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豊倉賢略歴
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2007 B-11,1:豊倉 賢 「晶析研究の50年をふり返って」
            その1 大学院進学時の研究室と研究テーマの決定

1)はじめに(人間社会は勝たねば駄目、勝つ道を選ぶには):
  人類社会は、常に新しい豊かな未来社会の構築を目指し推移している。その過程で は過去を反省し、未来を予測して社会の動きや自然界の現象等について研究を重ねてきた。そこでは、まず、新しい思想や理論を構築し、それを良く咀嚼して新しいルールやモノを作り上げ、それを充分使いこなして豊かな社会を発展させてきた。この生存競争に勝ち残った民族は繁栄を続け、その競争に負けた民族は勝者に征服されて、次第に衰退するか、あるいは、ある切っ掛けで立ち直って勝者になったりしてきた。このような変遷を繰り返す人間世界の推移は人種間や国家間に通用するルールのようなモノによっても影響を受ける。そのルールは、時と共に変遷・推移するので、民族や国の将来を考えて行動するリーダーの人達は、将来の社会でも通用するよう、未知なものに対して決定的な誤りをしないように、責任ある判断の下に行動を続ける必要がある。大学の研究者や、企業の技術者においてもこの構図の異なることはない。

  豊倉が、研究室のホームページを立ち上げた時、「研究室の卒業生は、皆恵まれた環境の中でそれなりに素晴らしい才能をもって生まれ育った人ばかりであって、研究室生活を修了した後も、人類社会の発展に貢献する責務がある。」と考えた。その卒業生は大学研究室で経験し、修得したものと卒業してから身につけた経験等を基にした本人のスペシャリテイーを築き上げ、それによって社会の発展に貢献するようになることを期待されている。そのようなスペシャリテイーを身につけるために、卒業生同士、機会あるごとに情報を交換し討議を繰り返して切磋琢磨することが有効であり、その環境を構築するために、本ホームページを立ち上げようと考えた。

  一方、自分自身の活動の基になるオリジナルな考え方や行動規範は、本人が自分の意志で学んだ哲学や学問、および社会活動や物事の研究・開発活動で経験したことを良く検討し、失敗や成功したことを充分考えて構築されるものである。特に、新しいことの発展に貢献するオリジナルな意見は、学習して理解した理論とそれに基づいて対象課題の整理に想定したモデル等から纏めたものより、過去に経験したことで対象課題に比較的を近いものをよく思い出し、それと解決しなければならない事柄の相違点等を時代の違いによる差異まで含めてよく考えて出した結論に従って纏めたものの方が良いようである。豊倉の研究開発の経験からも、過去に提案された理論をよく学んで理解したものをそのまま適用して出した結論に基づく方針に従って行動するより、これまでに自分で行った実験や経験した内容を充分検討して到達した結論をさらに、世の中の多くの人が行っていることと対比して纏めた自分の結論に基づいて提案に従った方が、最終的に満足できる結果になっているように思う。

  そこで、今回纏めようと考えてる2tc-pmtの豊倉の記事は、自分で実験して得たデータ等を考えて提出した理論やそれを使用したときの経験、またその過程で経験した諸々のことを整理するのに役立てばと思っている。その範囲は、豊倉が大学院に入学し、研究活動を始めた時からおよそ50年間行ってきた事そのものを記述した方が、これからに人達の参考になるのでないかと思い、可能な限りその方針で毎月記述・掲載するように心掛ける。

2)豊倉の大学院入学と研究室配属・研究テーマ決定の経緯:
  1959年3月、早稲田大学大学院工学研究科入学が決まり、城塚研究室に所属することになった。この時、城塚先生から君は晶出を研究テーマにしたらどうかと云われたことは豊倉の原点で、今でもよく思い出す。私が大学院で化学工学専修を選んだのは、もともと数学が好きで、早稲田大学の応用化学科で数学を使って研究するには、化学工学専修に進むのが良かろうと思っていたからで、化学工学で何を研究したらよいかは全く分かっていなかった。

  自分が研究テーマを選ぶ時、どの課題を選定したらよいか、学生や比較的若い人達から良く聞かれる。その時、豊倉の考え方は伝えるが、それは参考になると思えば参考にしたらよいが、自分で良く考えて決めたらと答えて、「何々しかじかのことを研究したら」と話したことはない。ここでは、今からおよそ50年前に豊倉が考えたことを思い出して、豊倉は自分の研究課題選択をどのように考えて決めたかを記述する。

