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豊倉賢略歴
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2010 A-12,1: 豊倉 賢  「  二十一世紀の贈り物 C-PMTを振り返って 」
   ・・桐栄良三先生にご寄稿頂いた記事“ 一意専心四十年“を拝読して
            (桐栄先生からご寄稿頂いた記事は青字にて記述 )

           京都大学名誉教授・元化学工学会会長   桐栄 良三

1)はじめに
  豊倉研究室の卒業生は、皆、桐栄先生のことはよく存じ上げてると思うが、先生は四国生まれで京都大学を卒業され、どちらかと云えば関西を主に活躍された関係で、関東育ちの多い早稲田大学の卒業生は直接御指導を頂くことは関西育ちの研究者や技術者に較べて少なかったと思う。豊倉自身、桐栄先生から学会で最初に言葉を掛けて頂いたのは1970年代になってからで、先生が関西支部長を務められ、豊倉が関西支部主催の化学工学シンポジウム晶析セッションのお世話をした時であった。それは、学会会場の廊下で未だ参加者がまばらな時間帯であった。少し離れたところから先生の特徴ある大きな声で豊倉先生と呼び止められ、そこで最敬礼を受けて晶析セッションの世話に対するお礼を言われた。この時、桐栄先生は駆け出しの若い研究者だった豊倉の名前も顔も知る筈はないと思っていたので、突然のことに驚いて先生に頭を下げてご下命のお礼を申し上げて分かれた。

  その後、先生は化学工学協会教育委員長を務められ、豊倉は私学関係からの委員として委員会に参加するよう自筆のお手紙をいただいた。この委員会の初会合で先生は、この委員会委員は法人会員所属の正会員も含めて化学工学の発展に貢献する活躍をしてきた実績のある会員にお引き受けいただいており、将来の化学工学を背負う立派な研究者・技術者の育成に役立つ活動をしようと挨拶された。一般に学会の委員会構成は、学会に所属する有力機関や法人会員で活躍している個人会員の中から、学会の役員数が法人会員間でバランスするよう配慮して決められるものであった。そのような状況において、桐栄先生はご自身のご判断で、化学工学の将来を充分考えた適切な人選をなされ、当時としてはまだ高価だった学生教育用コンピューターを日本全国の大学化学工学系教室に配備するよう先駆的活動をされたりして、化学工学系学生教育環境の充実を図られるなど、学会レベルで種々の活動を積極的になされる明確な将来ビジョンを持った立派な先生と敬服した。

  豊倉が早稲田大学院に入学する前年、1958年に出版された全訂改訂化学工学便覧第2版の改訂委員会幹事を務められた桐栄良三先生は、豊倉にとっては雲の上の大先生で、とても直接お願い事など出来るとは思っていなかった。しかし、桐栄先生が1982年度化学工学協会(現化学工学会)会長に就任された時、豊倉は1979年度より同協会庶務担当理事を継続して務めていた関係で、桐栄会長にお仕えすることになって色々御指導頂いた。その関係で1999年3月豊倉の退職記念に出版した本誌(C-PMT)に先生のご寄稿をお願いして、現職時代の豊倉が研究者として至らなかったことなどたしなめて頂き、それを肝に銘じてそれからの第2の人生を生きると同時に、先生から受けたご教示をこれからの研究者・技術者に伝承するようにしようと考えた。先生から寄稿頂いた記事は標記書籍”C-PMT” pp. 4~6 (1999 , Mar. ) に掲載した「一意専心四十年」である。この記事は2頁弱の紙面に豊倉が40年間続けてきた晶析研究とそれに関する活動の全てを取り纏めて下さっている。これを、豊倉が読むと、その記述内容の周辺を広く・深く思い出させて頂けます。しかし、桐栄先生と豊倉の討議はほとんど、豊倉研究室所属学生のいないところで行われたもので、卒業生が桐栄先生の寄稿記事を読む前に、豊倉が先生から伺った話などを読んで当時のことをある程度理解してから、桐栄先生が記述して下さった記事を読んだ方が豊倉が桐栄先生からご教示いただいたことをより良く理解して有効に役立て易いと思って、豊倉が桐栄先生から学んだことの思い出を以下に記述する。

