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豊倉賢略歴
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2009 B-10,1:豊倉 賢 「化学工学協会・晶析研究会を支えた城塚・豊倉研究室・・50年の晶析研究活動」(2)・・・城塚・豊倉研究室初期10年とそれに続いた5年間の晶析研究活動

1)はじめに:
  前号(1)では城塚・豊倉研究室で晶析研究を始めた当初の日本工業晶析の実状と研究課題、および研究室において主として行い、1970年代の発展ベースになった晶析装置設計理論の概要を纏めた、そこで行われた晶析装置設計理論は必ずしも単調に発展したものでなく、発展過程で解決しなければならない新しい課題は次々と発生して来てきた。そこでは、設計理論を提出した時に設定した前提条件を再検討して適用範囲の見直しを行い、新しい視点から研究を発展させた。それによって、日本国内はもとより欧米において活躍していた研究者・技術者の評価も得てその時期を乗り越えた。今回の記事では、主として1960年代後半に早稲田大学城塚・豊倉研究室で行った研究成果を、世界の研究者・技術者の視野から再整理し、1970年代の飛躍的発展に繋げた経緯を記述する。

2)晶析工学・技術の発展のための他分野の工学・技術の競合と国際交流:

2−1)早稲田大学晶析グループ発足当初の晶析研究;
  豊倉は1959年4月早稲田大学大学院に入学して初めて晶析研究を行った。その時晶析に関する知識は皆無で、しかも卒業研究で、学習した研究手法無機化学の宇野研究室であったので化学工学研究をどのように進めるかも知らなかった。当時、国内の晶析工学・技術に関する著書もほとんどなく2-1)に記述した内容は城塚研究室で10年間研究してやっと分かったことであった。城塚先生から受けたご指導も、毎年開催される学会の研究発表会に参加して発表出来る研究成果を出し、そこに参加される学外の研究者・技術者と研究内容や成果について討議して、その成果として自分の研究している分野のことでは、学会・産業界で評価されるようになって、工学・技術に関する相談を受けるようになれ、と言う目標が与えられた。晶析の位置付けは化学工学分野の拡散分離操作であったが、具体的には日本でオリジナルに研究して提出した晶析装置・操作の設計理論とそれに基づいた設計法で、他操作の専門研究者・技術者からも認められて、それによって工業晶析装置設計をできるようにとご指導を受けた。

  大学院に席をおいてすぐ始めた勉強と研究活動(研究と言えたか疑問ですが?) は、化学工学と日本化学会誌に掲載された記事・論文とChemical Abstractを調査して晶析研究の現状を勉強した。そこで行った実験研究?は、旭硝子の守山氏が発表した尿素添加系過飽和溶液からの塩化アンモニウム結晶成長速度の追従実験であった。また、最初に行った研究実験成果の発表は、1960年夏札幌で開催された化学工学関東支部大会で、化学工学協会の重鎮であった東京工業大学教授藤田重文先生から発表内容について厳しいご指導をいただいた。この時先生から頂いたお言葉は、その後の研究活動に計り知れないものを与えていただけた。大学院入学当時学んだ晶析工学基礎は、豊倉にとって勉強になったことは多かったが、それをそのまま続けても研究者として、独自な工学理論を提出することは容易でないと感じて、博士課程に進学した段階で、晶析装置・操作設計理論提出に焦点を置いた研究を始め、それに必要な晶析工学研究を主に進めることにした。

  晶析装置設計の研究を始めた頃、早稲田大学学部時代同期の友人は、晶析装置設計の研究をするなら、化学工場で稼働している晶析装置を見てみないかと誘われて、鶴見と川崎にある2社の化学工場を尋ねた。この時、その詳細はよく分からなかったが、大学実験室の装置と化学工場で稼働している装置との差異の大きさから、それらの装置内現象に共通して考えられるものを対象に研究しないと大学における工学研究の意義は見出せないと知らされた。

