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2005C−1,5 岸本信一 1980年大学院修士課程修了 1999年論文博士 (工学博士)


  岸本さんは、昭和52年4月豊倉研究室に配属となり、石膏の反応晶析による針状結晶の生成実験を行った。この頃石膏は湿式リン酸プロセスで工業的に生産されていたが、そこでは種々の不純物が存在し、その媒晶効果を利用して工業的に濾過分離し易い結晶を生産する技術となっていた。しかし、これらの不純物が生産される結晶に対する影響は複雑で、それを化学工学的な観点で明らかにするために、研究室では不純物の存在が無視出来るように1級試薬を使用した反応晶析実験を行っていた。そのため、この反応晶析では工業操作への適用を想定して装置内溶液を撹拌して流動状態に保って実験したが、そのテストでは針状石膏結晶の中央部分から別な針状晶が成長したウニ状の結晶が生成した。この結晶形状は工業操作の製品では好ましくなかった。そこで、このような結晶の生成には、ある種の結晶核の発生が影響するのでないかと考え、結晶核の発生を極力抑える方針で実験を長期にわたって行った。その結果、過飽和溶液内で核発生を促進するような刺激を与えない静止系による晶析実験を適度な過飽和度に抑えるようにして行い、針状晶を生成することに成功した。このようにして生成した針状晶を種晶として成長させると、ある程度の撹拌を与えた過飽和溶液においても針状結晶をそのまま成長させることが出来た。このような操作法は扱いにくい特殊な系に対して、有効な晶析法の一つになる可能性があると考えた。岸本さんは1980年4月より味の素に就職し、アスパルテームの工業生産技術の開発メンバーに加わった。豊倉はその年の5月上旬から9月上旬の4ヶ月間早稲田大学在外研究員としてヨーロッパに滞在して9月に帰国した時、この間に岸本さんは上司と一緒に早稲田大学の研究室に来たことを当時大学院に在学していた内山さんから聞いた。この頃の岸本さんの活躍の様子は数年後、味の素九州工場を訪問した時、当時の工場長は岸本さんが入社した頃川崎の研究所にいて、その頃社内を2分して議論していたアスパルテームの製造法を決定付ける研究成果を岸本さんが大変な実験を行って出したと言う話をその工場長から聞いたことがある。その後も長年にわたってこの製造技術の開発研究に従事していたようで、多数の岸本さんの上司から岸本さんの活躍の様子を聞いた。それは岸本さんから受け取ったこのHPに掲載した経歴資料を見ると容易に想像できる。

 岸本さんとは学部4年生の頃よりいろいろ相談を受けたり、議論したことがあった。研究室に配属されて間もない頃、学部を卒業したら海外留学をするのはどうかと相談を受けた。その時、昔の日本では、学部を卒業して海外の一流の大学に留学することの意義は十分あったが、現在のように世界的レベルの研究が出来るようになった日本で研究しても外国で研究してもレベルの高い研究室で研究を行えばその差がなくなっており、要はその研究室で実力が評価され、信頼されて研究を任されることが必要である。そのため海外に留学するには、海外の一流研究室で充分評価される実績を上げてから留学するのがよいのでないかと話したことがある。岸本さんは私の話のためかどうか分からないが、早稲田大学で研究を続けることを自分で考えて決めたようであった。その後の研究生活では、何事もまず自分自身でよく考え、その考えた内容について信頼できる人の意見を聞きながら、再度熟慮して自分の行動を決めていたようである。それは当たり前のように見えるが、自分自身に最適と思う独自な結論を出すことは容易でなく、岸本さんの結論は結果的に社内のみでなく広く評価され、岸本さんの順調な発展に繋がっていると思う。岸本さんは非常に忙しい時期に博士論文を纏めたが、岸本さんの論文はアスパルテームなどの有機結晶において、工業操作にそのまま適用出来る通常の操作法により所望なミクロ構造を持つ製品を生産出来るようにする研究で、21世紀の産業界の発展に貢献できる画期的な研究成果を纏めたものであった。この紹介はこのHPに掲載するために岸本さんが書いた記事の理解に参考になればと思っている。 ( 豊倉記、1905年1月 )

    -----参考資料としての岸本さんの卒業後の略歴-----

研究歴
1980年4月〜    主として、アスパルテーム(甘味料)の製法開発に従事。
 1983年2月
1983年3月〜    アスパルテームの生産支援、アミノ酸・核酸、医薬バル
 1987年6月    ク等の製法開発に従事。
1987年7月〜    アスパルテームの晶析研究、アミノ酸関連物質、医薬バ
 1995年6月    ルク等の製法開発に従事。

