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豊倉賢略歴
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2011A-07,1: 豊倉 賢  「  二十一世紀の贈り物 C-PMTを振り返って 」
  ・・C-PMT.pp.58~ 60 掲載の豊倉の記事「青山氏の思い出」を再読して考えたこと

1)はじめに
  豊倉が早稲田大学城塚研究室に入学して晶析工学の研究を始めて4年経過した1963年初夏、欧米で発表されていた晶析装置の設計理論に関する研究論文を検討して、それらの研究で想定された晶析装置モデルより工業晶析装置の実態に近いモデルを想定して研究を始めた。そこでは、この新しい装置モデルを対象に装置内の晶析速度と製品結晶の生産速度の関係を結びつける関係式をオリジナルに誘導し、それによってこれまでと全く異なった晶析装置設計理論式を提出した。それは、豊倉が独自に考案した無次元製品結晶粒径と無次元操作過飽和度を使用したもので、それまで欧米先進国で研究されてきた連続晶析装置設計理論になかった全く新しい特徴のある新しい「無次元晶析操作特性因子」の創成であった。

  その因子は、製品結晶の粒径、形状、結晶生産速度に全く関係のない無次元数で、結晶製品を生産する時、その個別な事情によって異なってくる装置形式、製品結晶の代表粒径や形状係数など結晶製品の生産段階で必要になる数値はなく、特にスケールアップなどに関与する因子を一括包含する総括因子「無次元晶析操作特性因子CFC ; Characteristic Facter of Crystallization」で、前述の個別晶析装置設計において製品結晶を直接表示する製品結晶粒径や最大操作過飽和度などの数値を纏めて示す「製品結晶生産因子A」との積を算出することによって、単位装置容積当たりに生産される所望製品量を計算できた。この数値を求めると、その数値の逆数として掛けることによって、所望生産量の結晶を生産するのに必要な装置容積を容易に算出できた。

  一方、一部の化学製品や精糖・製塩工業などでは、その当時既に結晶製品を生産していたが、その製品を生産する晶析装置や操作を設計できる理論は提出されておらず、一部の経験豊富な技術者が試行錯誤を繰り返しながら目的結晶製品を生産できる技術を開発し、それによって生産していた。そのため、良質な結晶製品を生産できる装置・操作法が開発されると、以降はそれと同じ製品を生産するのに、装置のスケールアップやスケールダウンは避けるようにして、増産には同じ装置を複数立ち上げ、並列に並べて需要に応えるという話を当然のごとく聞かされた。

  豊倉が晶析装置設計理論を提出した当時の日本産業界は高度成長期に入っており、化学企業各社は製品の増産、装置の増設、新製品等の開発に多忙を極めた時代であって、晶析プロセスの開発に対しても産業界から強い関心があり、種々の結晶製品生産の要望に応えるために晶析理論を確立することが化学工学研究者の間で緊喫の課題になっていた。しかし、晶析操作は、他の拡散分離操作と異なった現象があって、それに対する研究は余り進んでいなかった。それでも1960年代には化学工学分野の先駆的研究者の中にはぼつぼつ晶析研究を始める研究者がいたが、それでも、晶析研究を避けようとした研究者や技術者は相変わらず多かった。

  豊倉が晶析装置設計理論を提出した1960年代半ばには、晶析装置設計理論を学んで社内で抱える結晶製品生産に関する課題を解決するため、豊倉研究室を訪問する化学企業技術者が増えてきた。そのような、産業界の状況変化を受けて豊倉は、それまでの一連の研究より晶析装置設計理論の体系化を図ることを主目的に研究してきた視野を拡大して、産業界の要望に即した研究テーマに焦点を近づけ、所望結晶製品を安価に安定生産できる装置・操作法開発の研究も同時に進めるようにして、晶析装置設計を簡便に行える設計法の提出も研究対象に加えた。

  このように企業技術者との交流が活発になった1965年正月、海外のエンジニヤリング企業から晶析技術の提携を受けて晶析装置を商品項目に加えた国内某造船企業陸上機械事業部の招きを受けて晶析装置設計理論の講演を行った。その時、講演後の質疑で機械部担当役員から、Krystal-Oslo型晶析装置の外壁は高さ方向に勾配があるが、その勾配はどのように決めるのかとの質問を受けた。その時豊倉は、実機Oslo型装置外壁の勾配について企業技術者と討議したことはなかったが、装置内に懸濁する結晶について次のように考えた。

