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豊倉賢略歴
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2012A-4,1: 豊倉 賢  「 化学工学会創立75周年記念式典に参加して :
                  最近50年間の日本の化学工学と傘下の晶析工学の進歩」

1)はじめに・・化学工学と日本の晶析工学の変遷・・
  化学工学の進歩発展の歴史を勉強し、そこでこれはと思うテーマを研究して世の中の発展に貢献する成果に巡りあった時、これが化学工学だと初めて工学が分かった気になる。しかし、その内容はその人が育った環境によって異なるようで、自己判断の評価は謙虚に行わないととんでもないことを味わう羽目になる。日本の草分け時代の化学工学を勉強した研究者・技術者の多くは、昭和15年12月26日に発行された内田・亀井・八田先生共著の「化学工学」を開いて化学工学を勉強し、日本の化学工業・化学産業を発展させた。その当時は、日本化学工業は黎明期であって、その実状は昭和15年9月に「執筆された名著化学工学の「序」、および昭和25年11月に出版された同書12版に記述された「第12版の刊行に際して」を拝読するとその当時がよく分かる気がする。その内容を自分が歩んできた化学工学の道と較べると、工学理論の構築と化学産業の発展の難しさが何となく浮かんで来るような気がする。その思いをこれからの化学産業を発展させる意欲に燃えてる将来を担う研究者・技術者に伝えることは、極めて重要なことと考え、以下に豊倉が最近考えることを研究室の卒業生に伝えようとおもって記述する。

  この名著を執筆された三先生は日本の創設期化学工学を確立された世界的に著名な先生で、昭和11年11月(現)化学工学会前身の化学機械協会を発足させ、その後、同協会会長を務められて日本の著名な研究者、技術者を多数御指導下さって日本の化学工業の発展に貢献された。その後の本会発展の経緯は、化学工学会会員名簿に、「化学工学会略史」、その他として掲載されている。また、最近の活動やこれからのビジョン等についても本会創立75周年記念式典資料に種々掲載されているのでそれを御覧頂くとして、ここでは、豊倉が昭和34年4月早稲田大学大学院に入学して化学工学協会学生会員になって以降行った、化学工学研究や化学製品生産技術の開発研究等の研究活動の概要を記述する。

  豊倉は、昭和32年3月、早稲田大学応用化学科を卒業した頃の日本国内状況は、第2次世界大戦が終了して10年余を経過し、戦後の復興が軌道に乗り始めた時であった。豊倉と同期の仲間は、学部4年在籍時の秋に就職活動を開始し、当時の習慣に従って複数企業の就職試験を併行して応募すると、受験したどの企業からも合格の通知が来て、それを断るのに苦労するようになった戦後の異変?が始まって最初の年であった。それからは、戦後の復興が順調に進み、日本国内全域が活況に満ちあふれ、ほとんど総ての企業の生産工場は増設に次ぐ増設が続いた。この好景気を支える国策として理工系大学の新設、拡充も競って続けられた。特に、化学産業は、増大する需要に応える大型プラントの建設と、その完成プラントの稼働要員の養成に応える化学工学教育の充実を図るべく、全国の国公立大学や主要私立大学に化学工学系学科の拡充が図られた。

