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豊倉賢略歴
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2011A-01,1: 豊倉 賢  「  二十一世紀の贈り物 C-PMTを振り返って 」
   ・・齋藤正三郎先生にご寄稿頂いた記事“ 豊倉先生早稲田大学ご退任に際して“を拝読して
            (齋藤正三郎先生からご寄稿頂いた記事は青字にて記述 )

           東北大学名誉教授・元化学工学会会長   齋藤 正三郎

はじめに

  豊倉が1970年代、化学工学協会 ( 現化学工学会 ) 関東支部幹事を務めた時、齋藤先生は東北地区懇話会連絡委員を兼務した関東支部幹事を務められておられた。その関係で、豊倉は先輩幹事の齋藤先生に化学工学協会のことなど色々教えていただき、大変お世話になった。1979年度末、城塚正先生が同協会理事・副会長の任期を満了され、その後豊倉は、早稲田大学所属の同協会理事として庶務担当を務めるようになった時、齋藤先生も理事を務められていた。以降豊倉は、1997年度末、化学工学会理事・副会長を退任するまでの長期間、化学工学会全般のことを含む種々のことで齋藤先生のお世話になり、ご支援いただいた。その具体的なことは研究活動から学会委員会の運営など幅広い諸事に及んでおり、これから研究者として、また技術者として活躍する卒業生の参考になることが多いと考えている。これから引用する齋藤先生からご寄稿いただいた記事の内容と関連のある重要な事項について、齋藤先生の記事に関心のある卒業生がよりよく理解するのに役立つようにそれぞれの個所で豊倉のメモを記述する。豊倉は今日現在でも齋藤先生と時々電話やメールなどでお話をしているが、もし、化学工学協会・化学工学会で、齋藤先生にお目に掛かることがなかったら、豊倉の人生は随分変わっていたことと思っている。研究室の卒業生は、これまで活躍してきた化学工学会や産業界の行事・その他で齋藤先生のご指導を受けた人は多いと思うが、その内容は豊倉のtc-pmtに掲載された記事内容と異なった対象も多いと思う。それらとここに記載された記事内容とを重ねて、それらが何を意味するかを考えることによって、齋藤先生の偉大さを学び、そこで修得したものをベースに、自分の直面している課題を考え、現象や理論および技術開発の研究を行うことによって、大きな成果に到達することが出来ると期待している。

齋藤先生にご寄稿頂いた記事・・・C-PMT p.7 ~p.9 の記載記事・・・を以下に記述する

  この度豊倉先生が早稲田大学を御退任になられるに際して、記念に一文を寄稿して欲しいという依頼が突然実行委員会から参りました。日数も限られており大分迷いましたが、先生のこれまでのご厚誼にお答えしなければということで、私なりに理解している豊倉先生のMr.Crystalmanとしての研究業績と化学工学会に対するご貢献に触れ、後に続く先生のお弟子さんの指標にでもなればと思い、筆を執った次第です。

  豊倉先生は、平成3年度化学工学会学会賞を受賞された。受賞研究のタイトルは、「晶析現象と晶析装置の設計」であった、先生のご研究は、このタイトルに示されているように、実際の晶析現象を詳細に観察し、それに立脚した装置設計法を提出したものである。なお、先生の研究成果は、約100編の研究論文および約70編の総説として報告されているが、以下のように要約されると思う。


  豊倉が早稲田大学大学院に入学した時、指導教授の城塚先生からご指示頂いた研究課題は「晶析現象と晶析装置の設計」であった。この研究を始めてから33年間を経過した1992年、化学工学学会賞推戴決定の知らせを受けそれまで行った研究を振り返って、実際行った研究内容は城塚先生から頂いた研究テーマそのものを進めた成果であったことに気付いた。豊倉が城塚先生からご指導受けた当時は、化学工学便覧にも、PerryのChemical Engineers’ Handbookにも晶析の章はあったが、晶析装置設計法の記述はなく、当時Chemical Engineerなら誰でも勉強していた単位操作の装置設計法の記述はなぜ晶析操作にないのか不思議に思った。豊倉自身、城塚先生から、晶析装置設計法を提出するように云われたが、自分自身どのように研究をすすめてそれを提出するかもわからず他人事のような気がして、拡散単位操作の基礎理論を発展させて研究の進め易い結晶成長の研究を始めた。

