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豊倉賢略歴
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2004 Cム2,0:アメリカTVA公社研究所の生活         豊倉 賢


  オリジナルな研究はいかにして生まれるか?
(月刊「ケミカルエンジニヤリング, 15(4), p.35-39 (1970)より転載」

  筆者は1966年12月から68年10月までアメリカ国立研究所にてアメリカ人と研究生活をともにした。彼らは幾多の輝かしい研究成果を社会に還元している。その背景は・・・

午前7時20分 頭の禿げたドイツ系のR氏はアルミニウムの弁当箱をぶらさげて実験室に入ってくる。早速恒温乾燥器の中より試料を取り出し重量の測定を行い再びその試料を乾燥器の中へ戻し実験を続ける。
午前8時 "Come on" と彼の友人(Coffee Brake group)は実験室の入り口に現れ彼をコーヒーブレイクに誘い出す。
午前8時30分 彼はコーヒーから帰ってくる。 実験室の中を廻って点検した後階下の自分のオフィスに行きデスクワークを始める。
午前10時 階下より実験室に戻り弁当箱よりクッキーを取り出し、それを食べながら実験室の仕事をする。それが済むとまた階下のオフィスに戻る。
午前11時45分
階下のオフィスより実験室に現れ、弁当箱からサンドイッチを取り出す。
正午12時00分 彼は友人(昼休みに必ず車で魚釣りに行く)の出迎えを受ける。果物をポケットに入れた彼は靴をランニングシューズに履き替え、昼休みのランニングに出かける。
午後0時45分 実験室に戻った彼は部下と仕事の打ち合わせを始める。
午後1時30分 また午後のコーヒーブレイクに出かける。
午後2時 コーヒーブレイクから帰った彼は階下のオフィスに戻る。
午後3時45分 再び実験室に戻り部下と仕事の打ち合わせをする。
午後4時15分 弁当箱をぶらさげた彼は家路に急ぐ。

  これは豊倉がアメリカにいた研究所研究員の平均的日課である。この研究所は肥料の総合開発研究所として世界的に有名なアメリカアラバマ州にあるTVA International Fertilizer Developent Center である。肥料界に斬新な幾多の研究成果を提供したのみでなく、全世界の農業、肥料産業をリードするために企業のなし得ない将来のための開発を多数なしとげており、そして現在もさらに将来も続けて行くであろうと世界中から期待されている。この研究所の特徴は研究テーマを目先の社会状況などによって左右されることなく、真に人類にとって必要な研究を5年とか10年とかいう長年月かけて研究開発して行くところにある。そのためには取り上げられる研究テーマは単なる流行によって判断されるのではなく、研究所の持つ大きな情報網にて収集された世界の情勢に関する資料と研究員(管理職の技術者の判断も大きな決定権を有するが)の判断によって決定される。その意味においては研究員各自のテーマの意義・目的に対する見識はきわめて重要である。彼らは如何なるころから仕事の意義を見い出しているのであろうか?

アメリカ研究所の研究員はどのように働いているか?

  アメリカ研究所の研究はProfessionalと呼ばれる研究員とManagerといわれる地位の研究員によってほとんど決定されるが、実験の詳細計画および活動は主にProfessional研究員とAidといわれる助手によってなされる。このProfessionalの研究員より抜擢されたものはManagerになるので、このProfessional研究員の研究態度は豊倉にとって興味があった。アメリカにおいても卒業した大学差はかなりあり、一流大学と見られる大学の卒業生は通常Professional として迎えられるようであった。また日本や海外から招かれ研究者やPost-doctorも一度はこの地位に置かれ、その実力が評価されるとManagerへ昇進した。ProfessionalからManagerへの昇進は通常容易でなく、若くしてManagerへの昇進を望む研究者は非常な努力をするか抜群な能力の持ち主である。(35才ぐらいでManagerになるものもいるが、定年までProfessionalのままの人は沢山いる。)そのために彼等の勤務状況は常に実力によって勝ち抜かねばならないという気構えがあった。その点、企業のために働く感じの比較的強い日本と、自分のために働く感じの強いアメリカとでは研究員の研究態度はその根底において差異を感じた。このように自分のために働く彼等の勤務態度は日本人にはまじめに働いているのかと感じることがしばしばある。最初に述べたように大多数のアメリカ人研究者は午前と午後にコーヒーブレイクに行き、そこで、週末に過ごした話や次の週末の計画話等を仲間としあって、仕事からの解放感を味いリフレッシュしていた。また海外からの帰国者はそれに関連する話をして世界の情報を伝えていたが、少なくとも直接仕事に関係のない話をして職場の連帯感は醸し出していた。その他にもしばしば勤務時間中に直接仕事に関係のない話題に花を咲かせているのを見かけた。このための時間は時には一日の勤務時間の1割に相当するのではないかと思われることがあった。

彼らは自分の仕事をどのように考えているのであろうか?

