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豊倉賢略歴
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2011A-02,1: 豊倉 賢  「  二十一世紀の贈り物 C-PMTを振り返って 」
   ・・中井 資先生にご寄稿頂いた記事“ 晶析分野における国際交流の歴史“を拝読して
            (中井先生からご寄稿頂いた記事は青字にて記述 )

           広島大学名誉教授・元化学工学協会理事・関西副支部長   中井 資

1)はじめに
  中井先生は、豊倉がアメリカ留学する前から既に晶析研究を行っておられた。1960年代初めの頃だったと思う。化学工学協会本部大会が関西支部担当で開催された時、城塚先生は東京工業大学教授藤田重文先生や広島大学の中井先生らと会食され、藤田先生から中井先生が晶析を本格的に研究しているという紹介を受けたから、今度豊倉を中井先生に紹介しようと云われた。中井先生は東京工業大学化学工学科を卒業され、セントラル硝子(株)で化学工場の経験を積まれてから広島大学に奉職され、晶析工学の研究を始められたと伺った。その当時はまだ化学工学分野で晶析研究を行っている人は殆どいなかった頃で、中井先生は過飽和溶液内の結晶核発生現象の研究を分野の研究者に先駆けて精力的に行われ、溶液内着目成分が所定の過飽和度になってから結晶核が発生するまでの結晶核発生待ち時間を測定することよって結晶核発生現象を解明された。また、先生は過飽和溶液内の複雑な晶析現象解明を行われ、特に過飽和溶液の熱履歴が晶析現象に与える影響を世界の研究者に先駆けて解明され、結晶核の発生速度のみでなく、その過飽和溶液内に懸濁している結晶の成長速度に対しても顕著な影響を示すことのあることも明らかにされた。また、工業晶析操作に対する媒晶剤の影響に対しても高い関心を持たれ、私などのように企業現場の経験のない若い研究者を啓蒙して下さった。

  その頃豊倉は、結晶成長速度の研究を行い、それに基づいて晶析装置設計理論提出を目的にした研究を行い、この分野で初めて晶析操作因子「CFC」を提出してそれに基づいた連続晶析装置設計理論を提出した。しかし、その理論は化学工学分野の単位操作の設計理論と異なる特徴があって、多くの研究者・技術者の理解は容易でなかった。そこで提出した設計理論を広く工業晶析装置の設計に適用し易くするための討議を企業技術者と行っていた時期であった。その時期に晶析を主テーマとして研究されていた中井先生を紹介されたのは初めてであったので、大変嬉しかった。それから豊倉が米国に出発するまでの期間は2年足らずで、実際お目に掛かる機会は化学工学協会の研究発表会でそれほど多くはなかったが、学会の懇親会では何時もお目に掛かって晶析研究についての討議が出来たのは、豊倉にとって一生忘れることの出来ない時期であった。豊倉は中井先生との会話を通して、日本国内の晶析研究者・技術者の考えていた晶析工学の実状も学ぶことが出来た。そこで経験したことで学んだ知識等に基づいて1966年米国TVA公社の留学中にそこに訪問してきた世界の技術者と充分な晶析工学の討議ができたのだと思っている。

  豊倉は留学前、城塚先生から米国に行ったらまず、日本で研究したことを生かして、世界の研究者・技術者と化学工学・その他のことを充分討議し、それを通して出来るだけ見聞を広めそれを生かした活動を出来るようになって帰国するように云われていた。しかし、留学早々は、東洋人の殆どいないアメリカの研究所で言葉も分からずどうなるかと思っていたが、戦後の日本復興の目覚ましさを評価して日本人に大きな期待をしていたアメリカ人は、豊倉が日本で行ったオリジナルな研究成果に対する評価も加わって、親切に対応を取ってもらえ、会話にも事欠かなくなって周囲のアメリカ人の協力も得られ、2年足らずの研究生活で渡米前には想像も出来なかったような先進国の生活経験や文化を学ぶことが出来た。帰国が近づいた1968年の秋には、アメリカを代表した晶析研究者Dr.A,Randolphからは、Florida Universityに来ないかとの誘いを受けたり、また, Frof. M.A. Larsonから1969年のAIChE Annual Meetingで、装置設計理論の論文を発表しないかとの申し出を受けるようになった。しかし,この件は、城塚先生と相談して、日本の事情で引き受けることは出来なかったが、それからお二人がご他界されるまでの30年間余続いた親交に発展した。

