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豊倉賢略歴
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2004C-5,1  福田雅充 1972年大学院修士課程修了  (工学修士)


  福田さんは、私が1968年11月米国TVA公社肥料開発研究所より帰国した翌年4月の卒業論文研究室配属決定で城塚研究室所属になり、実質豊倉研究室で晶析研究を行った。当時は、日本国内の大学では進歩的学生の学園紛争が盛んで、早稲田大学応用化学科2年生が学部長室を占拠するなど、早稲田大学理工学部も落ち着いて研究を続け難い環境であった。理工学部のキャンパスでも、大学研究室で産業界の発展に寄与する研究をすることに公然と異を唱える学生が多くなっていた。そのような状況で大学の工学研究はどうあるべきかを私も学生と討議をしことがあった。このような討議には福田さんも参加していて、そこで大学研究と企業研究や社会の変化・発展と大学での研究についてよく考え、自分自身の意見を慎重に発言していたのを覚えている。その内容は当時のいわゆる一部の活動的学生が公言していたような表層的なものでなく将来をも見据えたもので好感が持てた。福田さんは、研究室における学生の研究活動やその成果の学会発表の意義もよく考えており、充分な準備をして内容のある研究発表を行っていた。当時は修士論文を纏めるには、しっかりした研究内容を学会で発表することがノルマであり、また、化学工学の学会における研究発表は今日のように多数の会場で数多くの論文が発表されるのでなく、学会で著名な先生が聞かれている会場で真剣な討議が行われた。福田さんは大学院生時の最初の学会発表が終わった時、修士課程を修了するまでもう一度研究発表したいからとそれまで以上に真剣に研究を行っていたことをよく覚えている。福田さんの出身は広島県の呉で、就職は日本の化学企業を代表する地元に近い住友化学に就職したいと希望した。その時、私がTVAにいた時住友化学から出張して来た知り合いになったF氏を通して住友化学に紹介・推薦した。その面接試験では、福田さんは2度の学会発表が自分の自信になり、自分の考えを充分伝えることが出来たと話していた。その後、F氏に数年経ってから会った時、F氏は自分は忙しくて福田さんの採用について特別なことは何もしなかったが、福田さんはしっかり人物で採用が決まったと聞いた時、研究室時代に私が感じたのと同じ人物像の評価がされ、福田さんの実力で採用が決まったのだと思ったことがあった。

  福田さんは、記事でも紹介されたシンガポールで行った工場建設は当時としては数少なくなって来た新工場の建設で素晴らしい経験をされたことだろうと、F氏から聞いたことがある。この建設時の休暇期間には家族でスイスのミューレンに行って鋭気を養ってきたと云う話も聞いたことがあった。このミューレンには研究室の卒業生鵜池さんの勧めで私も家内と行ったことがあるが、本当に素晴らしいところで、ここの風景を思い出すと、発想の転換が自然と出来るような気がした。福田さんがシンガポールからの帰国後新居浜の工場に勤務した時大学の研究室に来たことがあった。この時、福田さんの記事に書いてあるように福田さんが行っていた開発研究のことで私の意見を伝えたことを覚えている。この時の内容は装置内晶析現象の中には通常の結晶化理論では考えられないことが起こることが時々あり、それを説明する時にどうしても考えなければならない過飽和溶液内で発生する結晶核の挙動で、現在でもまだ余り認められてないことを話したように覚えている。その前段的な研究は2次核発生現象の研究で研究室で行ったことはあったが、本格的に取り組んだことのないまま論文でも発表してないことなので、福田さんは苦労したことと思っている。その苦労の様子は、福田さんの本HPに記述してあるので、想像していただけると思うが、その後開発に成功して社長賞を受賞したと聞いたときには、本当に良かったと思った。その時の話は福田さんも不満に感じたようようでしたが、10分くらいか長くても精々20〜30分くらいで、それを参考にして新技術の開発に漕ぎ着けられたのは、福田さんが以下に記述された内容を読めば想像できることと思うし、これから難しい問題を解決していかなければならない人達の参考になる部分が多いので、時間のある時福田さんの記事を是非じっくり読んで頂きたいと思う。私が、福田さんの記事で教えてもらった言葉 “セレンデイビテイ” を信じて希望を持って進んでください。(豊倉記 2004、11)

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(福田 雅充)

「 学部卒業して35年 」


 小生は学園紛争の余波で、卒業証書をもらった記憶の希薄な、団塊世代の一員です。
就職のため健康診断を受けた病院のテレビで浅間山荘事件が生中継され、山荘が鉄球で壊される映像が妙に印象に残っています。

 昭和47年に住友化学に入り、四国の新居浜に赴任しました。当時、大阪本社に電話するのに交換を通して30分もかかりました。旧別子銅山は往時、山中に1万人も住んでいた住友の遺跡ですが、入社研修の登山の時にはまだ建物の礎石がはっきりわかる程度でした。最近、再登山して、草茫々、まさに「兵どもが夢の跡」となってしまい、時の流れを強く感じました。

 この間、雪印乳業に入った応化同期生は会社存亡の危機に立たされ研究そっちのけで営業を応援した話、住友重機(株)、三井住友建設(株)の連中は自社株が50円を切って住友入社以来考えたこともない「ひょっとして会社がつぶれるかもしれない」と本気で心配した話、等々、それらに比べると豊倉先生に押し込んでもらった住友化学は比較的穏やかでした。小生個人は、事業化で多くのお金を使い、多くの技術的なチャレンジをさせてもらい、また、原因不明のプラント事故では早期再開のため責任を取ることまでしました。3年強の間赴任した暑いシンガポールは英語で苦労しましたが、現地の同僚からよく「日本人は非論理的」と指摘され、確かに「単一民族の以心伝心の相互理解前提のやり方」は外から見ると論理的でないのだと、貴重な国際経験でした。