  Krystal-Oslo型晶析装置では装置内に懸濁する結晶は装置底部から上昇する溶液流によって液体流動層を形成すると共に分級操作も起こっているので、塔底部に懸濁する結晶は比較的均一粗大結晶となる。ところが、その装置内に懸濁する結晶は、装置内高さ方向の位置が上方になるにつれて、その粒径は次第に小さくなる。この装置内に懸濁している結晶が形成している液体流動層は、装置内に懸濁している結晶の流動特性式よって決まるので、この特性式を適用すれば、装置内高さ位置における結晶粒径は決定できる。それと同様に装置内位置における結晶の懸濁密度も推算できる。

  一方装置内容積当たりの結晶の生産速度はその結晶が単位装置容積内に懸濁している結晶の表面積とその溶液の過飽和度およびその結晶の成長速度係数の積で算出できる。そこで、装置内各部の結晶生産速度から装置内全体の結晶生産速度を積分して求めると、それよってその装置全体の結晶生産速度は容易に推算できる。しかし、その装置の形状が円筒であると、流動層の流動特性式によって決まる装置上部に懸濁する結晶粒径は小さくなり、それと同時に結晶懸濁密度も減少するので、単位装置容積当たりの結晶生産速度は、装置内懸濁密度が一定になるように設計された装置より小さくなる。それを逆に考えて、装置内に懸濁する結晶の懸濁密度を一定になるように設計するとその装置は効率のよいOslo型晶析装置になる。この考え方に従うと、液体流動層の特性式によってOslo型装置の側面形状を決めると効率の良い装置、言い換えると生産効率の高い晶析装置になる。その装置を設計する関係式を提出すると、造船企業陸上機械部担当役員の質問に対する回答として、装置効率の良いKrystal-Oslo型晶析装置を設計する時の装置外壁形状の決め方を示したことになった。

  ここでは、話を少し回り道して、装置内結晶懸濁密度一定のKrystal-Oslo型晶析装置の設計式を研究するようになった経緯を紹介した。当初、この論文は研究者としの豊倉にとってどのような価値があるか全く分からなかったが、今から考えてみると、豊倉は青山吉雄氏と生涯を通して昵懇なお付き合いをするようになり、晶析工学ばかりでなく、種々のことで意見の交換も出来るようになって、豊倉の人生にとって計り知れない価値のあった関係が出来たのだと思っている。それは、今から思うとここで紹介した晶析装置内結晶懸濁密度一定の連続分級層型晶析装置設計法を研究し、それを日本の学会誌化学工学に一つの論文を発表して、それが青山さんの目に止まったからであったと思っている。

2)青山さんとの最初の出会いと1970年代の晶析研究活動

2・1)装置内結晶懸濁密度一定Krystal-Oslo型晶析装置と青山さんとの関係
  豊倉が標記Krystal-Oslo型晶析装置設計理論を研究してそれが青山さんとの関係に発展したのは、1 )はじめに で記述した通り、1965年1月都内の某造船企業本社に招かれて講演したあとの質問に対する回答を整理して論文にしたからです。その理論は「連続式円錐形分級層型晶析装置の設計法」と題して化学工学30巻4号p.359 (1966) に発表した。その解説記事は化学工業社発行のケミカルエンジニヤリング(7), 77 (1966) ”晶析装置および操作の設計法 (4), 晶析装置と操作?分級層型晶析装置” の一部として掲載して掲載した。この研究の概要は化学工学の論文の主要部分を簡潔に纏めているので、主要部分の大筋を理解するのに分かり易いと思うが、その設計理論やこの理論の使い方はついては化学工業社発行雑誌の解説記事の方で詳しく書いてあるので分かり易いと思うのでその目的に応じて、理解しやすい方を御覧下さい。(上記雑誌は45年前のもので入手し難いかと思うが、豊倉が1992年に纏めた晶析工学の進歩に、両方の論文と記事をそれぞれ掲載している。この論文等に関連したことで分からないことがあったら、豊倉に直接問い合わせ下さい。)

