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豊倉賢略歴
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2011A-06,1: 豊倉 賢  「  二十一世紀の贈り物 C-PMTを振り返って 」
  ・・C-PMT.pp.15 ~ 16 掲載の豊倉の記事
      「藤田重文先生・宮内照勝先生の思い出」を再度読み直して

1)はじめに
  豊倉が晶析分野の研究者として、世界の研究者・技術者が集まる国際会議に参加したのは、1959年4月、早稲田大学大学院城塚研究室に所属して14年経ってからで、それは、1972年の9月、チェコスロバキアの首都プラハで開催されたISIC5thであった。この14年間を思い出すと、大学院博士課程5年次生として在籍していた1964年の春までの研究は、過去に発表された研究成果を勉強し、その中で新しい研究として発展しそうな実験や解析を行って化学工学協会の研究発表会で発表していた。その時代は、日本国内での晶析研究成果の発表は少ない時代であったので、晶析に関心のある一部の人には早稲田大学の豊倉と言う名前は知ってもらえたが、こんな事ばかりしていては次第に化学工学分野の研究者や技術者から忘れられてしまうのでないかと内心焦っていた。

  当時、豊倉は城塚先生から晶析装置設計理論は未だ確立してないからは、装置内の晶析操作状態を無次元式で表示した晶析装置設計理論を提出することは、晶析工学の発展に貢献する。是非そのような理論を提出するように御指導を頂いた。しかし、そのような無次元式は未だ誰も発表していなかったので、開き直った気持で勝手に装置内の晶析現象を立式し、それを無次元項で現すように変形すると、これまで見たことのない晶析操作状態を表示する無次元晶析操作因子を提出出来た。それで整理して新しい誘導した無次元項を用いた晶析装置設計式を提出した。その式を直ちに城塚先生にお目に掛けると先生は、そうかと云われて後は考えて見ろというようなお顔をされて終わってしまった。これは後から気が付いたことであったが、学生がオリジナルな理論を提出した時、それを提出した学生にさらにその内容を深めてその理論の体系化を図るように研究させ、その理論に関心のある研究者・技術者は誰でも容易に理解できるような理論の構成を完成させることの重要さをご教示下さったことであった。

  この理論がほぼ完成した時、初めて企業技術者に工業晶析装置の設計に使用できる連続晶析装置設計理論を提出したことになったと感じて、研究者の末席に加えていただけるようになったのだと思った。

  豊倉が本格的な学会活動を始めたのは晶析装置設計理論を主にした博士論文を纏めてからで、世界の化学工学分野の著名な研究者や技術者と親しくなったのもそれからであった。豊倉が早稲田大学を退職した頃、日本の大学院博士課程を修了して数年経った若手研究者から、豊倉先生は晶析分野で、世界的に知名度の高い研究者・技術者と親しくされているが、それはどのよう進めたかと聞かれることが時々あった。このような話を聞くと、その人達は、自分はこれから研究を深めて世界の研究者の仲間入りを果たし、日本の晶析工学の発展に貢献することを志している人と思って、そのような若手研究者の手助けをしなければと心掛けるようになった。

  その具体的な行動としては、自分が研究をした頃のことを思い出し、何か機会があればそれを記事にしておこうと思った。ここでは、豊倉が大学院学生時代から長く、学会の役員になっても、色々御指導いただいた藤田先生と宮内先生の思い出を書きます。この両先生は、豊倉が、早稲田大学を退職した時、既にご他界されておられ、C-PMTを出版した時には両先生の思い出を豊倉が書いて掲載した。今回その記事を再読して、さらなる思い出を追加して記述する。

