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豊倉賢略歴
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2004C−5,4 鵜池靖之(スイス在住) 1972年 学部卒


  鵜池さんはこのHPに既に数件の記事を書いていまして、私、その記事に合わせて鵜池さんの経歴等を紹介しました。未だそれを読んでない人は2004C1〜C4に記載した鵜池さんの記事の前に紹介したものを是非お読み下さい。
  今回は11月7日朝5時30分頃NHKテレビの3チャンネルで放送された、世界の美術館巡りでスイスの世界的な画家セガンティーニの絵画を展示されているスイス・サンモリッツの美術館の紹介があった。私、たまたまそのテレビで放映された絵画とその解説、かれの一生の紹介に感動を受けたので、鵜池さんにセガンティーニと彼の絵画についてもっと教えてもらおうと思い、12月のHPに掲載するように記事をお願いしました。その時、鵜池さんは前回書いた記事等に関連して最近感じたことも書いてくれたので、それも同時に掲載します。この記事は鵜池さんの物事に対する考え方がよく記述されていて、卒業生の参考になることが多いと思いますので是非お読み下さい。            ( 豊倉記  2004、11 )

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(鵜池 靖之)     

「 E-メールによるコミュニケーション 」


  先月10月のホームページに私の記事を記載していただきまして有り難うございました。そして、その記事に対して豊倉先生からのコメントが付け加えられ文節の合間に挿入されていたので、それを読まれた方々は先生がスイスで登山された事も知らされ、このことで更に興味を持っていただいた方もあるかと思います。私もこの記事を幾度も読み返していると、その時の様子や周囲の事情に付いてだんだんと詳しく思い出す機会を得ました。そして先生が書かれたコメントの内容だけでは私が知っているあの時の先生と奥さんの「大活躍ぶり」の様子を正しく充分に表現するのには不十分であると思っていますので、その時の実情をもう少し詳しく書き加えて別のメール便で送りたいと思っています。後ほど作文をしますので、機会がありましたら追加として記載していただければと願っています。

 元々、先生からのコメントが無ければ、私はあの時の事について不意と思い出すことは正直に言ってほとんどなかったようです。誰からかActionをしてもらうとそれが源となり更にReactionを起こす機会を得る事がよく有ります。この場合もそうです。

 記憶というものは、それを思い出す必要が無い時にでもどこかにひっそりと収納されているものだと自分が一方的に決め付けてしまい、それを当てにしているけれども、そのうちに保管の時間切れが予告も無くなされ、いつの間にか消滅・消去されていくもののようです。人との会話や、電話で話した事などは余程その内容を意識的に確認しながら自分に記憶させようとしない限り、後になってみると驚くほどその内容を正しく再現するのが困難のようです。ですから、文書やメールなどによって文章として記録されているとその内容を後になっても読み返すことができ、再度その件について思い出し始めた時、或いは文面を読んでいる間にその場の状況がより新鮮に再現され、これが新しい思いつきの核となり、もっと広く深く考えようとする動機を起こし、そして更に類似した事についての連想、或いは全く違った考えや、意見が出てきたりすることを多く経験します。 

 ある考えを得ようと意識的に追求している場合でも、全くの「無」の中にそれを創出することは特定の能力を持っている人を除き、普通の者にとってそれはとても難しいことだと思います。ですから、自分では思いも付かなかったような考えへのきっかけを与えてくれた人や物、或いは現象などに対しても尊敬と感謝の気持を何時も思うようにしています。

 実はこのようなことをここに書いているのは先日、豊倉先生から頂いたメールがもとで、考えもしなかった事について考え始めたり、そして更に詳しく調べたりしてそれについての知識をより豊富にする機会を得たからです。何でもふと気が付いた事についてメールを送ってみるとお互いにそれに対していろいろな意見が出てきて、そのやり取りを数回往復し続けていると何かが見えてき、その新しい分野への行動が起こされるようです。


 11月の初めに頂いた豊倉先生からのメールには次の事が書かれていました。
「今朝5時30分の教育テレビを見ていたら美術館巡りでスイス・サンモリッツにあるセガンティーニ美術館の紹介がありました。〜〜 彼は40歳そこそこで死んだ天才画家のようです。おもしろかったので、鵜池さんがご存知でしたらHPに紹介して貰えたらと思いメールを送ります。 時間があって、HPに書いてみようと云う気に
なったら紹介してください。〜〜 」

 セガンティーニの名前を私も知ってはいたけど、この画家について特別に詳しくは知りませんでした。私の好きなスイスの画家は世界的にはあまり知られていないようですが、 アルバート・アンカー(Albert ANKER)なので、彼の絵についてはかなり知っているつもりです。しかし誰かが =[この場合は豊倉先生のことですが]= セガンティーニについて興味を持っているということを聞くと、突然、これから先も自分がそのままで、それについて最低限いくらかなりとの知識も得ずに居るという事に気が済まなくなりました。そしてまずは手持ちの本の中に何かこの件について書いてあるのが有るか、どの様な本で調べたら良いか、誰か知人の中でそれについて知っていそうな人を選びその人に尋ねてみようなどと云う動機になりました。