  この節 2・1)の本題である、「この論文と青山さんとの関係」は1966年3月城塚研究室を卒業して住友化学に就職した中沢さんが豊倉に送って来た手紙から始まった。実は、中沢さんは、学部4年に進級した時、城塚研究室の配属になり、豊倉と一緒に連続晶析装置設計の研究を卒論テーマとして始めた。その関係で、豊倉が提出した標記論文の内容はよく知っていた。話は、中沢さんが早稲田大学を卒業して、住友化学に就職して、まだ日も余り経ってない頃の事で、「晶析装置の特許を調べていたら、豊倉が提出した標記論文の理論式で設計した逆円錐形分級層型晶析装置と非常によく似た形状をした連続晶析装置が特許公告に掲載されてるので驚いた」と云うことでした。実は、この特許申請者の青山さんの名前は豊倉も聞いたことはあったが、その人が豊倉と同じテーマを研究していたとは全く知らなかった。この中沢さんからの連絡を早速城塚先生にお伝えして、「直接青山さんにお目に掛かってこの装置について、青山さんの話を聞きたい。」と豊倉の希望を申し出たら、先生はすぐお許し下さり、豊倉は青山さんに直接お目に掛かりたいと手紙を送った。その時、その手紙の中に豊倉の簡単な自己紹介と化学工学に発表した論文のコピーを同封した。

  それから数日して、(株)大同鉛取締役研究所長という名刺を持った青山さんが、東京支店長の小川さんと一緒に早稲田大学城塚研究室にご挨拶と云ってお見えになった、この時、豊倉は城塚先生と一緒にお目に掛かったが、青山さんはお忙しいようで、青山さんが開発された装置の話は余り伺えなかったが、一度ご都合の良いときに大阪・西九条の本社に来て、豊倉の設計理論の講演をしてもらえないかとの申し出を受けた。その時、城塚先生は気持ちよくお引受け下さって、君の都合の良いときに行ってらっしゃいと云われて、私の講演をお許し下さった。その時、豊倉のTVA留学の話が、事務手続きを残してほぼ決まっていたのでスケジュール的には可成りタイトであったが、近々大阪で開催される学会の翌日訪問する約束をして分かれた。しかし、豊倉が本社にお邪魔した時。青山さんは急に出張が入って不在であったが、青山さん以外の晶析装置に関係のあった主だった人達は皆出席していたようで、本社、研究所の技術関係の方々50名ほどの人が参加されていたようであった。そこでの講演終了後に、研究所内の実験装置も案内頂いて、その日の内に帰宅した。

  それから数日して、青山さんから直接お電話があって、本社での講演に対するお礼と、当日留守にしたお詫びの言葉を頂き、今度は必ずいるから豊倉の渡米前に再度大阪に来て晶析装置設計理論の話をして欲しいと頼まれた。その時、豊倉が渡米を予定していた日程の1週間前の12月上旬に大阪で学会のシンポジウムがあるので、それに出席するから、その終了した日の午后本社にお邪魔することにした。当日はまた三井東圧の大阪工業所の尿素プラントを見ることにもなっていたので、それも済ましてその日の新幹線で東京に帰った。その車中で自宅に電話して東京のアメリカ大使館からビザが下りたから、渡米する家族と一緒に大使館に出頭するようにとの連絡が来ていたことを聞いて、初めて渡米が決まったと知った。その時は豊倉にとって初めての渡米前のことで、何もかも初めてのことばかりで本当に忙しく、青山さんには電話をする時間もなくてそのまま日本を離れてしまった。その後米国より帰国して青山さんの話では、豊倉の講演を聴いて初めて豊倉の設計理論を良く理解することができ、青山さんの手元にあるデータをその設計式に入れて工業晶析装置の設計をすると設計は簡単で、また、納品した晶析装置で生産した製品結晶は、設計時に設定した結晶粒径とほぼ同じものを所定量生産できて、これからは豊倉な設計理論を使用して工業晶析装置の設計をすることしたと伺い、本当に良かったと嬉しく思うと同時にホットした。