  米国からの帰途New York・マンハッタンのパンアメリカンビルにあった米国エンジニアリング企業のオフィスに寄らないかとの誘いを受け、最新の晶析装置・操作についての討議を行い、事前に送った豊倉博士論文の英訳版の検討に基づいてコンサルタント依頼の話を受けたりして、ヨーロッパ経由で帰国した。この時は1968年10月末にLondon・UCLのMullin 研究室を訪問した。当日、Prof. J.Mullinはヨーロッパ大陸に出張中との連絡は受けていたが、事前に米国より送った豊倉の英訳博士論文の英訳論文は、当時研究室に滞在留学中のチェコスロバキアのDr.J. Nyvltに伝わっていて、豊倉にとって、思いもしなかった貴重な面会となった。このDr, J. Nyvltとの面会は1972年に世界で初めて開催された工業晶析シンポジウムに日本の晶析グループが訪欧団を結成して参加すると云う画期的なことに発展した。

2)晶析分野における国際交流の歴史 I
European Federation of Chemical Engineering 公認 Working Party on Crystallization 主催の International Symposium on Industrial Crystallization


  豊倉先生の化学工学会に対するご貢献は、それまで単位操作として全く研究されていなかった晶析を、重要な単位操作である工業操作として体系化されたことであります。化学工業が大型化し、精密化するに対応して晶析の役割は益々重要になってきました。この業績は豊倉先生の先見の明によって生まれたものであります。

  この工業晶析の体系化と同様に、否それ以上に大きな貢献は、工業晶析を通しての国際交流の推進に非常に積極的な取り組みを続けて来られことであります。現在では、国際交流は当たり前のことになってきましたが、私が先生と最初に参加したプラハで開催された第5回International Symposium on Industrial Crystallization (1972)の頃は、為替レートが1ドル360円だったので、経済的にも大きな壁がありました。そのSymposiumへの参加者は数十名程度でしたが、文献によって知っていた著名な学者はほぼ参加されていたので、その方々との面識が得られたことは、私のその後の研究に大きな潜在力となりました。

  このSymposiumは3年毎に開催されるので、既に14回解されたことになるが、第5回以降は連続参加されてSymposium運営上重要な役割を果たして来られました。 また、このSymposiumには我が国から毎回30名位の研究者が参加しており、先端的な晶析技術情報によって、大きな恩恵を受けることができました。第8回のSymposiumはハンガリーのブタペストで開催され、参加団を構成して参加したが、終了後モントリオールで開催されていた第2回世界化学工学会議に晶析グループとして初参加し、その後も同様な参加形式をとっています。