  豊倉の渡米直後、アメリカ、特に豊倉のいた街の習慣がわからず同室のR氏にいろいろ尋ねたことがしばしばあった。その時日本人の癖で「暇があれば尋ねたいことがあるのだが?」と聞くと彼は「自分は忙しくて暇はないが、お前の困っていることは助けてやる」といって喜んで教えてくれた。これらのことを尋ねる時は彼は必ずしも仕事をしているわけではなく雑談に近いと思われる話をしている時であった。しかし、彼が一生懸命仕事をしているときに尋ねても恐らく喜んで数十分の時間を割いてでもいろいろ教えてくれたであろう。私が彼に尋ねたことは家族連での外国生活から起こる私的なことであったが、彼等アメリカ人にとって私的なことは仕事とまったく同様に重要なことのように見えた。彼等アメリカ人の私事と公事についての重要度でみると、日本人とは逆で、私事が優先するのではないかさえ思えた。たとえば、夫人が私的会合があるとか、どこかへ旅行し、家に子供たちだけになる場合、彼らは当然のごとく帰宅した。しかし、彼らは決して仕事を忘れてはいなかった。Mrs. R が一週間近く旅行したとき、R氏は休暇を取った。でもこの休暇の間全く実験室に姿を見せなかったわけではなかった。ほとんどの毎日のように1〜2時間出社し、研究を継続するうえで必要な仕事は常に行っていた。この間、通常の勤務時間である朝7時30分より前に出社したり、また終了後の午後4時15分以後に出社していたこともあった。このようなことは彼等の間では必ずしも稀なことではないことを豊倉はある機会に見つけた。帰国が間近になった時休日出勤をしたことがしばしばあった。その時、実験室に入るためには鍵を借りねばならず、鍵を借りるために帳簿に名前などを記入したが、その帳簿には親しい人の名前を多数見つけた。 またかかる休日に仕事をしていると事務所や実験室に出勤して働いている何人もの人に会った。その時研究員には休日出勤、時間外出勤手当は何等支弁されなかった。しかし彼らは彼ら自身で研究している仕事を大切にするがゆえに、また、仕事に対する責任を十分果たすために経済的な支弁を受けることなく出社して仕事をしていた。これらを思い合わせるとアメリカ人は家庭を含めた自分の生活を大切にする同時に、自分の仕事も大切にしていたと思う。一部の日本人はとかく後者に重点を置き、前者を軽視するためにアメリカ人の仕事ぶりを過小評価しているのではないかと思った。

アメリカの研究者はいかなる目的・発想で研究テーマを見つけ、研究しているのであろうか?

  豊倉が渡米後間もないある日のことであった。同室のR氏から「お前はいかなる目標にむかって研究しているか?」と尋ねられたことがあった。渡米に際して、それまでは日本で行った研究手法や成果をアメリカでの研究プロジェクトに適用して成果をあげることを考えていた。そのために世界的な視野で考えて質問した彼の問いに対してその時のすぐ回答することはできなかった。逆にこの質問を機にして未知の科学技術の世界で先端を切る研究者はいかなる契機に、新しい研究目的を設定し、それに向かった研究を開始しするかを興味もって観察するようになった。

  現代世界の物質文明はヨーロッパ・アメリカ人によって作り出されたものと考えられる。すなわち、それらは彼らの生活様式・彼らの伝統的な思想から生まれたものである。西洋の音楽や言葉を比較すると彼等の日常会話にしても音楽のあるリズムを感じる。そのことは西洋人が日本語を話すのを聞くとそれはまさに日本語の歌を聞くような気がすることがある。彼等の音楽が彼等の日常の感情・思想・言語に密着しているように、彼等の物質文明(現代の世界物質文明)は彼の日常の思想・生活に密着していると考える。

  一方、工学研究における新テーマの発想には2つの異なる面があると考える。すなわち、

  1. 既成の学問的または技術的面からの新テーマの提起:これは他のすでに確立した学術的なものや技術的なものをアナロジーに適用し、すでに確立されたものの間に存在するものや、確立されたものを発展させることである。これは比較的だれでも考えるものである。

