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豊倉賢略歴
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2005C-2,3  山崎康夫 1986年大学院博士後期課程修了  (工学博士)


 山崎さんが応用化学科に入学した時、豊倉は1年生のクラス担任をしていたので種々の行事で新入生の相手をしていて山崎さんともよく会っていたが、生まれ育った環境のせいか山崎さんは何となく他の学生と違った雰囲気があった。それが本人にとって良かったかどうかは、長い年月が経ってみないと分からないことだが、常に自分の立場をポジテイブ考えて活動していると自分の持って生まれた環境をプラスに出来ることが多いようだ。山崎さんは資源工学科の山崎純夫先生の息子であることを理工学部の人達はなんとなく知っていたが、それが常に山崎さんに幸いしたわけではなく、負担になっていたこともあったのでないかと思われた。学生時代は親しい仲間としてお互いに助け合っていたようであったが、大学院博士後期課程の研究では自分と一緒に研究する後輩と力を合わせて成果を出さねばならず楽しいこともあったろうが大変だったと思う。研究者の世界にもいろいろなグレイドの博士がいるが、豊倉研究室では専門を同じくする世界の学者や技術者があの人はかくかくしかじかの独自な哲学を持ち、このことについてオリジナルな成果をあげてると評価される博士を常に目標にしている。そのためか、山崎さんの研究生活は必ずしも通常の学生生活リズムとは言い難かったので、それが研究室で黙認されるためにはそれなりの配慮と努力が必要であった。山崎さんはその努力の甲斐あって工学博士を取得し、日本化学工業に就職した。就職後も企業技術者に対する独自な考えを持って工学・技術の研鑽を続けており、その内容は通常の企業技術者の範囲に拘ることなく独自な考えに基づく将来ビジョンに繋がる仕事を心がけてるようである。今回のHPでは入社以来18年間日本化学工業で活動して来たことの一部を記述しているが、社内での活動はそこに記述されてるように必ずしも容易ではないようであったが、辛抱強い努力の結果上司の理解を得、記述されてるような成果をあげ、評価を受けるようになった。幸い、平成17年4月1日付けで執行役員になり、お祝い申し上げると共に今後のますますの活躍を期待する。
ここに記述されてる内容は第一線で活躍している先輩に参考になるところが多く、また若い卒業生には目標を与えるものと思いますので卒業生は興味をもつて読むことを期待します。    
(  2005、3,豊倉記 )

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(山崎 康夫)

化学工業の品質と科学

はじめに
日本化学工業株式会社は、日本の化学工業の黎明期から工業薬品を製造し、特に無機工業薬品の国産化を確立した会社(http://www.nippon-chem.co.jp/creative/cre2000/cre2000-1.pdf)です。この歴史と伝統という巨大なイナーシャのある会社をどのように変革し、将来への展望を示すかといっても、ひとりではそれほどたいしたことはできません。それでも、棚橋純一会長(2005年現在)が社長に就任してからの15年間は、あらゆるものに改革の手が加えられてきました。私がお手伝いできたのは、そのうちの情報ネットワークシステムと化学および化学工学の部分でした。ここでは、入社以来のトピックスをまとめてみたいと思います。

高純度燐酸

燐酸は、当社の重要製品のひとつです。私がかかわったのは、佐藤源一社長(2005年現在)をリーダーとして、半導体向け高純度燐酸の製造法の開発と用途開発でした。半導体装置を作る上で、150〜180℃に加熱した燐酸でシリコンウエハ上に形成した窒化膜をエッチングする工程は欠くことができません。ここで、素子パターンは、酸化膜で形成されていますので、酸化膜と窒化膜のエッチング速度の比率が重要になります。そこで、晶析で燐酸を高純度化し、当社製市販の燐酸との比較をしたところ、窒化膜のエッチング速度は変わりませんが、高純度燐酸では酸化膜のエッチング速度が低くなり、選択性が高まるということを実験的に示しました。東北大学大見忠弘教授のスーパークリーンルーム内に1週間食事以外は徹夜で滞在させていただき、実験したことを懐かしく思い出します。