2・2)1968年11月豊倉が海外から帰国して以降、青山さんと共に活動した1970年代の日本晶析グループの研究活動
  豊倉は1968年11月、2年間の海外生活を終了して帰国した。そこで気にしてたことは、渡米前に話題になっていた化学工学協会研究部門委員会が化学工学協会に設置され、1968年4月に複数の研究会が発足していたことであった。そこで、城塚先生に、晶析分野の研究会を立ち上げていただきたいとお願いして、先生のご指示を頂きながら研究会発足の準備を始めた。その時城塚先生のご提案で、中井先生と豊倉が幹事を務めることになり、その他のメンバーは、大学の先生からは、姫路工業大学の中島・広田先生、メーカーは月島機会の守田・河西氏、大同鉛の?山氏、三菱化工機の森田氏、舞鶴重工の松岡氏、旭ガラスの守山氏、日産化学の小久保氏であって、代表者であった早稲田大学の城塚先生と幹事2名を加えた12名で研究会を発足した。当時の研究会は研究部門委員会の規定に従って、研究会を立ち上げて2年経ったところで研究会活動は完了することになっており、この晶析研究会活動終了直前の1971年2月、ヨーロッパ化学工学連合(EFCE)公認のWPC International ChairmanであったDr.J.Nyvltから1972年9月Prahaで第5回のISIC5th を開催するから、是非日本からも参加して論文を発表するようにとの案内が来た。その案内は化学工学協会公認の晶析研究会のメンバーに大きな刺激を与え、研究会メンバーを中心に参加団を結成し日本から8名が参加し、中井先生と青山さんに加えて早稲田大学から2報の論文を発表した。この時青山さんは、日本で開発したDaidoh type crystallizer−Continuous classified−bed type with Cone shape を発表した。それは日本で開発した工業プラントで、その稼働データも発表して豊倉の設計理論で検討した。また、豊倉がこのシンポジウムで発表した晶析装置設計理論”Design of a continuous classified-bed crystallizer (Krystal-Oslo type)“は、オリジナルに研究して提出したCFC因子( Characteristic Facter of Crystallization)をベースに確立した設計理論で、参加した世界の晶析分野の研究者や技術者から注目を受けた。

  これまで、日本の晶析グループと欧米の研究者との交流は、1972年春UCLでsabbatical yearを過ごしたアメリカのM.A.Larson 教授がイギリスからの帰途、日本に寄って講演したことがあったが、それ以外は殆ど豊倉を通した交流であって、1972年に複数の日本人研究者・技術者がヨーロッパに出張して世界の研究者らと直接討議をすることが出来たのは、非常に深い意義があって、日本の晶析研究は一気に世界の仲間入りを果たした気がした、

2・3)1975 年のISIC6th参加と1978年ISIC7thに参加して
  1972年のISIC5th は3年後にチェコスロバキアのUstiで開催されたISIC6thに引き継がれた。この時、豊倉は青山さんと2名で日本を出発し、Ustiの会場に着いたところで同志社大学の奥田先生と合流して日本からの参加は3人になった。同時に開催されたWPC懇親会には日本からゲストとして3人とも招かれ、その席で欧米各国から参加した晶析分野各国代表者に、前回のシンポジウム以降の日本の晶析グループの活動状況を報告した。このISIC6thでは、前回の工業晶析装置設計に関する研究発表に加えて、2次結晶核の発生に対する論文発表すうが急に増加し、奥田先生と豊倉がそれぞれこの分野での新しい研究を発表した。また、青山さんは当時の産業界で新しい技術として着目されていた抽出法による燐酸の精製法とは全く異なった晶析法による湿式燐酸の精製についての研究を発表し、また豊倉研究室の大学院に在籍していた秋谷君は東京工業試験所の石坂先生中心に進めていた通産省の海水淡水化大型プロジェクトに豊倉と共に参画して行った研究(淡水化プロセスの副産物として苛性ソーダ3・5水塩晶析プロセスの開発)成果を発表した。特に、青山さんの発表した報告については、シンポジウム終了後UCLのProf, J.W.Mullin研究室を訪問した時Mullin先生は、青山さんの発表された研究成果に高い関心を示され、もし、大同の技術はまだヨーロッパの企業と提携していないなら紹介しようかと云われた程であった。また、豊倉が発表した2次核発生速度の研究に高い関心を持ったポーランドの若手研究者 Dr.Piotr Karpinskiは豊倉の帰国後、豊倉研究室に留学したいので受け入れてもらえないかとDr.J.Nyvltの紹介状を添えた手紙を送ってきた。この時、豊倉は、Piotrを受け入れるために日本学術振興会外国人若手研究者対象の長期派遣研究員受け入れ制度の適用を申請した。幸い、この申請は受け入れられ、彼は運良く学術振興会の助成を受けることが出来て、1977年度長期派遣研究員として一年間豊倉研究室に滞在して晶析研究を行った。 彼は、この滞在期間中に大阪・西九条にあった青山さんの(株)大同鉛研究所の招きを受けて見学し、装置外形に特徴のあった大同型連続晶析装置を勉強していたのは印象的であった、