  これらの経験を経て、大学院入学後4年を経過したところで、幸運にもA-2)に記述した、新しい晶析操作特性因子C.F.C.を提出し、それに基づいて体系化したオリジナルな連続晶析装置設計理論を提出した。その内容は、1965年度の化学工学協会関東支部主催の”最近の化学工学講習会”で「晶析操作と装置の設計法」の講演を行った。当時、日本国内でも晶析装置設計理論に基づいて工業晶析装置を設計しようとしていた企業技術者が居て、そのような技術者の協力を得て、日本国内化学企業の要望に応える晶析技術に展開に対する対応が取れるようになった。このよう背景の下に、晶析装置・操作についての討議が企業技術者と活発に行われるようになって、提出した晶析装置設計理論による工業晶析装置の問題解決や新規晶析装置の開発等も行われるようになった。また、ここで、提出された晶析装置設計理論に対する企業技術者からの新しい要望も出るようになって、それに応える研究も行われた。現在千代田化工建設で活躍している若林さんは、卒業論文研究で、C.F.C.晶析装置設計理論式を検討して主要操作因子と製品結晶粒径および生産速度の関係を示す設計線図を提出した。この研究は化学工学論文集第3巻2号P.149(1977)に発表した。このアイデイアはDr.Nyvltによっても評価され、、Nyvltが進めていた結晶成長速度と結晶核発生速度との相関式と製品結晶粒径・生産速度を纏めて示す設計線図の提出となった。(Nyvlt,J.& K.Toyokura; Crystal Research and Technology, vol.16,No.12,1425(1961)に発表している。)

2−2)早稲田大学の晶析研究成果に基づく世界規模の工業晶析装置操作の検討 ;
  国内企業技術者とのコンフィデンシャルな晶析技術開発についての討議が進んで、C.F.C.晶析装置設計理論による連続晶析装置設計の見通しが立った頃、米国TVA公社肥料開発研究所で進めていた燐硝安開発プロジェクトの晶析操作開発担当者としての招聘を受けて、1966年から2年間、Muscle Shoales, Alabamaで研究生活を送った。そこでの研究では、当時の連続晶析操作で生産が容易でなかった硝酸カルシューム4水塩結晶を濾過分離の容易な大きさの結晶として生産出来る操作条件を見出し、C.F.C.設計理論に基づいて工業晶析装置・操作の設計法を提案した。また、隣室で研究していたグループの石膏と炭酸アンモニウムとの反応晶析プロセスの開発では、生成する炭酸カルシューム凝集物を生成させる新しい操作法のアドバイスを行って、難溶性物質の反応晶析プロセスに対する新しい高効率操作法の提案を支援した。この操作法では、当時常識になっていた10時間以上の滞留時間で操作された炭酸カルシューム結晶生産に対して、1時間以内の滞留時間の操作で容易に濾過分離が出来る炭酸カルシューム凝集物を生産できる新生産技術開発の指導と助言を行った。

  1968年5月、フロリダ州Tampaで開催されたAIChE National Meetingに参加し、Swenson 社のBennettやProf.A.D.Randolphと会うことが出来た。特にAlanとは晶析研究の話をすることが出来、豊倉の博士論文を英訳して纏めた小冊子”Design Method of Crystallizer ”Memoir of the school of Sci. & Eng. School , Waseda Univ., No.30,57 (1966) を一冊寄贈した。この時の話が、Allanから Prof.M.A.Larsonに伝わり、1969年にWashington D.C.で開催されるAIChE Annual Meetingに晶析装置設計の論文を発表するようにとの要請があった。しかし、豊倉は、1968年末に日本に帰国する予定であり、来年渡米することは無理であるとの返事を送ったら、Larsonが代読してもよいから論文を送らないかとの連絡を受けた。その時送った論文”Design of Continuous Crystallizer”は、C.E.P. Symposium Series, vol.67 No.110, 145 (1971) に掲載された。これと、時を同じくしてFlorida state UniversityにいたProf,.A. RandolphからもFloridaに来ないかとの誘いを受けたが、早稲田大学の事情を伝えて断った、それから、20数年経ってから、Arizonaに彼の家を訪ねた時、お前を呼んだ時に断られたのは、残念だったと云われた時は複雑な気持ちだった。

