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豊倉賢略歴
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2010 A-11,1: 豊倉 賢  「  二十一世紀の贈り物 C-PMTを振り返って 」
   ・・安藤淳平先生にご寄稿頂いた記事“ 変わるものと変わらないもの“を拝読して
            (安藤先生からご寄稿頂いた記事は青字にて記述 )

           中央大学名誉教授・元米国政府EPA コンサルタント   安藤 淳平

1)はじめに;
  豊倉研究室の卒業生は日本の無機化学分野の著名な研究者で、特に肥料・環境分野で世界的に活躍された安藤淳平先生を良く存じていると思いますが、ここでは豊倉がお近づき頂いた経緯とそれからほぼ半世紀間親しくして頂き、学問だけでなく、家族的なお付き合いを通して種々のことを御指導頂きました安藤先生に感謝申し上げ、その一部を紹介させていただきます。

  豊倉は1966年12月から約2年間、初めて海外生活を送ったアメリカ、アラバマ州のフローレンスとTVA公社肥料総合研究所での研究生活で、豊倉の渡米前には想像もつかなかった程お世話になりました。この2年間のアメリカ生活は、それからの豊倉の生活と研究を飛躍的に変わりまして、渡米禅に城塚先生が、博士号を取得したらはやく留学するようにと云われた言葉の意味を経験を通して学ぶことが出来ました。今回安藤先生からご寄稿いただいた記事を再拝読して考えたことを記述し、これから日本の化学工業を背負って行く研究者・技術者の参考になればと思っています。

  安藤先生は、音楽の才能にも恵まれた素晴らしい先生で、そのすべてを紹介することは出来ませんが、豊倉の存じ上げる先生のお人柄、学者として私が御指導を受けた倫理観など極一部を記述させていただき、この記事を読む若い人達に先生のお人柄をそれなりに理解してから読んでもらえたらと思います。

  豊倉が海外留学を考えるようになった経緯は、前号掲載した城塚先生の記事の中にも書きましたが、豊倉が纏めた博士論文の成果を工業晶析装置の開発や工場内で稼働していた晶析操作の改善に適用すべく相談を受け、それに成功し始めた頃であった。その頃、学科内で、不測の事があって、当初予定されてた豊倉の昇格人事が暫く先送りになりそうになって、その数年の間に海外留学をしようと考え、急遽、留学先を探し始めた。まず最初に考えたのは、晶析研究論文を発表していた欧米の大学数校を選び、その論文を発表していた研究者宛に豊倉の研究業績の一覧表(日本語論文に対しては論文題目の英訳付)とその論文コピーを添付したものを送った。その直後に早稲田大学宛にカナダNRCからpost doctorate scholarship の募集案内が来ていて、城塚先生から教室会議に回覧されてたから調べてみてはと云われた。その段階で応募に必要な書類を整えてカナダのNRCに送った。また、晶析関係の大学に送った手紙に対して、イギリスUCLのProf. J.W.Mullinからは費用持ちで来るのかと言う問い合わせはあったが、当時の日本の状態ではすぐその準備は出来なかったので、そのままにしておいた。その一方、米国TVA公社のMr.G.Getingerが IECに発表していた論文を見つけ、そこにも欧米の大学に送付した手紙と同じものを送った。その後、カナダのNRCから、1966年度のP.D.Scholarship採用の通知が来たので、すぐ、TVAに、過日留学したいとお願いしたが、NRCから採用通知が来たので、誠に申し訳ないがお断りしたいとの手紙をMr.G.Getinger宛に航空便で送った。豊倉は、留学先のことは決まったので、カナダ行きの準備を始めなければ考えていたところに、突然、安藤淳平先生から航空便のお手紙をいただいた。その時のアメリカTVAの豊倉への対応は、安藤先生が寄稿された記事の中に記載いただいた通り、豊倉に非常に都合良く進んだ。そのことについては、安藤先生がお書き下さったC-PMT記事のコピーを以下に示す。

2)安藤先生ご夫妻のご親切に甘えて始まった豊倉一家のアメリカ生活;
  (安藤先生に寄稿いただいた記事をそのままコピーします。)

  豊倉先生とお知り合いになったのは40年近く前で、私が米国政府の招待でTVA化学研究所に勤務していた時のことである。部長が相談に来て、トヨキューラという人からTVAで働きたいとの手紙をもらって、返事が遅れたらまた手紙が来て、カナダの研究所で受け入れてくれるので辞退したいと書いてあるが、どうしたものかという。私は豊倉先生を存じ上げなかったが、手紙の文面から誠実なお方と確信し、部長に、早稲田大学は日本最高の大学で、豊倉先生は優秀でよい方に間違いないので、良い条件で受け入れるとの招待状を直ちに出しなさいと強く勧めた。当時の日本は貧しく、米国では日本評価が低くて日本人研究者の受け入れは少なかったが、私はTVAで長年困難とされていた課題を短期間に解決して信頼を得ていたので、部長は即座に承知してくれた。