  ・ ・・・・・・・ここに書く内容は、読んでみようと思った人が、読みたい個所だけ 読むことを想定して書きます。勿論、読み方も自由で、当時の豊倉の状況を考えながら読んでみようと思ったらじっくり読んで下さい。その様子を書くために長くなるかも知れないが、余り長くならないように適宜書く積もりです。そのため長くてうんざりしたり、何時でも何処でも気楽にスキップして下さい。 ・・・・・・・・・・・・

   2−1)  所属する研究室で行う研究テーマを決める時の要件について:
  所属する化学工学研究室で研究テーマを決める時、次のことを考えた。

  大学院の研究では、一般的に考えて化学工学は如何なる工学で、どのような基礎科 学・学問の上に成り立っているかについて、余り時間を掛けない範囲で調べてみた。その上で、この学問(工学)に近い関連学問で、自分の性に合っているのは何であって、それらと自分が主に考える学問領域の目的がどのように関連していて、新しい化学工学・新しい生産技術を構築した時、それはどのような産業の発展に貢献してするかもおぼろげに考えてみた。 ・・・・・しかし、今から考えるとこの段階では、実質的なことは殆ど分からなかった。結局は指導教授の話を聞いてその話を納得しただけであった。私の兄は機械工学出身で、流体工学を専門にしていたので、機械工学の流体力学と化学工学に流体力学の相違点について少し理解することが出来た。特に兄の意見では、機械工学は対象になる流体は主に水と空気であるが、化学工業で扱う流体は化学反応の対象になる物質やその生成物であり、これらの物質の物性値は物質によって大幅に異なるので、そのことを意識して流体の扱い方を研究しないと機械工学分野の研究者に評価されるような成果は得られないのでないかと云われたことがあった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2−2)大学院に進学して研究を行う時に考えたこと:
  大学院で行う研究と研究成果はそれからの一生を左右することがある。大学院に進学しよう考えるとき、その大学院で何年くらい継続して研究し、その後どのような分野で活躍したいと思っているかを考えて、大学院生活に対する心積もりをある程度纏めておくことは大切である。

    ・・・・ひと頃の学部学生は4年生になっても将来のことは未だ決めたくないから、時間稼ぎの腰掛けに大学院に進学したいと云う学生がいた。しかし、最近では、指導教授の指示を待っていて何も考えないでいるような博士課程の学生に会うことがある。大学院に進学する学生の少ない時代は、進学前に進学の意義をよく考える学生がいたものだったが、本当はどちらの方がよいのであろうか? 各個人のおかれている立場や事情によって異なることだろうが、真剣に考える必要は誰にでもあると思う。・・・・

  学生が、大学院で研究する場合、自分自身の研究に期待している成果を予想してみることも意味あると思う。その時、修士課程での成果を考えるか、博士課程に進学する前提でそれまでの成果を考えるかによって、期待される目標は異なってくる。豊倉が研究室に配属が決まって未だ日の浅い頃、指導教授や先輩等からは、「学会での論文発表を活発に行って、少なくとも国内の該当する分野でトップ研究者、あるいはそれに近い立場の研究者と云われるような評価を化学工学分野の研究者や技術者から受けるようになれ!」と言われたものだった。ここで云われたようになるには、自分が研究しようとしている分野のそれまでの研究実績の量や研究者層の厚さによって異なって来るが、実際、そのような評価を受けることは容易でないことは簡単に想像できた。具体的に想像したこれからの研究では、取り組む課題を想定して、自分がこれから行う研究の成果や実験結果の中からオリジナルな現象を発見し、その上でそれらの特徴を独自に見つけ出して自分自身で検討し、考えを纏めてオリジナルな理論を提出する。さらに、それを発展させて、次の進んだ理論の提出や産業界発展に寄与する技術の開発に貢献することが必要と考えた。このような方向に研究を進めている研究者や技術者は多いだろうし、そこで価値ある成果を出すために研究に没頭している研究ライバルは、特別な才能のある研究者で、その上、真面目で精力旺盛な体力の持ち主であろうと想定した。このような研究者の間で、特徴のある成果を出すためには、自分の長所を良く考え、それを有効に生かしてがむしゃらに努力し続けるしかないと思った。