  前にも触れましたが豊倉は、1968年米国の帰途たまたまLondonのUCLで Dr, J. Nyvlt に会って晶析の話を30分くらい出来たのがきっかけになって、1972年9月にチェコスロバキアのプラハで晶析の国際会議を開催するから論文を発表しないかとの要請を’’71年2月に受けた。この話は突然のことであったので、早速、城塚先生に事の次第を相談したところ、この時代東ヨーロッパに行くことは費用もかかるし容易なことでないが、国際会議に参加することはそれなりに意義のあることだから考えなさいと云われた。当時、豊倉が提出した晶析装置設計理論は日本国内やアメリカで高い関心がもたれ、国内の一部企業では化学工場で稼働していた連続晶析装置データの解析に適用されて、工業装置の設計に適用できることが示されていた。また、ヨーロッパでは、Mullin教授がすでに高い関心を示し、Nyvlt博士も興味を持っていたので、ヨーロッパの国際会議で是非発表してその反響を確認したいと思った。一方、日本国内の晶析研究グループの状況は1968年4月に城塚先生が音頭を取って化学工学協会に「晶析に関する研究会」を立ち上げて下さいまして、協会の規定に従った2年間の研究活動が終了した翌年のことであったので、その主だった人達に国際会議開催のことを伝えた。そこでは、中井先生に相談してこの国際会議に関心のある人達に言葉を掛けて参加団を結成し、日本から中井先生はじめ8名が参加し、中井先生・青山先生と当時早稲田大学大学院に在籍していた棚橋さん(現日本化学工業(株)会長)らが4報の論文を発表した。この論文はSymposium 全体で発表された38報の内の4報であって、会議全体として考えても日本勢の貢献は大きかった。また、会議終了日の午后同じ会場で開催されたWorking Party of Crystallization で話題提供に取り上げられた晶析装置設計については、豊倉がLarson教授とNyvlt博士と3人で講演するように指名されたことは、当時として日本国内では予想もしないことであった。会議終了後訪問したUCLではMullin教授との討議が白熱し、午前中の予定を延長して夕方まで研究室に滞在した。翌朝Londonを出発してAmsterdamに移動したが、London空港では濃霧が発生して出発が遅れ、そのためAmsterdam空港への到着が遅れてDe Jong教授に大変迷惑を掛けたが、大学では研究室のStaffが大勢で討議に参加して、実り多い大学研究室訪問であった。大学訪問の後、オランダのAKZO社とドイツのBASF社を訪問して、ヨーロッパを代表する大化学工場を見学して日本の晶析グループの活動をヨーロッパ企業技術者に印象づけることが出来た。

  1972年開催の晶析シンポジウムの規模は必ずしも大きいものと云うことは出来なかったが、アメリカ・日本を含む世界の先進国からそれぞれの国を代表する研究者・技術者が参加しており、それらの人々全員が1会場に集まっていたので、会場の空気には重要な国際会議の緊張感があった。講演が終わった休憩時間には、初対面の著名な研究者・技術者と誰でも気楽に晶析工学・技術についての討議が出来る雰囲気があって、一度この会議に参加すると、もうその場は自分のホームグランドのような気になって、次回もかならず参加したいような気分になって、努力をすれば、するほど実りの大きい成果が得られるように思えた。

  1972年の次に開催された第6回シンポジウムはDr.Nyvltの研究所のあったプラハの西100Km弱のドイツ国境に近い比較的規模の小さな都市Ustiで1975年に開催された。この時中井先生は別に決まっていた海外出張とほぼ重なったため参加できず、私、青山さんと2人で参加した。このシンポジウムには、化学工学協会関西支部長をされておられた同志社大学の奥田先生に会場でお目に掛かることが出来て、日本ではゆっくりお話の出来なかった先生から、世界的な視野で日本の学会についてのお話を伺うことが出来たのは、海外で国際会議に参加したからであったからと思った。その時も、シンポジウムに引き続いて開催されたclosed meeting WPCには、3人の日本人を招待していただき、当時はまだ日本からの参加者の少なかった東欧の国際会議を堪能することが出来たのは参加の意義が大きかった。豊倉はこの国際シンポジウムで、早稲田大学で新しい発想で始めた2次核発生速度についての研究発表を行った。その時の会場での反響としては新しいアイデイアに基づいた研究発表に興味を持った人もいたようであったが、特別のことを感じることはなかった。しかし、帰国後、その研究発表を聞いた、ポーランドの若い研究者 Dr. Piotr Karpinskiは、WPCのInternational Chairman: Dr. J. Nyvltの推薦書を添付して、このシンポジウムで発表した2次核発生の研究を勉強したいので、早稲田大学に留学したいという航空便を送ってきた。幸い彼は1977年度の日本学術振興会の長期若手招聘研究員に採用され、1年間日本に滞在して助成課題の研究を行って研究成果を挙げると共に、日本の研究者・技術者との交流を深めて帰国した。彼の日本への留学は、東西ヨーロッパの研究者・技術者に日本の晶析研究・技術に対する評価を高めることにも大いに寄与した。彼が、帰国した1978年にポーランドのWarsawで開催された7thISICには、早稲田大学大学院学生3名の参加を含め、日本からは中井・原納先生はじめ晶析研究・技術の分野で活躍していた10名を越える研究者・技術者が参加して論文を発表した。特にこのシンポジウムに参加した日本の技術者が発表した論文は、当時の晶析技術の常識を越えたオリジナルな晶析法によるアルミニウムの廃液処理技術や冷媒直接接触法による精製技術、高圧付与による圧力晶析技術等があって、世界の技術者は日本の戦後の復興と重ねて日本の晶析技術の発展に強い関心を持った。