  豊倉が早稲田大学大学院に入学した当時の化学工学研究室は、機械的操作担当の石川先生と拡散分離操作の城塚先生のお二人で担当され、豊倉は、城塚先生の御指導を直接受けて晶析操作を研究することになった。この年、東北大学を定年退職された東北大学名誉教授八田四郎次先生が、非常勤講師として早稲田大学にお出で下さることになって、先生がMITに招聘される切掛けになったガス吸収理論を、ご提出された先生ご自身からご講義いただいた時は、夢の中で受講していたような気がした。また講義の合間には、昭和33年に先生が団長を務めてAIChE50年祭ご出席のために、「化学工学専門視察団」を引率して訪米された時のお話しも伺うことができて、早稲田大学化学工学研究室の格を直接感じることが出来た。豊倉は、早稲田大学城塚研究室に配属し、そこでの研究課題を晶析工学と決めていただいた。その時、城塚先生は、「晶析工学は拡散分離操作として最近注目されて研究されるようになった分野で、東京工業大学の藤田研究室や東京大学の宮内研究室で既に研究を開始している。しかし、化学工学便覧における晶析の章は宮内先生が担当者として執筆されているが、その中に晶析装置設計理論や設計法は掲載してない。今からでも頑張って他大学の研究室より早く工業晶析装置を設計出来る理論と設計法を提出するように」と研究の目標をご呈示いただいた時、早稲田大学の化学工学研究室の研究は、研究室内のみの研究でなく、国内他大学研究室の研究活動や化学工場で稼働している企業プラントの生産工程にも繋がっているものであると感じた。

  工学系大学研究室の研究成果に対する評価は、他大学の研究者による評価と産業界で製品の生産活動に従事している技術者による評価があり、その両者の評価内容は一致することもあるが、多くの場合、その内容に大きな開きがある。しかし、産業界の発展に貢献する工学系研究者の研究成果はその両者からそれぞれの立場で認められた高い評価がなされた時、はじめて本当の評価がされたことになる。豊倉は、当初から工学系研究者の研究成果は産業界の技術者と大学や公的研究機関の研究者との両者から評価を受けられるように考えて研究をすることが重要であると、指導を受けながら研究活動を行った。また、研究成果の発表は国内の学会のみでなく、国外の研究者・技術者からも広く評価を受けるように発表の時期、場所を選ぶことも必要と考えるようになった。また、オリジナルなアイデイアに基づく研究成果は、当初想定してない分野においても広く適用可能になることがあり、それについての配慮も拾遺の状況によっては必要であった。

  大学研究者等が研究成果を発表する時期・場所は、恒例行事として開催される学会で行われることが多いが、そこではほぼ同じようなメンバーが集まり、その内容を深く討議することが出来てほぼ期待通りの成果が評価されることはしばしばあった。その一方、今回の化学工学協会75周年行事のように四半世紀に一度となる学会行事では、研究者・技術者がMajorと考える所属学会の記念行事に相応しい特別の企画を立案・開催することも重要であり、この記念事業を機に新しい展開をスタートさせるようになることもあった。

  晶析グループでは、昭和61年開催の化学工学協会創立50周年記念式典を機に海外から30名を越える晶析分野の参加者を迎え、飛躍的発展の機会にすることが出来た。その後、豊倉が早稲田大学を退職するまでの10年余の間に、海外の専門研究者らと複数の発展的な活動を行うことが出来た。このような記念行事は25年の間に連続して2度参加して有効に活用する人は幸運なことで、それを有効な経験として生かすこと出来ると、社会の発展にも大きく貢献をすることになる。それが3度となると実質50年間の変遷を総括することが出来る可能性も生まれてくる。それを有効に生かすと計り知れないものを将来に託すことにもなる。

  豊倉は大学院に進学して日の浅い昭和36年に化学工学協会創立25周年を迎え、次の創立50周年は東京で初めて開催された第3回世界化学工学会議と同時開催の昭和61年であり、3回目は平成24年となった。ここで、化学工学会節目の3行事を思い出し、この間に進んだ日本の晶析工学を振り返ってみる。

2)三つの四半世紀化学工学会行事とその間の晶析工学を振り返って:

