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豊倉賢略歴
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2004C-4,1  小池信夫 1967年大学院修士課程修了  (工学修士)


小池さんは学部4年在籍時の卒業研究では、連続混合型晶析装置の設計法に関する研究を行った。その時の活躍の様子は2004C-4,0に紹介した。しかし、小池さんの大学院在籍時の1966年には豊倉は米国留学の準備に追われ、研究室の活動の様子は申し訳ないがほとんど記憶にないので、紹介からは割愛させて頂きます。ただ、アメリカに出発前に、小池さんが「私が家族とアメリカでドライブしている様子を想像して書いた漫画」のカードを餞別にプレゼントしてもらい、小池さんの別の才能と暖かい心に触れることが出来た。豊倉は三井東圧の大船の研究所には時々訪問したことはあったが、不幸にして会う機会はなかった。小池さんが三井東圧化学を退職し、特許事務所を開設してからのことでしたが、早稲田大学応用化学科学生に対する先輩の特別講義プログラムがあり、その講師にお出でいただいたことがあった。その夜一緒に食事をしながら色々話を伺って、小池さんの見識の広さと仕事に対する強い責任と誠実さを感じた。これからは知的財産に関する常識は持たないと高度技術社会を生き抜くことは出来ない。小池さんは頼りがいのある・信頼できる・素晴らしい性格の持ち主であり、知的財産や技術のことで困ったときには小池さんに相談すると道が開けるのでないだろうか。 ( 豊倉記 )


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(小池 信夫)

弁理士開業記


はじめに
 筆者は、平成9年に会社(三井東圧化学(現三井化学))をやめて独立し、翌年から五反田で小さな特許事務所(小池国際特許事務所)を開設して今日に至っている。特許の世界に足を踏み入れたのは、昭和51年(以下昭和をS、平成をHと表記)に特許部に転籍になってからであり、通算すると27年以上になる。現在、知的財産やこの関連資格取得等への関心がかってなく高まっているようであるが、なにか皆様のご参考になればと、筆者の経験を紹介する。

特許を巡る環境の大変化
 筆者が特許部(本社、霞ヶ関)に移った頃(S51年当時)は、きわめて原始的な時代であった。特許の申請は、まず手書きで原稿を書き、これを和文タイプして出願書類(願書、明細書)を作成し、隣の特許庁の窓口(9時〜午後5時)に持参、提出する。これが明治時代から続く標準的なスタイルであった。(遠隔地の出願人は郵送するのが一般的。)明細書に誤記があった場合は、線を引いて消し、「何字削除」などという印を押して訂正する。そもそも当時は、ワープロ自体が存在しなかった。出願後しばらく経過後(1月後)ようやく特許庁から出願番号(例えば特願昭51−123456)の通知(願番通知という。)のハガキが来るようなのんびりした時代だった。

  現在では、状況は一変し、パソコン出願制度(H10より本格的に導入)により、ワードや一太郎で作成した明細書等出願書類を、HTML文書にして、事務所のパソコン端末から直接特許庁のサーバーに送信することにより、出願は瞬時に完了する。同時に出願番号(例えば特願2004−123456)がついて、受理済み書類がリアルタイムで返送されてくる。(しかも、オンラインの窓口は9時〜夜10時まで開いている。)
なお、現在の特許庁の立派な建物(インテリジェントビルのはしり)は、パソコン出願制度に対応するため、大正時代からの古い煉瓦づくりのビルを壊して立て替えたものである。

特許法の改正
 
やや専門的になるが、筆者が特許業界に入ったS51年頃より、日本の産業構造の変化に対応して、特許法はめまぐるしく改正を繰り返してきている。主たる変更点だけでも、以下のとおりである。