 こんな具合で、「豊倉先生とのE-メールによる最近のコミュニケーション」 がそのきっかけとなり、セガンティーニについて身の回りにある物で調べ、以下のように、私なりの興味から見た場合の一人勝手な意見を少し書いてみました。

ジョバンニ・セガンティーニが描いた絵: Giovanni SEGANTINI(1858〜1899)

 オーストリア南部と北イタリア国境のチロール・アルプス地方はウイーン会議(1815)以来オーストリア領となり、第一次大戦までオーストリア・ハンガリアを中核とするドナウ帝国の領土であったけど、戦争中にイタリアがオーストリアとの連盟を破棄し、フランス・イギリスなどの連合国側に移り、ドイツ・オーストリアなどの同盟国が敗戦したのを好機として、オーストリアから南部のチロール地方を割譲させ、それ以来、現在までイタリアの領土となっています。文化的にはゲルマン的で、多くの町や村の名前も以前からのドイツ語名と併合後に変名されて付けられたイタリア語名の両方を持っています。住民も母国語であるドイツ語とイタリア化政策のために学校で習わされたイタリア語の二ヶ国語を話します。此処よりさらに南に山岳地帯を下るとポー川の堆積によってできた東西400キロの広大なポー平野があります。イタリアで最も先端的で重要な工業・商業の大都市であるミラノ(I=Milano, D=Mailand、F=Milan)はポー平野の西北部に位置しています。

 ミラノの東方100キロの所には、ロメオとジュリエットの物語で有名なベロナ(Verona) があり、その近くにアルプス南端部の山脈に囲まれ、既にローマ時代からその穏やかな気候と、両側を氷河で削られた高く険しい山を背景とした、風光明媚で今でも観光地として国際的に広く知られているガルダ湖(Lago di Garda)があります。イタリア・アルプスの国立自然公園を源流とするサルカ(Sarca)川がこの湖に注ぐ河口から10キロほど上流の所にアルコ(Arco)という名の町があり、その近くの山村で1858年にジョバンニ・セガンティーニは貧しい農家に生まれました。

 山岳牧畜を営む農家の子としてジョバンニも羊の番などをして幼少の頃から一日の長い時間を野山で孤独に過ごす事が多く、彼は家畜を移動させそれらを見守っている合間に絵を描く事を始めました。その上手な出来ばえが村の人々の評判になり、それを知った地方の役所は彼をミラノの美術夜間学校(Accademia di Brera)に留学させました。彼の故郷は当時オーストリア領でこの立憲君主国家では、明治時代の日本でも行われた書生制度と似たような制度で、田舎に住んでいて家庭が貧しく学校に行けなくても才能のある若者には公費の援助が差し伸べられ、国家にとって必要な有能人を探し出しその才能を社会の為に育て上げるという社会福祉の政策もあったわけです。

 生まれ故郷の田舎を出て大都市のミラノに移り、華やかな都会生活をしながら絵の勉強を終えたものの、彼は野山で孤独に過ごさなければならなかった幼い時の思い出に強く迫られ、それらが忘れられなく、都会での生活にはどうしても馴染めなかったのでしょうか、1894年彼が36歳の時にスイス南東部の山岳地帯で現在でも人口密度の低いエンガディン州に移住しました。サンモリッツ(St.Moritz)から15キロほど東方の静かな村ポントレシナ(Pontresina)はずれの山小屋で1899年に41歳で亡くなるまで、生まれ故郷のイタリアには戻ることなく、そこで絵を描き続けました。

 セガンティーニは感受性の強い幼い頃に毎日の長い時間を野原や山で孤独に過ごし、その時に接した自然そのものの中での記憶が余程強く彼の印象に刻み込まれ、その後々までそれらが心の中に残って消え去らなかったのでしょう、彼が描く絵の中には、アルプスの山を背景として、それを入れずには自然の風景を描写した風景画として描くことはできなかったようです。彼の絵には何時もアルプスの姿が後ろに控えています。