2・1)昭和36年開催の化学工学協会創立25周年記念行事を思い出して;
  昭和34年4月早稲田大学大学院応用化学専攻・化学工学専修修士課程に入学し、2年間城塚先生の御指導を受けて修士学位を頂いた豊倉は、3年目に化学工学協会創立25周年記念大会が開催された。その時これは学会の重要な行事と思ったが、それが何を意味するかよく分からないまま終わろうとしていた。その時、次の行事は四半世紀先のことであろうと思って、今、何か経験しておいたらそれまでに何か役に立つことがあるかも知れないと思って、東京都立産業会館に開設された会場に出掛けた。当時のことは、殆ど何も記憶に残って居ないが、ただ一つ記憶していたことは、協会が来賓としてお招きした米国の著名な先生の特別講演が開始された部屋にいて、東京工業大学教授・藤田重文先生が司会をされたご講演を拝聴したことであった。しかし、肝心なご講演内容は良く分からず、今は殆ど何も覚えていないが、その時藤田先生が講師の先生をご紹介され、その中で、講師先生のお名前の呼び方が、日本人が通常呼んでいる発音では全く通じないが、先生のお名前を 「・・・・・・」と発音すれば先生は分かって下さると話された。残念ながら、豊倉にはその英語発音も正確には理解できないままに終わってしまった。しかし、藤田先生は当然のことでしたが、立派に司会をなされ、日本の化学工学を代表する先生はかくも立派なものなのだと感心して、研究者になることは大変なことと改めて思った。

  それから、15年以上経過してからのことだった。晶析工学のことで、藤田先生にお目に掛かる機会が多くなり、甘えていろいろ個人的な話もするようになってからのことでした。会議が終わって、先生と二人でお酒を飲みに行った時、化学工学協会創立25周年記念大会会場の東京都立産業会館で、末席から藤田先生のお姿を拝見しながら先生の英語のお話しを伺って感心したことは今でも忘れませんと申し上げたら、先生から、「僕、英語は分からないよ」と云われました。その時、アメリカに留学していた頃、親しくしていたアメリカ人が、自分自身の英語のことを駄目なんだと云われたことを思い出して、 「人と話をするとき、自分の言葉を相手が理解しやすいように常に気をつけて話さなければならないこと。同時に人と話をするとき相手の人が、お前の話はどうしても理解しなくてはならないと思ってもらえるような、価値ある内容の話が出来るように、自分の考え方やそれを支える自分の哲学をしっかり持つよう平素から身につけておかねばならないと考えたことを思い出し、」自分の修行はまだまだで全然駄目だと真剣に思い出した。

2・2)昭和61年開催の化学工学協会創立50周年・第3回世界化学工学会議に向けた晶析グループの活動;
  昭和36年当時の日本の晶析研究は、前にも記述したように、東京工業大学の藤田研究室・東京大学の宮内研究室で既に行っていたが、その他早稲田大学の城塚研究室や広島大学中井研究室、姫路工業大学中島研究室での晶析研究は、昭和30年代後半になってからであって、日本における研究グループが組織的な研究活動を始めたのは昭和44年4月化学工学協会に城塚先生代表の「晶析に関する研究会」が研究委員会で承認・設置されてからであった。

  一方、晶析グループの海外との交流は、豊倉が米国TVA公社の招聘を受けて昭和41年12月より43年11月間留学し、その帰途ヨーロッパを訪問してUCLのMullin教授やDr.J.Nyvltと親交を交わすようになって、日本で発表した晶析装置設計理論が評価されてからであった。その後、ヨーロッパ化学工学連合・晶析研究会(WPC)のInternational ChairmanになったDr.J.Nyvltから,1972年Prahaで開催されるInternational Symposium on Industrial Crystallization (ISIC)への参加勧誘を受け、中井先生・青山氏ら7名と訪問団を結成して参加し、日本でオリジナルに研究した論文4報を発表して高い評価を受けた。このシンポジウムへの日本からの参加は初めてであって鄭重なお持てなしを受け、日本の参加者からのこの学会に対する評判もよく、以降3年毎に開催された晶析シンポジウムには、日本の主な晶析分野の研究者・技術者は必ず参加するようになった。また、1975年開催のISICでは欧米で研究が活発になった2次核発生現象の研究発表が急増した。一方豊倉は、それらの研究と全く異なる観点から分級層型晶析装置内2次核発生速度のオリジナルな測定法を考案し、それにて測定した2次核発生速度を用いた分級層型晶析装置設計法も提出した。この一連の研究に高い関心を示したポーランドのDr.P.Karpinskiは、Dr. J. Nyvltの推薦書を添付して豊倉研究室に留学したいとの申し出を送ってきた。豊倉は、それを受けて日本学術振興財団に彼の日本留学助成の申請を行い、1977年度留学生に採用された。彼は、日本滞在中に日本国内で晶析研究を活発に行っていた大学、企業を訪問して友好を深めた。1978年ポーランドのワルシャワで開催されたISICには、彼の人柄に惹かれて20名近い日本の研究者・技術者等が参加して日本の晶析研究・技術の発展にも貢献した。