  当時、城塚先生からご指導いただいた晶析の研究法は。先生ご自身が研究された抽出操作で進められた研究法を例に伺った、そこでは、拡散単位操作に共通な拡散現象に基づいて抽出現象機構を研究され、その中で抽出速度を効果的に促進する操作法に着目して研究を行なわれて、新しい成果を挙げられた。特に、研究室の打ち解けた時間帯には、先生ご自身が既に経験された研究進展過程の話を詳細に伺いながらご指導を受けた。このような先生のお話は、豊倉が取り組んでいた研究の方向を決めながら進める研究では、新しいアイデアの発掘に大きな力を与えて頂いた。また、晶析研究の参考に先生から頂いた資料の中にあった論文に、某社が企業化した系の結晶成長速度を測定した研究があって、その追試実験研究は、初めて晶析研究を行った豊倉にとって、経験し事のない事があって、その後の研究に役立った苦い薬にもなった。ここでの一連の研究実験より晶析現象は他の拡散単位操作とは異なった難しいもので、その研究実験では、慎重に注意深く装置内で起っている現象を観察し、その系及び操作法に特有な過飽和溶液内の結晶成長現象を理解し、それを発展させて晶析工学基礎理論の構築を研究した。ここでオリジナルに提出した基礎理論を組み合わせて晶析装置に特有な設計理論を構築し、それを工業晶析装置の設計に適用し易いように発展させて装置設計法を提出した。それらの論文は、化学工学学会賞を受賞したとき出版した「 晶析工学の進歩 」収録した。

(1)結晶成長に関する研究
  結晶成長といっても、先生の研究は物理屋の対象にするようないわば理想系における成長の研究ではない。あくまで、工業装置内の現象としての結晶成長である。工業装置内の研究では、数多くの結晶が懸濁しており、懸濁結晶のサイズはサブミクロンから、数ミリにわたる範囲で分布している。そのような状況下では、微結晶の大きな結晶への付着、微結晶同士の凝集、機械的摩耗などの現象が同時進行している。このような状況下における結晶成長速度が研究対象である。豊倉先生は、微結晶の付着に伴い結晶成長が促進されるという現象をみだした。これは、付着が引き金になって成長が促進される現象で、世界に先駆けた発見である。この発見は装置設計上重要な発見として高く評価されている。この発見以外にも、いくつかの重要な貢献をされているが、いずれも工学的な観点から対象を眺めたものであり、これは先生の一貫した姿勢であるといえよう。

  豊倉が行った結晶成長速度の研究も当初は理学的な研究で行われていた単一結晶の成長現象およびそれらの結晶が成長する結晶成長速度であった。しかしこの基礎的な研究で測定された結晶成長速度を使用して、豊倉が別に提出した晶析装置設計法によって設計した装置内の結晶成長速度は、大学研究室の小型連続晶析装置のテストデータから大幅に異なっていた。この不一致について、その原因を検討すると、稼働している連続晶析実験装置内の状態は、初期晶析装置設計理論を提出した時に想定した理想モデルと大幅に異なっており、この差異を修正する方法を研究し、提出しなくては、工業晶析装置を設計出来る設計理論も設計法も提出出来ないと考えた。そこで、設計理論の提出に想定された装置・操作モデルを稼働している類似形式晶析装置の実状と比較して充分妥当なものになるように修正した。

  次の段階として、妥当と判断されたモデル晶析装置を設計するのに使用される関係式。およびその関係式を用いて、装置形式を考慮した装置各部の詳細設計をした。この段階では、設計された装置を稼働して目的結晶製品を生産する操作条件を決定することも必要になった。そのためには、ここで対象にする晶析装置形式と使用される晶析装置サイズおよびそれらによって組み立てられた装置によって目的製品結晶品を生産する操作条件を決定するために使用される晶析速度や設計定数等が妥当なものである事が重要であった。しかし、そのような特性値に対する総括的研究は行われておらず、それをどこから進めていくかも重要な事であった。

