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豊倉賢略歴
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2012A-03,1: 豊倉 賢  「  2010年Zurich開催のISIC18を機に考えたこと
 その2ー思い付きの晶析研究成果とオリジナルな着想 に基づいた晶析研究成果・・受ける評価の違い? 」

1)はじめに : 欧米先進国で評価される日本の晶析研究成果を考える
  豊倉が、1980年早稲田大学在外研究員として英国ロンドン大学・UCLに滞在した時Mullin教授から、第2次世界大戦後における日本産業界の復興は目覚ましいものがある。日本の晶析グループもこの復興にいろいろ貢献していると思うので、そのことについて聞かせて貰えないかと尋ねられた。その時豊倉は、戦後の日本産業界復興に貢献した晶析技術は色々あり、その中には海外より日本国内に移転された技術で戦後の日本産業発展に寄与するような改良研究が行われて性能・特性を大幅に改善した技術と、抜本的にオリジナルな研究を行って新しく開発した晶析技術などがあり、どちらから話しましょうかと尋ねた。そうしたら、Mullin先生は日本でオリジナルに開発した新技術の話を聞かせて欲しいと云われ、(株)神戸製鋼所の守時正人氏が戦後オリジナルに開発していた圧力晶析装置の説明をした。その時、先生はそのような装置の話は聞いたことがないと云われて高い関心を示され、その場ですぐ神戸製鋼所のロンドン事務所に直接電話されて圧力晶析装置の資料を至急取り寄せる手配をされた。その時、豊倉も日本にいる守時さんに直接手紙を書いて、「ロンドン大学のMullin先生は守時さんが開発した高圧付与の圧力晶析装置内で結晶を生産する技術に非常に強い関心を示している」ことを伝え、関係資料を先生に至急送って欲しいとお願いした。これを機に神戸製鋼所の圧力晶析装置に対する関心は世界中に高くなって、ドイツのBASF社をはじめ、欧米の大手化学企業の技術者は高い関心を示すようになった。1968年日本で開催された世界化学工学会議に参加した晶析分野の研究者は皆、神戸市内の(株)神戸製鋼所機械研究所を訪問してそこに設置されていた圧力晶析試験装置とその試験テストの見学に立ち会って帰国した。後に Larson教授は、晶析分野の技術者対象にアメリカで始めたACTの会議でこの圧力晶析装置を話題として取り上げており、20世紀末には世界中の著名な晶析分野技術者の関心の的になった。

  ここで紹介した技術は、日本でオリジナルに開発し、欧米で新しい晶析装置として評価された晶析技術の一つであるが、このように日本で開発され、諸外国で注目された晶析技術は、ヨーロッパ化学工学連合(EFCE)晶析研究会(WPC)主催のISICに日本の晶析分野の研究者・技術者が多数参加するようになるにつれて多くなり、日本の晶析研究に対する欧米先進国の評価も急速に高まった。1968年東京で開催された第3回世界化学工学会議・晶析セッションには、晶析研究の活発な欧米主要国を代表する研究者は参加し、日本の晶析研究・技術の展開を討議し、その将来の発展を期待して帰国した。以後、日本の晶析研究者・技術者が中心になって開催した環太平洋化学会その他の晶析分野の国際会議に、世界の主要国から多数の研究者・技術者が参加するようになった。

2)EFCE・WPC主催のISIC5thで日本から発表された晶析研究成果
  日本晶析グループの研究成果が、欧米で活躍する晶析研究者の評価を受けるようになったのは、日本の晶析グループ主要メンバーが1972年のISIC5thに参加し、欧米の研究者・技術者と「積極的に交流する」ようになってからです。特にISIC5thに続いて3年毎にヨーロッパで開催されたISICには、日本の主要メンバーは必ず毎回参加し、欧米研究者・技術者の関心が高い課題についてオリジナルに研究した成果を発表した。また、日本の論文発表者の中には、会議終了後にその論文に関心のあった大学や企業を訪問して討議を継続し、それらの理解を得るように心掛けた。ここでは、ISIC5thで発表した論文を討議した時のことなどを記述する。