@物質特許(S50)の導入。(それ以前は医薬品、新規化学物質、飲食物自体を不特許事由として特許の対象から除外。その製法でしか特許を認めなかった。)
A特許協力条約(PCT)に基づく国際出願制度(S53)。とりあえず、日本特許庁(受理官庁)へ日本語で米国、EPC、カナダ等を指定した国際出願ができるようになった。
B 国内優先権制度(S60)の導入で多数の関連出願を一つにまとめられる。
C多項制(S62)(請求項概念の導入)(従来は、特許請求の範囲(クレーム)は原則として一つしか記載できなかった(単項性という。)。)
D実用新案無審査登録制度の導入(H5)
E特許対象の更なる拡大(コンピュータソフトや所謂ビジネスモデル特許)等である。(現在、医療行為(外科手術法等)を特許すべきかどうかが検討されている。)

現在の仕事の内容
 以前いた会社の特許部(知財部)では、長年総合研で電子情報材料やエレクトロニクス関係の出願を担当していたので、太陽電池、光記録媒体、スパッタ製品、プリント基板、磁気記録媒体、ポリマー電池、燃料電池、化学プロセス等の分野の明細書を相当書いた。独立後はこの分野を専門としてやりたかった。しかし、クライアントは小さい会社なども多く、現実には、専門にこだわらず相談を受けた案件は何でもやらなくてはならない。
未経験の技術分野は、そのたびに図書館で文献調査し、関連書籍の購入、先行特許調査等と、にわか勉強して頭に詰め込んで対応している。少し前にブームとなったビジネスモデル特許も何件か書いた(モリチャージャブルなプリペードカードを使用する電子商取引システム等モは米国特許も取得している。)。
また、出願後の審査で、特許庁からの拒絶理由通知に対応するため、意見書、補正書を作成することも多いが、過去の判例を踏まえた議論でないと説得力が無いので、判例の勉強は欠かせない。

注目判決
 判例といえば、最近、青色発光ダイオード事件を始めとする職務発明の対価請求事件が、請求金額が高額(20〜200億円)のこともあり、話題となっているが、なかでも味の素(アスパルテーム(人工甘味料パルスイート))職務発明事件(平成14年(ワ)20521号)は、晶析技術が主役を演じるというきわめて興味深いものである。


 長文の判決であり、詳細は紹介できないが、一点だけふれておきたい。
アスパルテームは、難晶析性であり、あらゆる晶析理論を駆使して対処しても、最後の晶析工程でどうしても濾過困難な微細結晶になってしまう。苦闘する研究者達が最後にたどり着いたのは、「静置無撹拌晶析」という常識に反する方法であった。

 判決(開発経過の詳細な記載あり。)を読み進めると、苦悩する開発担当者の一人(岸本氏(“束状晶”の発見者))が、母校の豊倉先生を訪ねて助言を求めるくだりがでてくる。さらには、晶析の世界的権威英国のマリン教授(Dr.Mullin)が、豊倉先生のツテで、わざわざ、この晶析法の特許性を支持する宣誓供述書(所謂デクラ)を書いてくれたため、米国特許庁(USPTO)も納得し、難航していた米国特許も取得することができた・・等のいくつかの興味深いエピソードがでてくるのである。(なお、マリン教授の本は卒論研究のゼミで関谷氏、中沢氏(本HP参照)と三人で少し勉強した記憶がある。)

化学工学
 特許事務所のメインの仕事は、特許明細書を書くことであるが、明細書書きに化学工学で学んだ方法論が非常に役立っている。依頼者の説明及びデータから適当なモデル(フローシート等で表現される)をたて、ストーリーを構成する必要があるからである。特許明細書は読んでいてさっぱり解らないとか、おもしろくないという声が多いが、筆者の考えでは、書いている本人(代理人)がストーリーも構築せずに、依頼者の説明をそのまま書いているためと思われる。

(ちなみに、弊事務所において、仕事で常時参照しているネタ本は、化学工学便覧(改訂3版〜6版)をはじめとして、化学大辞典(共立出版)、理化学事典(5版)、化学便覧(改訂4〜5版)等である。)
また、プロセス特許はもちろん、新規化学物質や新規ポリマーの特許(物質特許)でも、法律の規定により、必ずこれを製造する方法(プロセス)をあわせ記載しなければならない。化学工学(反応工学)的観点から、依頼者が行った実験室的製法だけでなく、スケールアップした実装置(実プラント)のことも考慮して記載することが好ましいのである。特に、結晶成長、核発生、ガス吸収、濾過、撹拌、スクラビング、乾燥等の操作がでてくると力がはいる。つい脱線して、物質移動、混合拡散係数、滞留時間分布関数、表面更新モデル、境界層などの化工用語を使用してしまうこともある。(なお、筆者は現在も化学工学会の会員である。)