  日本の晶析研究・技術の発展に付いての反響は、豊倉が1980年5月より早稲田大学在外研究員として、ヨーロッパに4ヶ月滞在したとき、つくづく実感した。この期間は、最初の1ヶ月はUCLのMullin研究室に滞在した。次の2ヶ月はヨーロッパ7ヶ国の晶析・技術の研究を積極的に行っていた大学・研究機関及び企業への訪問・滞在を繰り返して、最新の研究の調査・討議・検討を行った。そして、最後の1月はヨーロッパを代表した晶析装置メーカーの一つであるStandard-Messo社に滞在し、ヨーロッパ晶析技術の現状を調査・検討して、豊倉の博士論文で提出した連続装置設計理論を企業技術者が容易に使用して工業晶析装置の設計を行えるようにするための研究を行った、そこで、経験して得たものは非常に多かったが、特にそれ以降の活動に大いに寄与したことを列記すると以下のようなものがあった。

i) UCL 滞在時にMullin先生から尋ねられたことでは、「第二次世界大戦後、日本の復興はめざましいものがあったが、日本の晶析研究はその復興にどのような貢献したか? 日本で全くオリジナルに開発された技術はあるか?等」であった。 青山さんが開発したCEC Crystallizerについては、1975年に青山さんがUCLを訪問した時既に紹介していて、Mullin先生はその装置を評価して、ヨーロッパの企業に紹介しても良いと云われたことがあった。しかし、この時は時間がなかった関係で、守時さんの圧力晶析装置に話が絞られ、神戸製鋼所のLondon事務所に直ぐ電話して資料の請求をするほどであった。

ii) 7月BuchsのMetal Werk社を訪問した時、当社が開発したMWB晶析装置が話題になり、その装置の説明を聞いた。その時、その装置による結晶の精製機構は、豊倉が1976年AIChE Symp. Ser.に掲載された論文内容とよく似ており、その装置の中で起こっている現象が豊倉らの論文内の現象と同じだとすると、MWB社の装置で精製される製品のデータは豊倉らのデータと同じようになる。これは精製過程で、発汗現象が支配的に起こっているのでないかと説明したことがあった。この時、その装置の発明者Mr. Saxerがその日の午后出張から帰るから、帰ってからの討議にして欲しいと、その時相手をしたMr. O.Fischerの提案で討議は中断してSaxerの帰りを待った。帰社後会議に参加したSaxerは、豊倉が話したデータを既に取得していたようで、豊倉の意見を全面的に認めて話は簡単に終わった。その後MWB社のカタログ構成は大幅に変わって、その装置は世界中に順調に建設された。

iii) 8月に滞在したドイツ・DuisburgのStandard-Messo社では、晶析装置担当の技術者とヨーロッパにおける晶析装置、操作法について討議し、晶析装置で生産される製品結晶の粒径分布は通常Rosin-Rammle式で表示されてることに着目して、連続晶析装置の定常操作時の結晶生産速度と操作条件の関係を相関する新しい関係式を提出した。豊倉は帰国後大同化工機の?山氏にその相関式を伝えると、同社で作成した晶析装置で実測した48件のデータをその関係式で整理出来ることを示した。さらに、この関係を発展させることによって、工業晶析装置の新しい設計法を提出した。豊倉はMesso社に滞在中にAachen大学を訪問し、そこの大学院に在籍していたMr.J.Ulrichと晶析工学の討議を行った。その後、彼はフンボルト派遣留学生として早稲田大学・豊倉研究室に留学し、日本の多くの研究者・技術者と親交を重ねて、晶析工学の発展に貢献した。

