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豊倉賢略歴
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2011A-03,1: 豊倉 賢  「  二十一世紀の贈り物 C-PMTを振り返って 」
   ・・前園利治氏にご寄稿頂いた記事“ 製塩技術史上のコペルニクス的転換“を拝読して
            (前園利治氏からご寄稿頂いた記事は青字にて記述 )

                       (社)日本塩工業会副会長 前園 利治

1)はじめに
  豊倉が製塩業界の企業技術者と親しい交流を始めたのは、恩師の城塚正先生が日本たばこ産業・塩事業部の尾方さんを紹介くださって、初めて尾方さんにお目に掛かった時からでした。その時、尾方さんは、塩専売の研究所は昭和20年代の半ばから大型製塩プラント建設を目的にした技術開発研究を行い、製塩技術対象の標準型蒸発装置を開発して昭和30年代に製塩プロセスにおけるせんごう技術をほぼ完了した。その後は、イオン交換膜電気透析による海水の濃縮技術の開発に焦点を置き、それから何年か経って気がついてみると、化学工学協会の晶析工学は随分進歩しているようで、一度その分野の専門家を呼んで、最近の話を聞こうと云うことになった。そのようなことなので、一度講演に来て頂けないかとのことでした。豊倉は、城塚先生からのお話であったので、出来るだけ尾方さんのお申し出に合わせたスケジュールで講演会をお引受けした。その講演は、箱根湯本の少し上にあった箱根観光会館の広い会場で開催した定例の塩工業会講演会で、そこには日本全国から製塩企業の方々が大勢集まって非常に熱心に話しを聞いていただいた。しかし、その時は特に質問もなく終わった。それから大分経った頃、その講演会についての製塩企業技術者の反響は。化学工学協会の晶析工学研究は知らない間に随分進んだようで。この辺で製塩企業も皆で勉強しようと云うことだったようだと尾方さんから伺った、それを受けて、昭和63年4月前園さんや塩工業会・技術部の主要メンバーが早稲田大学にお越し頂いた。そこでの話は、標記C-PMTに前園氏がご寄稿いただいた通りであった。その記事全文を以下に掲載する。

2)日本海水学会「OJT晶析委員会」の立ち上げ
  昭和63年のことです。日本塩工業会・技術部会長 浅野譲、部会メンバー、江原亮、佐谷野宮三の3氏と私の4名は、早稲田大学の豊倉先生を訪ね、先生に製塩技術革新のため、特に先生のご専門である晶析理論についてご指導賜りたい旨お願いしました。

  当時、それまでの製塩企業の懸命な合理化努力が漸く効果を上げ、国内塩のコストが、輸入塩のコストに接近してきたのを見た大蔵省は、懸案の塩産業自立化の目途が得られるはずと見込みを立て、大蔵の審議会に対し、塩専売廃止の諮問を行う気配を示していたからであります。


  日本塩工業会の技術部会長浅野譲氏らが早稲田大学にお見えになった時、豊倉は塩専売制度について最近の動きを未だ聞いていなかったので、当初は最新の晶析工学を分かり易く話せば、後は製塩企業の技術者が考えて実務に反映するだろうと考えていた。しかし、塩専売が廃止され、海外で生産される食塩が自由に輸入されるようになると、その輸入塩に負けない良い製品を安価に生産しなければならないことを理解し、そのためには日本国内の製塩企業が協力して、欧米先進国に負けない所望の製品塩結晶を安価に生産する技術を確立するお手伝いをしなければならないと思った。そこで、思い付いたことは、日本の製塩企業は長年に亘って日本塩専売公社が日本の国状に適合するように開発した製塩技術を用いて発展してきた経緯があるので、業者間競争は一般の化学企業のようにきびしいものでなく、このような時代においては、各社協力して塩専売制度が廃止されても諸外国に負けない生産技術の開発を行う素地はあるのでないかと考えた。そこで、具体的には、日本たばこ産業(株)塩事業部の技術者を中心に国内製塩企業各社の製塩担当技術者からなる作業委員会を立ち上げ、まず最新の晶析工学を各社の担当技術者が同じ場所に集まって一緒に勉強し、そこで習得した晶析工学によって、各社で稼働しているせんごう缶内の結晶スラリー状態とそれによって生産される製品結晶の粒径・粒径分布および生産速度との関係を理解できるようにする。この理解が出来ると、それを発展させることによって、所望の製品結晶を生産するための晶析装置、操作の設計出来るようになる。また、各社で生産する食塩結晶の品質改善やコストダウンさせるための操作法の改善も自力で出来るようになると説明した。この時、塩工業会技術部の方々は初めての話しだったので、工業会に帰って各社の担当者と相談したいと言われてお帰りになった。その後、各社の現場担当の技術者にも良く理解させたいのでもう一度、塩工業会で話しをするように云われ、豊倉は工場現場の責任者にも話をして、各社の事情にも適応出来るような勉強会を立ち上げた。そこで立ち上げた第一回OJT晶析委員会の様子は前園氏は次のように纏めて下さった。