  豊倉が大学院に入学した当時、両先生は既に東京工業大学と東京大学で教授を務めておられ、化学工学協会では主導的研究者として活躍されておられました。その当時の豊倉は、学会の大きな会合では末席から遙かに彼方に両先生を拝顔させていただきました。しかし、豊倉が、早稲田大学院に入学した1~2年生の頃、別の機会であったが、両先生と偶々一言、二言、お話ししたことがあって、将来、何時の日かお目に掛かって、お話しを伺いながら、化学工学の御指導を受けられればと思ったこともあった。ところが、そのような夢を考えていても、当時の研究生活は何も変わることがあるわけでなく、そのまま一日、一日と経って行った。ただ、豊倉は大学院に入学した頃、両先生に一人でご挨拶したり、学会の研究発表会で藤田先生からご質問を頂いたりしたこともあったので、また次の機会が来るかも知れないからその時には化学工学の自分の考えをきちんと話せるようにしておかねばと思って心掛けるようにした。

  両先生と実際にお話する機会に巡りあったのは、それから15~20年くらい経ってからであった。その話は豊倉のが退職の時に出版したC-PMTのpp.15~16に記述しているので、ここでは、それらを含め少し広げて記述する。

2)藤田重文先生の思出
  豊倉が藤田先生にお目に掛かったことが、化学工学研究者としての研究生活の大きな転機となったことが3度あった。そのことを断片的に記述したことはこれまでにもあるので、それを読んだことのある人も居ると思うが、それは、豊倉にとって高い山を登るときに重要な中継キャンプのような店になって、次のステップへ進む重要な起点になっていた。

2・1)1960年夏期化学工学関東支部主催北海道大会での研究発表 :
  豊倉が大学院に入学して行った最初の研究は、自分で調べた米国で発表された晶析実験研究を参考に始めた単一結晶成長速度についてで、その実験結果を標記北海道大会で発表した。(化学工学28巻3号、221、(1964) 掲載)その内容に関心のある方は論文を御覧頂くとして、ここでは、豊倉がその時藤田先生から受けた質問の話をする。豊倉の実験は尿素添加塩化アンモニウム過飽和溶液を一方向に定流速で流した装置内に単一結晶を固定し、その結晶成長速度を測定した。ここで実測した成長速度を当時の化学工学でよく使われていた境界層理論を用いて相関したところ、君の実験で行った固定結晶周辺の溶液流は、理論で想定しているような境界層が形成されてるとは思えない。もっと実験に忠実にデータを整理してみたまえと藤田先生ご自身からご質問とコメントをいただいた。研究発表が終了してから、先生から頂いたコメントを色々考え、まだ学生実験の勉学態度から抜け切れていないと自己反省した。それから、化学工学研究を行う時、その研究の学問的な意義と工学的な価値を充分検討し、実際に使用した実験装置が、研究目的達成に重要な内容を、有効かつ精度の高いデータとして取得し、それらを整理して出した結論は、産業界の技術者が工学的価値を認めるよう進め事が大切であると思い、この当然なことの難しさをつくづく味わった。

2・2)1974 年夏期化学工学協会関東支部主催秋田大会での2次結晶核発生の研究発表 :
  豊倉は、1963年春、CFC因子を提出し、それに基づいて提出した連続晶析装置設計理論が、産業界で認められ、海外からも評価されるようになった。1972年9月のISIC5th終了後直ちに開催された4thWPCでは、そこでの主題であったDesign of Crystallizerについて、豊倉はM.A. Larson, J,Nyvltと3人で話題を提供した。しかし、世界の晶析研究者と肩を並べて活動するためには、これまで行って来た晶析装置設計理論のレベルアップに貢献する新テーマの研究を行わなければと思い、晶析分野における次の新研究課題を求めて、世界の晶析研究の動向を調査・検討した。豊倉が、1966~68年米国TVA公社研究所留学を通して行った2次結晶核発生に関する欧米研究者の研究調査では目を見張るものがあった。そこで、これから豊倉が研究を始める事は後発であって、欧米研究者と異なる着想と進め方が重要であると考え、豊倉研究室の大学院学生とも検討を進めた。1972年のISIC5th年4月に大学院に進学した山添君が、翌年春の大学院ゼミナールで紹介したStrickland-Constableの総説の中で紹介していた実験が大きなヒントとなって、連続分級層型晶析装置設計に適用出来そうな新しい2次核発生速度の測定法を提案して、急遽、山添君が実験を始めた。この研究は、日本国内で初めて行われた2次結晶核発生速度の研究であって、何が起こるか分からないと考えて慎重に実験計画を検討しながら進めた。実際、その実験で危惧した事は次々起こったが、それらはほとんど事前に想定した枠内であったのですぐ対応が取れ、順調に研究を進めることが出来た。その最初の研究成果の投稿論文は、山添さんが、研究室のゼミナールで文献紹介を行って一年も経たなかった1974年3月に完成し、化学工学協会論文集に投稿して受理され、同誌1975年3号に掲載された。また、学会での講演発表は、1974年8月開催の化学工学協会関東支部主催の夏期秋田大会であった。

