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豊倉賢略歴
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2012A-01,1: 豊倉 賢  「  豊倉研究室のホームページ;tc-pmtを始めて8年が経過し、これからを考える 」

1)はじめに・・tc-pmtの立ち上げを思いだして;
  豊倉が1959年早稲田大学大学院城塚研究室に配属なって始めた晶析研究は、最初の 研究課題が終了してその成果が纏まると、それに関連した重要課題の研究を続けて行うようになり、そのサイクルを繰り返しているうちに、40年が経過して1999年3月定年を迎えた。それから5年間は、現職時代に行った研究に関連した仕事の処理に追われていたが、それも大体片付いたところで最後の仕事として、早稲田大学在職中に行った晶析研究に関連したことで、これまで構築した工業晶析理論や工業晶析技術をこれからの研究者や企業技術者がさらに発展させる研究を進める時、それらの晶析研究や技術開発で参考になると思う豊倉研究室での経験や豊倉研究室の卒業生らが国内外の研究者・技術者らと行った討議などを通して纏めた考え方など、将来の発展のために整理しておくことを重要と考え、豊倉研究室のホームページ; tc-pmt を2004年に立ち上げた。

  このtc-pmtで対象にした記事は、早稲田大学豊倉研究室の晶析研究で進めた新理論の提出で対象とした晶析装置・操作の主要現象解明で想定したオリジナルなモデルが新理論体系確立に繋がった実例や、企業プラントの生産工程で、より良い製品をより容易に生産する生産技術の開発で経験したこと等を詳細に分かり易く記述することをHPの特徴にした。一般に、大学における研究論文は、学会誌等に発表することが主目的であり、オリジナリテイーに着目した研究成果を正確に記述することが中心となる。豊倉の経験でも、学会誌に発表する論文は、どちらかと言えば、その論文を纏めるのに必要な研究過程のみに着目して書くことが多かった。しかし、優れた研究者による研究成果も、その研究過程を振り返ってみると、一つの着想に基づいて真っ直ぐ進めて、寄り道することなく目的とする結論に到達することは稀で、多くの場合、その研究過程で周辺の研究も同時に行いながら広く検討を重ねた上で研究成果を纏めることが多いようである。しかし、その研究成果が、一つの論文として纏められて発表する時は、その周辺部分の検討を削除することが多いのが現状のようです。一方、若い研究者がその論文を読む時、その周辺部分も同時に読めたら、研究成果を纏めて発表した研究者がその研究を行った時の状況をよりよく理解しやすくなる。また、この、一見余り重要でないように思われる部分も、ゆっくり時間を掛けて読むと、著名の研究者が書いた論文の深い意味を理解できるようになって、その後の研究活動に大きな影響を与えるものと考えています。

  これまでのHP : tc-pmtでは、将来を担うこれからの研究者・技術者のことを考えて、記述内容に上記の配慮をしてきたが、これからもその方針を継続する。

  また、大学の研究室で行われる研究は、研究室に所属する学生の貢献は極めて大きい。実際、研究を行う学生は、指導教授の指示によって複数ある研究課題の中からテーマを選んで研究するものであるが、その研究課題の中にはまだ誰も研究してないことがあって、その道を目標に向かって進み続けることは決して楽なことでない。学生が研究室の中でこの茨の道を孤独に頑張り続けることは容易なことでなく、時には研究室の仲間と互いに助け合って乗り越えた研究者は,人間としても成長するもので、その絆は卒業後も続いている。tc-pmtは早稲田大学において研究してきた晶析工学に関心の有る人々に寄稿を勧誘しているがその中には、研究室で過ごした時代の想い出と合わせて卒業後の近況をお互いに報告して大きな活力としてきた。これらの記事も大切に継続する。

2)20世紀後半の晶析工学研究・晶析技術とtc-pmt;
  tc-pmtは、当初より研究室卒業生の賛同を得て積極的な寄稿を受けて始めた。豊倉が、城塚先生のご指示で晶析研究を始めた頃の化学工学は、国立大学の先駆的指導教授の先生の中には、晶析工学の重要性を認識しておられ、豊倉が晶析研究を始めた10年以上も前から研究を行っていた。その一方、著名な国立大学の複数の先生は、「晶析は非常に難しいから、そのような研究を始めると命取りになるから研究するな。」と云われて居られたようで、産業界の晶析技術に対する考え方も大方は似たようなものであった。