  先生は我々の願いを快く承諾され、先生をリーダーとして、日本海水学会のせんごう部門の分科会、海水利用工学研究会が発足しました。先生のご提案により製塩企業のできるだけ多くの現場の技術者が、できるだけ実践的な研究活動が行えるようにとの主旨で「OJT晶析委員会」の形で研究活動を始めることになりました。

  OJT晶析委員会は、その出陣式とも云うべき第1回の勉強会を、昭和63年8月23、24日長野県佐久市野荒船山荘で行いました。参加者は製塩企業、日本たばこ、プラントメーカー等関係者総勢41名、テーマは「製品粒径と生産速度」でした。私はその日のことを一種の感動を伴って思いだします。

  豊倉先生の講義を聞いても、晶析理論の内容を理解することなど、私には及びもつかないことでしたが、ただ、先生の話し中に出てくる「晶析」とか「実機の操作」とか「粒径制御」など新鮮な響きを伝える単語を、何回を耳にしている中に、はっと気付きました。


3)「 製塩技術史上におけるコペルニクス的転換 」
  そうだ!製塩の一番大切な目的は、塩の結晶を手に入れることだったんだ。こんな粒径の、あんな物性の塩が欲しいな、と、あらかじめ意識した結晶を、プロ_セスをコントロールすることによって、計画的に入手することだったのだ。それを可能にするのが、晶析理論であり、実機の操作であり、粒径制御なのだ、と。

  従来のせんごうという命題の下では、目的である塩の結晶は前面には飛び出して来ないで、せんごう過程或いは蒸発量や燃料効率が意識されるだけで、目的の結晶粒径や物性は、あらかじめ予定され、制御されうるものではなく、所詮、成り行きにまかせる他ない結果と観念されている。と、目から鱗が落ちるような感動でした。


  豊倉は前園氏の食塩結晶生産に関連したこの記事を読んで、食塩結晶を生産する工程では食塩が溶解している水溶液中の水分を気化させて濃縮すると溶液中の食塩濃度は増大し、飽和濃度を超えるとこの超過分に相当した溶質量は結晶として析出する。そのプロセスで溶液中の水分を効率よく気化させることは工業的に極めて重要なことで、世界の製塩企業技術者が競ってこの問題を研究してきたことはよく理解できた。しかし、工業晶析として、せんごう操作によって結晶製品を生産プロセスでは、そこで生成した結晶をせんごう缶内に共存している生成結晶を母液から効果的に分離し、結晶製品として妥当なコストで生産することが重要である。この結晶生成とその分離からなる直列工程にあるせんごう・分離操作を考えると、せんごう缶から取り出される結晶の分離操作が律速段階になることが多く、工業晶析操作を確立するためには、生産結晶製品を母液からより容易に分離する操作法を開発することは昔からの課題であった。そのためには、せんごう操作で生産される結晶粒径を大きくすることが有効であることは古から考えられていたが、せんごう缶内の晶析現象は20世紀初頭から研究されていたにも拘わらず現象が複雑で、幸運に見付けられた場合を除いて、比較的粒径の大きい結晶を生産する操作法は難題として余り研究されなかった。

  しかし、20世紀半ば頃には、結晶化現象に関する理学的研究が進み、それを受けて工学的な研究も世界の先駆的な研究者・技術者によって研究されるようになり、比較的粒径の揃った粗粒結晶を生産しやすい成長型晶析装置も開発されるようになった。また、1960年にはヨーロッパの一部の国で組織的な晶析研究が行われるようになり、その活動はヨーロッパ化学工学連合にも認められて第1回晶析シンポジウムがチェコスロバキアのUstiで開催された。その後ヨーロッパの先駆的研究者を中心にEFCEの中に晶析研究組織 WPC が立ち上げられ、1972年、初めて世界規模の晶析国際シンポジウムISIC5thが、プラハで開催された3rd CHISA Congressの中で開催された。