  当時の化学工学協会の学会発表は本部大会が春秋に開催され、その間に、各支部主催の地方大会が開催されていた。豊倉が発表した2次結晶核発生速度の研究成果を発表した秋田大会は支部大会であったので、本部大会と異なった、支部としての特徴のある研究発表会であった。そこでは、東北地区大学の先生方が中心になって、その地方の発展に貢献するような運営が行われ、その時1965~67年に化学工学協会会長を務められた藤田重文先生など本会の要職を務められた先生が参加されていた。この大会の研究発表会場は、2日間2会場で、それぞれの会場には早朝より、藤田先生や学会本部で要職を務められた先生方が出席しておられて、当日の研究発表を聞かれてその場で色々質問され、研究内容そのものから発表された論文の構成にいたるまで一々、御指導されていて、それは豊倉が1960年の北海道大会で藤田先生から御指導頂いたときと同じような雰囲気であった。この日の発表プログラムでは、豊倉の発表は藤田先生の居られる会場で、その日の最終発表の近くの発表であったが、1960年の北海道大会と同じ失敗は2度と繰り返せないと思って、多少緊張気味に発表内容の構成チェックをして発表した。その時確認した構成はほぼ次の通りであった。

i)2次結晶核発生速度の工業晶析操作における意義を述べる。

ii)2次核発生現象に関する最近の研究状況とそれと対比しで、当日豊倉が発表する2次結晶核発生速度測定法の特徴とこの研究のオリジナルなポイントを説明する。また、この研究で結晶核が発生したことを直接実測することは出来ないが、 その結晶核が懸濁して居るであろうと推測していた過飽和溶液を、装置内の種結晶が懸濁していた結晶核発生装置内過飽和溶液温度と同一温度に保たれたサンプリングセルに貯蔵し、その溶液を光学顕微鏡で観察し続けることによって、結晶核が顕微鏡で観察可能サイズに成長したことを確認し、それによってセル内の結晶核の発生確認とその発生結晶核数及び発生した結晶核の成長速度を実測した。このようにして捉えた結晶核は 結晶核発生装置内に懸濁していた種結晶によって発生した結晶核と見なして一連のデータとした。尚、本研究の結晶核発生装置内の過飽和溶液内に懸濁していた種結晶は、均一粒径に篩い分けした結晶を懸濁させ、その結晶のみによって発生した結晶核数を光学顕微鏡で実測して求めたものであった。文献によると、装置内で発生した結晶核は必ずしも総て成長して製品結晶となることはないとの報告はあるが、この研究で実測された結晶核は装置内で発生したものをサンプリングセルに移動させ、そこで成長したものを光学顕微鏡で確認して実測しているので、ここで実測した結晶核発生速度は、流動状態や操作過飽和度が工業装置内と同じ条件で実測した場合、そのまま工業装置の設計に適用できるのでないかと考えている。