  私は即日豊倉先生に速達を出し、TVAが優れた研究所で、周囲の環境も良く、妻も子供達も幸福に過ごしているので、是非ご家族と一緒にお出で下さいとお勧めし、先生から承諾の返事をいただいた。間もなく私どもは帰国して先生ご夫妻に初めてお目に掛かり、ご夫妻は小さいお嬢様お二人と共に渡米された。TVAで先生は期待通りの優れた仕事をなさり、奥様と共に人々から敬愛を受けられた。


3)安藤先生ご夫妻のお世話になったアメリカ生活とTVA Fertilizer Development Center での研究生活およびその後の国際的研究活動の始動;
3・1)豊倉家族渡米前の準備;
  留学準備を始めて数ヶ月経った、初夏のある日のことだった。突然、アメリカから速達航空便が早稲田大学化学工学研究室豊倉宛に届いた。差出人は米国アラバマ州TVA化学研究所安藤淳平先生であった。その時、私は安藤先生を存じ上げなかったが、お手紙を拝見すると、先日豊倉がTVAに送った手紙に対して、TVAの当事者が判断に迷って安藤先生に相談に行った様子が良く分かった。その時、

◎TVA化学研究所トップの人達は、安藤先生を信頼して高く評価されてたこと。
・・・実は、 数年前に安藤先生はTVAの同じ研究所に招聘されて素晴らしい研究成果を上げられていた。その 実績や先生のお人柄は評判良く、先生の帰国後も引き続いて研究所のトップの人達に高く評価され続け、再度厚遇で招聘され、研究をされておられた。

◎安藤先生は、豊倉の送った英文の手紙を御覧になって、豊倉の相談に来た部長に強く推薦されると同時に、当時ヨーロッパ出張中の人事権を持っていた部長にすぐ電話され、豊倉の採用内定 を確認して下さった。先生のお手紙では、上記記事の中に書かれていたように、TVA化学研究所 のある北アラバマ州は、気候も日本のように比較的穏和で住みやすく、20世紀初期に行われたテ ネシー川の総合開発によって整備された緑と水の豊かな土地で、住人も親切な人が多いので最初から家族揃って来られることを勧めると云われた。その上で、カナダの研究所の方を断わるのは、ヨーロッパに出張中の部長は8月下旬に帰国される予定なので、帰国したら直ちTVAの正式な手続きを始めるので、その段階で行ったら良いのでないかと、海外事情に疎い豊倉に親切なご助言も下さった。

  この安藤先生のお手紙を拝見して、早速その手紙を持って城塚先生にご相談申し上げた。その時、 城塚先生は、安藤先生が数年前若手研究者対象の日本化学会進歩賞を受賞されてたことを覚えてられ、この先生が推薦して下さるのなら先生のお勧めに従うようにすぐ礼状を送りなさいと云われた。

◎安藤先生が、TVAでの研究を終えられ、ご家族4人で日本に帰国されたのは、同年の9月になってからで、豊倉は一人で羽田空港にお迎えに参上して初対面のご挨拶とこれまでの御礼を申し上げた。その時、恩師、城塚先生が安藤先生にお礼を申し上げたいと云われてますので、先生のお疲れが癒えた頃再度ご都合を伺いますので宜しくお願いしますと申し上げて失礼しました。

  後日、築地で再度安藤先生にお目に掛かった時、城塚先生は、豊倉がお世話になったことのお礼を申し上げ、さらに、これからも豊倉をお引き回し下さいますようにと、お願いして下さいました。豊倉の訪米後、安藤先生から時々ご連絡いただき、TVAを訪問したいと希望した日本企業の技術担当のトップの方々約40名が豊倉の滞米2年間に来られ、これらの多くの方とは豊倉が日本に帰国してからも続けて親しくさせていただいた。

  安藤先生ご夫妻が帰国され、落ち着かれた頃娘二人を連れて家族4人でご挨拶に安藤先生 のお宅を訪問した。その時家内は、奥様からアメリカ生活は女性にとって天国で、皆が親切にしてくれるから心配ないというお話しをいろいろ伺って安心して帰ることが出来た。