  Piotrの日本留学中の研究テーマは2次結晶核発生速度についてであって、それについても熱心に研究して良い成果を上げて帰国した、また、彼が、日本から帰国した1978年秋には、偶々ISIC7thがワルシャワで開催されることが決まっていて、日本滞在時に参加した学会等で知り合った日本人晶析研究者・技術者、および早稲田大学大学院学生に秋のワルシャワに来てシンポジウムに参加するように勧誘した。その甲斐あって、ワルシャワにはこれまでの国際工業晶析シンポジウムに参加したより大勢の日本人晶析研究者等が参加し、ヨーロッパにおける日本の晶析研究の評価は一気に高まった。

3)1980 ~ 81年における豊倉?青山グループの新しい連続晶析装置設計理論の発表とそれによる企業でデータの検討、およびその後の展開

3・1)豊倉による連続晶析装置を対象にした設計線図の提出
  豊倉は1980年5月より9月にかけて早稲田大学在外研究員としてヨーロッパ7ケ国の大学・企業等の研究所を訪問し、晶析に関する種々の討議を行って1970年代に築いた実績を順調に進展させた。その中で行った工業晶析装置設計理論とそれを発展させて構築した晶析装置設計法は産業界の晶析技術・プロセスの発展に大いに貢献した。

  1980年8月、DuisburgのStandard Messo社に1ケ月滞在した時、定常操作時の結晶生産粒径(Ld:モード径表示、およびLw: 粒子特性数表示)(晶析装置容積当たりの結晶容積生産速度1/h = 単位時間当たりの結晶生産速度)にて表した結晶生産速度は(装置内に懸濁している無次元結晶懸濁密度(−))、(単位装置容積内で発生する平均有効結晶核発生速度(number/h・mの3剰)、および(装置内に懸濁する全結晶の平均結晶粒径成長速度(mm/h)にて表すことが出来る連続晶析装置設計理論を提出した。この設計では、製品結晶の粒径分布は結晶個数基準のRosin-rammler線図に点綴した直線の勾配 (m) が一定な平行直線において、積算結晶個数がそこで対象にしている平行線を構成する全結晶数に対する割合として0,3679になる結晶粒径が粒子特性数Lwであり、通常結晶粒径分布の代表値として広く用いられる。しかし、その粒径は工業晶析操作においてしばしば用いられる粒径分布の最大個数を示すモード径Ldとは異なっている。ここで示される晶析装置で生産される結晶生産速度は、1988年に改訂出版された化学工学便覧の章 (晶析) において晶析装置設計線図として掲載されているので、それが必要な諸氏は、その便覧を参照下さい。その線図は連続晶析装置の安定定常操作時に取得されたデータであれば、晶析装置形式、製品結晶形状および製品結晶粒径の絶対値に関係なく適用できる。この設計線図を使用した工業晶析装置設計への適用については、公益財団法人ソルトサイエンス研究財団平成22年6月30日発行の「そるえんす」65No.85, p,2~7に連続晶析装置設計への適用を目的に執筆した記事を掲載している。この文献は主に製塩業界を対象にしているので、馴染みのないと入手し難いかも知れないので、その記事について不明な事があれば豊倉に直接お尋ね下さい。豊倉が直接対応取りますので、お気軽にお問い合わせ下さい。連絡先は E-mail : です。