  豊倉が晶析装置設計理論の研究を始めた頃企業技術者最も重視していたことは、装置内過飽和溶液の中で生産される製品結晶の粒径であった。その所望粒径の結晶を生産するには、装置内に存在する微結晶を所望結晶に成長するまで滞留させることが必要であった。そのことは、装置内懸濁結晶の装置内滞留時間を把握することで、それは、所望製品結晶粒径を装置内に懸濁している結晶平均粒径成長速度で割ることによって容易に求められた。しかし、工業生産で対象になる装置内懸濁する結晶の粒径成長速度は、対象とする結晶の種類や、晶析装置形式、操作法など非常に多くの因子の影響を受けるので、それらを考慮して決める事が大切で、そこに工業晶析装置内の平均粒径成長速度を決めるときの難しさがあった。

(2)2次核発生に関する研究
  工業装置内においては、いわゆる2次核発生機構により新たな結晶が発生する。この現象は、やはり装置設計上重要な課題となる。豊倉先生はこれに対しても独自の手法で研究を進め、独自の成果を上げている。先生のこの実験手法は、海外にも広く知られ、実際東西ヨーロッパから留学生がこの手法を学びに来たほどと聞いている。

  工業晶析操作で重要なことは、製品結晶粒径が所望代表粒径及び粒径分布であって、その結晶を所定量安定生産することである。所望粒径の製品結晶が生産できると、それとの関係で所望量の結晶製品を安定生産するには、製品結晶数を所望結晶生産に適した範囲に制御することが重要であった。このように製品結晶数を制御するための方策については、19世紀末に既に研究されていた準安定域の概念を利用した操作法や、20世紀前半に研究された工業装置に存在する過剰微小結晶除去技術の適用などが提出されており、工業晶析操作・プロセスの発展に貢献してきた。その一方、装置内で発生する結晶核の発生を研究し、それを制御することによって所望の結晶製品を生産しようとする試みも20世紀後半には研究されるようになった。その研究は一部の先駆的研究者によって20世紀前半にすでに始められていたが、その多くは、理学的手法によって行われ、どちらかと云えば、1次核発生速度についての研究が主流であった。しかし、過飽和溶液内に同種の結晶が存在すると、その過飽和溶液内で発生する結晶核発生現象が大幅に異なることも発見され、それに影響を与える操作条件と核発生速度の関係はほとんど明らかでなかった。1966~8豊倉がTVA の研究所に留学して晶析研究を行っていた時、AIChEに発表された2次核発生に関する論文を読んで、豊倉も晶析研究を進めるにはこの研究を始めねばと思って帰国した。

  しかし、豊倉が2次核発生の研究を実際に始めたのは、TVAから帰国してほぼ5年経った頃であった。それは、帰国後の研究室整備が一段落し、1972年にPrahaで開催されたISIC5thに7名の日本人晶析研究者・技術者と初めての国際会議に参加して世界の新しい動きを感じ、これから新しい研究課題を始めようと考えていた時であった。このISICでは、G.D.Botsarisがkeynote lectureで “Effects of Secondary nucleation in Crystallizing Systems” の講演を行い、また、ヨーロッパの研究者も核発生速度の研究を発表する人が出てきて、1970年代は2次核発生の研究を行い、成果を出さねば世界の研究者から置いて行かれると感じた。その年の3月に大学院に進学した山添君が、ICLのStrictrand-Constableが発表した2次核化現象の論文を紹介した。それは、水平に置かれた円筒管内詰められた過飽和溶液の中に置かれた単一結晶は、その円筒缶を静かに傾けるとその結晶は管の表面に沿って滑り落ちる。そうするとその結晶が通過した跡に微結晶の発生するのが確認され、それは動いた結晶によって発生した2次核であると説明した。そうすると垂直円筒管の中に単一結晶を固定し、その周辺に過飽和溶液を流すと、その結晶表面で発生した結晶核がその過飽和溶液によって剥離されて、溶液内で成長して結晶になると考えると、その結晶は、過飽和溶液内で発生した結晶核と考えた。このようにして発生した結晶核数を実測すると、過飽和溶液の中に静置された結晶による2次核発生速度は実測できるので、それを発展させて一連の研究を行った。この方法で実測した2次結晶核の発生速度は熱力学的に定義される真の2次核か否かの疑問は残ったが、そこで発生する結晶数を計数する時その粒径が製品結晶と見なされる結晶に成長したものを実測するようにすれば、それは結晶製品になる有効結晶核の実測になった。