3・2)初めてのアメリカ生活のスタート;
  日本を離れた海外生活では、特に家庭が安心して生活出来ないと研究も仲間との付き合いも順調に進めることが難しくなる。そこでは生活様式・習慣、ものの考え方も異なっているので、最初の歯車が噛み合わないとすべてちぐはぐになって、意志は全く通じなくなってしまうこともある。そのような話はアメリカに着いてからも聞くことはあった。アメリカは世界中から他国籍の人達が移住して生活してる国であったので、これらの外国人が民主主義のルールーを守って、他人に迷惑 をかけることなく行動すれば、人々は親切に助けてくれ、外国人は困ることなく生活出来るように 随分配慮されてる国と思った。しかし、世界で最も豊かな先進国であっても、自分の生活は自分で 守るルールから逸脱するような迷惑な考えで行動したり、価値観・習慣等の違いから彼らに理解で きないようなことを頼むと、冷たくあしらわれるように感じることもあった。

  豊倉は羽田で飛行機に乗って、まず、ハワイに寄って2日間滞在し、出発前の日本の疲れを癒して昼頃の飛行機で発って、ロサンジェルス、メンフィス乗り換えで丸一日掛けて同日夕方TVA研究所のあるマッスルショールズ空港に着いた。そこには、安藤先生からご連絡して下さった当時フローレンス在住の日本人橋本夫妻と三井東圧の桑原さん、豊倉が最初に連絡取ったTVAで直属の上司になるMr.& Mrs G.Getingerらの出迎えを受けた。当日は、橋本さんが予約して下さったお宅に近いモーテルに送っていただき、そこに泊まった。その時、橋本さんはTVAは朝7時半から始まるので明朝7時に迎えに来るからと云われて分かれた。

  翌朝橋本さんは、アメリカ中部時間の午前7時に迎えに来られ、家族をこのモールの一室に残して出勤し、昨晩、空港で会ったMr.G.Getingerの部屋に連れて行かれた。そこでは彼の秘書を紹介された後、30分くらい研究所の概要と彼のdivisionで進めていた主な研究課題とその中で早急に研究しなければならない晶析に関する課題等の説明があった。この話が一通り済んだところで、人事課に行って入所の手続きを行って再び彼の部屋に戻った。その時、彼はにっこり笑って、これから、お前の家族を拾って、アパートの入居と車の保険契約を行い、最後に、安藤先生が私のために、豊倉が着いたら何時でも車に乗れるように用意して預かっていて下さった安藤先生の親しい友人の家に案内された。アメリカは小さな田舎町でも広く、車で走れば、10分か15分も走れば何処にでも行けるが、自分の車以外の乗り物はどこをどのように走っているか分からないバスとタクシーだけで、車がないと家族で生活することは無理だと初日の移動で知った。

  安藤先生の友人の家で車を受け取った時、Mr.G. Getingerは、これはお前の車だ。お前の家まで送るから後について来いと云われて、恐る恐るエンジンを掛け、アクセルを踏んでアメリカでの最初のドライブを始めた。家の前に着くと、実はMr.G.Getingerの家は、私が住むアパートの斜向かいで、これなら困ったことが起きたら何時でも相談できるとホットした。そして、借りた家具付きの部屋の中に入って、日本からの持ちものを入れ終わるまで付き合ってくれた上司は、これでよいかと尋ねられた。そこで、初めて、昨晩街の空港に着いた時から今日自分のアパートにつくまでお世話になったお礼を申し上げ、その上で、アパートで生活が出来るような整理はこの週末までに済まして、来週月曜日の朝から正常に出勤出来るようにするがそれで良いかと尋ねたら、疲れてるだろうからゆっくり休んで、来週月曜日の朝、7時30分までにMr.G.Getongerの部屋に来るように云われて, 気持ちよくお許しを頂いた。

  アメリカに着いてからの生活は、初めての外国生活でどうなるか全く想像できなかったので、 安藤先生ご夫妻のご助言通りに進めようとお言葉に甘えて済ましてしまった。豊倉の家族は皆健康には自信を持っていたが、アメリカに着いた時は、出来るだけ無理をしないように、TVAへの出勤は翌週の月曜日から始めようと考えていた、しかし、住居地のフローレンスに着いた翌朝7時に迎えに来るから出勤するようにと聞いた時、家内は何も言わなかったが、内心大丈夫かと心配したと云うことであった。しかし、その日は上司のMr.Getingerは入所手続きが終了してから半日お付き合いして下さって、住居から車まで万全の処理をしていただいた時には、TVAの方々が受け入れの世話をして下さったことと、安藤先生がご帰国前のお忙しい時に私の知らないことを皆お手配して下さっていたことを知って家内と感動して、感謝したことを昨日のことのように思い出した。

