Home | ホームページ設立の趣旨 | 掲載予定の記事について
豊倉賢略歴
| apppendix | 新規掲載記事

2012A-02,1: 豊倉 賢  「  2010年Zurich開催のISIC18を機に考えたこと
                     その1ー日本晶析グループの国際舞台への参加」

1)はじめに;ISIC5thと日本晶析グループのISICへの参加
  昨年9月開催のISIC18は、晶析に関する国際晶析シンポジウムが1972年初めてPrahaで開催されてから数えて39年目に当たり、その当初から3年度ごとに開催されたISICに毎回連続して参加してきた豊倉は、当時のことを思い出して感無量です。WPC初代国際議長を務めたチェコスロバキアのDr. J.Nyvltは、WPC発足の準備とその後の活動状況をEuropean Federation of Chemical Engineeringのために出版されている EFCE NEWSLETTER; No.2 1992(Dec.1992)に “ Activity Reports of Working Parties as 25 years of the Working Party on Crystallization” をChairman として寄稿している。豊倉は、この報告書をNyvltから20年前に受け取っており、今でも思い出したように時々取り出して読んでいる。それには、WPCの活動目標とその具体的な作業内容及び活動実績が記述されている。彼の引退後国際議長を引き継いたProfs.J.Garside, & J.Ulrich は、その後世界産業界の変遷を汲んだ新しい方針を提案しながら活動してきた。昨年スイスのZurichで開催されたISIC18thは、2008年に国際議長を継いだCNRS, University of Toulouse, Franceの親日家Prof. Beatrice BiscanとETH Zurich, SwitzerlandのProf. Marco Mazzottiのco-chairsで進められ、アジアの新興国のエネルギーと新しい産業界の動向との調和を図った21世紀の新しい活動をスタートさせた。

  豊倉が初めて参加した1972年の国際晶析シンポジウムは、日本の知人がほとんどいない、不慣れな東ヨーロッパの国際会議で、なかなか落ちついた気分になれなかった。しかし、この会議の世話をした関係国の人々は、遠方国日本からの参加者に気を遣って親切に世話をしており、この人達が中心に活動する組織と連携して晶析研究・技術を発展させることに期待して、日本から一緒に参加した中井先生や青山さんとこの学会のWPCを通して欧米との太いパイプを構築して、日本の晶析研究・技術開発の情報を欧米の研究者・技術者と円滑に交換するように努めようと話合った。日本からのこの会議への参加者は7名で4報を発表し、また、アメリカからの参加もLarson, Botsaris, Nancollasら3名で4報を発表した外はヨーロッパからの研究発表のみであって、この規模の学会であれば、日本人の晶析研究・技術開発も真剣に頑張れば、欧米先進国の活動に遅れとることなく、世界の発展に貢献できると思った。この日本からの訪欧団の状況は化学工業社発行のケミカルエンジニヤリング(1)、107(1973)に「第5回晶析シンポジウムに参加して」を寄稿した。(この寄稿記事に関心のある人は上記所在を御覧下さい。また、1992年豊倉が纏めた晶析工学の進歩にも掲載しているが、御覧なり難い方はメールでご連絡下さい。

E-mail address:

2)1970年代のISICに参加した日本晶析グループの活動;
2・1)1972年開催のISIC5th
  1972年の国際会議に参加した日本人はほとんど初めての訪欧であったが、豊倉が1968年訪英時に知り合ったJ.W,Mullin先生とJ.Nyvlt博士に紹介頂いたProf. de Jong (TS Delft)や企業を会議終了後訪問して、訪欧前に考えていた以上に大きな収穫を得ることが出来た。当時のヨーロッパにおいても工業晶析装置設計に適用できる設計理論に関心は高い時代であって、同行の青山さんが早稲田大学で提出した晶析装置設計理論を使って日本の工場で稼働していた大同型晶析装置データを検討したことに高い関心を示し、初めて参加した国際会議で日本人が発表した研究成果は強い印象を与えた。この学会参加の経験を踏まえて1975年開催のISIC6thにも是非参加しようと相談したが、実際の参加は青山さんと豊倉の2人になっても前回の歓待を思い出したした2度目ことで気楽に訪問した。その時の会場はPrahaの西100kmの地方都市Ustiにあって、その会場で同志社大学の奥田先生にお目に掛かった時には、お互いに心強い思いをした。

2・2)1976開催のISIC6th
  ISIC6thでは、最初のセッションに当時欧米で着目されてた2次核発生に関する発表が配置されていて、豊倉は、ISIC5th後にオリジナルに考案した方法で工業晶析装置設計への適用を目指して始めた2次結晶核発生速度の研究成果を発表した。その論文について、その後ポーランドのDr.Piotr. Karpinskiから、非常に興味を持ったので早稲田大学に留学して研究したいという手紙をDr.J.Nyvltの推薦書も添付して送ってきた。彼は、豊倉を通して日本学術振興会に申請して支援を受け、1977年4月より1年間早稲田大学に留学して研究成果を上げ、帰国してその論文を1978年にワルシャワで開催されたISIC7thで発表した。彼は、日本滞在中に時間を見付けては、晶析研究を行っていた大学や企業を訪問して晶析についての討議を重ね、そこで親しくなった日本人研究者・技術者にISIC7thに参加するように勧誘していた。この彼の人柄と努力は実って、日本から早稲田大学大学院学生3名を含めて20名近く人が参加して、日本の晶析グループのパワーを世界に示すことが出来た。

  また、青山さんが発表した、湿式燐酸の晶析法による精製晶析プロセスは、UCLのMullin教授も高い関心を示し、日本への帰途LondonのUCLを訪問した時先生は、まだこの技術をヨーロッパにライセンスしてないようだったら、欧州の企業に紹介しようかと云われる程であった。

