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2004C-4,2  関谷洋輔 1965年学部卒


  関谷さんの研究室配属当時は2004C-4,0に記述したように決して生やさしいことで卒業研究を始められる状況ではなかった。その当時の関谷さんは、どのような場合でも諦めることなく出来るという信念を持って乗り越えねばならないという主義で正面から立ち向かっているように見えた。それは丁度1980年の化学工学会理事会で1986年の世界化学工学会議を日本で引き受けるか否かが議題になった時、クラレ社長の岡林化学工学会長が引き受けろと一言言われたのと同じ響きを感じた。今回クラレに就職後の記事を読んで、関谷さんの企業内の活躍も卒業研究の努力も相通じるものがあるように思えた。今回HPに書いて頂いた「会社生活での思い出」は関谷さんの経歴と較べながら読むとこれからの技術者に参考になることが多いと思い次に経歴を列記します。

1965年3月早稲田大学卒業、 
同年4月(株)クラレ入社、'86,6:岡山工場ビニロン部主席部員、'88,4 : 生産技術部長、'97,6: 生産開発本部 副本部長、'98,6:取締役就任、K−2推進事業部長、2000,6:取締役岡山工場長、'02,6: 取締役退任、クラレテクノ(株)取締役副社長就任、'03,6: クラレテクノ株式会社 社長就任
                                     ( 豊倉記 )

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(関谷 洋輔)

会社生活での思い出


  工場勤務が長かった私にとって、初めての本社勤務となって2年目の新年を大阪で迎えていた。近くの神社に初詣のお参りをし帰宅した直後に一本の電話があった。同じ繊維業界に籍を置く親しくお付き合いをして10年近くになる友人からであった。新年の挨拶のあとで今度ゆっくりと週末にでもあって話しをしようと言うことになった。

 当時(昭和57年)は2度の石油ショックのあとで低成長、高失業率の時代で製造業の世界では不況カルテルが結ばれたり工場の集約や休止といったことが新聞紙上をにぎわせていて今日と似た世相であった。私が所属する合成繊維ビニロンは日本で開発され、元社長大原総一郎がクラレの社運を賭けて企業化し綿、羊毛の代替繊維をめざしたものであった。販売努力と技術改良を重ねてようやく世に認められ一定の成果を得ていた。 S.30年代では学生時代にビニロン学生服に腕を通された方も多数いらっしゃることでしょう。S.40年代には魚網、ロープ、帆布等用途の主流は産業資材に移っていた。一方ポリエステル、ナイロン、アクリルと言った3大合繊を中心に各繊維の増産と価格競争が激化しS.50年代なかばにはポリエステルに徐々に市場を侵食され事業環境が年々厳しくなり、今後の展開を模索している時期であった。

 数日後の夜久しぶりに会った友人との話はいつのまにかこの環境下で、どのように現状を打破していくかになっていた。幸いにも彼の会社もビニロンを事業としており、ほぼ同じ環境にあることは容易に想像された。また彼も本社のスタッフとして事業の先行きを検討していたのはしばらくあとで判明したことであった。

 この繊維をどのようにしたら継続できるか頭にある情報をぶつけ合った。そんな中で、ひとつの結論は、「今まで競合ばかりしていたのをやめて、お互いの長所を利用し、短所を補うことが必要ではないか。」 と言うことであった。一度上司に相談して今後のことは進めることで分かれた。なぜかその夜は軽い興奮で寝付かれなかったのを思い出す。

 翌週信頼する上司に事のあらましを報告するとともに今後の方針を相談した。上司は「任せた。結果の報告はせよ。他言無用。骨は拾ってやる。」簡潔だが、重い言葉であった。私の知っていることは限られており会社にとって間違ってもおおきな影響はないと考えたが、身震いするものがあった。

 その後、数回の情報のやり取りをおこなったが、春になって大幅な組織改革が行われ人事異動があり、岡山工場でのビニロン生産課長として転出することになり、今までのことを、レポートにまとめ提出して離任した。工場では目先の問題に忙殺されて、この問題は暫く失念していたが、その秋口になってビニロンステープルにかんしてのA社(友人の会社)との委託生産契約が締結されたので、実務面の作業を詰めるようにとの指示を受け、春先の経緯を思い出すことになった。これまでには両社の経営の、スタッフの慎重な調査と厳しい議論がなされたことであろうが、そのきっかけに携われたことで感慨深いものがあった。ぜひとも前進させるために実務面の推進に全力を傾けたいと決意を新たにした。その後の経緯は省略するが、生産委託をうけるわれわれは増産となり工場も活気が出るため忙しい中にも余裕があった。しかし、A社にとっては大幅な減産となり、社員対策、地域対策、ユーザー対策などおおきな課題を伴っており決断されたトップおよび工場の責任者、販売責任者の苦労を察するに頭が下がる思いである。

 いまでは財閥を超えての合併や吸収が日常茶飯事のこととなっているが当時は非常にまれであったと思う。さらにこの関係が20年を越して現在も継続していることは、両社の経営トップの相互信頼と関係者のビニロンに対する愛情があればこそと信じている。

 このプロジェクトを通じて次のことを教訓としている。
・ 仕事を進めるのに地位・身分は関係ない。いかに情熱を持ってぶつかるかである。
・ 常に、アンテナを高くし、情報をキャッチすること。
・ 何とかしたいと思う愛情、執念がだいじである。

なお、このプロジェクトの一端に携わり、たくさんの上司、友人のご支援で成果をえることができたがこの方々に改めてお礼を申し上げます。





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