  1980年豊倉は、早稲田大学短期在外研究員に採用され、4ヶ月に亘って東西ヨーロッパで活発に晶析研究を行っていた主要国を訪問し、晶析研究・技術の交流を行うと同時に共同研究を行った。また、同年春に、日本の化学工学協会で決まった、「1986年9月東京開催の第3回世界化学工学会議」に欧米先進国晶析分野の研究者参加を勧誘した。当時の日本は、驚異的な高度成長期に当たっており、この機会に日本の晶析研究・技術の実状も調査したいとの希望が多く、日本側のCrystallization Session Chairman を引き受けた豊倉は、研究論文の発表からTechnical VisitやSocial Visit 等の立案・運営の詳細な打ち合わせを行って、海外からの参加者や日本側の受け入れ担当者との連絡を蜜にした。そこで対象者になった海外からの訪日希望研究者・技術者は殆どヨーロッパ化学工学連合・WPC代表者やその関係者であって、1981年Budapestと1984年Den Haagで開催されたISICや1986年の開催まで毎年ヨーロッパで開かれたWPCで、東京開催の世界化学工学会議の準備進捗状況を伝えることが出来た。この世界化学工学会議参加の費用は、総て参加者が支弁することになっていたが、共産圏からのWPC国際議長訪日費の支出については、Session Chairmanの裁量で準備し、幸運にも日本学術振興会の支援を受けることが出来た。

  このようにして開催した世界化学工学会議は、「主催機関である化学工学協会が直接運営した創立50周年式典・祝賀会・第3回世界化学工学会議」と「化学工学協会各研究会等が事情に即して企画運営をした行事」に分けて開催された。ここで、前者は、化学工学協会各種委員会が中心になって進め、総てのプログラム、論文予稿集等の準備・運営を行ったが、後者は、各研究会等で用意したもので、その内容は各会等の事情によってそれぞれ異なっていた。晶析研究会が行った行事は、分離技術懇話会の一部行事として世界化学工学会議終了直後の9月26,・27日に早稲田大学7号館小野梓会議室で開催したSatellite Sessionと世界化学工学会議開催前の9月17~21日に関西・神戸・姫路・広島・愛媛で開催したCrystallization Tourと22~27日の行事合間に行った関東地区のTechnical & Social visitであった。海外から訪日して来られてこれら行事に参加した来賓のお相手は、各地区の企業・大学関係者のご厚意のお持てなしで対応していただき、好評をいただいた。この晶析グループの活動状況は1992年出版の「晶析工学の進歩」pp.47~69に記載されている。また、海外からの訪日者の思い出記事もこの晶析工学の進歩に寄稿して頂き、掲載している。