弁理士試験1
 筆者が弁理士試験に合格したのはS54である。試験は2回受けて、2回目に最終合格した。最近は科目数も少なくなり政策的にも易しくなったようであるが、当時はかなり大変だった。試験は1次、2次、3次まであり、1次は多枝選択(Multiple Choice)、2次は論文、3次は口述である。受験生(4000人程度)は、1次で500人にしぼられ、論文では約100人が合格する(口述では数人〜10人が落ちる。)。1次試験は6月の第1日曜日に早稲田大学で行われた。


 特に大変なのは2次の論文試験。真夏にクーラーなどない大学の試験場(大正大学)で、月〜土の一週間にわたって行われるので最後にはふらふらになり体力勝負の面がある。(科目は、必須法律科目(特許、実用新案、意匠、商標、条約の5科目)、技術的選択科目(有機化学、無機化学、物理化学等自分の専門から3科目選択))の計8科目で、各科目2時間行われる。当時は鉛筆はもちろん、ボールペンの使用も認められず万年筆を使用しなければならなかった。

 最後の口述試験は、論文合格者に対し、10月に弁理士会館(旧館)で行われる。数は少ないが何人かは必ず落ちるので油断はできない。通常は一人15〜20分程度、7〜8人の試験官に特許から意匠、商標、条約まで細かいことを聞かれる。筆者は、なぜか順番が全受験生の最後だったせいか、延々1時間にわたって厳しい質問に曝され、開放されたときは外は真っ暗になっていた。最終合格が発表されたのは丁度38歳の誕生日(S54年11月5日)であったが非常にうれしかったことを覚えている。

弁理士試験2
 もう試験はこりごりと思っていたが、最近になって久しぶりに新弁理士試験(特定侵害訴訟代理業務試験)を受けなくてはならなくなった。
出願業務中心で特許庁を相手にしていればよかった弁理士に、特許等の侵害事件に限り、弁護士と同様に裁判所で代理人となる資格が与えられることになったためである。昨年(H15)にその第1回試験を受けた。

 ある意味では昔の試験よりもっと大変だった。試験は一日だけ(10月の日曜日)であるが、午前3時間、午後3時間の計6時間。問題としては、例えば自分の特許を侵害している相手を訴え、差止、損害賠償を請求してくれ、という依頼者の相談を受けた事件を想定し、代理人として実際に裁判所に提出する訴状を作成する試験である。特許明細書、当事者の主張メモ、相手の行っている技術の内容説明等の大量の資料が渡され、これを読んで理解するだけでたっぷり1時間以上かかる。残りの2時間で急いで訴状を仕上げるとともに、関連する民法、民事訴訟法の小問(訴えの併合、管轄、訴訟物、債権消滅時効、不当利得・不法行為、指名債権譲渡通知等)の論点についても答えが要求される。

 また、午後の試験は、商標法や不正競争防止法に関し、相手から訴えられ場合に、裁判所に提出する答弁書を作成するものである。この場合も種々の資料を読むだけで1時間以上かかるので、やはり2時間以内で時間に追われながら答弁書を作成しなくてはならない。一日6時間の試験は始めてであり、若かりし頃と比べて体力や記憶力も落ちているので、きわめて過酷であった。試験には運良く合格したが(12月末発表)、受験生(全員弁理士)800人のうち、300人近くは不合格となつたので、これもそれほど易しい試験ではなかった。(不合格者は本年度また再試験)この商売は、試験が宿命のようである。
以上
      
(なお、本記事並びに特許等に関し、何かお問い合せ等があれば、下記の弊事務所まで御願いします。) 
fwga9033@mb.infoweb.ne.jp
Nobuo Koike
小池国際特許事務所
弁理士 小池信夫
TEL:03-5496-7330
FAX:03-5496-7333




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