職 歴
1980年4月     味の素(株)入社 中央研究所
1983年3月     同社東海工場
1987年7月     同社中央研究所
1992年7月     同社中央研究所 主任研究員
1995年7月     同社甘味料事業部 技術担当課長
1998年7月     同社アミノサイエンス事業本部甘味料部 技術担当部長
1999年7月     同社アミノサイエンス事業本部甘味料部 開発グループ長
2002年4月     同社海外食品・アミノ酸カンパニー甘味料部 企画・開発グループ長
2004年7月     同社海外食品・アミノ酸カンパニー甘味料部長
賞 罰
1995年4月     分離技術懇話会 平成6年度 分離技術賞受賞
1996年4月     化学工学会 平成7年度 技術賞受賞

社内では、全社業績表彰4回、また事業所業績表彰を2回。

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(岸本 信一)

「 甘味料事業と私 」

今回は寄稿する機会を与えてくださり、ありがとうございました。10年前に事業部へ異動してから、学会へはとんとご無沙汰しておりますし、7〜8年前に早稲田の採用担当を後輩に譲ってからは、在学中の皆様とお話をする機会がなくなりました。豊倉先生からのご指示で、「若い技術者に一言」とか言われると、今在学中の皆様は私の子供と同じ年頃で、たしかに私はもう若くないんだなぁと改めて思った次第です。

私が学部を卒業した昭和53年には、石油ショックの余韻が残っており、化学系の学部は就職難でした。修士課程を終えた昭和55年も、今にして思えば企業の採用が上向いてきた最初の年であったようですが、リアルタイムでは、まだまだ厳しさを感じていたのを記憶しています。とにかく、どこかに潜り込むのが先決で、会社を選ぶというような余裕はありませんでした。
何とか味の素株式会社に入社して、すぐに低カロリー甘味料であるアスパルテームの製法開発を担当しました。私とこのアスパルテーム、あるいは甘味料事業とは、従って、私の入社以来四半世紀に及ぶつきあいということになります。
アスパルテームの新しい生産プラントを立ち上げる時などは、労基署のご指導をかいくぐって、ほとんど工場に住んでいる日々を過ごしたこともありました。それから、欧州での特許訴訟に関わり、ある時は原告で、またある時は被告で勝ったり負けたり、あの著名なMullin先生に味方になってもらったり…。その仕事で活躍してくれた部下を亡くした時は、大変なショックを受けましたし、ご存知の方もいらっしゃるかも知れませんが、かつての上司が職務発明訴訟を起こし、2年を経てつい先頃和解に至りました。思えば、まぁ、いろいろと手のかかることが多かったのですが、その分愛着もあります。そして、どうやら甘味料の方でも、私には気を遣ってくれているのではないか、などと思うこともあります。6年前には豊倉先生のご指導を仰ぎつつ学位論文をまとめ、早稲田大学より博士号(工学)を授与されましたが、このきっかけはアスパルテームの晶析について学会発表や論文投稿をしたことです。また、昨年甘味料の事業部長になったとたん、アスパルテームの需要が急伸し、とうとう国内では20年ぶりの新ライン建設で、数十億円の増産工事を決定することになりました。

さて、後輩の皆様方に何を申し上げたいかと言うと、最近「自分さがし」とかで、自分が本当にやりたいことが何だかわからない、あるいは向いている仕事を求めて転職、などという話をよく耳にするのですが、少なくとも私の場合、若い頃はいくら探しても「自分」なんか結局なかったんじゃないかと思うのです。考える余裕もなく、たまたま味の素という会社に入り、甘味料という仕事に巡り会って、年月を重ねる中で少しずつ今の「自分」が出来てきたような、あるいは自己実現が図れたような、そんな気がします。いろいろ考えずに、とりあえず目先のことに力を尽くせば、道が開けていくということもあるのではないでしょうか。私はラッキーだっただけなのかも知れませんが…。

豊倉研究室から味の素に入った後輩達も、田中さんは労働組合から中国での工場勤務を経て九州工場で、坂井さんは製剤の仕事から静岡にある医薬の関連会社に出向、福田さんは米国のアミノ酸工場と、それぞれの道で元気に頑張っているようです。彼らも山あり谷ありの日々を経て、今のポストにいるわけですが、皆自分のしてきたことに満足しているのではないかと思っています。私の意見に、きっと同意してくれることでしょう。

(以上)



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