  日本の晶析グループメンバーは、1972年ISICに初参加して以降15年間、世界の晶析グループの仲間入りをめざしてヨーロッパで開催されたISICに参加し、日本でオリジナルに研究した晶析理論や晶析技術論文を発表し、世界の晶析研究者・技術者の評価を受けた。そして、1986年日本で初めて開催した世界化学工学会議晶析セッションの担当を引き受けた晶析グループは、多数の欧米先進国の研究者・技術者の訪日を得て、日本国内の晶析研究・技術を取り巻く環境や、成熟した日本産業界の技術者と力をあわせて技術開発や研究活動を行っていた現場に触れ、日本の晶析グループの活動を高く評価していた。この日本における世界化学工学会議の翌年、チェコスロバキアのBechyneで開催されたISIC10thに引き続いて9月28日にPrahaで、”Seminar on Industrial Crystallization in Japan” Organized by State Commission for Science, Technology and Investments が開催され、1970年代より親しく交流を続けてきた日本の研究者・技術者5名を招いて新時代の晶析技術について打ち解けた協議をした。また、訪欧した日本メンバーは、それぞれの立場で前年に引き続いた交流を深め、将来に繋がる人脈を広げた。

2・3)日本晶析グループの第3回世界化学工学以降の発展的活動;
  日本の晶析グループの活動が順調に進むようになったのは、日本の産業界が戦後の復興期に入った1960年代初期で、化学工業界に高まった晶析プロセスの構築に対する要望は、晶析工学の発展を刺激した。その頃、化学工学協会研究部門委員会に設置された蒸留研究会は、1970年代前半に発展的に解散して新たに蒸留技術懇話会として活動を開始し、それが数年経過した段階で、晶析技術に関心の高かった研究者・技術者が晶析グループと協力して分離技術の一層の発展を図る提案を藤田先生経由で頂いた。1970年代後半、蒸留技術懇話会の看板の中で積極的な活動を始め、その成果を上げていた。

  一方、第3回世界化学工学会議が終了した1980年代後半になると、製塩工業界を取り巻く環境変化が起こり、それまで行われた製塩技術も最新の晶析工学に基づいて所望製品食塩を効果的に生産出来る食塩生産技術を開発する動きが起こって、日本海水学会と塩工業会の研究者・技術者が晶析研究会の研究者・技術者と協力して海水利用研究会を立ち上げ、活発な活動を続けて当初の目的を達成した。それ以降,世界の晶析関連学会との交流も活発になって、晶析工学・技術は急速に発展した。この1987~89年に開催された晶析行事の一部を例示する。

○1987年には中国工程師学会・台湾大学工学院主催の「晶析技術講習会」開催され、招待を受けた。また、第1回日韓合同分離技術シンポジウムも韓国・慶州で行われ、両国の晶析研究者・技術者の交流が始まった。
○1989年8月、国際結晶成長学会が仙台で開催され、そこでは初めて工業晶析セッションが設置され、結晶成長分野の会合に初めて工業晶析の研究成果が発表されて、大きな反響があった。その時欧米より参加した晶析関係者をお迎えして大阪市立大学で原納先生退官記念晶析シンポジウムを開催し、関西地区に新しい風を入れることが出来た。また、同年12月豊倉は、Honolulu, Hawaiiで開催された環太平洋化学会晶析セッションの座長を米国人のProf.A.Myersonと務めた。この会の参加者は日米が中心であったが、ヨーロッパの研究者・技術者にも案内を送って参加を勧誘し、多数の参加者を得て、そこに新しい人の環を作ることが出来た。      

2・4)化学工学会創立75周年記念式典に参加して;
2・4・1)化学工学協会創立50周年以降の豊倉グループの晶析研究
  豊倉が1986年以降に行った晶析研究は、それまで対象としてきた晶析研究成果を発展的に拡張して、化学工業における結晶製品の生産活動を活発にするため、それまでの製塩、精糖、食品工業等から枠を広げ、有機・無機工業製品から医薬品等も研究対象にした。また、ISICの活性を図るべく、参加者の親睦を図る企画もより積極的に取り入れるようになり、発足から30年を経過したISICの運営にも変化が見られるようなった。