iii)ここで求めた2次結晶核発生速度は、操作過飽和度、懸濁結晶粒径や懸濁密度、溶液流速の影響を受け、それらの相関式も世界の研究者に先駆けて発表した。

  豊倉の発表後、残りのプログラムを総て終わるまで藤田先生は会場に居られたが、豊倉は質問等を頂くことなく済んだ。その後バスに分乗して次の懇親会場に移動した。

  懇親会場では、参加者が揃ったところで、型通りに大会委員長、実行委員長、来賓等の挨拶があって、最後に藤田重文先生のスピーチと先生の音頭による乾杯へと進んだ。その時の藤田先生のスピーチは、本日の研究発表を総括され、発表論文の多くは、研究目的、行った研究の工学意義・これまでの研究との比較した進歩等に対する検討が不十分で、今日は朝からお小言ばかり言ってきた。第二会場においても発表論文の多くは同じようで、年配の先生方から厳しい質問やご意見が多かったと伺った。私は何時も厳しいことばかり云ってきたので、今回のスピーチでは、今日聞いた論文発表の中で分かりやすかった研究発表を紹介して、これから学会で研究発表をする若い研究者の励みになるようにしようと述べられて、早稲田大学の豊倉の名前を告げられた。豊倉は、今回の研究発表に藤田先生がお見えになるとは全く予想しておらず、発表会場で先生のお姿を拝見したときには、怒られないようにしようと思って、自分の行った研究に対して、出来るだけ大勢の方々に研究のオリジナリテイーと工学的価値を分かってもらえるように心掛けた。それが、藤田先生のお心に伝わったのかなと思った時には、全く想像しなかったことで嬉しかった。懇親会の終わった後、主催者は、参加された長老の先生方や学会の要職を務めた方々を別の席にお招きして懇談することが慣例のようであった。豊倉は、このような席に招かれる対象者でない筈だったが、是非そちらにも参加するように言葉を掛けられ、上座の方に座らせられた。その席でお目に掛かった学会の役員を務めていた、先輩の先生や企業の技術者から「藤田先生から満座の席でお言葉を頂くなって、学会のどのような賞よりも価値がありますね、」などお祝いの言葉を頂いて本当に驚いた。この話は、化学工学関東支部秋田大会の期間が終わっても、また秋田大会に参加しなかった人からも藤田先生のお話は聞いた。お目出とうと云われることもあって、研究発表は、研究と同様常に真面目に、真剣に行わねばならないと思った。

2・3)藤田重文先生から頂いた蒸留技術懇話会編集委員会委員へのお誘い:
  1970年代後半ある日、突然、藤田先生から蒸留技術懇話会編集委員会委員になって、会誌蒸留技術に、晶析に関する掲載記事の編集担当をするようにとの先生自筆のお手紙をいただいた。その時、藤田先生とは、未だ直接お話したことはなかったので、別件で親しくしてた化学工業社の三澤社長に藤田先生のご意向を内々伺った。その上で、城塚先生と相談して藤田先生からのお申し出をお引受けした。

  当時の蒸留技術懇話会は、1968年化学工学協会に研究委員会が発足した時、その傘下で蒸留に関する研究会として発足した。当時の研究会活動は最長2年間と決められていた関係で、その期間経過後、独立の会として発展的に立ち上げたもので、順調に発展していた。しかし、藤田先生は蒸留技術懇話会のさらなる発展を考えられ、分離操作としての工業操作目的が近縁な晶析技術を蒸留技術懇話会の中に設けることによって、その相乗効果を発揮して一層の発展が期待できるとお考えになって、豊倉にその世話をするように提案されたのだと伺った。一方、晶析に関する研究会は、豊倉が米国より帰国した翌年1979の4月、城塚先生に代表をお引受けいただいて発足した。この晶析に関する研究会も化学工学研究委員会の規定に従って2年後に独立の研究会になって研究活動を続けていた。この研究会は1972年のISIC5h以降ヨーロッパ化学工学連合公認のWPCと連携を取りながら発展を続けた。その時期に藤田先生のお誘いを受け、晶析研究会で活動していた研究者・技術者は各自の意志で蒸留懇話会のメンバーにも参画するようになり、更なる発展を続けるようになった。