3・2)青山さんの連続CEC型晶析装置プラントデータとその設計線図への点綴
  ここに記述した理論を最初に纏めた論文を、1980年9月に青山さんにお目にかけたら、その理論を適用できるデータが手元にあるから、それを整理して見ましょうと言って設計線図に点綴していただいた。ここで対象にした系はアンモニウム明礬水溶液からの晶析で、装置容積は、7.4リットル、0.67および9.70立方メートルの3種類の装置サイズで行ったテストデータと、他の8種類の無機塩類のテストデータを対象に製品結晶粒径と装置容積当たりの結晶生産速度を設計線図に点綴した。それら点綴の特徴を以下に要約する。

i)装置サイズの異なるデータは、比較的結晶生産速度の小さい範囲では、装置サイズに関係なく系特有の同一直線上に点綴され、その点綴範囲の結晶生産速度と製品結晶粒径の関係からその結晶を生産する時の装置内結晶懸濁密度と平均結晶成長速度を決定できる。このことより、この点綴のデータよりスケールアップの影響を余り受けないように思われた。この点綴で得られた直線は設計線図上ではlineBと呼ぶことにしているが、この線は系および操作条件の影響を受けるものと考えられる。工業操作において同一系の生産プロセスを対象にする場合、類似型式の装置を用い、その時の操作条件に余り大きな差異がないと、設計線図上の点綴が同一lineB上に点綴される場合が多く、装置のスケールアップも容易に行うことが出来ると考えられる。しかし、その詳細については未だ検討する必要が残されてることに注意して、工業晶析装置の設計を行わねばならない。

一方、同一系・装置形式等においても装置容積当たりの結晶生産速度を大きくすると。lineBの直線から点綴操作点は下方にずれるようなデータがしばしば見られるようになる。それは、装置内の平均結晶成長速度と平均有効核発生速度の関係に変調が出でるからと一部で考えられている。豊倉が青山さんと討議した結論では、そのような変調が現れてlineBからずれが起こる範囲の操作状態におけるスケールアップは避けるか、さもなければ充分慎重な予備テストを行った上でスケールアップをすることが必要と考えている。
また、装置サイズの特に大きな装置を対象にした場合、大きな装置の操作点はlineB 直線の下に点綴されるようになる。このような場合もそのずれが見られる範囲のスケールアップは、上記の場合と同じように慎重に考えるべきである。

ii)アンモニュウム明礬以外の8系のテストデータの点綴はアンモニウム明礬系の装置容積9.7立方メートルのテストの場合同様装置単位装置容積当たりの結晶生産速度の低い場合は、lineB上に直線的に点綴される。しかし、結晶の生産速度が増大するにつれて、緩い曲線を描くようになっている。またlineBの勾配も系によって異なっていたが、その詳細については、今後の研究成果が待たれる。

iii)1987年Bechnye開催のISIC10thでの研究発表 ( 1981年以降にCEC型晶析装置によってテストされ、取得されたデータの整理・発表 ) とその結果の工業晶析装置設計への適用

  青山さんは1981年のプラントデータ発表後もデータの整理を続けており、1987年に開催されたBechnyeのISIC10thでは、1981年に発表したデータに加えて、その後に整理されたデータを追加して、約50件のプラントデータを設計線図に点綴して発表した。その全データは旧版化学工学便覧に掲載されている。そこでは、1頁に全データが点綴されており、それを見ると結晶製品を安定生産する時の操作条件の範囲に何か意味のありそうな傾向が類推できた。しかし、その詳細は明らかでないが、それが何か分かった時には、工業晶析装置の設計はより簡便になると考えている。

  設計線図による工業晶析装置の設計は、所望製品結晶を生産するのに適した装置型式、装置内結晶懸濁密度、平均結晶成長速度等を決定するとそれを生産できる工業晶析装置を容易に設計できる。それらの決定には、対象に考える結晶製品を生産しやすい工業晶析装置型式を選定し、その小型装置を組み立ててその装置で所望結晶を安定生成させ、その結晶が生成した時の安定操作条件を記録する。そこで実測したデータから安定操作条件を満足する無次元操作因子を決定し、それを設計線図に点綴すると所望製品を生産できる工業晶析装置・操作条件は決定できる。

  また、現行プラントで生産している結晶粒径を大きくさせたり、結晶製品を増産したりすることも、次の方法で容易に可能になる。まず、目的製品を生産する時の希望操作点を設計線図に点綴し、さらに自由度のある操作因子を安定操作条件の範囲で調整して選定し、所望結晶を生産できる操作点 (5点) を決定する。これによって希望の結晶製品を生産できる晶析装置・操作法を設計できる。