  1987年開催のISICは、1960年にCS(チェコスロバキア)のUstiで開始したISICの10周年記念に当たり、会場をCSで由緒あるBechyne城址が選定され、日本からも20名を越える研究者・技術者が参加して、総勢170名が集まった盛大な会議になった。特に、豊倉はISICの永続的な発展を考え、大所高所からISICの発展を支援すべくそれ以降も毎年WPCの会議に参加するよう心掛けた。1990年開催のISIC11thは、ドイツ・アルプスの観光基地Garmisch-Partenkirchemで開催し、WPCのドイツ代表を務めていたProf.A. Mersmannは、ISIC終了後、白亜のNeuschwanstein城を観光した後、席の予約がなされていたミュンヘン・ビール祭りのオクトーバーフェスト会場へと参加者を案内した。一方、翌1986年、第4回世界化学工学会議はドイツKarlsruheで開催され、その時もMersmann教授はWPCの会議で、前回日本で行ったTechnical & Social tourを参考に遠方国からの参加者対象にしたヨーロッパ・ツアーの企画を提案して実施した。このツアーはACHEMAプラントショウ参加者の便も考えてプラントショウ会場に近いFrankfrut Hbfを出発した2泊3日の行程で晶析関連の企業・大学を訪問し、さらにスイスアルプス縦断のバス旅行で、20名を越える参加があって好評であった。

  一方、1990年には、Iowa State Univ. のProf.M.A.Larson を中心にした米国晶析グループのメンバーは、産業界における工業晶析技術の発展を目的に協議する晶析グループ組織”ACT”を立ち上げ、以降毎年会議を開催して活動を続けている。豊倉は、最初の会合終了後にその資料の送付を受け、以降早稲田大学を退職するまでのほぼ10年間連続して参加した。この組織は工業晶析分野で世界的に活躍して著名な大学等所属のする研究者と企業所属の技術者で構成し、前者の参加に対して予算の許される範囲で参加に必要な最低実費の支援を組織の予算内で支弁し、その費用の捻出は別に定める参加企業技術者の協賛金等で集金していたようで、豊倉が参加した頃の日本の新しい晶析研究については、豊倉の設計線図による晶析装置の設計法や神戸製鋼で開発された圧力晶析装置や月島機械のDP晶析装置等が討議されたこともあった。このACTには、1990年代の初め頃から晶析技術に関心の高い日本の一部の企業技術者は、都合の付く範囲で参加していたようであったが、豊倉が退職してからも晶析技術の開発に関心の高い企業技術者は参加していたようであった。全般的には、 ACTに参加する研究者、技術者は常連の人が多く、ヨーロッパのISICの主要メンバーは概ね参加していたようであった。また、ACTの会合はそれに参加する主要企業で開催されることが多かったようで、そこでは企業内の見学も組まれることもあって、その活動評価は高かった。

  1998年には中国で初めての晶析国際会議が開催されたが、それは、その前年に開催されたACTの休憩時間に、Larson教授が豊倉に相談したことが、切掛けで実現した。Larson教授は事前に中国、天津大学のJing-kang Wang 教授から相談を受けていて、Wang 教授は近い内に中国で晶析の国際会議を開催したいとの希望を伝えていたようであった。しかし、Larsonからの最初の話はそれ以上のことは何もなかった。そこで、豊倉は、1999年3月早稲田大学を退職する予定で、現在豊倉の周囲ではそれに合わせた国際会議の準備を始めており、これまでの相談では日本の晶析関係者と交流のある晶析分野の研究者・技術者で、既に立派な業績を上げ、世界的に知名度の高い人を世界各国から一名、旅費・滞在費の実費を早稲田側で負担して、約20名招聘する予定で準備を進めている。その他の参加者は原則無料参加を考え、論文の発表は特別講演とポスター発表とする。また、早稲田大学での開催予定日は会場の関係で1998年9月17・18日に決めてあり、その変更をすることは出来ないが、この条件が認められれば、可能な範囲で中国での晶析国際会議開催には協力する。特に日本の晶析国際会議に参加する人達には、中国開催の会議にも参加するよう勧誘努力することは可能であると伝えた。この話をしているところに、Prof.J.Ulrichも寄って来て彼もそれに賛同した。そこで、Larson 教授はWang教授を呼んで、その概要を伝えた。この提案には彼女も了解して、早速その内容を中国に電話して、今日中にその全容の了解を得るようにしようと云って別れた。