  蒸留技術懇話会は、その後吸着グループのメンバーも参画するようになり、名称を分離技術懇話会に改称してさらに複数の研究グループも併合して発展を続けた。特に、1986年に東京で開催された、第3回世界化学工学会議では、化学工学協会の下、各専門分野のセッションで、活発な研究発表会を開催すると同時に、それに続いて開催したサテライトミーテイングを早稲田大学小野記念講堂で分離技術セッションと晶析セッションの2セッションに分けて並行して行った。このように早稲田大学城塚先生のご尽力で始まった晶析研究グループは発展的に成長して世界の晶析グループに認識されるようになった。

3)宮内照勝先生の思い出
  豊倉が、宮内先生に初めてお目に掛かったのは、1959年4月、城塚研究室所属の大学院生になって間もない頃の事でした。その時、城塚先生から急ぎの書類があるので、東京大学の宮内先生に届けてくれないかと云われて先生の研究室を訪ねた。そこで豊倉は、宮内先生に初対面のご挨拶をして、お届け物を先生に直接手渡して失礼したが、顔と名前の忘れられない内に、またお目に掛かって、何か化学工学のお話を伺いたいなと思いながら早稲田大学に戻った。

3・1)豊倉が2度目に宮内先生にお目に掛かった時 :
  1968年12月、豊倉が米国から帰国した時、渡米前に寄稿した改訂三版化学工学便覧の晶析の記事は既に出版されていたが、早稲田大学の卒業生で、化学工学協会のことをよく知っていた先輩は、君は晶析研究を熱心に行っているようだが、君の晶析研究成果は、第2版化学工学便覧晶析の章を担当された東京大学の宮内先生が君の研究会に参加してない間は、先生はまだ君の晶析を認めたことにはならないと話してたことがあった。この話は、晶析研究を始めて未だ10年足らずの日の浅い豊倉にとっては有難い話で、何時か宮内先生と晶析の話が出来る日が来ると良いなと思っていたが一向にその気配はないまま、年月は過ぎて行った。

  1972年9月、豊倉は初めて参加したCHISA Congressの晶析Opening Sessionで座長を引き受け、それが済んだ直後の昼休みの時間帯にCHISA会場の建物の間を歩いていると、宮内先生とすれちがった。その時宮内先生はご存じの日本人と話をしながら、散策されておられたようで、豊倉も日本から一緒に来た数人の人と一緒に歩いていたので、すれ違った時軽く会釈して数歩過ぎた。その時、宮内先生に豊倉さんと言葉を掛けられたので、豊倉は足を止めてハイと返事をして、振り向いた。その時、先生は「豊倉さんは晶析セッションで座長を務められましたが、何をするのですか? 僕はこれから座長をすることになっているので。」と尋ねられた。それに対して豊倉は、実際に務めたことを簡単に話して、「兎に角私は知り合いのチェコ人の座長に云われた通りのことをしただけです。」と答えて分かれた。この時、先生とは13年も前に一度研究室にお邪魔してご挨拶しただけなのに 顔と名前を思い出して頂けて、とても嬉しかった。