  ・・・・・このようなことを考えるには、自分が育った過去を思い出して、良きライバルト競争できるものはあるか探してみた。豊倉の物心がついた時代は、日本国内は国粋主義が台頭し、国を挙げて海外(大陸)進出に向かって動き出して、第1次世界大戦後の不況から脱出して国力が上向き始めた時代であった。第2次世界大戦の始まった頃は小学生の低学年時代で、欧米に対するコンプレックスはあったが、もう欧米先進国に追い着いたような気になっていた。しかし、小学生の高学年になるに従って戦況は不利になり、終戦を迎えた中学一年生の頃は、それまで常識となっていた制度・思想は全く否定されて、欧米流の自由思想や民主主義的な制度に一変した。しかし、日本国内の表向きの表情は終戦前に想像していたような混乱はなく、日本の新しい指導者と占領軍との関係も予想していたほど険悪ではなかったようで、比較的落ち着いて世相の中で日本のこれからの方向を考えることが出来た。それまで日本国内に行きわたっていた、トップダウンの制度に対して、責任を伴ったボトムアップの思想が日本国民の間に浸透し、多様な世界の情報も入るようになったのは、豊倉にとってとても良かったと思っている。中学生から高校生の頃には、世の中がどのように変わっても、それに大きく惑わされない活動をすることが人生にとって大切であることを学んだ。終戦直後の日本では、戦時中の教科書は進駐軍の教育担当将校?の検閲許可がないものは全て使用できないようになっていたが、数学の本のように軍国主義と関係のない内容のものは、殆ど削除されることなく使用できた。

  豊倉が特に数学を勉強して好きになったのは、兄や姉の使っていた古い中学校の教科書を使っても誰に気兼ねなくそのまま使えたのが理由の一つであった。当時の横浜市の中学校では、進駐軍の監視が特に厳しかったようで、学校の先生の指示による宿題は全くなかったので、帰宅後や夏季休暇等の時間を有効に使って、自分の勉強したいものを自由に学習することが出来た。そのことは生徒としてバランスのとれた学習が出来たかどうか分からないが、生徒は自分の意志で自由に考えた勉強をする習慣を身に付けることが出来、それぞれが持っていた才能を充分伸ばすことが出来た。それと同時に自分で勝手に学習したものについては、試験もなければ成績評価もなかったので、将来自分のために役立たせられるように自分で納得して身に付くまでしっかり学ばないと、独学した意味のないことも知った。 ・・・・・・・・・・・・・・

  学部卒業生の大学院の進学状況は、最近と全く異なっていた。勿論、学問が好きでそれを深めたいと云う気持ちで進学した人もいたように思うが、どちらかと言えば、健康上の理由とか、その他個人的な理由で大学院に進学した人も可成りいた。中には、希望するような企業に就職出来なかったために、大学院に進学して勉強してから再度就職したいと考える人もいたようである。当時は、早稲田大学の卒業生で、早稲田大学大学院に進学した人達は、学生数が少ないこともあって、自分の将来のことをよく考えていたと思う。

  豊倉が早稲田大学大学院に入学した時は、特殊な事情があった。恐らく似たような境遇で大学院に進学する人は現在もいるだろうと思って、その人達の参考に以下の記述をする。豊倉は、学部4年次生の時に父が亡くなり、それから家業を継いで2年間家の仕事した後、大学で勉強した分野で仕事を探すことにした。当時、早稲田大学大学院修士課程の入学試験は、学部卒業生の就職時期の秋と卒業時の春の2回行われていて、豊倉が企業就職などの状況を伺うために卒業論文の指導教授と卒業時のクラス担任教授を大学研究室に尋ねた。その時、就職先を探すのは、新卒者の採用試験は終了したばかりなので、少し様子を見た方が良いのでないかと云うことであった。しかし、大学院の方は4月入学生対象の入試はこれからあるということを伺えた。この話を兄に相談すると、兄は、終身雇用制度が整っている日本企業では、入社後の管理職になるまでの間の昇進時には入社年次も考慮される事があるので、大学を同期に卒業した人達との差を縮めることは容易でないだろうとの意見であった。しかし、大学院博士課程を修了して、教員職に嘱任できると、研究者としての評価は研究成果が第一となり、特に嘱任年次は余り関係ないことが多いので、大学院に進学できれば、それ以降の活動はし易いのでないかと言うことであった。

  豊倉自身、終戦後の混乱期に、兄や周囲の人から特別な意見を聞きながら、独自な勉強を楽しんだ経験が忘れられなかったので、アカデミックポジションが取得できればと期待するようになった。大学院に進学し場合、自分の研究したいことを研究しやすい研究室に進もうと考えた。学部4年の時に、同期の仲間が学科内の研究室に配属されていたので、自然に自分の関心のある研究室の様子は耳に入った。また、同期の仲間の中には、豊倉は、数学的な考え方が好きだと云うことを知っていた人もいたので、豊倉が関心のあった研究室の指導教授の耳にもそれは入っていたようであった。大学院進学を考えた時、その学生は配属を希望する研究室の指導教授に入試合格後の受け入れ了解を事前に受けておくことが必要であったので、その相談に希望する研究室の指導教授に直接会った。その時、先生から気持ちよく受け入れると伺うことが出来てホットした。その後、早稲田大学大学院入学し、順調に研究活動を行うことが出来た。