  1960年代末から70年代初において、日本晶析グループのメンバーが交流した欧米人は、豊倉が1960年代後半に留学して知った人達が中心で、その対象は限られた範囲であった。その頃、豊倉が欧米の晶析研究者・技術者と討議した晶析研究は、欧米研究者の関心が高かった晶析装置設計理論についてで、豊倉が大学院進学当初から始めていた晶析装置設計理論の研究成果が話題になることが比較的多かった。当時の晶析操作は、化学工業における一部の先駆的研究者・技術者によって重要な工業操作として認識されていたが、その装置設計理論の研究は、まだ何処の国でも工業装置設計に適用出来るまでになってなくて、確立することが化学工学分野における緊急の課題とする考えは、欧米の研究者・技術者の間にも広がっていた。そのような時、豊倉が日本で研究・提出した晶析装置設計理論を米国から訪欧する前にMullin教授に送ったことによって、その理論に対する評価は思わぬ方向に進んだ。その頃豊倉は、欧米先進国の研究者が行っていた先駆的なモデル晶析装置対象の設計理論を検討して工業晶析装置の設計に適用できる設計理論を提出するのには、設計対象に想定する工業晶析装置を企業現場で稼働している晶析装置の実状により近いモデル装置とすることにし、その装置を対象にした連続工業晶析装置の設計理論とそれによる工業晶析装置設計法の提出を目的とした。当時の工業晶析装置は企業各社が独自な方法で設計し、その装置・操作法を用いて工業生産規模の結晶製品を生産していたが、その詳細はほとんど発表されていなかった。それに対して豊倉がオリジナルに提出した連続円筒分級層型晶析装置設計理論を検討して、小形連続円筒分級層型晶析装置のテストデータより同型式の晶析装置設計に使用する操作因子を求め、それを使って連続逆円錐型晶析装置設計法を確立した。この装置は大同化工機(株)の?山氏によって制作設置され、「その晶析装置試運転で取得したデータより得られた所定の操作条件で操作した装置で生産された製品結晶粒径および生産速度との関係」は「設計理論式にて推算したもの」とよい一致をした。それらの研究成果の詳細を欧米人の前で最初に発表したのは1972年のISIC5thであったが、その時欧米の研究者・技術者がその大筋を理解したのは、その発表前に一部の研究者とこの設計理論について内々に話す機会があったからと思っている。

  その一つは、1972年Prahaで開催された国際会議参加前の1968年春、豊倉が米国滞在中のTVA公社から参加したTampa, FloridaでのAIChE National Meetingの晶析セッションでChairmanを務めていたDr.A.D. Randolphに会ったことだった。その時豊倉は、彼に豊倉の短編英訳博士論文を寄贈したが、それは彼からIowa State University のProf.M.A.Larsonに渡され、そこに掲載されていた豊倉が提出した晶析装置設計理論を読んだLarson教授は、その設計理論のことで豊倉に連絡があって交流を始めていた。そのLarson教授は、1972年春来日して晶析装置設計理論のことも豊倉と討議していた。そのようなことがあっで、秋のPraha国際会議で会った時、彼は豊倉の晶析装置設計理論の内容を了解してると思っていた。また、WPC International Chairman、Dr.J.Nyvltは、1968年11月に豊倉がUCLを訪問した時、丁度UCLに滞在していて会うことが出来た。その時Mullin教授は不在だったが、彼は豊倉がTVAから教授宛に送った豊倉の設計理論の話を聞いていて、その英訳論文の別刷りを欲しいと云われて、Mullin先生に送った別刷りを寄贈した。彼はチェコスロバキアに帰国して論文内容を読んだようで、1972年9月、Prahaで再会した時、「4年前に豊倉から受け取った論文に掲載されてた設計式で自分の実験データはよく整理できた。」と言われた。その上、日本の論文は東ヨーロッパでは入手し難いので、その論文に自分のデータを加えてチェコスロバキア語に翻訳し、「日本の晶析装置設計理論」と標題を付けて出版したと言われてその本を渡された。

  初めて参加したヨーロッパの国際会議で豊倉は、Prof.M.A.LarsonとDr.J.Nyvltの二人しか知人はいないと思い緊張した気持で空港に着いた。そこでは入国手続き終了後、直ちに学会会場に行って日本からのグループ全員と一緒に学会参加の登録を済ました頃には、学会関係者の親切な対応に、緊張は解けて学会の雰囲気にも慣れ、落ち着きを取り戻していた。そのようにして、ヨーロッパで初めての国際シンポジュームの講演発表も無事済ますことが出来た。また、晶析シンポジューム・オープニング セッションの座長にMullin教授とDr.Nyvltに豊倉を加えた3人で務めるように云われた時は、我々日本人の参加を大切に思っていると感じて嬉しかった。また、セッション終了後に開かれた参加各国の代表者によるWPCでは、そこでのTopicsとして取り上げられた「 Design of Crystallizers 」の話題提供者に豊倉がProf.M.A.LarsonとDr.J.Nyvltと共に指名された時は、日本における晶析グループの活動を注目しているためだと改め感じた。