1・1)1970年代初の化学工学協会研究発表会での一場面
  豊倉は、早稲田大学大学院時代最初の工業晶析研究として行った晶析装置設計理論が、オリジナルな無次元晶析操作因子とそれを基に工業晶析装置を設計する方法を提出した段階で海外留学し、それから帰国した1960年代末にはこれらの一連の研究は国内外で評価受けるようになっていた。それに引き続いて始めた新しい研究課題「晶析法による精製分離に関する研究」で提出した新しい精製晶析現象についての成果を1970年代初に化学工学年会で発表した。この時、豊倉の直前に発表された研究論文の発表予定時間終了の直前に桐栄先生が発表会場に入って来られ、発表者演台のほぼ正面の前から3人目くらいの席にお座りになった。この時豊倉が発表した論文はナフタレンー安息香酸系融液から晶析するナフタレン結晶の精製に関する研究であった。この研究対象は共晶系の晶析実験であったので、融液中の安息香酸濃度が操作温度の共晶濃度以下であれば、安息香酸は析出ナフタレン結晶中に入ることはないと考えた。そこで、その融液中にその共晶点より僅かに低い温度に保たれたステンレス円筒管を挿入し暫くそのまま静置すると、その円筒管表面に結晶が析出した。この結晶の付着した円筒管を融液から取り出し、そこに析出した結晶中の安息香酸濃度を測定すると、操作時の融液温度とステンレス円筒管の表面温度との差、およびステンレス円筒管を融液中に浸漬しておいた時間の影響を受けて含有安息香酸量の異なったナフタレン結晶を得た。そこで安息香酸を含有したナフタレン結晶が表面に析出した円筒管をそのまま融液中に浸漬して置くとナフタレン結晶中の安息香酸量は、時間の経過に従って徐々に減少し、長時間そのままにしたナフタレン結晶中に包含された安息香酸量はほとんど計測されないようになった。

  そこで、晶析ナフタレン結晶中に存在する安息香酸の状態をモデル化して円筒管表面に析出したナフタレン結晶は高純度のナフタレン結晶層とナフタレンー安息香酸融液相とからなっており、その融液は多くの場合円筒管表面からナフタレン結晶層を通して外側の融液本体まで繋がる融液管を形成していると仮定した。さらに、この融液管内では、ステンレス円筒管に接している融液中の安息香酸濃度はステンレス円筒管の表面付近温度における共晶融液濃度になっていて、この融液管内の最高濃度であるとした。一方、この融液管の融液本体に接していると考えられる融液内安息香酸濃度はほぼ融液本体濃度と等しく、この融液管内部より融液本体に向かって濃度分布が存在すると考えた。従ってナフタレン結晶層内の融液中に存在する安息香酸はその濃度分布に従って拡散現象が起こり、ステンレス円筒管の融液内静置時間が長くなると結晶純度が上昇すると想定してモデル化した。

  桐栄先生は、この論文発表後直ちに手を挙げられ、この実験において、融液中から結晶が層状に析出した円筒管を引き上げると、その結晶表面に融液本体の一部融液が付着していると考えられる。それは融液相から引き上げられると結晶表面上で固化すると考えられ、その融液はナフタレン結晶純度の測定値にどのように影響したかとのご質問を頂いた。これに対して、豊倉は実験時と同じ温度に保たれた円筒管を融液本体中に非常に短い時間差し込んで、すぐ引き上げて円筒管表面に付着した融液量と安息香酸量を実測するブランクテスト行って、実測値の補正を行った。その時の付着融液量は円筒管表面に晶析した結晶の実測値に較べてほとんど無視出来る程度の数値であったとお答えし、先生のご了解をいただけたようであった。

  桐栄先生は豊倉の論文発表と質疑応答が終わった段階で、直ちに席をお立ちになったが、その先生のお姿を拝見して、学会開催中のお忙しい最中に、わざわざ豊倉の研究発表を聞きに来て下さったのを知った時内心嬉しかった。また、この機会に、豊倉が新しく始めた精製晶析の研究発表で、オリジナルに提出した精製モデル理論を聞いていただけたのは、本当に有難かった。