  その頃の2次核発生速度は種結晶の衝突による2次核発生速度が支配的と考えられ、それに関する研究が欧米の研究者によって既に行われていた。しかし、工業装置内の結晶核の発生現象を考えると過剰結晶核が発生することが多く、本来晶析装置内における結晶核の過剰発生は抑制することが望ましいと考えられる。そのような観点から晶析装置内で過剰結晶核の発生を抑制し易いような装置を開発することは重要と考え、Krystal-Oslo型晶析装置の-原型と考えられる向流円筒型晶析装置内の2次核発生速度の研究を始め、後に装置内に撹拌翼を設置した晶析装置内の2次核発生速度の研究をそれとの関連で行った。

  この一連の研究成果は、1973年以降集中的に研究を進め、1974年秋に秋田市で開催された化学工学協会関東支部大会で2次結晶核発生速度の研究成果を初めて口頭発表した時、その日の懇親会のスピーチで東京工業大学名誉教授の藤田重文先生から今日の早稲田大学豊倉先生の話は分かり易かったと言われた時は、この研究発表は初めてであったのでホットした。 海外での発表では、1975年にPittsburghで開催されたAIChE National Meeting 発表したが、その講演後、Larson教授を研究室に訪問した時、この研究に興味を持ち、1976年に出版予定のAIChE Symp.Sriesに掲載したいから投稿するように言われた。また、 同年チェコスロバキアのウスチで開催されたISIC6thで発表した2次核発生の論文は、ポーランドのDr.Piotr H. Karpinski が聞いて強い関心を持ち、WPC 国際議長Dr.J.Nyvltの紹介状を添えて早稲田大学への留学希望の申し出を受けた。この研究はその後も研究室で継続して発展させ、世界の研究者からも評価を受けた。これらの一連の研究成果は1992年に出版した「 晶析工学の進歩 」に収録した。

3)晶析装置並びに操作設計に関する研究
  この研究は、先生の研究生活全般にわたって行われたもので、終始この設計の課題を中心に据えて研究生活を送られたということが出来る。上述の「結晶成長の研究」「2次核発生の研究」のいづれも、いわばこの「設計」のためであった。それ故に、先生の視点はいつも「工学的」であり、研究のための研究に陥ることはなかったのでないかと思う。先生の提案された設計理論は、化学工学便覧にも紹介されおり、ここで詳しく述べることは避けるが、海外にも紹介され最近では国際共同研究としても先生の設計法の研究が進んでいる。

  豊倉の大学院進学以降の化学工学研究は、齋藤先生の云われるように研究生活を通した晶析装置・操作設計理論の提出であって、時にはその設計理論に基づいて提出した新しい工業晶析プロセスの開発研究も行った。しかし、晶析プロセス開発研究を行うとそこでの目線から見た、それまで気付づかなかった新しいより合理的な晶析装置・操作の開発についての研究課題も見えるようになり、その研究に戻って装置・操作の設計法の充実を図ることもあった。その意味からは、晶析工学基礎から始めた研究は、装置・操作の研究に進み、時には晶析プロセスの開発に手を広げたが、プロセス開発の目的がほぼ達成できると、設計理論の充実に戻り、そこで新しい展開の目安が付くと、元に戻って、晶析工学基礎よりの充実を図る研究を始めたり、また新しい設計理論や設計手法を提出した。このように考えながらこれまで行ってきた研究を振り返ると、研究者の研究はいくら続けても仕事が無くなるものではなく、新しい研究課題が、次から次と自然と目の前に出てくるものと気がついた。そのような状況では、目の前に浮かんできた研究を端から片付けていくと、それはねずみ算的に研究課題は増えて来るもので、その課題を効果的に解決して進めるためには、何を取り上げて研究を進めるか判断することが最も大切なことと思うようになっている。しかし実際は、目の前にある研究課題の内何を選択して始めるかでなく、自分が手を付けることに適さないと思うものを避けるようにして、残ったものを確実に進めることが大切と考えるようになって来ている。