  大学院博士課程在学1年修了時に、早稲田大学助手に嘱任して頂き、それ以降は博士課程修了迄、早稲田大学教員兼学生の身分で過ごした。後に、学科内に居られた先輩から、君は大学院進学の時に良く無機化学でなく化学工学の研究室に変わって来たなと言われたことがあった。その時、その先輩に卒論の指導教授に大学院進学の相談に伺った時、「私から化学工学の城塚研究室の所属になりたいと申し上げましたら、その先生は快く了解して下さいました」と答えたことがあった。豊倉が早稲田大学の助手に嘱任して頂いた時、無機化学専任の教授から学科内の事情があって、豊倉が将来無機化学専修の教員になるとの学科内の了解で豊倉の人事は決まったと伺った。その時、その教授は化学工学で一人前になってから自分の研究室の後を継いでくれと云われた。その先生は、無機化学の将来に対して広大な構想をお持ちのように思えたが、具体的なお話は伺えないままご他界されたのは今持って残念です。・・・

3)城塚研究室で晶出(現在の晶析)を豊倉の研究テーマに決めた時:
  この分野の国内研究者・技術者の状況および城塚研究室でそれまでに行って来た研究経験・成果で、晶出研究の参考になるものの話を城塚先生より伺った。

  それらを総括すると、豊倉が研究室に所属した1959年頃、東京大学の宮内研究や東工大の藤田研が、先駆的な晶出研究を行っていた。1958年に化学工学協会関東支部主催で国内で初めて開催された晶出に関するシンポジウムでは、これらの研究室は研究論文を発表していたが、その他には旭硝子や味の素の技術者等他数名が発表した程度であった。それらの発表論文は、当時拡散操作の基礎として扱われていた異相流体間の境膜内物質移動速度の考え方を結晶成長速度の整理に適用した研究等が中心であった。城塚先生は、このような段階にあった晶析操作に対して、日本では未だ、殆ど研究されていなかった晶析装置の設計理論を提出し、その設計法を確立することを豊倉の研究目標にするように云われた。既に化学工学分野で行われた拡散単位操作の装置設計に関する研究は、蒸留塔やガス吸収装置等において進んでおり、その設計法はほぼ確立されていた。城塚先生のお話の中では、これらの単位操作の設計理論でベースになって扱われていた気・液相間の相平衡関係や、液相や気相内の物質移動速度をベースに考えて、晶析装置設計理論式を提出し、それを発展させて晶析装置設計法を提出するようご指導を受けた。

4)むすび
  豊倉が晶析装置設計のための無次元数CFC(Characteristic Factor of Crystallization)を提出し、それに基いて連続性晶析装置設計理論を纏めて博士論文を作成した。その内容は1965年秋に化学工学協会関東支部主催の「最近の化学工学講習会」で講演した。その時、司会をして下さった関東支部幹事の味の素(株)の技術者から講演後の控え室で、「良く分かっていない晶析分野で博士論文を纏めるのは大変だったと思いますが、先生が今日話されたような纏め方もあるのですね。指導教授から、テーマを与えられたらそれは仕上げるしかありませんものね!」 と言われたことがあった。その時は笑って済ましたが、今から考えると、物事は逃げながら上手に仕上げようとしても、結局は物まねしか出来ず、外見上は立派に見えても中味は余りなくて、何時の間にか忘れてしまうことが多いように思える。一方、正面から独力で頑張って、その内容を自分で確認しながらじっくり立ち向かって、一つ一つ積み上げながら研究を進めると、当初考えていなかった事柄が見えてくる。そして、次第にその価値が分かってくると仕方なくその研究も始めるようになる。そうなると当初の研究構想はぎこちないものになり、その構想を再検討して丹念に再構築していくと、さらに多くの研究課題がぽろぽろ出てくる。それを、次から次ぎへと解決しながら研究を進めていくとその研究成果の価値も高くなってくる。同時にまた新しい課題も出てきて、何時まで進めても終着駅が見えないのが研究活動のように思えるようになっている。その詳細は大勢の卒業生と研究したものであるが、これから継続して2tc-pmtに掲載する予定です。

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