  1968年当時の化学肥料は世界の食糧事情改善の切り札として期待され、肥料の生産産業は成長産業の一つとして新しい肥料開発がTVA公社で活発に行われ、西側先進国の技術者が多数訪問していた、同時に、日本からも大勢の技術者が研究所を訪れ、豊倉は訪問者の世話も手伝って、多数の日本技術者と親しくなることが出来た。日本帰国後その人達との交流は続けられ、晶析技術の発展にも有効に機能した。米国からの帰途New York, Manhattan では、米国エンジニヤリング企業の肥料事業部の招きを受け、尿素の新しい晶析技術の開発についての委託研究等の打ち合わせなどもあったが、その結論は急激な社会情勢の変化によって中止となった。2年間の米国生活は、世界に通じるアメリカの目で日本近隣の国々から世界の隅々の国まで、その国状を学ぶことが出来た。ニューヨークからの帰途、ロンドンでUniversity College Londonを訪問した。その訪問直前に、Prof,J.W.MullinにTVAから訪問したい旨の申し入れをしたが、Mullin教授はヨーロッパ大陸での会議に出張の予定があり不在だが、誰かに案内させるから是非寄るようにとの連絡を受けた。その返礼の時、過日Randolph に送ったと同じ小冊子”Design Method of Crystallizer ”Memoir of the Sci. & Eng. school, Waseda Univ.,30,57 (1966)を一冊同封して、10月末に訪問する予定日時を伝えた。その時, UCL訪問について何も特別な打ち合わせはしなかったので気楽に研究室を尋ねた。しかし、この時の訪問がそれからの日欧晶析研究・技術の良好な関係に係わる発展に繋がるとは全く思ってもいなかった。

  Mullin研究室のあるEngineering building の受付に行って、Mullin教授から、訪問の許しを受けて来たと伝えると、研究室所属のインド人ポストドクターが応対に出てきた。研究室の一室に案内されて研究室の現状の説明を聞いた。その時、今丁度、Dr.J.Nyvltが研究室に来ていると聞いたが、その話の意味は即座によく理解できなかった。実験室を案内する前に食事に行こうと誘われて建物の外に出ると、食事から帰って来たJaroslav Nyvltにぱったり会って、紹介を受けた。JaroslavはMullin教授から豊倉が尋ねて来ることは聞いていたようで、午後3時頃でも時間があれば、自分の居室に来ないかと誘われた。彼の部屋では、お前はアメリカにいたのではないかという話から始まった。と言うのは、一年位前に、彼が硝酸カルシュームの溶解度についての研究成果を発表していたことをTVAでの文献調査で知って、論文のコピーを請求したことが有ったからで、それを思い出して話が弾んだ。それから、東ヨーロッパの話を含めて、晶析の話など、二人で30分くらい続けたような気がした。その中で彼が最も強い関心を持っていた話は、豊倉が晶析装置設計の研究をしていたことで、豊倉がTVAからMullin教授に送った論文”Design Method of Crystallizers”はMullin教授から見せられたが、内容を読んでいないのでもしコピーがあれば貰えないかとの申し出を受けた。その日は、最初にDr.Nyvltを豊倉に紹介したインド人のポストドクターにホテルまで一緒に来て貰って、手元にあった残り一冊の別刷りをDr.J.Nyvltに届けてもらった。その話の続きは、1972年世界規模の晶析国際会議が初めてPrahaで開催されたISIC5でのJaroslav との再会時に引き継がれた。

2−3)化学工学協会における晶析に関する研究会の立ち上げ ;
  豊倉は1968年11月ヨーロッパ経由で米国より帰国し、城塚先生にお目に掛かった時、化学工学協会編・化学工学便覧改訂3版が出版され、晶析装置設計がはじめて掲載された便覧を見た。また、日本を離れていた2年間に化学工学協会の活動も変貌を遂げ、1967年度に研究会制度が新設され、化学工学における重要課題を複数の専門研究者・技術者で協力して研究する研究会が発足したことを伺った。この話を伺って、城塚先生に晶析操作についての研究会を1969年4月に化学工学協会に正式に立ち上げていただくようにお願いした、この研究会は城塚先生に代表になっていただき、幹事として広島大学の中井先生と豊倉がお引き受けした。この研究会に参加した主だったメンバーはここでお世話いただいた先生方の外、さらに姫路工業大学の中島・広田先生、金沢大学の谷本先生、化学工学協会法人会員所属のメンバーとしては、月島機械の守田・河西、大同鉛の青山、三菱化工機の広田、舞鶴重工の松岡、旭ガラスの守山、日産化学の小久保氏らで、十数名のメンバーでスタートした。当時の研究会の設置期間は1年間で、活動状況に応じてさらに一年間の延長は申請によって認められることになっていた。研究会が設置されるまでは、晶析研究・技術に関心のある研究者・技術者は化学工学協会本部大会や各支部が主催する支部大会に参加して研究発表を行い、晶析に関する討議を行ってきたが、研究会が設置されて以降、化学工学協会の研究発表会に加えて、研究会メンバーが分担して主催した研究会が年に数回各地で開催するようになって、晶析研究の将来ビジョンをメンバー全員で討議し、活発に研究するようになった。