3・3)TVAにおける豊倉の研究活動;
  豊倉のTVA研究所における研究活動は C-PMT ; p.88 , 4-3) “ 海外の研究者・技術者との交流の思い出”、と同書pp..91~97, 4-4) “アメリカTVA公社研究所の生活”、および1991年出版の晶析工学の進歩。pp..607~617 , 6-5-b.) “燐硝安プロセスとそれにおける晶析操作”に掲載したので、研究そのものに関心ある人はそれを御覧いただくとして、ここでは、安藤先生がTVAで活躍されたご研究のこと等を思い出しながら豊倉が行った4件についての概要を、これから留学する人達の参考になればと思って記述する。

◎TVAで研究を始めて2~3週間のdemonstration test :
  豊倉が実質的に研究活動を開始した初日。燐硝安プロセスの主要工程の一つである燐鉱石の硝酸分解液から晶析する硝酸カルシューム4水塩結晶を均一粗粒として析出させる実験を行った。ここで生成する結晶が懸濁する母液の粘度が高く、しかも燐鉱石の分解で生じた懸濁微粒不純物が共存するため、この4水塩結晶は粗粒とし生成することが必要であった。しかし、この晶析プロセスで容易に濾過分離出来る粗粒結晶を生産することは難しく、研究室の大きな課題として既にこれまでの担当者が研究していた。そこに、晶析研究で博士号を取った研究者が日本から来たと云うことで、同室の茶目っ気のある愉快なMr.Rは粗粒4水塩を生成してみろと面白半分に云った。豊倉は異なった系の工業操作で生成する微結晶を粗粒にする研究は日本でも経験したことがあったので、それは簡単に出来ると云って、実験を始めると幸運にも云われる通りの大きさの結晶を自由に生成することが出来た。そこで、所望の結晶を生成するための理論を説明し、その上で、工業的に生産コストを安価に安定生産するためには、その生産プロセス最適な粒径結晶を生産することが必要で、そのような結晶を生産するには、その結晶生産に適した装置形式と操作法を選定・開発することが重要であると説明した。この実験はアメリカ人のクリスマス休暇の直前であったので、研究室の隣人が暇つぶしに見に来た人もいて、着任早々居心地の良い思いが出来た。

◎TVAでのpromotion;
  着任して、半年くらい研究を続けた頃、硝酸カルシウム4水塩結晶生産のための操作条件決定のための研究を行うと同時にその結晶を生産するための設計データの測定も行い、それを用いて連続晶析装置を豊倉が早稲田大学で提出した設計理論を用いて行った。その頃、安藤先生と親しい部長が来日し、安藤先生が豊倉のTVAで行っている研究のことを話題にしたら、部長は豊倉の給与の昇級を考えても良いと話してたから、豊倉は直属の上司Mr.G.Getingerにpromotionを申し出るようにとの手紙を安藤先生から頂いた。豊倉は自分から昇級を申し出た経験はなかったので少しとまどったが、これが米国社会と思って上司に安藤先生から云われたのでと申し出た。その時、上司からは、着任から1年以内の昇級は前例がないからと云われて断られたのでそうゆうものかと思って自分で勝手に引き下がった。それから暫くして、上司がやってきて、ニヤッとしながら、お前を管理職待遇のchemical engineerにすると云われた。

  その時、渡米前の昨年お宅で安藤先生にお目に掛かった時、豊倉さんを管理職待遇の研究職で採用するように薦めたが、一度も面識のない人を管理職で処遇したことがないからと云われて、professional chemical Engineerとしての採用に決まったが、半年くらいたったら、昇格を申し出た方がよいと云われたことを思い出して、安藤先生に直ちに御礼の手紙を送った。その後、同研究所のFundamental divisionで管理職待遇のChemistとして活躍してたシカゴ大学で博士号を取得した韓国人と会ったとき、私の上司が、数日前に彼のところに来て、豊倉を管理職待遇に昇級しようと思うが、どう思うかと相談に来たので、彼は豊倉の昇格を薦めておいたと云って、おめでとうと云われた。その話を聞いたときに、やはり昇格人事は 大変なのだと気がついた。その時までは、同部屋のアメリカ人は、私を新しい人に何時も、Dr.Toyokuraと紹介してたが、昇格以降は、Mr.Toyokuraと言うようになって。米国社会の昇格競争も厳しいものと知らされた。それから暫くして、豊倉の着任前から類似研究を行っていたprofessional chemistの研究員が豊倉の下で日本で研究した晶析理論の学習をしながら一緒に研究をするようになって、豊倉の帰国まで手伝ってもらえて、研究の進展はより順調に進むようになった。