2・3)1978 開催のISIC7th
  1978年のISIC7thでは、日本で晶析研究を行っていた多数の人が参加し、同年春に日本から帰国したDr.Piotr Karpinskiはシンポジウム実行委員あって、日本人の世話をしてくれた。その時、中井・青山さんらと相談してPiotrに依頼し、日本からの参加者主催の懇親会をヨーロッパ主要国の研究者を招いて国際会議開催の前夜に開催した。この会は特に過去2回のISICに参加した日本人の感謝を表したものであったが、日本から初めて参加した人達からは、これまで論文の中でしか会えなかった人と一晩で親しくなり、本番の会議では前夜の続きで英語がスムースに出てきてよかったと云われたときには、Piotrのお陰と彼にお礼を述べた。

3)1986年東京開催の第3回世界化学工学会議に向けて
  日本の晶析分野の研究者は、1978年開催のISIC7thまでに3度の国際会議に参加し、晶析分野のヨーロッパ主要国の研究者とは親しくなれたが、日本の晶析研究を更に発展させるためには、世界の研究者と関係を更に密接にする必要があると考えていた。1978年の訪欧の時には、豊倉は1980年には、早稲田大学海外派遣研究員になる可能性が有りそうだと判断して、ISIC7thの国際会議の合間にその準備を考えながらヨーロッパの人達と色々相談した。

  そこで、事前に考えた案としての出張期間を早稲田大学夏期休暇の期間を含めた4ヶ月と想定して次のように3期に分けた計画を立案していた。

i)最初の1ケ月間は、ヨーロッパの大学(UCL)に滞在してこれまでに行ってきた研究活動を整理し、ヨーロッパ滞在中にヨーロッパの研究者・技術者との討議に備える準備を行うこと。
ii)次の2ケ月は、ヨーロッパ内を自由に移動できるようにユーレルパスを購入して移動し、ヨーロッパ各国の大学、研究所、企業を訪問して晶析工学・その他の見聞を広めて、帰国後の研究活動の飛躍的発展に対する基礎を堅めて、将来の発展に備える。
iii)最後の1ケ月間は、ヨーロッパの企業研究室に滞在し、それまで豊倉が行ってきた晶析装置設計理論を世界の企業技術者が理解し、それぞれが抱える晶析製品の生産に適用出来るよう、より完成度の高い晶析装置設計理論の確立を図る。・・この1カ月間の滞在については、1978年ワルシャワで開催されたISIC7thで会って晶析技術について討議したドイツ、DuisburgのStandard-Messo社、社長Dr. Messingに1980年に再びヨーロッパに来て、晶析装置設計理論の研究をしようと考えているが、その時、貴社に1ヶ月滞在して研究してもよいかと尋ねたら、彼は、即座に受け入れを快諾したので、豊倉は、その時ヨーロッパに来れば1ヶ月受け入れられると思って予定を組んだ。

  豊倉が、1980年度早稲田大学在外研究員として決まったのは、1979年の秋であったが、早稲田大学に提出して承認された在外研究員としての研究計画実行の準備は、ヨーロッパの知人と打ち合わせ済みであった。その時、追加事項として考えねばならないことは、1986年秋第3回世界化学工学会議が東京で開催されることに決まったことであった。この機会に世界の晶析グループの指導的研究者・技術者が来日して会議に出席するよう勧誘し、欧米人に同伴して来日する夫人のことも配慮して対応を考えた。

  そこでは、晶析グループとして海外からの来日者に日本におけるオリジナルな晶析研究・晶析技術開発の研究上の特徴と日本人の民族性・日本文化を理解して貰えるよう準備することにし、また、滞在期間中における対応にも満足して帰国されるよう事前に検討した。これらは、国際会議を開催する当事者として当然なことだが、その個々のことは時代と共に変わるので、1980年代に晶析グループが行ったことを記録にしておくことは、日本の将来のために意味あることと思い、来月以降のtc-pmtの記事に継続して記述する。

4)むすび・・何ごとも評価を受ける「まとめ」を考えて;
  豊倉が晶析研究を始めた頃、研究室の先輩から自分のテーマを決めたら、日本国内でその分野のことなら「早稲田大学の誰々に聞いてみろ」と言われるように早くなれと言われたことがあった。その時はその通りと思ったが、いざ自分で研究していることを振り返ると、それまでに学会で発表された先輩達の研究成果の後追いばかり気になって、そこに自分の名前は一向に出て来なかった。偶々、まだ誰も発表してない研究成果に突き当たると、その成果は第三者に評価されるものかどうか判断出来ず、それから暫く孤独な時間を過ごしたこともあった。その時、自分と似たような研究成果の発表を見付けたら「ホット」したが、他人の成果と自分の成果では、何処が違うか検討して自分の方が良さそうだと思えた時、はじめて先輩に言われた研究者の末席に辿りついたのだと思った。日本国内の学会で晶析装置設計理論を発表して、初めてこの研究成果に自信が持てるようになるのに1年以上掛かった。それが、世界の場でその気になったのは、1972年のISIC5thに引き続いて行われたWPCの話題提供にLarson,Nyvltと豊倉の3人で順番に自分の装置設計理論を話す機会が与えられた時だった。もし、1972年の国際シンポジウムに参加してなかったら、半信半疑の期間はそれからも続いたことと思っている。最近、国際会議の頻度は多くなったが、このような機会は何時、何処にあるか分からないので学会発表は大切に行わねばと思っている。

top

Home | ホームページ設立の趣旨 | 掲載予定の記事について
豊倉賢略歴
| apppendix | 新規掲載記事