3・2)1978年秋御殿場で開催した晶析研究会に宮内先生をお招きして:
  1978秋、豊倉がお世話をしていた晶析研究会に理解のあった月島機械(株)常務取締役の中山栄次郎氏から、今度宮内先生が化学工学協会会長に就任されるので、先生をお招きして晶析研究会を開催してはとのご提案をいただいた。豊倉が宮内先生に直接電話でお誘いしたところ、気持ちよくお引受け頂いた。その時、宮内先生は早稲田大学平田研究室で卒論を纏め、宮内研の博士課程に在籍していた齋藤恭一君を連れてお出でになりご講演いただいた。宮内先生がご講演にお出で頂く前に同年化学工学協会関東支部で開催した最近の化学工学?晶析工学で、豊倉が講演した資料「最近の晶析装置・操作の動向」で豊倉が講演した資料の別刷りを、豊倉の自己紹介を兼ねてご挨拶として送った。その中で豊倉は、「豊倉研究室が進めていた2次核発生速度の研究結果に基づいて検討すると、撹拌槽型晶析装置内の結晶核発生速度は、装置内の平均操作過飽和度を同じにして操作した分級層型晶析装置での核発生速度より大きくなり、そのことは同一粒径の結晶を生産する場合、撹拌槽型晶析装置では分級層型晶析装置より装置内の平均操作過飽和度を低くして操作する必要があると考えられる。ところが当時の連続工業晶析装置の常識では、撹拌槽型晶析の平均操作過飽和度は分級層型より大きく取ることが出来るので、装置容積辺りの結晶生産速度は大きいと考えられていた。しかしそれは、1950年代にSwenson社のBennetらが行ったこの検討結果に基づいたもので、当時はまだ2次結晶核発生速度の研究は殆ど行われていなかったので、装置内の結晶成長速度に基づいて検討のみで結論を出したのは止もう得ないと思える。最近は、2次結晶核発生速度についての研究が進んできたので、その面の研究も考慮する必要があるのでないか?」と記述した。宮内先生はその記事に気付かれたようで、君の考えは示唆的で面白いと夜の懇談の席でお言葉を頂いた。この時5年位前に前に、宮内先生はまだ君の晶析研究は認めてないぞと早稲田大学の先輩に云われたことを思いだして、その先輩に対して、改めて、感謝したい気持ちになった。

  それから2か月くらい経った頃と思う。化学工学協会プラントショウー委員会があって、東京大学教授河添先生にお目に掛かかり、次期理事会庶務担当理事に河添先生と豊倉が一緒に務めることを伺った。その時、城塚先生が嘗て庶務理事を担当したことのあったことを思い出し、年長の河添先生に新米理事としてのご挨拶を申し上げた。この期は理事会は、1986年開催の世界化学工学会議を日本で引き受ける事を決め、豊倉はやっと国内で認識されるようになった日本の晶析研究・晶析技術を、世界の化学工学分野の研究者・技術者に認識させる良い機会になると思って、その開催準備を精力的に進めようと思った。当時は日本の高度成長期のピークを迎えていて、欧米先進国の代表的な研究者や技術者が日本の実状を見たいと競って来日した。

  東京で開催された世界化学会議に参加した欧米先進国の研究者・技術者は、日本の晶析グループに所属していた大学研究者や企業技術者と密接な関係を維持するための交流を持つようになった。また、晶析工学に関心の強い関連学・協会は化学工学協会・晶析研究グループと協力関係を持って学会活動を行うようになった。1987年にチェコスロバキアのBechyneでISIC10thが開催されたが、それに日本から参加した晶析グループメンバーとフランスWPCメンバーは、日仏Joint Work ShopをUniverste de Toulouseで開催し、このJWS終了の翌日、Prof.Lagerieの案内で大型バスによるAndorra観光の接待を受けた。また、BechyeのISIC終了後に、Czech. Academy of Sci. 無機化学研究所主催の Czech, -Japan Joint SeminarをPrahaで日本の主な研究者・技術者5名を招聘して開催した。セミナー終了後の晩餐会には通産大臣も出席され、1972年以降の両国の密接な協力関係を続けて来た両国晶析研究者・技術者の活動に対して謝辞が伝えられ、今後の更なる発展が期待された。

  また、1986年第3回世界化学工学会議開催時に行った日本国内でのTechnical Visitに対するお返しとて, ドイツWPC 代表のProf. A,Mersmannは、1991年にKarlsruheで開催される世界化学工学会議時に、主として日本からの参加者対象に独・仏・スイス3ヶ国の大学・企業を2泊3日の日程で訪問したTechnical Visit を実施した。この訪問は、日本人をよく知っているドイツの大学教授が企画したもので、SwedenのProf.Rasmunsonも参加した通常の日本からの視察団と趣を異にした素晴らしい経験となった。