エッチングの原理はわかりませんでしたが、高純度化の必要性をユーザーに示すことで、燐酸の高純度化の要求は一層進行しました。製造する側は大変でしたが、当社製品の優位性が確保できました。この高純度燐酸は、幸いにして物質特許をいただくことができ、特許の重要性を改めて体験させられるものでした。

品質情報

工業薬品は、全産業が顧客です。多くの製品は、量と価格が合意されれば販売することができます。しかし、新製品(この数年間のうちに上市された製品)の多くは、品質で差がつきます。私の理解では、「品質とは製品に付随する情報である」ということですが、そのうちに逆転して、「工業薬品という入れ物に品質という実体をいれて販売するようになる」と入社したころ社内で申し上げたときには、そのようなものはほとんどありませんでした。現在では、多くの製品が品質情報に基づいて販売されています。当時の品質情報を管理するシステムは、ホストコンピュータとBASICパソコンで構築されていましたが、それをクライアントサーバーシステムを用いた本格的な品質情報管理システム(QIMSといいます)に仕上げ、現在は、他の化学・食品企業でも活用していただいています(http://www.i-juse.co.jp/statistics/product/qims/qims.html)
なお、当社の品質管理のシステムをJISからISO9000に革新させたのは1995年のことです。当時は、工場の製造部門管理者の権威は相当なもので、本社側担当者も含めて「絶対にできないだろう」といわれていましたが、長谷川弘取締役の強力なリーダーシップのもと、徳山工場担当者とプロジェクトチームを編成して1年であっさり認証取得(他工場は後日取得)したことが、その後の様々な改革につながっているように思います。

情報ネットワークシステム
情報システムの重要性については、いまさら言うまでもないところですが、愛知工場で勤務していたときにその必要性を実感したものです。現場の職員の多くは工業高校卒ですが、化学工場ですので、「自分の身は自分で守る」ために、化学に対する自己研鑽には余念がありません。それを30年も続けていればその知識と経験は貴重なものであるのに、継承する前に退職することはそれほど珍しいことではありません。また、部門や部署が異なるだけで、意識が違うこともしばしばで、「工場が造って営業が売る」なかでは、連携どころか敵対関係だったりしたわけです。そこで、パソコンネットワークを活用して、知識(情報)の共有化を進めていければ、意識のずれ(それは時間方向にも組織方向にもいえることです)が解消され、より効率のよい会社になるだろうと考えたわけです。

情報システムの構築には、1995年から2000年までかかったでしょうか、必要性を繰り返し説明し、予算を確保し(棚橋純一社長が進めていた従業員の意識改革の実現と亀戸工場移設および研究棟新設が重なったことも幸いしました)、実現することができました。経営会議の多くの重役からの慎重論に対して、最後まで「情報を共有化すべし」と島田武夫専務取締役が強力に進めたことも忘れることはできません。すでに地位を確立した方々にとっていまさら再構築する必要はありませんから、その方々が入れ替わるまで(5年間位かかることもありますが)同じことを地道に繰り返していると、あるとき突然視界が広がるように変革することもあると考えています。

そして、コンピュータ2000年問題を乗り切った直後に、いよいよ意識改革の成果を集約することにしました。「情報化事例発表会」と題して、現場レベルでパソコンを活用した改善事例をあつめて、情報化とは何かを具体的に示したのです。それまでの経験から、パソコン上で最後まで残るソフトウエアを表計算ソフトウエアであると洞察し、表計算ソフトウエアを中心として業務改善を進めるように全社に指示しました。

発表された情報化事例は、フォローアップという形で中身を分析しています。見かけにとらわれず、共通する問題点とその解決法を示す必要があったからです。その結果、水平展開すべき部分は表計算ソフトウエアのアドイン・プログラムとして全社員のパソコンに導入しています。このプログラム作成のコンセプトは、エンジニアズ・デスクトップ(EDT)とよび、コンソーシアム(http://www.engineersdesktop.com)を形成して会員に提供しています。