  しかし、豊倉が早稲田大学大学院に入学した前年には、化学工学協会関東支部で初めて支部主催の晶出に関するシンポジウムが開催されていたようで、そのことは論文の予稿集で知った、それでも、毎年開催される化学工学協会本部大会で発表される晶析分野の論文数は、他の単位操作の発表論文より遙かに少なく、国内の晶析工学の将来展望は混沌としていた。一方、その頃の城塚研究室の空気は、産業界の化学工学に対する期待を受けて、抽出工学や反応工学に対する関心は高かったが、晶析工学に対しては城塚先生の期待は高かった。それでも卒業生や在籍学生間の関心は低調だった。また、晶析に関心の高い国立教授の研究室での状況も似たようで、このままでは、早稲田大学から晶析研究は消えるのでないかと思われる程であった。豊倉が、博士課程に進学した1961年4月、城塚先生は豊倉に、世界の晶析研究者に先駆けて早稲田大学で工業晶析装置設計理論を提出して、それを化学工学便覧に掲載出来るようにしようと云われた。その方向転換が切掛けになって、1963年6月、オリジナルに提出した無次元CFC晶析因子に基づいた一連の連続晶析装置設計理論を提出した。この理論は、化学工学に投稿すると同時に、それを分かり易く解説的纏めた論文を化学工業社発行のケミカルエンジニヤリングにも発表した。その結果、国内造船企業のエンジニヤリング部門やエンジニング会社および化学企業の晶析担当技術者は稼働中のプラントや増設プランの相談に早大化工研究室に来るようになり、この設計理論を発表して2 ~ 3年の間に国内企業数社の稼働プラントの相談を受けて工業晶析装置の勉強をすることが出来た。

  1964年12月、豊倉は、当時工業晶析装置開発研究で世界的に知られていた、米国TVA公社から招聘を受けて、世界食糧問題との関連で開発していた燐硝安プロセスにおける晶析技術の開発研究を行った。TVA滞在は2年間であったが、米国合衆国晶析分野の代表的研究者、Profs. Larson & Randolph や米国エンジニヤ企業の技術者と親しくなり、早稲田大学で提出した晶析装置設計理論の評価を受けた。米国滞在からの帰途ヨーロッパを訪問し。英国ロンドンのUCLでチェコスルバキアのDr. J.Nyvltに会い、豊倉が提出した連続晶析装置設計理論に非常に興味を持ったと評価され、当日ヨーロッパ大陸に出張していたUCLに不在であったProf. J.Mullinも豊倉が米国より送った設計理論の論文を見て、高い関心を持っていると伝えられた。

  1968年11月、日本に帰国して城塚先生にご挨拶申し上げた時、同年5月10日に丸善より出版された、藤田重文先生を委員長として編集した改訂三版化学工学便覧を手渡され、君が渡米前に執筆した原稿が完成し、君に寄贈された著者宛の贈呈本を預かっていたものだと伝えられた。その時、大学院博士課程在籍中に提出した晶析装置設計理論が、この便覧に本当に掲載されたのだと思って、10前に城塚研究室に配属したときの事を思いだした。また、城塚先生のお話しを伺っていると、日本国内の化学工学はこの2年間に大幅に変わったと感じて、城塚先生に1968年4月に発足した化学工学協会研究委員会に、1969年4月設立の「晶析に関する研究会の設置」の申請をお願いしてお聞き届けを頂いた。

  1969年度化学工学協会研究委員会に城塚先生を代表とする晶析に関する研究会の設置は承認され、日本の晶析研究も軌道に乗った。しかし、当時の研究会は、原則1年間の単年度研究会であって、必要に応じて研究委員会の承認が得られると一年限りの継続は認められたが、その期間だけの活動で晶析研究を完了することは出来ないと思い、晶析工学を発展させるためには、このような研究組織はさらに継続させる必要が有ると考えた。そのためには、協会の研究会が活動してる期間内に然るべき成果を上げて、その実績を基に同好の士を集めて実質的活動を継続するよう相談した。その結果、1970年度末には、晶析工学研究を継続して行う自主的な研究会を再編することにした。

