Home | ホームページ設立の趣旨 | 掲載予定の記事について
豊倉賢略歴
| apppendix | 新規掲載記事



2004 Cム1,1:ホームページ設立に因んで      鵜池靖之(スイス在住) 1972年卒


  鵜池靖之さんは早稲田大学卒業後、米国ニュージャージ州にあるアメリカSandoz に就職し、その後スイス・バーゼルで、スイスSandoz 本社研究所に研究員として20余年活躍し、 Sandoz とCiha-Geizyが合併したNovartisで定年を迎えられました。現在もバーゼル郊外の静かな町で優雅な生活を楽しまれています。私は1974年にニュージャージのお宅に招待され、1980年以降はスイスに寄る度ごとに会い、研究所や研究室を見せてもらい、また鵜池さんの上司や研究所の人達とも会って晶析の討議をしました。また研究所で早稲田大学の晶析研究の講義もしました。鵜池さんも時々日本に帰国しまして、早稲田大学の研究室にも来られました。理工学部の特別講義で後輩に外国トップ企業の研究所での研究生活について話してもらっていますので、そのことを記憶している卒業生も多いと思います。私の退職した時に出版していただいた“ 二十一世紀への贈り物 C-PMT” p318には私がかって早稲田大学で話した事を鵜池さんが国内外で実際に応用し経験した世界に通用する研究哲学を書いてくれてますので、また是非読み直していただきたいと思います。今回の記事は私が退職後にアヘマに参加した時、フランクフルトに行く直前に1人でスイスを訪問し、鵜池さんに車で東部フランスを案内して戴いた時の旅行記で、晶析プロセスの開発と修道院の歴史を比較し、更にホームページの設立について述べてあります。鵜池さんからはスイス人と結婚し、ヨーロッパで働き・生活して初めて理解できる西欧文明発展の過程を何時も勉強させてもらっていましたが、今回の旅行でもまた改めてヨーロッパを勉強しました。卒業生もスイスで鵜池さん会う機会が持てたらきっと意義あるヨーロッパ旅行を経験することになると思います。〈豊倉記〉

・・・・・・・・・・・・・・・

( 鵜池 靖之 )

先日、豊倉先生からのE-メールによりホームページが設立されたのを知らされました。

<tc‐pmt>
** 同門卒業生が独創的活動をするための環境構築 **

がホームページ設立の基本的な趣旨であると理解しています。
私も早稲田大学を卒業し、数多い卒業生の一人として、大学・キャンパスと直接の接触を断った以後これまで数十年になりますが、今回、豊倉先生からの趣旨により、別の分野での接触と同門卒業生としての連帯性を新たにし、専門分野に於いての考察・意見交換、及び独創的な活動力を“復活”するための環境と場所を作っていただいた事は極めて意義あることであり、またこのような機会を作っていただいた事に対し感謝いたします。

ACHEMA-展への視察のために豊倉先生がヨーロッパに来られ、Frankfurtのメッセ会場への到着予定日の前、週末にかけての数日が空いているからと、スイスに立ち寄られたのは2000年5月中旬の頃でした。どこか近い所であれば、“お任せします”と例の調子で言われたので、補助席にただ座っていれば良いのですからと、自分の興味と好みに従い、フランス東部のブルゴーニュ地方へと出かけました。スイスの国境から西へ80キロ程、ジュラ山脈の山中、石灰岩の崖壁で三方を囲まれた深い谷底に、Baume-les-Messieurs (ボォーム・レ・メッシュウ:男の洞窟、男のための安らぎの場所とでもいう意味) があり、民族大移動により荒れ果てていたヨーロッパ大陸へキリスト教を伝道するため、12人の弟子と共にアイルランドから移転してきた伝道士Columbanにより6世紀に創立されて、現在は人々からほぼ忘れ去られている修道院の遺跡があり、まずはそこを訪ねました。

910年に修道士Bernon は数人の同門人を供としてそこを出て、西南100キロ程にあるブルゴーニュ中部の丘陵地Cluny(クルュニー)に移転し、ここに新たな修道院を設立しました。彼らは外界にある政治・経済・社会からの圧力とその影響力を避け、ここでは修道院長が修道僧全員の参加による選挙で指名され、こうして民主的に選ばれた修道院長を核として修道僧の絶え間ない努力により、クルュニー修道院は急速に発展し、その影響力は西ヨーロッパ中に広がり、各地に多くのクルュニー派修道院が建設されました。この発展の経過で、クルュニー派修道院の総本山として構築された、かつてはヨーロッパ最大の修道院・コンプレックスもフランス大革命のとき、憎いアンシャンレジームの代表的な象徴物として、巨大な建築物を支える建造石は次から次へと取り壊され、それを止める人も無く、当時の壮大な建築物のうちその90%は爆薬をも使用したりしてsystematicに破壊され、消滅してしまい、現在はその一部だけが大革命の熱火が冷却した時に始まった文化物保存運動によってかろうじて残されています。

1112年に修道士Bernhardはクルュニー修道院を出て、そこから北方100キロほどの平地Citeaux (シトー)に移り、ここに新たな修道会を創立しました。シトー派修道院では神に対する粋な尊厳の精神と厳格な規律、修道院活動における全体的な組織と統制、修道院の建築様式に於いてもその統一性を重んじ、創立者一代の期間にクルュニー派修道院をしのぐほどに発展し、ヨーロッパ全域に渡って1000以上もの修道院組織を従えました。

今は人気の少ないBaume-les-Messieursは、ヨーロッパのキリスト教社会に於いて重要な影響力と歴史的な役割を果たした修道院活動の源であったといえます。
4世紀に始まったゲルマン民族の大移動により起された混乱と破壊、その結果としてローマ帝国が崩壊した後の暗黒時代、そして10−14世紀の中世を通して修道院はギリシャ・ローマ・アラビヤの古典的文化・文明・知識を保存・伝統し、更にそれらを発展させ、その後の世代に伝達したことにより、西ヨーロッパが全世界をリードした近世代の発展に尽くしたとも説明できます。

クルュニー修道院を訪ね終わった後、ACHEMA-展視察のために準備したい事もあるので早めにと、またスイスに戻ることになり、ブルゴーニュの丘陵地帯を東北に向かってドライブしている時、豊倉先生は、“この十年以内に、晶析技術に関してこれからの将来に残す事に付いて書くから、そのための原稿を皆からも募集する。”と話されました。この案は私達豊倉研究室の卒業生のために、新たな活動の場所を与えようとされていると理解しましたが、それと同時に私は筆不精なものですから、不得手ながらも何かをしなければならないという気分的な圧力感、しかし、自分がこれまで回りの環境から習得できた事で同世代または次の世代の皆様に参考になるのではと思われることなどを何かの形にまとめ、それらを共通の場に提供するべきであるとの義務感が呼び起こされたのを覚えています。

ジュラ山脈の人も近寄り難い谷底から始まり、ヨーロッパ全域に発展・拡散した修道院の歴史と晶析現象との間にある相似性を、自分勝手に思い浮かべました。
Baume-les-Messieurs : 核の発生
Cluny    : 結晶の成長
Citeaux  : 晶析過程の最適化

今回、豊倉先生が開始されたホームページの設立がBaume-les-Messieursで起こった現象と同じく、ここを原点として、同門卒業生、晶析工学に関係する多くの方々からの支持と参加により、晶析工学の分野に於いて現在・将来の為に意義ある動きへと発展するようにと願っています。   (2004年3月・YU)



top

Home | ホームページ設立の趣旨 | 掲載予定の記事について
豊倉賢略歴
| apppendix | 新規掲載記事