  豊倉が1980年に在外研究者として4ケ月滞在し、ヨーロッパ各国の晶析分野研究者・技術者と親しく晶析工学の討議が出来たのは、1972年の5thISIC以降1978年開催の7thISICにかけて多くの日本人研究者・技術者が訪欧し、Symposiumに参加して晶析工学に関する研究を発表し、討議を行って高い評価を受けたからにほかならなかった。特に、1978年のSymposiumでは、日本に留学しその直前に帰国した、Dr.P.Karpinskiが日本人主催のヨーロッパWPCの主な研究者をお招きした親睦会をWausawのホテルで国際会議開催の前夜に出来るように世話をしてくれたことが大きかった。このSymposiumには、初めて参加した日本人も数名いたが、この親睦会に夫人同伴で開催したことで、本番の会議で気楽にヨーロッパの研究者と会話が出来てよかったと帰国後に話していた人も居たほどであった。これらのことは、1980年に豊倉がヨーロッパ各国の研究者を訪問したときの対応にも表れたのでないかと思った。

  その後のISICは中井先生の記事にあったように、3年毎に開催された。特に、1981年以後の会議では、1986年の第3回世界化学工学会議が東京で開催されることが決まっていたので、各国を代表する晶析分野の研究者・技術者が来日してその会議に参加し、日本の晶析工学の現状を理解するよう、日本の晶析研究者・技術者は、3年毎のISICや毎年開催されたWPCに参加して、国際会議開催の準備状況やTechnical visit & Social visit等の企画状況を伝える努力をした。その甲斐あって、日本開催の世界化学工学会議に世界各国の晶析分野を代表する研究者・技術者が多数参加して晶析セッションを盛り上げることが出来た。ISICはその後も順調に発展を続け、1/4世紀に亘ってInternational Chairmanを務めたDr. J.Nyvltの後を継いだProfs. Garside, Ulrich, Biscanは皆,数回来日したことのある研究者で、日本の晶析研究グループの活動を良く理解しており、日本の晶析研究者・技術者と良好な関係を保っている。

3)晶析分野における国際交流の歴史? その他の国際交流活動

  また、1987年には韓国の分離技術グループと合同で、慶州でSymposiumを開催し、本年は第5回がソウルで開催されることになっているが、先生はこのSymposiumの創設、運営にも大きな貢献をされて来られました。この他にも国際交流関係のご貢献は枚挙に暇がないほどでありますが、このように積極的な行動の根底には、国の間の障壁を低くして多くの情報を集め、我が国の学問・技術の向上に寄与したいとの強い信念があったからだと思います。先生とご一緒した数々の国際学会の思い出を辿りながら、改めて先生の国際交流におけるご功績を回顧した次第であります。

  晶析操作は固体製品を生産する重要な化学工業プロセスで、20世紀前半に提出されたMIT Reportでも記述されていたが、それに関する化学工学分野の研究は20世紀後半まで殆ど組織的に行われなかった。1960年代末には、ヨーロッパ化学工学連合でWPC設立の動きが始まり、日本でも化学工学協会研究委員会で晶析に関する研究会が承認され、晶析に関する研究も活動に行われるようになった。一方、化学工学協会に設立された蒸留に関する研究会は、協会の規定に従って2年経過した段階で活動を完了し、藤田先生を会長に蒸留技術懇話会を立ち上げて、新たな活動を開始した。その活動を5年続けた段階で、藤田先生は拡散分離操作の更なる発展を進めるべく、晶析技術に関する研究者・技術者にお言葉を掛けられ、蒸留技術懇話会の中で共に協力して分離技術の発展を図られた。この構想は順調に発展を続け、さらに吸着操作をはじめその他の分離操作の研究者・技術者も参加し易いように名称を分離技術懇話会に改称して活動した。蒸留技術懇話会が発足して、15年を経過した頃、韓国の分離技術グループと合同の国際Symposiumを韓国の慶州で開催した。そこでは晶析グループも分離技術懇話会の主要メンバーの一つとして、このSymposiumに参加して晶析セッションを担当するとともに、technical visitも企画して、韓国における食品関連企業で稼働していた晶析装置の見学等も行った。