  2. 生活の中から生まれる新テーマ:これは従来の日本人には見つけ難いものではないか?それは今の日本人の日常生活は西欧的なものにあこがれ、海外より輸入されたものをそのままの形で使っていることが多い。しかも日本人はアメリカ人・ヨーロッパ人に比較して日常生活に対する工夫努力はどちらといえば少ないのでないからのように思える。

  以上の2つの異なる面から発想したアイディアの価値は多くの場合製品に結びつき日常生活に還元された時最終的に評価されるのではないだろうか? そのためには研究段階でわれわれの日常生活にどのように戻ってくるかということをしばしば考えることが必要と思う。このように考えたとき、アメリカの研究者が研究時も日常生活の一断面であるとして楽しみながら働いており、同時に日常の家庭生活を大切にすることが独創的な研究をする上で重要であるが理解できる。コーヒーブレークも勤務中のおしゃべりも。

アメリカの研究者は家庭でいかなる生活をしているか?

  アメリカの研究者は家庭を中心とした日常生活を大切にしている。R氏を例にすると、彼は約25年前にウィスコンシン州立大学の化学工学科を卒業し、卒業後まもなくTVAに奉職、Professional Chemical Engineerとして、複数のプロジェクト研究を行っているアメリカの標準的な技術者ではないかと思う。彼は3人の息子と2人の娘の父である。またMrs.Rはウィスコンシン州立大学で美術を専攻し、現在専業主婦であった。彼の家族は日曜日には必ず教会に通っているのみでなく、R氏は教会の有力メンバーであると同時に、夫人もサンデースクールの先生やガールスカウトの指導者をしていた。私の家族はR氏の家族に殊の外親しくしてもらい、R氏夫妻の招きで私の家族は何回も彼等の教会に招かれた。彼は1000坪を超える広い敷地内に60坪ぐらいの家のを持ち、広い庭には家庭菜園の他に種々の娯楽施設を持っていた。通常午後4時半に帰宅した彼は良き家庭の夫とし、また父として生活を楽しんでいた。彼が優れた家庭人であることは彼の家を訪問した時に常に感じることであったが、出社時の彼の会話からも十分推察することができた。

  しかし、アメリカにおける家庭生活の中心は夫人であった。したがって家庭間の交際の中心も夫人であった。Mrs.Rは日本人的なやさしさのある積極的なアメリカ夫人であった。私のアメリカ滞在中には各家庭からしばしば招きを受けたが、そのいづれも夫人によって計画され、企画され、夫はその助手でしかなかった。私の上司は近所に住んでおり、その家にもしばしば招かれたが、お招きの話は上司から私に伝えられることが多かった。ある日のことであった。上司が私の家族を○月○日夕食に招きたいとwifeがいっていると伝えに来た。そしてその都合はどうかと尋ねられたので、私はアメリカ人の真似をして家内に都合を聞くと答えた。そうしたら上司は少し帰りかけたが、すぐ戻ってきてお前はwifeに尋ねないとわからないのかと聞かれた。そこで私はにやっと笑みを浮かべて(日本人は夫が自分の判断で決めて処理するのを知っていると思い)「家内に聞く必要はない、都合は大丈夫だと」答えたら彼もにやっとした。そこで私は、「では何時頃訪問したらよいか」と尋ねたら、彼はwifeに聞かねばわからないと答えて彼の事務室に戻っていったを憶えている。このように家庭間の交際は通常夫人が主導権を持っていた。しかし、夫人は財布は余り与えられていないようであった。この善し悪しは別にして、夫人が種々の計画を企て、それを実行するための経済的な裏付けはほとんどすべて夫から与えられてたようであった。そのことはわれわれ日本人と異なり、アメリカ人の夫は家庭内のことについて実に詳細によく知ってることにつながってるようであった。たとえば食品の価格、品質から衣類、家具・調度にいたるまで日本の亭主族のほとんどが知らないことを彼等はよく知っていた。その良い面としては日常生活を良く理解することひいては研究面の意義を日常生活に立脚して考えることを可能にしていると思った。