 自然の風景を描いた画家は世界中にそれこそ数え切れないくらいおります。しかし私がセガンティーニの絵を見ると、彼の絵は他の画家によって描かれた風景画とは何か違うのを感じます。画家は自然の風景を絵の具と筆によって、その自然に存在している数多くの構成要素を総括的にまとめ、ややもすると、それらを直接的或いは間接的に更に単純な構成要素に変化・変換させて、自分の感覚の中に濃縮し創生した自然の姿を一枚のキャンバスに表現しようとしています。小学校の芸術の時間、戸外で写生をしている時に、「風景画は写真とは違います。目に見える対象物や景色をそっくりとそのまま正確に再現するのではなく、自分がそれを見て強く感じ取るものを目の中に描き、勇気をもって大まかにそのまま画紙に描いて表現しなさい。」と絵の先生から教えられたことを私は今でも思い出します。セガンティーニの絵には草原をただ緑色の絵の具で総括的に塗ったのとは違うようです。彼にとって草原は緑色をした均一な単一の存在物ではなく、そこには幾種類もの違った様々の草がそれぞれ一本一本と独自に存在しており、それらが集合して、その全体として草原をなしているのです。その全体を構成している個々の草の存在を彼は絵の中に表現したかったのではなかろうかと私は理解しています。草原を描写するのに、彼は一本の草さえも無視することができなく、それを細い点の並びで一本一本と表現しました。様々の色をした無数の点が集合し、全体となって、それが幾種類もの色と形をした草の生い茂った草原なのです。彼の描写様式はPointillism (点描写生法)とよばれています。美術史では、新印象派写生法(Neo−Impressionism)と呼ばれています。その前には日本の浮世絵から影響されて生れたといわれる印象派写生法(Impressionism)が盛んでした。更にそれより以前の描写法では、幾種類かの基本色をあらかじめパレットの中で混合して対象物の色を一度そこに再生し、それをキャンバスの上に移して描きました。印象派の芸術家は一体と見える対象物の色彩から受ける一瞬の印象を色の集合物だとしてその構成要素に分解させ、それを再現するために主色と補色になる基本色の組み合わせを選び、それを筆に含ませてキャンバスの上に一筆ずつ移して特定の色の組み合わせを作り、距離を置いてそれを見た時に、対象物が色の集合体として絵に表現されるようにしました。この様にして、色を出す点と光を放す点とを共々にキャンバスの上に作り、出来上がった作品を見た時、私たちの目には光り輝いた彩色として感知させられます。

 この様式はもともとギリシャ・ローマ時代、あるいは中近東ではそれ以前から盛んに行われたモザイックの方法に原点をおいているとも云えます。現在ではコンピュータを使い、対象物の映像は色をもった点の集まり(ピックス)であるとし、各点の特性をデジタル信号に変換して記憶させ、その姿を再現するだけでなく変調・転移させる事も出来るようになりました。この様にしてデジタルカメラが開発されて大衆向けの商品となっています。点を数多く集合すると面に転換できるからです。

 点描写生法(Pointillism)では、印象派が描いた絵筆跡の大きさよりも、それらをもっと極端に細くした点で描きました。線は間隔を狭めた密度の高い細い点の連続で表現されます。この技法によると明と暗の点の集合により、印象派の画家が用いた方法よりも更に光にあふれたアクセントのある強力な彩色を放った絵として対象物をキャンバスの上に再現する事ができます。

 セガンティーニは草の一本一本、それらのすべてを点の集合で表現しようとしました。他の画家が街中にあるアトリエから画題を求めて自然界に出かけて行き、絵にしようとする対象物からかなりの距離を置いた場所に自分を置き、そこから自分の目で観察し、その時に受けた印象を絵に再現しようとしたのとは違い、セガンティーニは既に子どもの時から自然の真ただ中に長時間にわたり自分が存在し、その回りにある草木の中に自分が置かれていたので、自分がそこで顔や手に触れ目前に在る対象物の個々の存在を無視する事ができなく、それらの全てを分け隔てなく絵の中に描かなければならなかったのではと、私にはその気持ちがよく理解できます。

 私たちは晶析工学を専門分野として学び、結晶や、粒体・粉体など、物質の大きさの違いにより、固体の粒子を単体として見た時とそれらを集合体として見た時、視覚的に捉えられた外観の相違と変化を比較・判定する事には皆さんも慣れておられるでしょう。製薬、染料、食品など粉体の物性を重要視する工業分野では、個々の粒子の大きさ或いは平均粒径と色彩的外観との相関関係や特性などが重要な製造工程および製品管理の目標であります。これと同じく、セガンティーニは絵具の細い点を無数に分配・集合させ、それらを組み合せたりする事によって描いた絵をある距離を隔てて全体的に見た時、自分が描こうとした自然の景色が自分の望んでいるようにキャンバスの上に再現されたかを確認する為に、選んだ色の組み合わせや、点の大きさと集合の密度などによる効果の違いなども実験的に変化させ、いろいろと工夫しながら絵を描いていったのでしょう。

 早稲田大学で晶析工学を学んでいる時、粒径と外観の相関性について実践的に理解するために私達がとても苦労したのと同じく、セガンティーニもそれと似たような苦しい体験をしたはずです。

 



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