  豊倉が1980年代後半以降、晶析プラントの設計や晶析プロセスの開発のお手伝いをしているが、所望製品の生産の障害になるような重要な問題に遭遇していない。それは、重要な問題の起こりそうなことを避けているからで、後者の問題解決には、これから新しい挑戦をする必要が有ると考えている。

4)1980年代の晶析グループの活動
  1981年Budapestで開催されたISIC8thに日本の晶析グループメンバーが多数参加したことは、1970年代に順調に発展して来た日本晶析グループの永続的発展に大きな意義があった。1970年代初期に日本の晶析グループは初めて世界の学会に参加するようになり、日本として特徴のあった晶析研究成果や技術を発表して評価されるようになった。そして1970年代後半になってからは欧米の研究者も来日して日本の晶析研究者・技術者と共同研究をするようになった。1978年開催のISIC7th以降の国際会議には、日本の若い研究者や技術者の参加も目立つようになって、新しい時代を迎えるようになったと感じた。それと時を同じくして、1980年には第3回世界化学工学会議が東京で開催されるようになり、この機会を捉えて日本の晶析研究・技術開発を前進させ、将来の発展に繋げる他らしい動きも始まった。

  それの活動としては、1986年開催の世界化学工学会議に欧米先進国を代表する晶析分野の研究者が、訪日の魅力を感じて来日するような活動をすることが大切で、そのためには、第2次世界大戦以降日本が急速に復興した姿をみせ、それを可能にした日本の技術力やそれを支えた日本の晶析研究成果を見せることが大切と考えた。具体的には、日本の理解に役立つtechnical visit やsocial visitの計画を立案し、それを進める日本晶析グループの準備状況を海外の研究者、技術者にEFCEのWPCを通して広報すると共に、豊倉は1982年以降WPCにGuestとして出席し、晶析分野の研究者・技術者の来日を勧誘することとする。

  その一方、晶析グループの世界化学工学会議に対する活動としては、本部実行委員会が主催する世界会議本番枠内に晶析セッションを独立に設置するよう国際会議の運営に携わった化学工学協会実行委員会に申請した。また、実行委員会が企画するプログラムには、海外から参加する晶析グループの参加者は同伴者を含めて参加しやすくするために日本人参加者の同伴者も協力して参加するようにお願いし、そのことを海外からの参加者に伝え、参加者の期待に応えられるようにした。

  また、 実行委員会から提案のあったサテライトミーテイング晶析会議は、世界化学工学会議に引き続いて2日間のプログラムを、世界化学工学会議会場に近い東京都新宿区にある、早稲田大学7号館会議室で開催し、およそ100名の研究者・技術者の参加を予定した。また、この晶析ミーテイング初日昼食時に早稲田大学大隈会館でテクニカルランチョンを開催し、豊倉の司会で一連の行事で親しくなった参加者がマイクを通して打ち解けた会話を交わせるようにした。

  一方、同伴参加者のプログラムは、開催初日の午前中に新宿副都心街の観光を企画し、午后は豊倉が大変お世話になっていた中央大学教授安藤淳平先生ご夫妻のご厚意で、井の頭公園近い、素晴らしい京都風庭園の趣ある日本建築家屋の先生ご自宅のテイーパーテイにお招き頂きし、10日間を越えた日本国内旅行のお疲れをいやしていただくようにした。夕刻には早稲田大学大隈会館で分離技術懇話会と共催した立食パーテイーを開催した。終了後は、早稲田始発の大型都バスで宿泊していた新宿のホテルにお送りして、東京の夜を堪能いただいた。

  晶析グループによるTechnical visit と Social visitは9月17 ~21日の間、関西から中国・四国地方を訪問し、その後世界化学工学会議の合間に、東京地区近郊と北関東地区の景勝地日光東照宮と奥日光を訪問した。特にTechnical visitでは、青山さんのお世話で、IBM 野洲工場のアルミ処理工場・守時さん開発した神戸製鋼圧力晶析装置、月島機械のDP晶析装置、住友化学愛媛工業所など日本晶析分野の新技術に関する見学会を行った。関西地区でのSocial visitは原納先生・青山さんのお世話で淀川の三十石船川下りとしゃぶしゃぶ料理で京都風情を楽しみ、神戸では、神戸製鋼のお世話で神戸製鋼の圧力晶析装置の実演とレデイープログラムはポートアイランドの田崎真珠の見学と景勝地摩耶山での昼食会など訪問した先々で大変な歓待を頂いた。それは、姫路、広島、愛媛と続き、最後は日光を見学し、早稲田大学でサテライト晶析セッションを終了して、外国からのお客さんを送り出すまで続いた。最後まで海外お客様のお相手をして下さいました晶析研究会の皆様に御礼申し上げます。