  次に豊倉先生ほど熱心に海外との学術貢献をした先生はいない。先生の国際交流は、国際会議への参加、国際会議の開催、海外の大学の訪問、外国企業への訪問など多岐に渡るものである。しかも、これらが総てご自分だけのためでないというのが他のまねの出来ないところである。例えば、国際会議への参加にしても、ご自分だけ参加して発表してくるということはなされなかった。常に国内の仲間に呼びかけ論文を集め、飛行機の予約からホテルの手配までこまごまと世話をされていた。豊倉先生に海外に連れて行ってもらった人は、学会、産業界を問わずかなりの人数になるのではないかと思う。このような目に見えないところでの先生の努力と貢献は非常に大きなものであったと考えられる。いま、化学工学会の中で、晶析研究会は最も国際化が進んだグループと思われるが、これは、ひとえに豊倉先生のお陰であるといえる。

  豊倉先生は、公式な場でも国際的に活動されてきた。1984年以来ヨーロッパ化学工学連合のWorking Party on Crystallization の日本代表メンバーとしても活動されてきたし、3年に一回開催されるSymposium on Industrial Crystallization (ヨーロッパ化学連合主催)の組織委員会委員、座長としてのご活躍の他、幾つかの国際会議のオーガナイザーも務められている。先生のご退任を記念して、昨年9月17、18の両日、早稲田大学で国際シンポジウムが開催された。これには海外からも10ヶ国23の論文が加わり、総計300人を超す参加者あった。海外からの参加者も30名を越した。これだけの人達が海外から集まったということは、先生の国際交流に対する貢献がいかに大きかったということの一つの証であろう。


  豊倉は、研究活動を進める過程で、恩師の城塚先生から直接研究に係わること以外にも、非常に多くの事でご指導いただいた。その総てを記述することはできないが、ここでは、齋藤先生に記述いただいた記事を読んで思い出したことを記述する。

  豊倉の大学院学生時代は、城塚先生ご自身のご経験から思い出されたお話を伺うことが多かったが、その中に、「 博士論文を纏めたら、その研究成果を持って早く海外留学をするように 」と、目前の大きな目標を与えて下さったことがあった。それは、どの時代でも云われることだが、「一人前になるには或る段階で武者修行をして来ることは大切だ 」と云う話も聞いた事はあった。しかし、それは出来ればよいなとは思ったが、現実には難しいのでないかと思って軽く考えていた。ところが豊倉の博士論文が受理された段階で、予想してないことが起こって、突然留学してみようと云う気になって、城塚先生にお願いした。当時に海外留学は、戦後の復興は進んでいたが、欧米先進国との間には大きな差があって、実際留学することは容易なことでなかった。ただ、豊倉は、城塚先生から、若い内に外国から資金援助を受けて留学するように云われていたので、その準備を始めることのお許しは頂けると思ったが、豊倉にとって、全く経験の無いことだったのでどうなるか予想のつかないことであった。まず、城塚先生のアドバイスを頂きながら直接海外の研究機関と連絡を取った。この準備を始めて、3~4ヶ月経ったところで、豊倉の博士論文に関心を持った米国TVA研究所から好条件で受け入れの連絡を受けて留学の手続きを始め、その年内に留学することが出来た。留学期間はほぼ2年であったが、アメリカ、ヨーロッパの代表的な研究者の評価を受けることが出来、以降現在に至る45年を越える長期に亘る交流の太いパイプを築くことが出来た。それは、城塚先生のご指導が受けたからであった。特に、海外の晶析研究者と日本の研究者・技術者との交流を密に出来たのも城塚先生が日本の晶析関係者の研究集団を立ち上げ、それらの人達と協力して日本の晶析工学・晶析技術の発展を図るようにとのご指導を頂いていたことは大きかった。同時に、晶析に関心を持って下さった国立大学の長老の先生方のご指導とご支援を忘れることは出来ない。また、国・公立・私立大学や研究機関に所属し、共に活動した晶析分野の研究者や産業界の晶析工学・技術に関心のあった技術者の理解と協力があったからこそ、齋藤先生が記述下さったような活動が出来たと思っている。