  その他の国際交流としては、1989年仙台で開催されたInternational Congress of Crystal Growthでは、日本結晶成長学会会長の砂川一郎先生から。今回のCongressでは工業晶析分野の研究者・技術者による工業晶析に関するセッションを設置したいので協力して欲しいとの申し出を受けた。また、同年12月にハワイで開催された環太平洋化学会が、日・米の化学会が中心になって開催され、し、晶析セッションはProf. A.Myerson 教授から一緒に座長を務めて、晶析セッションを設置しようとの申し出を受けて引き受けた。豊倉は、ハワイで開催した国内会議に参加したのは初めてであったので、アメリカ・日本からの参加者に加えて、ヨーロッパからも参加者を集めることが出来れば、晶析研究グループとして新しい展開が出来るのでないかと考え、ヨーロッパ化学工学連合のWPCを通して、参加者の募集も行った。その結果、ヨーロッパからも多数の研究者を常夏のハワイに集めることが出来て、これまでの国際晶析会議と趣の異なった会議にすることが出来、成功裏に終了した。その後、Boston Tuft University のG.D.Botsaris 教授から1995年に開催される環太平洋会議で再度晶析セッションを開設しようとの申し出を受けた。その時も1989年の開催と同じように準備を進め、日・欧・米に加えてオーストラリアからも、White教授ら数名の研究者の参加があって、前回を上回る意義ある国際会議を開催することが出来た。

  豊倉が1966年初めてアメリカに留学した時、城塚先生から大きな課題を頂いて日本を出発したが、その時、何を学んで帰国できるか全く分からなかった。しかし、米国の帰途UCLでDr.J.Nyvltに会って、まず、ヨーロッパの研究者。技術者と交流を始める糸口を見付けることが出来た。それからはその糸口を大切の守りながら、慎重に広げるようにすることによって、多くの欧米人の間に仲間入りすることが出来た。その過程では、篠塚先生のご理解とご支援をいただいたことを忘れることは出来ない。同時に、豊倉が1972年にPrahaのISIC5th に参加して以降早稲田大学を選択定年制度の適用を受けて退職するまでの1/4世紀の間、何時も新しい挑戦に対してご助言とご協力をして下さいました 広島大学名誉教授中井 資先生 に感謝申し上げる次第です。

4) むすび
 本稿は豊倉が退職した時、卒業生提案で記念出版した 「二十一世紀への贈り物 C−PMTを振り返って」に中井先生からご寄稿いただいた “晶析分野における国際交流の歴史 ”を豊倉が改めて再拝読して思い出したことを記事に加えたものです。

  豊倉が大学院に入学した時。ご指導頂いた城塚先生から晶析装置の設計理論は未だ確立してないので、世界に先駆け設計理論を提出するようにとのご指導を頂いた。しかし、晶析操作で生産される結晶は所望の形状・粒径の結晶製品を生産しなければならず、広く化学産業界で生産されてた製品と異なる特性があって、他の拡散単位操作で提出されていた装置設計理論をそのまま適用することは出来なかった。当時一部の海外研究者は、理想モデル装置を対象に晶析装置設計理論を提出していたが、それを工業晶析装置の設計に適用することは出来なかった。そのような状況において、豊倉は独自に晶析装置設計理論を提出することを考え、工業晶析装置の設計に適用しやすいようなモデル晶析装置を考え、新しい無次元晶析操作因子を提出し、それを使った晶析装置設計理論を提出した。日本国内の化学企業は工業晶析装置設計に適用できる晶析装置設計理論の提出を待っていたかのように、競ってその利用に走って利用した。その結果、豊倉の提出した設計理論は諸外国の設計理論式より早く工業晶析装置設計に適用されるようになった。しかし、日本で提出された理論は世界で認知されることが重要であった。幸い、豊倉の晶析装置設計理論は米国TVA公社の開発研究に利用され、また米国からの帰途、ヨーロッパで関心を持って評価されるようになった。豊倉が晶析装置理論を提出した時、日本研究成果に対する評価は必ずしも高くなかったが、工業晶析装置の設計に適用出来る理論の提出は、日本の晶析研究に対する国際評価に繋がり、それは日本国内研究者・技術者の協力関係の成果であった。

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