 先日、学部卒業後35周年のHome Coming Dayで久しぶりに母校を訪れ、同期生と楽しく飲んだ時、会社でも工業化研究で豊倉先生のやっかいを受け、おかげで弊社のコア製品を育てることができた話に、お前は恵まれている! ところで先生へのお礼はどうしたのか?
なに、会食だけ! 何十億と利益をあげているのに、それはひどい! と非難されました。

 10数年前、ある製品が急激な円高で競争力を失い,生き延びるためにプロセス合理化の工業化研究をすることになりました。製品化の晶析操作(下記紹介ご参考)でブレークスルーが得られず、えらく困難を極め、研究投資期限が切られて「研究を止めるか(≒事業撤退?)、起業化するか?」の決断を迫られました。この時、小職の悩みにコメントをいただこうと、豊倉先生を数回訪問しました。先生は研究室に卒業生が戻って来たことそのものが嬉しそうで、肝心の相談は小生から見ると「二の次」のような取扱で少々不満でした。帰る間際にいただいたコメントを新幹線の車中で「ああでもない、こうでもない」と反芻したことを記憶しています。新居浜に返って早速実験してみると見通しのつきそうなよい結果が出ました。先生に感謝、また感謝です。清水の舞台から飛び降りる覚悟で「いける」と社内で宣言し起業化が実現の運びとなりました。30年近く諸先輩が営々と築いてきたプラントが壊され、後戻りできない大改造を目の当たりにして厳粛な気分と、自分の判断は正しかったかの重圧をひしひしと感じました。新プラントがスタートしてからは製品が着色したり、能力が出なかったりのトラブル続きで、研究とプラント運転の両方の責任者として3ヶ月くらい社内で厳しい視線に晒され、昼夜兼行の無理のため腰が痛くなったりと大変でした。 これが現在、生産能力が当時の10倍にも達する勢いの当社のコア製品誕生の、私のささやかな「プロジェクトX」です。

 以前、先生からも教わったかと思いますが“セレンディピティ”と言う言葉を思い出します。物事を解決する場合には、現在のメールを通しての効率一点張りの情報交換ではいいアイデアが浮びにくく、Face−to−Faceのゆとりのある「彷彿かつ真摯な“意見”交換」の場の大切さをつくづく痛感します。

 ただ、この晶析問題は苦し紛れに解決はしたけれど、また、社内ではもっともらしい理屈をつけて説明していますが、先生が唱えていらっしゃる鮮やかな理論のようなものでなく「State of Art」のまま10年を超えてそのまま使われています。どこかでどなたかにキッチリ解明していただければと心残りに思っています。

 そろそろ定年が見えてきて、何か趣味を広げたいと思いながら、会社人間を続けています。

 世の中は、業務革新、生産革新と騒がしく、情報が氾濫し、いささかうんざりしていますが、最近の小生の主な関心事は「工場立地としての新居浜」です。後背地が日本の3〜4%経済の四国で、産業空洞化の危機に直面して、今後とも新居浜が世界的に存在感のある立地であり続けるためにはどうしたらよいのか? 例えば、原料供給国から、また、製品供給先の中韓台を中心としたアジアへ物をいかに安く運べられるか? 外国貿易港を神戸に頼っている現状は物流面からかなりのハンディキャップであり、四国の地方港を盛り立てて使う可能性を、生産企画の立場で模索しています。四国在住の皆さん、協力して物流を強くしませんか!
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 (ご参考) 苦労した晶析プロセスの紹介
この製品の製造プロセスは多くの反応と、抽出、吸着を除きほとんどの単位操作のある、バルクプラントとしては非常に長いプロセスです。省原料によるコスト削減のため、後半工程を全面的に見直し、大循環を新たに組み込み、合わせて不純物の蓄積防止のための抜き出し工程も追加しました。

 晶析の系は下記です。

旧法 新法
原料 製品のアルカリ塩+酸液 製品のアルカリ塩+酸性ガス
中和点 等電点より酸性側 等電点よりアルカリ側
晶析系 液−固2相系 気−液−固3相系
過飽和生成 反応+蒸発 反応+冷却
結晶形状 柱状晶気味 鱗辺晶気味→凝集晶


 この結晶は分子構造から鱗辺状になる傾向があり、ろ過性悪化、かさ比重の小さい商品価値のほとんどない製品となる恐れがあります。

 旧法でもこの晶析はいろいろ問題があり、豊倉先生には2度、新居浜に来ていただき、現地指導を受けました。新法では微小な鱗辺晶が共存気泡表面にトラップされ母液との接触が断たれて成長しない、さらにトラップされた微結晶が発泡を促進するように観察されました。

 安全な凝集剤の開発を当社基礎研に頼み(この系では結果的に消泡効果も効いたようです)、攪拌条件、装置形状をうんざりするくらいテストしましたが、試料が少なく小スケールのためかうまくいきません。全体が連続プロセスのため、「晶析も連続で」と拘ったのがまずかったようです。豊倉先生の「バッチ操作では過飽和を大きくできますよ。それで凝集力を大きくして安定した凝集晶の生成をトライしてみてはどうですか?」は大ヒントになり、純度維持に努めながら操作法を確立しました。バッチ晶析操作が一部入りますので、冷却時の付着スケール対策も容易でした。

 装置設計ではガス吸収促進と結晶破壊防止のバランスの良い適切なせん断強度の攪拌翼の開発に苦労しました。不純物の蓄積状態がベンチスケールで十分実現できないこともあり、スケールアップでどうなるかは実機運転まで心配でした。「なせばなる」でした。





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