  一方、ヨーロッパ化学工学連合 (EFCE) において晶析研究組織編成の動きがあり、1969年3月Londonで晶析研究会準備委員会が開催されてその結論は9月に行なわれた総会で承認され、WPC ( Working Party on Crystallization )の設立となった。このWPC主催のによる初めて世界規模の国際晶析シンポジウム ( ISIC5th )が1972年9月Prahaで開催されることになった。その頃、豊倉が米国の帰途LondonのUCLで初めて会ったDr.J.Nyvltは、EFCEの総会で指名を受けてWPCの国際議長を務めていて、1971年3月豊倉に航空便でこの国際晶析シンポジウムの開催案内と是非参加して論文を発表するようにとの要請をしてきた。豊倉は早速城塚先生にこのことを伝え、中井先生と相談して当時の化学工学協会・晶析研究会のメンバーに1972年Praha開催の ISIC参加の勧誘をした。このNyvltからのICISへの参加要請は、日本の晶析研究者・技術者に大きなインパクトを与えることになり、晶析グループとして初めて海外派遣団を結成して7名が参加して4件の論文を発表した。日本からの訪欧団に対する欧米の晶析研究者・技術者の評価は高く、その対応は非常に好意的であった。

  日本の晶析グループは1972年のISICに参加したことで、それまで晶析研究者が世界とのパイプを持たず、世界から置いてきぼりにされないようにしようとした後進国的発想から脱皮して世界の仲間入りを果たすことになった。豊倉は、以降3年毎にヨーロッパで開催されたISICに1999年早稲田大学を定年退職するまで、複数の日本人研究者・技術者と継続して参加し続けた。その会議はEFCE所属の各国代表者が構成するWPCによって主催され、世界各国における晶析研究・技術の発展に関する活動状況の報告や情報交換、及びWPCの発展に関する活動が討議された。この会議の参加者は、原則ヨーロッパ圏内各国の代表者によって構成され、米国と日本は1972年開催のWPCより、Permanent Guest扱いとしてProf,M.A.Larsonと豊倉が招かれて参加していた。各会議の事情によってはそれ以外の人もWPCの招待を受けて参加していたが、そのメンバーはTemporary Guest としてであった。日本から参加の豊倉も公式にco-opted member になったのは1986からであった。このWPCメンバーは、固定した特定の人が招待されるようで、豊倉は正式な推薦基準を聞いたことはなかったが、ヨーロッパ以外の人の場合、その国内の晶析研究や技術開発が活発で、その国を代表する然るべき学会の推薦を受けられ、その人が晶析研究や技術開発に関して充分な活動をしていることをヨーロッパ各国の代表者から認められることが必要なようであった。

  豊倉は、1972年以降も、1975年のISICで2次核発生速度に関するオリジナルな研究成果を発表し、それを切掛けに、Dr. P.KarpinskiやProf.J. Ulrichが早稲田大学豊倉研究室に留学し、また、1986年に東京で開催された第3回世界化学工学会議・晶析セッションの日本側座長を務め、積極的に広報活動を行って、欧米各国を代表する晶析分野の研究者ら約30名の参加があった。それ以降、1989年開催の国際結晶成長学会の工業晶析セッションの座長をはじめ、米国、中国など世界各国で開催された晶析分野の国際会議の運営においてもEFCE・WPCの協力を得て成功裏に進めることが出来た。これらの行事の状況については、その一部をtc-pmtに掲載して、これから期待される晶析分野の活動参考資料の保存に務めている。

3)むすび・・・ 2011年Zurich開催のISICとこれからのtc-pmt
  昨年のISIC18はスイスで初めて開催され、世界各国から例年通り多数の研究者・技術者が集まって盛況であった。最近、この国際会議を主催するWPCメンバーは世代交代期に入ったようで、そのメンバーは変わってきているが、それに加えて発展著しい中国・韓国からの参加者が増加して新時代が始まった印象を受けた。一方、日本からの参加者の世代交代も進み、その新しい活力は期待されている。それに応えるには世界の産業界に活を入れる日本らしいオリジナルな研究成果が不可欠で、近未来のISICを楽しみにしている。1972年に初めて参加したISICでは、それに引き続いて開催されたWPC会議で、当時世界的に注目されていた Design of Crystallizersがテーマとして取り上げられLarson, Nyvlt,& Toyokuraの3名が話題提供者に指名された。ここで、発表した日本で独自に研究した晶析装置設計理論は欧州では初めての内容で、高い関心が持たれた。その後、Mullin教授に、「欧米にない、日本でオリジナルに提出した成果を聞かして欲しい。」云われたことがあった。また、1970年代~ 80年代にProf.J.Ulrich,やDr.E.Kratz,その他複数の外国研究者・技術者から、日本の研究者・技術者の独創的な研究成果を評価していた話を聞いたこともあった。これからのtc-pmtにより具体的記述を予定している。


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