  豊倉先生はまた早くから学会活動にも取り組まれ、特に化学工学会では、昭和54~57年度理事、昭和62・63年度理事・関東副支部長、平成1・2年度理事・関東支部長、平成8年度理事・副会長として長期にわたり学会の運営にこうけんされ、この間さらに広告委員長、研究部門委員長等々の学会の要職を歴任され、昨年3月に開催された定時総会の席上化学工学会名誉会員に推戴されました。私事になりますが本会創立50周年記念事業の一つとして、昭和61年3月に城塚先生総指揮のもと丸善から出版された「改訂3版化学工学事典」の編集小委員会委員長であった小職を補佐して、無事立派な辞典の編集に全力投球をして下さいました。今も感謝の念に絶えないところであります。

  今版先生が早稲田大学を退任になると承り、未だご壮健でいらっしゃるのに非常に残念でなりませんが、早稲田大学のみならず広く先生のご研究分野と志を同じくする後輩諸氏の指導と先生ご自身の益々のご精進をお祈り申し上げまして、ご退任のお祝の言葉とさせていただきます。


  恩師・城塚正先生は、豊倉が大学院に入学した時、化学工学を専門にする研究者・技術者は化学工学協会会員になって、その協会をベースに活動するようにご指導を受けた。城塚先生ご自身早くから化学工学協会(現化学工学会)正会員になられ、当時既に役員として活躍されていた。豊倉も当初は可成り努力して研究成果の発表を同協会で行ったが、時には失敗することも経験した。研究発表では厳しい質問を下さる先生もおられ、新人には勉強になることが多く、学会の先生方は暖かく見守って下さった。大学院を修了した助手の時代には関東支部幹事を仰せつかり、以降長年に亘って学会のお手伝いをして種々のことを経験した、国内外の学・協会等の役員の方々と仕事をするようになっても、化学工学協会の会員であることは、仕事を進める上で重要であった。特に、1986年初めて日本で開催した世界化学工学会議では、日本の晶析セッション担当座長を仰せつかり、海外から著名な研究者・技術者を招くことが出来、晶析分野の発展に貢献できたと思っている。齋藤正三郎先生は、豊倉の退職記念出版の趣旨に賛同下さってご寄稿いただき、将来の日本を背負って行く化学工学分野の若い研究者・技術者に参考になることを種々記述いただきましたことに、心から御礼申し上げます。

  最後になりますが、豊倉が化学工学分野で仕事をした時代は、戦後の日本産業界の復興が軌道に乗り、世界の国々から羨望の目で見られた時代になっていた。1980年に早稲田大学在外研究員として、ヨーロッパに4ヶ月滞在し、UCL.のProf.,J.Mullin研究室を訪問した時、彼の研究室で、「日本の大学研究者は、日本の化学産業の発展にどのように貢献してるか?」と尋ねられた。その時具体的な討議を1時間くらい行ったが、先生は日本のオリジナルな研究や技術の発展に関して高い関心があったようで、そこに焦点が置かれていた。また、西ドイツ、DuisburgにあったStandard Messo社のDr.Messing社長に会った時には、机の上に沢山積んだ日本の本を眺めながら、ドイツは日本に負けないと云いながら、今Duesseldorfにいる日本人は、東京にいるドイツ人より遙かに多い。もっと日本を勉強しなくてはと熱を込めて話していた。

特に日本の経済成長が急激に進んだとき、各産業を支えた化学産業を充実させために、日本全国の大学に化学工学科を増設し、化学産業を発展させる政策がとられた。そして、日本の化学産業は良い製品を安価に充分な量生産し、それを世界中に供給して日本の産業発展に貢献した。豊倉がアメリカにいた頃、上司のMr. Getingerは。昔の日本製品は安かったが質が悪くダメだった。しかし現在は、価格は安いが、品質はとてもよいと絶賛していた。しかし、日本の人件費は上昇し、その上昇は生産技術の向上を上回り、産業界は厳しい状況になっている。日本の産業が伸びた時代は、工業製品の生産に欠かせない、化学工学出身者が活躍する仕事は多かった。これからの日本の将来を考えた時、良い製品を、安価に、必要量を充分生産できる新技術の開発と、その技術を十分理解し・それを駆使出来る優れた技術者を適度に養成できる化学工学環境を構築する必要があると考える。

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