3)世界を相手にした日本晶析グループの活動 ; 1966~8年のTVA肥料総合研究所での研究活動 ~ 1972年開催のEFCE/WPC公認のISIC5に参加を通して:
  1968年、米国から日本への帰国前に、日本の晶析研究・技術をアメリカやヨーロッパの晶析研究者・技術者に紹介しておこうと思って、その内容に関心のある欧米の晶析工学・技術に関心のある人達に、日本の晶析研究・技術に関する資料を渡し、意見の交換を行った。その一部は米国TVA公社においては研究室所属の研究者や技術者と随時行ったが、同時にTVAのイベント等に参加した技術者等とも機会を見て行った。その関連内容の一部は3 2 )の国際交流の中にも記述するが、その時討議した日本の晶析研究に強い関心を持った人達とは、豊倉が日本に帰国しても情報の交換を続けた。当時の交流は航空便による方法が中心であったので、片道約一週間を考えておかねばならず、その他の事情を考えると、一方から出した手紙の返事を受け取るのに約1ケ月の時間は覚悟しなければならなかった。このように時間が掛かると云うことは、どうしても必要と考えられる文通は丁寧に書くように心掛け、その取り扱いも自ずと大切にかつ慎重になった。そのような当時の国際間の交流手段は後にFaxが使用され、最近ではメールで国内の連絡と同じように簡単で便利になったが、その反面その扱いが軽率になってきているようで、顔を見たことのある人や名前を聞いたことのある人は増えてきたが、研究内容を含め、気心の分かった人の数は少なくなる傾向が出てきている。1969年のWashington, D.C.での論文発表と1972年開催のISIC5への参加のことで連絡を取ったProf. M.A.LarsonとDr.J.Nyvltとの連絡は、数少ない航空便の連絡で充分目的を果たすことは出来たが、国際間の交流は丁寧に慎重に行うことが大切であった。

  前者は1971年発行のC.E.P. Symposium Series,vol.67.No.110.p.145に論文として掲載された。また後者は1972年のCHISA Congress開催の前日、その会場のプログラム委員会室に案内されてDr. J. Nyvltに再会した時、4年前にLondonで受け取った論文内容を検討し、自分たちのデータも整理することが出来た。それを東ヨーロッパの研究者や技術者に伝えるべく、その内容をチェコ語に翻訳しそれに自分たちの晶析データも加えて、” japonsky zpusob vypoctu krystalizatoru (日本の晶析装置設計理論) “として、J.Nyvltの名前で1972年にUSTI NAD LABEMで出版したとの話を聞いて、その本の寄贈を受けた。

  このようにヨーロッパでDr. Nyvltが日本の晶析研究の本を出版したことは1972年9月Prahaに着くまでは知らなかった。それに先立ち、1970年2月、Dr.J.Nyvltは、1972年9月にPrahaで開催される第4回CHISA Congressの中で晶析のISIC5thを開催するから、是非論文を発表するようにとの手紙を送ってきた。この国際会議の話は1969年化学工学協会に立ち上げた晶析研究会のメンバーに伝え、初めて開催される世界規模の晶析国際会議に参加しよう云う空気が研究会メンバーの間に広がった。また、1971年から1年間のsabbaticalにUCL・Mullin 研究室に滞在していたLarson教授からは、Londonの帰途、日本に寄って会いたいと云う連絡を受けた。その時、よい機会と考え、世界的に著名なProf. M. Larsonの晶析研究についての講演会を新橋駅前の蔵前工業会館で開催した。この講演会は、日本で開催した初めての晶析に関する国際的な催しで、関西地区からは中井先生・中島先生・青山氏らが、関東地区からは早川先生や守山・守田氏ら当時日本の晶析研究に関係のあった主だった方々が殆どすべて参加された。豊倉自身、Larson 教授ご夫妻にお目に掛かったのはこの時が初めてであった。講演会の翌日はLarson先生ご家族5人を早稲田大学大隈会館にお招きして昼食会を持ったが、その時先生のお子さんもお招きしたので、私の子供も連れて行き、楽しい思い出になる食事会を持つことが出来た。

