっており、これからは80歳を越す日本人は益々多くなるような気がしてきまして、40年前のアメリカ生活と柿野さんの記事にある種子島の生活を重ねてみると種子島は本当に日本の楽園に思えました。私はこの記事を読んで何となく夢を与えてもらって、何時か機会があれば種子島で生活してみたいという気がしました。兎に角長寿国日本で生活出来る機会を有効に生かして生きる時、住環境の素晴らしいところを探すことは意味があると思っている。(05、7 豊倉記)


(柿野 滋  略歴)
昭和44年 4月 日本油脂株式会社入社
         化薬事業部武豊工場 第1製造部第1研究課
昭和46年 7月 化薬事業部武豊工場第1製造部第1技術課
昭和56年 7月 化薬事業部武豊工場第2製造部第2技術課
平成 1年 2月 化薬事業部武豊工場第2製造部第2製造課長
平成 2年11月 産業爆薬海外プロジェクトマネージャー
平成 4年 4月 愛知事業所技術部部長
平成 6年 2月 本社生産技術部次長
平成 8年 4月 化薬事業部 種子島工場建設プロジェクト工事所長
平成10年 6月 化薬事業部武豊工場 種子島事業所長
平成15年 6月 愛知事業所長 兼務 武豊工場長
平成16年10月 化薬事業本部付 部長
平成17年 5月 日本火薬工業会 専務理事(現在に至る)


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(柿野 滋)

「 雑感 」

 私の退職の挨拶状から、豊倉先生が「オー柿野が居たな」と、なんでも結構であるから近況を伝えて欲しいと依頼がありましたので、思うままに書かせていただきました。

早稲田を昭和44年(‘69年)に卒業し、愛知県知多半島の武豊工場に赴任、以来36年間大半をこの地で暮らすこととになった。幼いときより転勤で家族と伴にあちこち移り変わっていたので、私にとってはこの知多半島がふるさとと言ってもいいのかもしれない。

昭和20年満州で生まれ、1歳の時引き上げて九州の父の田舎である柳川に3年、春日原に3年、雑餉隈に1年、そして小学校4年の時は熊本市白山町に1年住み、その後東京で小学校5年生を迎えたのが昭和31年(ユ56)であった。結局、小学校は3回転校したが、中学・高校・大学は途中目黒から渋谷上原へ転居したが幸い転校はなかった。考えると本当に良く移り変わった人生であったと、今さらながら思い出される。

九州から東京へ転校してきた時は、九州弁丸出しで良く笑われたものだが、気にしなかったのが良かったのかと思っている。それにしても九州時代と東京時代で当時子供ながらに人種が違うなと感じたことを覚えている。人情味、人間味?の点では九州に軍配が上がった。行動力というか世間を渡るという点では東京。今の時代でもこれが当てはまっているかどうかは、皆さんにお任せするとして、人間は子供の時からいろいろな環境に晒されることは非常によいことと思うようになった。一生涯、転勤もなく一つの場所にしか住んでいない人は、せっかくの人生のおもしろい一面を味わうことなく終わり、もったいないなと思う。その機会があれば、自ら受け入れて行くことをお勧めしたい。

平成9年(ユ97)鹿児島県の種子島宇宙センターの一隅にロケット用推進薬製造工場を建設し、そこに作業員を転勤させなければならない時に、従業員にいろいろ話をし、長い人生のうちわずか3年間種子島に行って仕事をし、その後同じ職場に戻ってもらう約束をしたのだが、自らOKと快い返事をする人がほとんどいなかったことを思い出す。

その時、せっかく会社は期限を切って、大自然のすばらしい新工場経験をさせてくれると言う上に、すべての面で面倒をみる約束の基での一時転勤である。これはお金を出してもなかなか出来ない種子島生活ができると言うものである。若い時代に子供ら家族と一緒に素朴で自然な世界を経験する良いチャンスでもある。将来の子供のためには、必ずすばらしい経験となると考えていたのであるが、NOとする地元思考の考えに無念ささえ感じたものであった。

知多半島エリアはそう言う考え方が強いのであろうか。逆を言えば、それだけ地元の農業、産業が豊かで安定しており、自ら外に出て行く必要性が無いことからこうした考えが生まれているのかもしれない。逆に九州の人間は自らどんどん新しい土地を求めて外に出て行く。種子島などは一時外に出て行き、ある時期以降にUターンで戻ってくる人も多い。島にそれだけの産業、仕事がないことも理由の一つではあるが。