  アメリカ人の生活のもう1つの特徴は比較的多くの人が自らの生活状態に満足していることであった。この満足というのは必ずしもこれ以上望むものがないという意味ではなく、自らの境遇に満足しようと努力していたことであった。生活水準そのものは日本より遥かに高く、日本から来てアメリカに住んでいる人たちの間では1ドル200円のrateを考えればアメリカの生活を日本円で表すことができると話していた。一方、アメリカにおける所得は日本における地位と同等の地位が与えられると1ドル360円で換算して4〜5倍であるので日本人にとってアメリカ人の生活に満足して当然と思えた。しかし現実にアメリカ夫人の財布の中をのぞくと、それは日本婦人のそれより少ないようであった。彼女らは日本夫人より確かにたくさん買い、消費していたが、その購入資金は購入欲を満たすほどではなかった。この傾向は収入が増せば増すほど大きくなると思えた。将来の日本人も所得が増えればやぱり購入するものは質的にも量的にも高くなり、日本人もアメリカ人のようになるのではないかと思った。それではなぜ彼等は満足しようとしているか?それは彼等は転職がごく自然であり、能力に応じた評価を受けることが可能であるからと思った。能力以上の評価を要求してもそれを受け入れるところはなく、結局は自らの能力に応じた評価に満足せざるを得ないようになっていた。したがってその範囲で出来得る最高の生活をするように努力しており、それが生活の満足感、ひいては生活へのゆとりになった。この生活でのゆとりは研究活動においても、地にしっかり足の着いた研究をすることに結びついていたと思う。そこではじめて日常生活をじっくりかみしめ、それに基づいた研究の価値判断がされるようになり、それが自信のある研究、オリジナルな研究となっていくのでないかと思った。。

  これからの研究

  アメリカの研究所で働く研究員の研究態度を豊倉の見た範囲の経験に基づいて考えてきた。しかしそのような見かけのことだけで偉大な研究がなされたのではない。それには研究チームとしての研究に対する背景もあった。豊倉がアメリカに滞在してたころ、アメリカを訪問する日本の研究者・技術者は非常に多くなっていた。その多くの人はアメリカ恐るに足らずと帰国する人が多くなったと思えた。豊倉もその一人であった。少なくともプロジェクトを決定し、研究を始めるとなると日本の研究者はアメリカの技術者よりはるかに集中的にしかも巧妙に研究を進めると思った。しかし、研究は研究者のみの努力にて成功するものではない。化学プロセスの工業化のような大きな問題は、プロジェクトの社会的意義に基づく研究者の自覚(迷いのない研究態度)とプロジェクトチームの構成プラス未知な分野に対する研究実績がある。アメリカにおける研究費は確かに日本のそれより多いが、最近の日本では必ずしも少ないとは思えない。しかしプロジェクトチームの構成基盤となる事情はまったく異なっている。日本ではチームの構成員はほとんど日本人であるばかりでなく、限られた範囲から人選されることが多い。しかし、アメリカでは人の交流ははげしく、人選の対象が全世界に及び、そこからプロジェクトの特定課題に対する適任者を集めることに何の抵抗も感じていなかった。このため日本からも優秀な技術者が高い地位で迎えられてることは衆知のことである。それに加えるに、新プロジェクトの開発に必要な不測の危険に対する対応が、慎重で充分練られていた。そのため、危険を伴う研究課題に対しても逃げず・自信をもって、前向きに積極的であった。日本では危険でとても計画できないようなプロジェクトに対しても、なんら恐れることなく勇気をもって立案し、そしに失敗してもさらに反省と工夫を重ね、成功するまでに繰り返して続ける文化と言うか自信があった。これは彼等のオリジナルな研究の歴史が彼らに教えた最良の方法であると思っている。そしてこの開発の歴史がまたあらたなオリジナルな研究を生むことになる。

  将来の日本の研究を考えると、近い将来、いやもうすぐに日本の状況も現在のアメリカのようになるのではないかと予想している。その時点では研究テーマ、研究方向、研究手法を単純に欧米に求めることはできない。アメリカ人の国際的な感覚を広く日本人に求めることの難しさを考えると、今までわれわれの技術開発の過程で経験し、修得した特別な開発哲学を生かし、その上で、われわれの生活環境、研究環境から明らかに外国より優位に立てる課題に焦点を合わせることが大切でないだろうか。しかもその研究の方向はただ単に欧米で研究されている、またはされようとしていること追って見つけるものでなく、研究者各自が自信を持つ方向に進むしか確実な研究課題をみつけだす方法はないでなかろう。これらの研究の妥当性はその研究成果が社会に還元された時初めて認められることであり、その時まで苦難に耐えて努力し続ける精神力と戦後の日本から立ち直って今日の経済成長をもたらした勤勉さを持ち続けることが大切と思う。このような研究者を育てる指導者はいても、研究の方向を常に正しく指導できる先導者は求めることは容易ではなく、研究者自身が自主的に適切な研究方向を決められるように平素から努力するしか、将来を開く道はないのでないか。





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