  1972年9月、日本からISIC5thに参加した人は6名であったが、初めての国際晶析会議参加で、緊張した気持ちでPraha国際空港に着いた。当時の東ヨーロッパは西側と全く異なっていて、入国手続きその他で思いのほか時間がかかり予定時間を大幅に遅れて会場に着いた。そこで、驚いたことに、最初のOpening sessionの座長を国際議長のDr.Nyvlt、UCLのMullin教授と豊倉の3人で行うことになっていて、Mullin先生は身内にご不幸があって出席できないので、お前と二人で務めるとNyvltに云われた。また、CHISA Congress最終日の午後、4thWPCをCHISA会場の一室で開催し、その会議には日本からのguestsとしてお前と中井先生・青山さんを招く。その会議のScientific Meetingのテーマは「晶析装置設計」で、話題提供者は豊倉とLarson教授・Nyvlt博士の3人と知らされた。この時の国際議長の対応を見て、EFCE・WPCの日本晶析グループに対する期待の大きいことを初めて知った。この時の国際会議の様子は、化学工業社発行のケミカルエンジニヤリング1号、107頁(1973) に豊倉が 「第5回晶析シンポジウムに参加して」 を寄稿している。

4)1970年代における日本の晶析グループの研究活動:
  1972年開催のISIC5thを振り返って、日本の晶析研究・技術の発展に対する欧米各国の研究者・技術者の期待の大きかったことを初めて知り、それに応える活動は、中井・中島・原納・村田ら先輩の先生や青山・守田・守時・小久保・河西氏ら企業所属の先輩の方々および第一線で活躍していた同期や後輩の研究者・技術者と協議して進めた。そこでの主な晶析研究や活動は次の各項目を軸に行った。

4−1)抜本的にオリジナルな研究成果や技術開発成果の提出;
a)晶析装置・操作設計理論とその発展、
b)2次核発生速度の研究
c)Melt crystallization
d ) fine particle の生成と結晶生産への関与

4−2)開発成果の新しい展開;
a)研究実験装置による研究成果の工業プロセスへの展開
b)晶析操作の新しい適用による新工業プロセス開発への展開

4−3)提出した成果の評価と海外情報の取得;
a)改良技術成果の評価
b)オリジナルに開発した成果の評価
c)海外情報と自分の研究で経験した理論・技術の比較による評価
4−4)研究対象分野の拡大;
a)分離技術懇話会での活動の意義
b)日本における精糖企業との交流の意義
c)日本海水学会との交流における活動の意義

4−5)海外交流の意義;


5)むすび:
今年は、豊倉が晶析研究を始めて50年目に当たり、図らずも複数の学会行事に参加した。特に8月・9月には化学工学協会でスタートした晶析研究会は、化学工学会材料部会の晶析技術分科会と名称を変えて活動を続けていて、8月に佐渡で開催された夏期セミナーでは、晶析研究会創立40周年を振り返った特別講演の依頼を受けた。そのことは、最近研究室ホームページに連載している20世紀後半の晶析研究・技術の開発についての記事と相通じるところがあり、前号の2009B9−1の記事からは8月に講演した「日本における晶析研究・技術に関する40年の活動を振り返って将来考える」の内容も考慮した記事を掲載している。特に日本の中堅研究者の中には1960年代に活躍した日本の晶析研究者がどのように世界研究者の仲間入りを果たしたかに関心を持ってる人がいる。それにも応えるべく、この機会に日本の将来の晶析研究・技術をリードして行くであろうと期待される若い研究者・技術者に、豊倉の知っている範囲のことを記録残しておこうと思っている。昨年、Maastrichtで開催されたISIC17では長年世界の工業晶析発展に貢献したSulzer Chemtech LtdのDr. Slobodan Jancic は昨年のICIS17懇親会で退職のスピーチを行い、その席で豊倉の帰国前にZuerichに来て会える機会は作れないかと誘われた、昨年がスケジュールは詰まっていたので誘いを受けるとは出来なかったが、今年9月に再びZuerichによったので、第二土曜日の午後、彼と同時期にSulzer Chemtechで活躍していた他の二人の同僚と一緒に会食を開いて、お互いが進んできた40年の活動を振り返り、これからの晶析分野の発展に対する情報の交換を行った。その場の会話では、各人が経験してきたことを思い出して絆の固さを確かめ合い、将来に繋がる交流を確認して分かれた。それを通して研究者や技術者の財産は、お互いに優れた個性の有る信頼できる仲間を持つことであることを再認識した。

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