  一方、日本国内では、1958年化学工学協会・関東支部主催の晶析シンポジウムが開催され、晶析研究も活発に行われるようになり、1969年4月化学工学協会研究委員会に晶析に関する研究会が承認された。1972年開催のISIC5thには晶析研究会のメンバーを中心に参加団を結成し、日本における晶析研究成果を発表した。それ以降3年毎に開催されたISICに日本からも毎回多数の研究者・技術者が参加して論文の発表をし、世界の研究者・技術者の評価を受けた。1986年東京で初めて開催された世界化学工学会議には晶析セッションが設置され、欧米先進国を代表した研究者・技術者ら30名が来日して参加し、論文を発表すると共に、日本国内の大学・化学企業を訪問して、日本の晶析研究・技術につぃても高い評価をするようになった。

  このように1960年代以降活発に研究されるようになった晶析研究は、晶析工学基礎分野から工業晶析装置設計理論の提出へと進み、それを適用した新しい工業晶析装置・操作の開発研究も活発になって、日本でオリジナルに開発された晶析技術、晶析プロセスの発展に貢献した。 その実状は、1997年に(社)化学工学会「 日本の化学産業技術 編集委員会」で編集し、工業調査会で出版した「 日本の化学産業技術?単位操作から見たその歩みと発展? 」に掲載されている。ここで紹介された技術の多くは、日本で提出された晶析研究成果によって開発されたもので、1970年代になって活発に研究された2次結晶核発生速度等に関する研究成果によるところが大きかった。特に、工業晶析装置内の晶析現象を難しくしていた装置内に結晶核発生現象は、有効結晶核発生速度の直接測定によって工業晶析装置設計に適用出来るようになり、工業晶析装置内の平均結晶成長速度の新しい概念の提出に貢献している。また、従来の製塩企業せんごう缶内で生産されていた生産結晶粒径はほぼ成り行きに任せられていたが、新しい工業晶析装置設計理論に従って設計した晶析装置においては、所望粒径の製品結晶を所定量生産できるようになっている。また2次、3次のOJT委員会で学習した技術者の中には、需要の増加に対処するため自分の学習成果に基づいて検討した結果に従った装置の一部手直しによって、装置の増設をすることなく対応を取れるようになっている。

  ほぼ9年間の3次にわたるOJT晶析委員会で、豊倉先生の晶析理論と製塩企業の蒸発缶が合体された中で、結晶制御の原理を習得した我が製塩技術は、お陰様で大きな飛躍を遂げることができました。

  従来のせんごう技術では、製塩の最終目的である結晶の粒径や物性は、経験や勘に頼る以外は、成り行きに任せるほかなかったものが、晶析理論により、逆に前面に配置され、数量化し、プロセスを制御して、意図した結晶を入手できるようになりました。

  これは正しく、製塩技術史上におけるコペルニクス的転換です。製塩業界一同、豊倉先生の御指導に深く感謝申し上げます。敢えて、唯一つの心残りを申し上げれば、豊倉理論を駆使した理想的な新型蒸発缶の落成式に立ち会うことが出来なかったことです。

  平成9年、塩専売制は92年間の歴史の幕を下ろし、塩事業法の仕組みに変わりました。平成13年度で、輸入規制等の経過措置が終われば、塩産業は完全にフリーな競争に立ち向かうことになります。豊倉先生の愛情深い御指導の成果は、そこで実証されます。


4)むすび
  豊倉は1959年4月、早稲田大学大学院理工学研究科城塚研究室に入学して、城塚先生から化学工学分野で、未だ研究の余り進んでいない晶析操作を研究するようご指示頂いた。それから10年余経った1971年2月、EFCE・WPC International ChairmanのDr.. J.Nyvlt から1972年のISIC5th に参加して論文を発表するようにとの案内を受け取った。この時、彼は、豊倉が提出したCFC因子に基づいた連続晶析装置設計理論に高い関心を示していて、以降も豊倉はこの理論を発展させて国内外で論文を発表した。その研究活動は1986年東京で開催した世界化学工学会議等を通して一貫して世界の化学工学分野で行った。その翌年、日本たばこ産業・塩事業部の尾方氏からお言葉頂き、製塩業界における技術担当の方々と親しく晶析の勉強をするようになって、初めて他分野の研究者・技術者等と新しい研究に対する取り組みを始めた。特に、前園氏から「製塩技術史上におけるコペルニクス的転換 」というお言葉を伺った時、長年に亘って技術開発を行ってきた製塩企業の技術者は、容易に化学工学理論を受け入れて頂けるか半信半疑であった。しかし、前園氏はじめ、製塩業界技術担当の方々は好意を持って前向きに受け入れて頂き、豊倉にとって貴重な経験をすることが出来た。以降今日に至るまで1/4世紀に亘ってご厚情頂いたことを感謝すると同時に、今後のご鞭撻をお願い致します。

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