  Prof. Wang 教授は、本国との電話相談は簡単に済んだようで、豊倉の提案は総て了承され、この段階で、1998年の9月に開催する早稲田大学と中国で開催する国際会議は、両方とも便宜を図りながら開催することを決めた。勿論、豊倉はWang教授を1986年以降に数回会った経験があって、よく知っていたが、それらはヨーロッパのWPCとアメリカのACTを通した関係からであった。国際間の協力関係は強い信頼関係があって初めて成功するもので、1998年9月の両国際会議は予定通り進んで成功した。

  豊倉が、晶析工学に係わるようになった50年を振りかえると、化学工学会創立50周年を迎えた1986年は、丁度、第3回世界化学工学会議が東京で初めての世界化学工学会議が開催された年で、化学工学分野をMajorの研究分野として活動してきた豊倉にとって幸運であった。1959年4月、早稲田大学大学院理工学研究科に入学して初めてに本格的研究を始めた晶析工学は、当時まだ、晶析装置設計理論も確立されていない時代で、世界の研究者は競って世界に通用する理論を提出し、産業界の技術者がそれを使って工業晶析装置・操作の設計するのを夢に見た時代だった。豊倉は、1963年、初期の晶析装置設計理論を提出し、日本の化学企業技術者がそれを使って結晶製品を工業生産出来るようになった。その後、豊倉は晶析研究を発展的に継続し、世界の晶析工学・技術の発展に務めた。第3回世界化学工学会議では、日本側の座長を務め、会議終了後も1999年3月早稲田大学を退職するまで、晶析工学の発展のために、国内外の研究者・技術者との交流を続けた。

2・4・2)平成24年3月14日開催の化学工学会創立75周年記念式典にて
  豊倉が化学工学会会員になって50年余、会員としての活動を通して種々のものを学び、研究してその成果を身につけ、更にそれを発展させて日々新しい成果を見出した時,その都度新しい慶びを感じた。3月14日の75周年記念式典においては、新しい成果を期待して清々しい気持で出席し、期待通りの収穫を得たような気になった時には、一瞬晴れ晴れした気持になった。まだ、その余韻は生きている。

  今回、20年前に化学工学会の委員会を一緒に務め、ある程度気心を知った小宮山元会長の話を期待して参加し、プラチナ社会実現の話を伺って、自分の考えと共通なものも感じて、将来の化学工学に新しい希望を感じた。会場で会った知人は、グラフに使用した数値に対して批判的なことを言われていたが、それは、その人の考えで私が批判するものではなく、私は、小宮山さんの示された数字を裏付けるような環境を作り出す化学工学プロセスを研究して、プラチナ社会と思えるような社会の構築に掛けたい気持になった。

3)むすび
  長期に亘って化学工学会員としての生活を送り、今も化学工学研究を続ける気になっている。創立25周年の時の思いは、化学工学の大先生にお目に掛かって感じたその偉大さで、今尚、自分のおごりを戒める「お言葉」として大切にして研究活動に励むよう心掛けている。

創立50周年記念においては、自分が最も活動していた頃で、少し大きな気持をもって、自分の行って居る研究成果を色々の分野に適用できるように頑張って、自分の研究範囲で少しでも自分の描いたプラチナ社会に近づけるための研究成果を出せるように努めてみた。その過程では、同じ考えの人の協力を得て、少しずつでも無駄をなくして、新しい理想社会の実現に近づけようと思って創立75周年に向けて研究を進めてみた。

創立75年周年では、昔から人類が目指していた、永久運動が見えるような理論を構築し、可能な限り永久運動に近い場で、生産技術を構築する方向を目指したいと思っている。

参考資料;創立75周年記念式典 2012,3,14  公益社団法人 化学工学会

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