  1972年にPrahaを訪問した日本晶析グループは、当時早稲田大学大学院修士課程在学中の現日本化学工業会長の棚橋さんと、次に若い豊倉と言う構成で、大学の先生は中井先生と豊倉の二人、その他は経験豊富な企業人ばかりでした。その中には海外出張経験豊富な人もいて、どちらかと言えばヨーロッパ出張中の詳細スケジュールはその日の状況に応じて皆で相談しながら決めていたので、楽しい有益な出張を続けられた。

   Prahaの学会終了後直ちに飛行機でUCLのMullin教授を訪問した。この日の予定は、中井先生と豊倉は1日かけてロンドンの大学とMullin研究室や実験室をゆっくり見せて貰い、日本から来た企業の人達は午后に市内観光を考えていた。ところが、Mullin研究室に到着して挨拶を済ませると、すぐ顕微鏡で撮影した動画の観察が可能な小講堂に案内され、最近撮影した「過飽和溶液中に分散静置した粒径の異なった微結晶粒子群の粒径変化の動画観察を始めた。そこでは、画面に映し出された粒子群の中に、目に見えてどんどん成長する微結晶が現れて来て、それが成長して小結晶と識別されるような大きさになると、その小結晶の周辺に存在していた微結晶は溶けて消えてしまい、小結晶周囲の微結晶はすっかり姿を消して、無色透明な溶液ゾーンが出来た。その時Mullin先生はOstwald ripeningと説明下さった。それを見ていた日本から来た人達は、初めて見た写真が見事に過飽和溶液内の結晶成長現象を映し出していたのに感動して、この過飽和溶液内の結晶成長について思い思いに感じたことや感想をくちばしった。初めて訪問した研究室の素晴らしい実験結果の歓待を受けて、この日はこれからどのように展開するかと期待を膨らませて昼食をご馳走になった。午后は当時話題になっていた晶析研究課題を中心に夕方まで種々の討議を続けて気付いた時には、ロンドン観光の計画もすっかり忘れてしまっていた。その討議の中にMullin先生は、「この研究室は世界の晶析分野の研究者や技術者が集まるサロンだ。」と話された時、さもありなんと納得して機会が有ればまた訪問して色々討議したいと思った。ホテルに帰って、この日の訪問内容を思い出した時、「今度訪問する時お前達と会う時間がないと云われないように、日本でMullinが喜ぶような話が出来るように、オリジナルなよい研究成果が出しておこうと話合った。

  その翌日は、飛行機でAmsterdamに飛んで、DelftのTH DelftにProf.E.deJongを訪問した。この朝London Heathrow空港は、有名な濃霧に包まれ、Delft到着は予定より大幅に遅れて昼になってしまったが、このような天候に慣れてるde Jong 教授は、予め準備した食堂にすぐ案内して食事をしながら大学の説明やら、我々の翌日訪問のために紹介して下さったHengeroのAkzo社訪問の打ち合わせをした。Delft大学のde Jong研究室には20名を越える大学院学生等のスタッフがいて、会食後手分けして、企業のパイロットプラントを思わせるような屋外の大型実験装置(その場所は現在大型実験装置が内部に据え付けられてるGreen Giantと呼ばれた建物付近) を案内してくれて、ヨーロッパ大学研究室にある研究設備やその内容に圧倒された。

  また、翌日訪問したAkzo社は地下の膨大な食塩鉱脈上に建設された製塩工場で、その鉱脈の中に高圧水蒸気を吹き込んで効率よく濃厚食塩水を汲み上げて食塩を大量生産する生産プロセスを見学して、日本の晶析グループのメンバーが相手にする世界の研究者や技術者が研究開発する仕事を知らされて身の引き締まる思いをした。また、Akzo社で対応してくれた技術者の中に、日本からのメンバーとして参加されてた旭ガラスの守山氏をご存知の人が居て特別な話も別室であったようで、各企業からの参加者は、それぞれ特別な仕事も行っていたようであった。