  豊倉が大学院に入学した当初、石川平七先生のお宅にお邪魔した時石川先生から、「早稲田大学応用化学科の創設期に嘱任され長年に亘って学科長を務められて現在の応用化学科基礎を築かれ、また、初代化学機械協会(現化学工学会)会長にもなられた小林久平先生は、学会で論文発表をする時、その論文を充分検討してこれなら大丈夫と言う自信が持てるようになってから発表するもので、検討不十分な内容の論文を急いで発表してはならない。そのような論文を発表してると学会での信用をなくし、論文を発表しても誰も聞いてくれなくなるから気をつけるように云われた。」というお話を伺ったことを思い出して、桐栄先生の前で発表した論文を先生はどのように聞いていただけたか一抹の不安があって、これから論文を発表する際には、これまで以上に慎重にしようと思った。

1・2)ある化学工学協会本部大会懇親会にて
  豊倉が関東支部幹事を務めていた頃、化学工学本部大会時の懇親会で、東北地区懇話会の連絡幹事を兼ねた関東支部幹事の大谷茂盛先生を囲んで数人の若い東北大学の先生方と懇談をしたことがあった。そこに、突然、桐栄先生がお出でになり、大谷先生に、東北大学の先生方が提出した乾燥理論は素晴らしいと大変お褒めになった。厳しいことでは化学工学学会中に知れわたっていた桐栄先生が、ご自身の専門分野で活躍していた後輩の研究者を大変お褒めになったのを目の前で拝見して、大谷先生は素晴らしい研究成果を発表されたのだと思った。大学の研究者として、自分の分野の実状を知っている著名な先生から研究者・技術者の大勢いる学会の懇親会会場で褒められることは当事者にとって本当に名誉なことだと思って、自分も研究者の端くれにいるのだから、運良く機会があればご指導いただいた恩師のためにも、また、一緒に研究している学生のためにもこのような経験ができるように平素から努力したいものだと思った。

  それから、暫くして、化学工学協会の関東支部幹事会で、何かと面倒を見ていただいたことのあった先輩幹事の東北大学教授齋藤正三郎先生に、「学会の懇親会で桐栄先生が大谷先生の乾燥理論を非常に高く評価されて居られたことをお伝えして、私、怠け者でその理論のことは存じ上げないのですが?」と恐る恐る伺ったら、それは大変ら理論で、大谷先生は恩師前田四郎先生とその理論展開を検討した時は、黒板に式を書いて討議していたが、その式は書ききれなくなってさら床の上に書き続け、帰宅時間も忘れて長時間討議された成果だと伺って、研究の大変さを思い知ったことがあった。それと同時に、学会を代表する先生方の研究に対する情熱は計り知れないものだと改めて知らされ、自分の研究成果に対する自己評価を第三者の立場で行うとともに、その次のステップへの進展の可能性をベースに学門としての工学と工業生産としての工業操作の両面から進めて、それなりの成果を出し続けなければ、第一線のレベルに到達することは覚束ないことと思った。

1・3)1986年東京開催の第3回世界化学工学会議での思い出;
  第3回世界化学工学会議を1986年東京で開催することの受け入れを化学工学協会理事会で決めたのは、豊倉が早稲田大学在外研究員としてヨーロッパに出発する直前であった。この時、豊倉は、ヨーロッパに4ヶ月滞在し、その間8ヶ国の大学・研究所および企業を訪問して各国を代表する晶析分野の研究者・技術者を訪問し種々の討議を行った。その最後に訪問したドイツ.Duisburgの、Standard-Messo社はヨーロッパを代表する晶析装置メーカーで、1ケ月滞在してヨーロッパの晶析装置の実状を調査すると同時に、晶析装置のあるべき姿を同社の技術者と討議して、有効結晶核発生速度と結晶成長速度に基づく新しい無次元晶析装置設計線図を提出した。また、この4ケ月間に行ったヨーロッパでの晶析研究者・技術者との晶析研究・技術の討議を通して、1986年東京開催の世界化学工学会晶析セッション参加への関心を集めることが出来た。その後、1981年Budapest、1984年Hagueで開催されたEFCE公認WPC主催のISICには日本より多数の晶析研究者・研究者が参加して論文を発表すると同時に、1986年東京で開催する世界化学工学会議・晶析セッションへの参加勧誘を皆で行った。その結果、東京で開催した世界会議の晶析セッションにはおよそ30名余が欧米より参加した。これら来日参加者は、同時に開催した関西・中国・四国地方の化学企業のテクニカルおよびソーシャルビジット、およびサテライトプログラムとして東京で開催した分離技術シンポジウムの晶析セッションやソーシャルビジットにも参加し、日本の晶析研究・工業技術に対する認識も新たにして、以降の交流は活発になって、晶析工学・技術の発展に貢献した。