私は種子島にかれこれ7年間関係したが、今までの中では充実し、遣り甲斐のあった時ではなかったかと思う。それは、これほど人間性の豊かな、純粋で、素朴で、自然の多い生活の場であったこともあるが、種子島事業所を立派に立ち上げて今後に継続できたことからでもある。

昔の村落の生活がそうであったかと思うが、いたるところに氏神神社の集会所、今風の公民館があり、毎週のように近隣の家族が集まって、情報交換や四方山話にふけり、人と人との心の通いを欠かさない習慣が残っている。さらに村社単位のお祭りも盛んで、交流を大切にしていると同時に貴重な伝統文化の維持、伝承を保っているのである。現代の多忙と面倒くささでお互いに関わり合わない都会と異なり、種子島では相変わらず昔の良い一面が生活の場に残されているのである。こうしたところでは、子供に関わる犯罪等もなく、島全体が本当に平和であると心から感じるものがある。子供はのびのびとし、礼儀正しく、そして謙虚な中にも積極的で明るく,活気でみなぎっている。また種子島には外部より120人以上のサーファーが住み着いており、彼らもまた島に入っては島に従えで、毎月海岸のクリーン作戦を実行し、村人に解け合った生活をしている。

種子島には種子島家があり薩摩島津藩よりも一目置かれていた独特の文化を持っていたと言われている。島津藩より種子島家へ嫁をだしたほどである。日本への鉄砲伝来の地としても知られており、この鉄砲も薩摩を通さずに、大阪堺と直接交渉をしていたと聞いている。種子島という島は米、サトウキビ、サツマイモ等、年から年中何かが収穫でき、とても豊かであり、それが故に人も思いやりの心のある人達でなりたっており、外部の人を暖かく受け入れてきた経緯がある。ここではこれ以上触れないが、これが基となって種子島家はユニークな文化を創り上げたと言ってもいいのではないだろうか。そのような島に7年間係われたことを、幸せに感じているところである。今の雑踏の中での仕事と比べれば、毎日が大自然の中で生活をしているようなものであった。

また種子島は日本唯一の宇宙基地として親しまれているが、周りには飲み屋以外(今でこそコンビニもどきができてきたが)はほとんど何もなく、土日をどう過ごすかが大きな問題であり、土日を満足な時間として過ごせる術を取得すれば、一人前となる。
私は釣り、マリーン関連はだめなので、自然の中では自然と共にを鉄則に、方々の道という道を歩き回った。そしてそこにあるいろいろなものに目を向け(今まで気にとめていなかった)、小さな発見をする喜びを味わった。いろいろと素人的にそれなりの興味を持
つようになってきた。
花々、木々、遺跡(種子島には多くの遺跡が発掘されている)、焼き物・窯(種子島焼きは砂鉄をベースにした素焼きの実に味のある形と焼き上がり色のものがある)、そしてジョギングで体調を維持し、おいしく地場の南泉焼酎を楽しんだ。なだらかな丘陵のサトウキビ・芋畑風景(イギリスの田園風景そっくり)を満喫し、海からの快い風(海岸はこれまたエメラルドグリーンの海原が広がる)を背に受けて、生きていることの幸せを感じとりながら走る、あの爽快感は今でも忘れられない。お陰でこの7年間、私は年をとることもなく、名古屋へ戻ってきたという感じである。まさに竜宮城からの7年目であった。

愛知事業所長兼武豊工場長を1年少しの間経由して(単身生活から解かれ、やっと自宅に戻ったと思ったのも束の間)、今度は一転して雑踏の東京生活。通勤地獄である。本当に大切な時間を無駄にしていると思う。いかに通勤時間を楽しく、意義あるものにするかで、生活が大きく変化するのではないだろうかと考える。

今年5月に定年までの半年を残して日本油脂を退職し、本社恵比寿から六本木の日本火薬工業会へ移った。これが最後の仕事場と思っており、ここで4−5年間今までの経験を生かしてご奉公し、業界のために尽くして行こうと思っているところである。このところになって化学産業界は原油高の不安定性はあるものの、華々しく復活をしてきている。しかし、火薬業界は今後とも厳しい環境下にあり今、私たちは新しい分野への挑戦にも目を向けていく必要性を強く感じているところである。

皆様から火薬という大きな、あるいは小さくしたエネルギーを活用できる情報を頂ければありがたいと思う。
何かヒントになる情報があれば是非お知らせください。お待ちします。

TEL:03−5575−6605 「日本火薬工業会」宛まで。
皆様の今後のご健勝とご多幸をお祈り申し上げます。

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