化学熱力学
工業薬品を取り扱う上で、化学物質の熱力学データは非常に重要です。例えば、化学工場から環境への化学物質の移動量を考えるとき、排水中の化学物質の濃度は、飽和濃度以下にすることはできません。そこで、米国製の環境汚染物質のデータベース・ソフトウエアを調べてみると、当社の主力製品の一つである、燐化合物製品のデータが意外と少ないということが判りました。そこで、ソフトウエア会社に要請して、燐化合物データベースを構築しました。構築費用は、開発後私有化する場合は開発後公開する場合の倍かかるという提案でした。公開する場合の費用であっても、当社にとっては決して小さな金額ではなく、計算結果の多くは、最終的に顧客に提供するものですから、対費用効果も考えてしまうものでした。原瞭専務取締役に相談したところ、やってみようということになりました。そこで、指示されたのは、「物質によって私有化するものと公開するものを分け費用を最適化せよ」ということでした。(尚、この場合の私有化とは、5年間公開しないということです。)こうして、構築した、燐化合物のデータベースは、新規プロセスや製品の開発だけでなく、他社や顧客の排水の分析などに利用されています。


しかし、当社の支払った開発費用でコンペティタを含む他社の使うデータベースを構築するのはなぜか?という疑問は払拭されているわけではありません。私の答えは、「このデータベースの基本部分は、我々と同じように他社の出資でできている。その積み重ねで今日の、いや将来の科学があるのだ。」ということにしています。でも、企業人としては納得しきれているわけではありません。

科学と工業の分担
晶析分科会など学協会活動については、以前の投稿を参照してください。一緒に活動していただいている諸先生、他企業の幹部の方々にはご迷惑の掛け通しで恐縮しておりますが、企業の社会貢献の重要性は、ますます高まっていると思います。

科学は人類共通の財産であり、金銭で購入するものではありません。その点では、科学に対して大学の果たす役割が大きいことは言うまでもないでしょう。しかし、欧米における科学は、大学でのみ発展しているものではなく、むしろ、企業の研究が科学を牽引しているといえるのではないでしょうか。科学の発展には、産業の振興が不可欠です。とりわけ、計測・分析技術の役割は大きく、企業は、開発に必要とした計測・分析技術を公開することがあります。それにより、当該分野を独占する可能があること、その分野が発展することによって製品の販路が拡大することなどを見込んでいることもあるが、ある部分は、「その製品を創造するために利用した科学への貢献」、化学と産業のギブアンドテイクを意味しているような気がしています。

さいごに
このたび、会社員の経歴としての一ステップに当たり、入社以来の状況についてまとめてみました。日本化学の変革は、まだまだ続いていきます。誰かがやらなければできないこともあるでしょう。微力ではありますが、一企業の改革を通して、社会に貢献できればと考えています。
私が社内で何か実現できたとしたら、本文中に示しましたように多くの先輩のご理解とご指導があったからであるといえるでしょう。謹んで感謝の意を表したいと存じます。
他の媒体にこのような個人的なことを書く機会はありませんから、これこそがインターネット・ホームページの特徴ではないかと思います。大学入学以来のご指導(豊倉先生は担任でしたので)とこのような機会を作っていただいたことに感謝いたします。


略歴

山崎康夫
1981年 早稲田大学理工学部応用化学科卒
1986年 早稲田大学大学院理工学研究科博士課程修了(工学博士)
1985年 早稲田大学助手
1987年 日本化学工業株式会社入社 研究開発本部
1990年 愛知工場
1993年 生産管理部
1996年 情報システム部
1998年 社団法人日本粉体工業技術協会晶析分科会 代表幹事
1999年 生産技術部付課長
2000年 情報化推進室長
2005年 執行役員 技術推進本部長兼技術推進部長兼品質管理部長



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