  第3回世界化学工学会議が始まって一連の行事が進行した中日の午後、晶析セッション開始直前の会場に、突然桐栄先生が、「豊倉先生は居られるか?」と言いながらお見えになった。その時、豊倉は晶析セッション最初の座長を引き受けていたので、早めに着いていた座長席で「ハイ」と返事して立ち上がった。すると先生は豊倉の前まで来て最敬礼され、「私の学術会議化学工学研究連連絡会議の委員になって頂けないでしょうか?」と云われ、「喜んでお引受けさせていただきます。」と申し上げると、「早速お聞き届け下さいまして有難うございます。」と云われてその場を離れられた。

  その時は、それで済んだが、その晩開催された化学工学協会創立50周年記念パーテイーで桐栄先生にお目に掛かった時、この会議にFinlandから参加していたPalossari教授から、日本の晶析グループの人達が海外で活躍している話を聞いたが、これからも大いに頑張るようにと励まされた。その時、桐栄先生は日本国内で活動している研究者を評価するのに、自分の専門でない分野の人達に対しても、その人の専門分野でどのような活躍をしているかについて同じ専門分野の国内外の著名な研究者・技術者の評価に常日頃から関心を持って聞き、それらを総合してこの人ならと云う人に学会の仕事を頼んでいると云っていた先生のお話を思い出した。

  それから数年経って桐栄先生は、日本国内化学工学分野の最新分離操作で活発な研究活動を行い、既に国内外から着目された成果を挙げてる40歳代から50歳代前半の研究者20名にお声を掛け、その先生方を集められたことがあった。そこでは、化学工学協会本部大会時に気心の良く分かった先生方が気兼ねなく研究についての討議が出来るように、そのメンバーだけのクローズな会合を開いて、数年に掛けて各先生が研究している専門分野で、近い将来発展させねばならない研究課題と、それによって画期的な新技術の開発が期待される化学工学研究テーマ等についての検討等を行った。そのメンバーは、桐栄先生が期待される先生であったので、京都大学に直接関係のある関係者は約半数で、その他は国内国立大学の著名な先生ばかりであって、ただ一人豊倉は桐栄先生からお言葉を掛けていただいた私立大学現職教授であった。そのことを知った時、桐栄先生からお言葉を掛けていただいたことの重みを痛感し、先生のご期待に応える活動を続けるためにこの会議が終了した段階で、今後の晶析研究で将来の産業界の発展に貢献する研究課題を討議するために、文部省科学研究助成総合研究Aに、晶析研究会の主要メンバー20名で申請し、その助成を受けて研究した成果を報告書に纏めた。

1・4)1991年度化学工学会学会賞受賞研究発表会での講演;
  豊倉は、1991年度化学工学学会賞を1992年3月大阪府立大学で行われた化学工学会総会で受賞した。その翌日同会場で受賞講演を行った。その時、桐栄先生は講演会場にお出いただき、中央前方に着席されておられた。前年度までの受賞者平均年齢が満60歳を越えていた関係で、過渡的措置として設けられた、「被推薦者数が受賞者数の2倍以上の場合は3名を受賞者数とする」というルールに従って、この年までは3名が受賞し、会場に参集した人はほぼ満席に近い状態であった。講演は、あいうえお順に行われ、豊倉は最初であったが、その時桐栄先生のお姿にすぐ気付き、それとはなく豊倉の視線は先生の方に向かっていて、話の区切り毎に先生がうなずいて下さるのが目に入って、比較的落ち着いて講演をすることができた。