3)むすび:・・・産業界の発展に貢献するオリジナルな工学研究

  工学系研究者の研究主目的は、本人が担当する部署が分担する製品を規定通り生産出来るプロセスを提出し、それにて所望製品を生産できる装置・操作を確立することです。しかし、実際、産業として特定製品を生産する段階になると複数の生産ルートが考えられ、基本的にはどの方法を選定することも可能ですが、工業製品として生産するには、所定製品の品質・生産量・コスト等において妥当なものを、安定・安全に生産で出来る装置・操作法を確立することです。その過程において、生産に使用される原料や製品の搬入,出等も検討する必要があり、また、その生産に既存の生産技術を適用することもできるが、時としては抜本的に新しいオリジナルな技術を開発しなければならないことがある。化学工学分野の研究者・技術者の主なる仕事は、化学企業で生産する製品の品質・生産量およびコストの面で他の化学企業をリードする技術を確立することです。そのため、その仕事に従事する担当者は、専門分野の研究者・技術者として、近縁分野で著名な研究者・技術者とも平素から密な交流を続け、必要に応じて緊密な情報交換を行えるようにしておくことが大切である。

  新しく生産工場を建設する場合、どのような方策で新工場の生産技術の特徴を出すようにするかは重要であり、それは、企業トップの方針によって決められることであるが、その工場の生産活動を長期に亘って継続的に続けられるようにするには、オリジナルな工学理論を提出し、それを生かしてオリジナルに新しい生産技術を開発した経験ある研究者・技術者が、その工場の主要生産技術の構築に関与することは有効である。

  話を発散させないようにするため、豊倉が半世紀以上に亘って続けてきた晶析研究を思い出すと、オリジナルに提出したアイデイアに基づいて行った研究成果が纏まった段階で、研究は一般的には終了したように考えられる。しかし、その過程で種々の検討をしてきた研究担当者は、その研究のやり残した部分が気になるものです。特にそれがオリジナルに提出した研究の主要な部分の研究成果と関連のある場合、その研究をさらに進めることによって、より完成度の高い技術が開発されるものと考えている。

  今回のtc-pmtに掲載した守時正人氏の圧力晶析装置・操作法や故青山吉雄氏が行った連続逆円錐型晶析装置はどちらも日本の企業技術者によってオリジナルに開発された企業研究成果であって、それは豊倉が別にオリジナルに研究した晶析装置設計理論と結びついたユニークな研究成果であった。

  それとは別に短期間の新技術開発を考えた時、目先のアイデイアによる技術開発は大切である。しかしその技術と別にそれを包含した長期に亘たって有効な新技術を展開し、それによって産業を発展させる考えもあり、その時オリジナルな新アイデイアに基づいた本格的な技術開発を検討する必要がある。ここで、後者の選択を成功させられるか否かの判断は難しい課題であり、それを将来の企業発展に繋がるような結論に結び付けることは経営者の極めて重要な責務である。一方、それを担当する技術者とってもその選択は、極めて難しい問題であり、技術者にとって必ずしもそれを成功させる確信のない場合もある。そのような時、先輩の教訓を大切にすることも重要であるが、自分の責任の取れる範囲で自分の信念に基づいた結論を出すことは最も大切なことである。その場合、技術者本人がその仕事を担当する適性があると確信を持てることが大切である。この自分に適した仕事とは、「その仕事に取り組んでいる時はその仕事に集中でき、何時間でも次々によいアイデイアが出て来て楽しく仕事が進むような気がする場合は、その仕事に対する適性がある。」と思っている。しかし、その考え方は人によって異なるので、平素から自分の適性を見出す努力をすることが大切である。

  1970年以降の日本は、第2次世界大戦後の目覚ましい復興期であって、日本晶析研究グループメンバーは、多くの独創的な研究成果をISICで発表した。それらは、1970年代に動き出したヨーロッパのWPCとISICで活動していた欧米の研究者・技術者の目に留まって、日本の研究者・技術者の活動に対する理解と期待が生じ、今日の日本と欧米の晶析グループの関係が出来た。

  2011年にZurichで開催されたISIC18thにおいては、日本から参加した研究者・技術者の世代交代は進んで来て、その場における日本の研究者・技術者とWPC主要メンバーとのコミュニケーションは、1990年代に開催されたISICでのそれとは異なっていたように見えた。その時、1990年代よりWPCの Delegatesを務めていた親日派のメンバーは、ISIC18thで開催されるWPC直前に好意的な対応を提案され、日欧間の晶析グループメンバーのパイプ維持を継続することが出来た。このパイプを将来に向けて継続維持することは世界の晶析研究・技術を発展に必要である。その発展は、欧米晶析グループのリーダーによる日本晶析グループ研究者・技術者の研究成果に対する評価と期待の下で可能になることである。

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