  日本国内においても専門を異にしている多数の学・協会が、化学工学協会(現化学工学会)と同様な活動を行っている。晶析グループの活動は、1970年代より藤田先生のご指導・ご支援を受けて、蒸留技術懇話会(現在の分離技術懇話会)と協力して活動してきたが、1986年以降は多くの関連学協会と連携するようになっており、。特に1990年代になってからは、環太平洋化学会、結晶成長学会、日本海水学会、粉体工業技術協会等と適宜協力して種々の行事を開催するようになった。またその協力体制も国内の機関に限定することなく欧米先進国の機関との協力・共催行事も開催も行うようになっている。このように、晶析研究会が順調に発展を続けることが出来たのは、藤田先生、宮内先生のご理解とご支援があったからで、ここに改めて感謝申し上げます。

4)化学工学研究で大切なもの
  化学工学分野の研究を考えると、化学製品の生産企業で活躍する場合と大学等の研究 機関で活躍する場合とではその研究目的が異なっており、また研究成果に対する評価も違って来るので、画一の議論をすることは出来ない。今回は豊倉が大学研究・教育機関に所属して研究活動を行ったので、研究内容やその評価に対する考え方も化学工学教育を受けて産業界で活躍して来た人とは、平素から取り組んでいる研究対象は異なっていると思う。しかし、自らの一生における活動評価を考える時、各自が最も充実した時代に活躍した分野における活動を中心に考えて、自分のベストの成果を基準に無次元的に評価をすると、どの分野で活動しても同じような評価で考えられるようになるのでないだろうか?

  世の中の人は、勉強と研究の区別を疎かにしている事が多いように思える。豊倉の個人的な意見であるが、学問・知識を学んでそれを理解し、それを使って活動すると満足の得られる成果や結論が得られると期待して学ぶことを勉強と考えている。ただ、そこで学ぶ内容が、活躍する分野と重なる場合は、勉強したことを適用して満足な結果を得やすいが、それが異なる場合は、中々満足な結果が得られにくいことある。しかし、前者の場合、満足な結果が得られても、同じような思いをする人は多く、ずば抜けた能力を持った上司の下で活動した場合、その上司から高い評価を得ることは、なかなか大変である。

  しかし、後者の場合、担当している仕事で満足するような結果を出すことは容易でない。その場合、通常な学習ではそれを良く理解したと思っても、抱えている問題解決に辿り着くことは困難なことがしばしばある。そのような場合、これまで勉強してきた理論を再検討して、取り組んでいる課題の解決により効果的な方法や理論を研究し、そこで構築した新しい方法で、これまでと異なる結論を提出できることがある。そのような結論は、これまで勉強して慣れ親しんだ結論と全く異なることがあって、見過ごしてしまうこともしばしばある。しかし、そのように、目新しい結論は、じっくり良く考えていると、これまでの理論では、考えもつかなった事まで見えるようになって、世の中の発展に大きく貢献するようになることがあるのだと思うようになっている。

  本稿の2・2)で藤田先生が、豊倉の発表した「新しい方法で研究した2次結晶核発生速度の研究について理解しやすかった」と云って頂けたのは、上記後者の例であったと思う。また、3・2 )で、宮内先生が、藤田先生が分かったと話された2次結晶核発生速度の研究結果に基づいて出した結果に対して、「示唆的で面白い」と私い云っていただけたのも先程の後者の例のような気がする。
  豊倉の発表した2次核の論文には、アメリカのProf.Larsonも興味を持ち、その後1977~78,年にDr.Karpinskiが、さらに1983~84年にDr.Ulrichが豊倉研究室に留学した切っ掛けなったのもこの論文であった。

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