  後日、桐栄先生にお礼のお手紙を送り、それに添えて、豊倉が30年間行った主な晶析研究成果を纏めて出版した「晶析工学の進歩」を先生に送らせていただいた。その時先生から、過分の激励を頂き、それを糧にこれからも大いに頑張ってご恩に報いるよう努力しなければと気を引き締めた。そのお手紙は、1999年3月、豊倉が早稲田大学を選択定年で退職する日まで研究室の額に納めて学生の目に入るようにした。以下に、そのお言葉をそのまま記述する。

〔  豊倉賢先生  ;
  先日は化工年会で学会賞を受賞されまことにおめでたく、心からのお祝いを申し上げます。

  翌日は受賞講演を拝聴しまして、先生の三十余年に亘るご研究を通して、物理化学的にのみ進められてきた晶析を化学工学の領域に取り込まれて、一つの有力な操作として確立されるにいたる経過を承り、化学工学者の研究とはかくあるべきものと深く感銘致しました。基礎からはじまってその応用による技術としての装置と操作の開発にいたる一連のご研究は華麗にして、しかも着実な発展をとげる絵巻を拝見する思いでありました。世界に越しそれの先頭を進まれるご様子は私共としましてもうれしい思いで一杯であると共にそれにかけられた先生の情熱と不屈の精神の結果と存じます。

   私の好きな言葉に 「 雖精励不息学不窮 」

がございますが、文字通りこの道を進まれたことと存じます。六百六十頁余の大冊を順序よく、判りやすいように配列して短時日の間にまとめられたご努力の結果である「晶析工学の進歩」を本日いただきました。厚くお礼を申し上げます。ゆっくり時間かけて拝見いたしますが、先日のご講演の際の図面が所々に見受けられなつかしく“豊倉調”を思い返しています。

 今後一層のご発展を祈ります。
 先ずはお祝いとお礼まで申し上げます。
 御奥様によろしくお伝え下さい。

平成四年四月十五日
                                 桐栄良三   ]


1・5)桐栄先生のお声掛かりで行った企業研究のお手伝い;
  豊倉が桐栄先生と最新の晶析工学について討議をしたのは、先生が京都大学を退官されてからで、先生が長年顧問をされていた中国地方の企業で問題になっていた晶析技術開発の相談を受けた時であった。それは、複数の多糖類が溶存していた水溶液から目的成分を工業規模の精製晶析操作で分離出来ないかというものでした。この系は、溶解度は大きく、溶液粘度も高いため、容易に濾過分離出来る大きさの結晶製品をその溶液内で成長させることが難しく、それを解決出来ないかと云うことでした。その時、豊倉は、その企業の担当者に、自分の経験とそれをモデル化して提案した操作法を話し、それに基づいた研究実験を行ってみてはと伝えた。その実験を始めて多少データの出た段階で桐栄先生をお迎えして、中間報告と今後の研究方針を討議することになった、それに参加したのは、桐栄先生と豊倉の外は、担当の技術者数人の会議であって、企業現場の溶液を用いた小型実験装置のデータを中心に討議した。その内容は、開発実験の経過報告とそこでの実験結果を検討して、このプロセス開発に有効な操作法を提案し、工業生産プロセス開発の可能性を見出してこの研究継続を決めた。