  ここで、1986年の晶析研究会の活動を考えると、学会活動生き物で動いているとつくづく感じています

i)1986年の世界化学工学会で晶析セッションとしての独自企画が出来るようになったことは、1970年代初めに、中井先生・青山さんと3人で海外のことを進めていた時代では考えられないことであった。晶析グループとしての交流は1972年からであったが、1977年のDr.P.Karpinski の来日以来徐々に交流が深まって行った。そして、日本の晶析グループの若手研究者が複数海外留学の経験するようになって、1986年の世界化学工学会議には海外から来日したおよそ30名の訪問客に対して充分な対応が取れるようになり、皆、喜んで帰国して行った。

ii)1986~91の世界の晶析はグループの活動は徐々に変わり始めた。1987年にISICは、Nyvltが1960年にチェコスロバキアのUstiで晶析のシンポジウムを開催してから10回目になると言うことでチェコのBechyneで開催された。そこでの会議は10年目と言うことで、チェコの人達の思いは何時もと違った雰囲気を感じた。しかし、全体としては、1986年に日本で開催した世界化学工学の中で開催された晶析シンポジウムに対する配慮があって、FranceのProf.AngelinoとProf.Lagerie のご配慮でToulouseで日仏の国際シンポジウムをISIC10thの前に開催した。1989年には、アメリカのMyerson教授から、Hawaiiで環太平洋化学会が開催されるから、一緒に座長をやって、晶析セッションをしようでないかといわれ、特にヨーロッパからの参加勧誘は豊倉が引き受けてかいさいした。1991年にドイツで開催された第4回世界化学工学会議には主に日本人対象にフランス、スイス訪問のTechnical & Social visitを企画して案内して呉れた。これらの欧米人に日本人に対する対応を見たときに、それは、1986年の世界会議前と後では大きな違いを感じた

iii)日本国内の他の学協会からの晶析グループに対する、対応も1980年代の後半以降の変化を感じた。それは、晶席工学に対する世の中の評価に対する変化があったかも知れないが、それにもまして、晶析研究グループメンバーの活動が活発であったことによるのでないかと思っている。今回は豊倉が青山さんと晶析工学の発展を考えて協力してきた事を中心に考えているが、晶析の将来を担う方々の展望を伺えたらと期待している。

5)むすび
  豊倉は、晶析研究を初めて50年余の間,科学に基礎をおいた工学を目指して研究を続けてきた。そこでは、基礎科学の哲学を逸脱することは出来ないが。現実の人間生活に結び着かない研究を続けていては、工学的価値を忘れるようになる。そうなると工学者としての姿勢が問われるようになり、行き着くところどの分野の研究者からも疎まれるようになってしまう。最近の工学研究者の中には、目先のことのみ研究しようとして、オリジナルで新しい成果を上げることなく、何時までも同じところを漫然と行き来して、何も成果を上げてないと他人から疎まれてしまう人がいる。そのとき、オリジナルな成果は簡単にあげられるものでないと開き直っていて、そのようなことばかり云って、自分の研究態度を反省しない人がいるが,そのような人は研究グループの地盤沈下を起こすだけである。研究者は自らの才能を信じて研究を進めることは大切あるが,同時に,自分の行っていることに対する自己評価を謙虚に行いながら、自分の適性に合った研究課題を自分の得意な方法で研究することが大切である。そのような環境で研究を進める努力をしたとき、はじめて世の中の発展に貢献できる成果をあげることが出来るのでないだろうか? 研究を行っていて壁に突き当たった時、青山さんと会って話をしているとそれを突き破る糸口が見えてきたこともあった。それは、先輩に教えを乞うことでなく,先輩に会うことによって自分の心の驕り気付き、冷静に研究を進めることが出来るようになるからであって、このことを頭のどこかに置いておくことが大切と思っている。

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