  翌朝、桐栄先生と豊倉の2人で、最近の工業晶析操作で経験した新しい晶析現象について討議した。そこでは、「豊倉が難溶性結晶を液相反応で生成する場合や、易溶性多糖類の水溶液から結晶を析出する場合、過飽和状態で発生する結晶核の挙動は複雑で、しかも、それが結晶成長現象に複雑に影響することがあって、現状では、このような系を対象に所望の結晶を生産可能にする装置・操作の開発法は確立されていない。そこで対象になる系の溶解度が小さいので、無次元過溶解度が大きくても飽和溶解度の絶対値は小さく、粗粒結晶を生産する操作過飽和度を適切に制御するのは難しいが、一部の系では、装置内に懸濁する結晶量を多くして操作することによってそのようなスラリー過飽和溶液から分離が容易な製品結晶を生産できるようになっている。しかし、ここで得られる結晶は凝集物になることが多く、それが製品結晶として受け入れられる場合は豊倉がすでに提出した一般的な晶析装置設計理論を適用した設計法で装置設計は可能である。その場合でも、製品結晶の純度その他の制約がある場合には、その製品の生産に適した新しい操作法を開発する必要がある。高溶解度・高粘度溶液からの晶析では、溶液が過飽和状態になっても結晶核の発生は起り難いことがあり、また結晶成長速度も遅いことがある。このような過飽和溶液内での晶析現象は複雑で容易に理解しがたいが、豊倉の経験に基づいてそれを簡略化し・モデル化して考えると、時間の経過に伴ってクラスターは増大して溶液粘度は増大し、また結晶成長速度も遅いままと近似表現できる。しかし、そのままでは、所望結晶粒径結晶を成長させることは困難である。ところが、ある段階で溶液粘度の低下が起ると、装置内の一部で局所的な結晶核の発生が起こり、あるものは相互に凝集しあって活性のある凝集物の生成となる。またあるものは過飽和溶液内に懸濁する結晶に付着し、結晶の成長速度を増大させる。またクラスターや活性微細結晶が凝集して生成したと思われる集合体は、転移・その他再結晶などを繰り返すと、装置内結晶数の変化を伴いながら見掛け平均結晶成長速度の増大促進が図れるように思われることもあった。昨晩の会議で討議された今回の研究実験で起った晶析現象はここで提案したモデルで表されるのでないかと思っている。」とお話した。実際、工業装置内の晶析現象が、このような新しい工業装置内結晶成長モデルが起っていると考えると理解でき、その考えによって操作を改善することによって所望製品を生産した経験もあるお伝えした。桐栄先生は、そのような話は聞いたことはないと云われて興味を持って下さった。

  この会議が終わって数ヶ月経って、化学工学会学会で桐栄先生にお目に掛かった時、先生から豊倉のアドバイスは今回の課題解決に大いに貢献したとお礼を言われ、今度装置の改造をする時には、それを使わせて貰うと付け加えて頂き、豊倉自身名誉なことと思った。この時の様子を、学会会場の少し離れたところで見ていた学会事務局次長は、桐栄先生と難しそうな話をされてましたが、何かあったのですか?と云われて、そんな難しい顔をしてたかと我に返ったことがあった。

2)桐栄良三先生にご寄稿いただいた、「 一意専心四十年 」を拝読して

2・1)1959~1960代の晶析研究・・組織的研究室活動を中心にして;

  豊倉先生は昭和34年(1959)早稲田大学大学院修士課程に入学され、城塚正先生の指導を受け、爾来40年間一意専心、晶析工学の現象論的研究ならびに晶析装置の設計法を含む工業装置の開発のため精魂を傾けられました。その結果世界的に偉大な業績をあげられましたが、本年3月先生のご意志により同大学を選択定年退職なさることと承りました。

  私は、昭和18年から単位操作の分離工学の一分野である乾燥操作に携わりましたが、同じ分離工学の一分野として、液相で存在する目的物質を固相への相変化を行うことにより、高純度物質として固体で得る「晶析操作」については必ず大きく発展すべきものと期待しておりました。しかし昭和30年代の間までは。この方面の研究者は少なく、装置的発展も乏しい状態にあったと思います。

2・2)1968以降の晶析研究と化学工学協会研究会を中心とした晶析研究活動;

  昭和43年(1968)に至り、化学工学の研究部門委員会に研究会の設置が認められ、同44年に城塚先生を中心にして、「晶析研究会」が設置され、産・学を通じて、同学の士の討論の場が生まれました。この会はその後私的な研究会を続けていましたが、昭和52年(1977)に若手研究者の会が発足して、豊倉先生を中心に活発な研究とその討論、発表の場となりました。以降研究会、特別研究会などとして継続しながら急激に発展して我が国内の会議は勿論、国の内外で開催される国際会議に晶析分野の代表として積極的に参加するに至りました。現在産、学の研究者は100名を越え、世界的にもWorking Party for Industrial Crystallization of the Society of Chemical Engineering, Japan (略称 WPIC,Japan)として活発な活動が認められています。

  ここに至る間、豊倉先生は晶析工学の研究一本に絞って専念されましたが、先生の最初の学術論文は化学工学、28巻3号、221(1964)に掲載された城塚先生、松本要氏との共著の塩化アンモニウムの結晶成長速度に関するものでした。この後晶析現象と晶析装置設計に関する論文を次々に発表され、晶析工学の体系化を完成されて世界の学会から高い評価を得られました。これらの研究に対して、平成3年度には化学工学会から学会賞を受賞されました。先生はこの受賞を機として過去30余年にわたる成果の主要部分を整理され、「晶析工学の進歩」(1992年4月)と題する大部(総頁数665)の書籍を刊行されました。また先生は化学工学会が10年毎に総力を挙げて編集し出版する「化学工学便覧」の晶析の章において、第3版('68)、第4版('78)は執筆者として、第5版('88)、第6版('99)は章担当委員さらには便覧全体の編集委員として推薦され、大任を全うされました。

2・3)晶析工学・技術発展のための活動;

  さらに先生は晶析に関する工業に従事する技術者の啓蒙に力をつくされ、化学工業関連の専門誌にも理解しやすい形で装置の設計法とか進歩の方向の総説を多く著述されました。また各企業が個々の問題について先生の指導を受けた例もおおくあり、そのいずれも懇切丁寧に応ぜられたと承っております。

  これらの先生のご活躍の締めくくりとして、平成11年の先生のご退職を記念して先述のWPIC、Japanと早稲田大学理工学総合研究センターとの共催による「工業晶析国際シンポジウム」(International Symposium on Industrial Crystallization)が平成10年9月17日、18日に早稲田大学において「工業晶析の総括と21世紀への展望」をテーマとして開催されました。先生の御学識を慕う世界的権威者とされる方々をはじめ、研究者、技術者が世界各国(参加者30余名)および国内(参加者300余名)から参加して、85編の論文発表と活発な討論が行われ、先生のご退職を飾る立派な会議でありました。

  以上述べましたようにこの40年間一意専心晶析工学の進歩発展に尽くされ、世界的に大きな貢献を果たされました。豊倉先生はこの分野での世界的指導者として仰がれ、先生の研究室は工業晶析を志す者が必ずその扉を叩いて教えを乞うメッカと申すことが出来ましょう。これは先生が一生をかけてご努力された賜物であると確信いたします。

  先生には、退職後は従来とは異なるお立場から斯界をご指導くださり、邦家の為一層のご尽力を賜りますようお願い申し上げます。

3)むすび
  傘寿を目前にして過去を振り返ると色々のことが思い出される。自分の期待している通り進んだこともあるが、壁に突き当たって困ったことは数え切れない程あった。しかし、これまで行ってきた晶析研究でも、新しい着想に気が付きそれを真剣に考えて発展させることによってその壁を乗り越えたことが沢山あった。桐栄先生がご寄稿下さった記事の中に「最初の学術論文を化学工学28巻3号、221(1964)・・・」と記述いただきましたが、この研究実験を始めた時どうしても文献に発表されてるような結晶が作れず困惑したことがあった。この時のことは化学工学学会賞受賞講演中でも話したが、結晶作りの経験のない者にとって、大きな難関でその一週間結晶つりの研究は全く手を付けないまま過ごしたことがあった。その心の動揺が静まったところで気を落ち着けて考え直し、慎重に研究実験を行ってこの壁を乗り越え、やっと論文の発表に辿り着くことが出来た。以降もこれよりずっと厚い壁には何度も突き当たりましたが、この経験を思い出しては新しいオリジナルなアイデイアを出し、それを検証しながら発展させて何とか通り抜け、40年の研究生活送ることが出来た。個々の研究はその度に新しい理論を創出し、それらを組み込むことによって晶析工学の幹を太く大きくすることが出来た。早稲田大学の酒井清孝教授から同じ研究を長期に亘って続けることは大変でしょうと云われたことがあった。その時、じっくり研究を続けていると自然と未知な課題が出てきてそれを解決しなければ立ち枯れするものと気がついた。桐栄先生から、「一意専心四十年」の記事を退職記念に頂きましたが、十年経ってやっとその意味が分かりかけて来た気がしてます。

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