◎TVA留学で初めて行った Randolph & LarsonおよびMullin & Nyvlt との交流 :
  1968年初夏、AIChEのNational MeetingがTampa, Floridaで開催された。そこでは晶析セッションが設置され、また、Dr.A.RandolphがCMSMPR晶析装置のWork Shop も行った。その時、米国でAIChEの学会にも参加しておこうと思い、Mr.G.Getingerに参加したいと申し出た。その時は彼は、予算はないから自費で行くのであれが出張扱いにすると云われ、喜んで参加することにした。学会での発表研究は、TVAの図書室等で得た文献調査の内容と余り変わることはなかったが、城塚先生のご指示で、学生から送付された豊倉の博士論文を約50ページの英訳抄録論文に纏めてMemoirs of the school of Sci.& Eng. Waseda Univ., No,30,p50 (1966) に発表した ”Design Method of Crystallizer”のコピーを学会会場でDr. A. Randolphに手渡した。この論文は後にProf.M.A. Larson に渡され、1969年Washington D.C.で彼がChairman を務めたAIChE Annual Meeing の晶析セッションで豊倉の論文”Design of Continuous crystallisers”を代読した。その論文は、後に、C.E.P.Symposium Series.vol.67,No.110,145 (1971)に掲載された。これが切っ掛けで、アメリカの晶析研究者・技術者との密接な交流は始まった。

  一方、ヨーロッパの晶析研究者・技術者との交流についても、アメリカからの帰途訪欧して始めたいと考え、1968年の初秋にUCLのMullin教授宛に66年の秋にお誘いを受けたが留学できなかったお詫びを伝え、今年米国からの帰途11月上旬に訪問したいと申し出て、早稲田大学理工学部彙報に掲載した論文のコピーを送った。しかし、Mullin教授からその頃は不在の予定だが、研究室の案内は誰かにさせるから是非来るようにとの返事を受けた。米国の帰途、UCLでは偶々、チェコのDr. J,Nyvltに会うことが出来て、彼から東西ヨーロッパの晶析研究の状況を伺うことが出来た。その時、彼はMullin教授から、お前の論文“Design Method of Crystallizer”の表紙は見たが、読んでないのでそのコピーが欲しいと云われ、最後に残った一冊を彼に贈呈した。このコピーは後にチェコ語に翻訳されて、彼らのデータも加えられて出版された。この時の面会がISIC5thへの日本派遣団の参加となり、ヨーロッパの研究者とも交流の道が開けた。

◎隣人への研究アドバイス ;
  豊倉が実験を行っていた研究室の隣でも、硫安循環による燐硝安生産の新技術開発研究が行われていたが、この技術も硫安と石膏との反応で生成する炭酸カルシュウムの粒径が小さくて困っていた。その時、隣室の担当者Mr.Lは豊倉がKrystal-Oslo型の実験装置で大きい結晶を簡単に生成していたのでよくその装置を覗きに来ていた、そこで、彼は、この装置を使えば粗粒結晶は容易に出来ないかと聞かれたので、このままの装置では系の特性上無理だと伝えた。しかし、彼はどうしても行ってみると云って装置を作り始めた。そこで、このままの装置では粗粒結晶を作ることはまず無理と思うが、もし、この反応系が豊倉の考えるモデルに適合する適性があれば、粗粒結晶を生産することができるかも知れないと伝えたら、それはどうするのかと聞かれたので、運がよければ成功するかも知れないが云って教えた。彼はその装置をTVAのWork-Shopに注文して短期間に効率よく粗粒結晶を生産できる装置・操作法の提出に成功した。このプロセスは1968年度TVA Demonstrationの展示プラントになっていて、従来法で装置を組み建てていたので、どうしても所定の能力を出すことは出来なかった。燐室のMr.Lは豊倉と同じApplied divisionであったが、展示プラントを担当したdivisionと異なっていたので、展示プラントの変更は大変なようであった。しかし、開催日の差し迫った頃のことで、急遽隣室のMr.Lが開発した装置に切り替えることになって、それによって無事済ませたことがあった、この時、開発した装置を使用することによって従来型に対して10倍以上の生産能力の向上は可能になった。

4)安藤淳平先生から頂いた研究アドバイス;
  (安藤先生に寄稿いただいた記事をそのままコピーします。)

  先生のご一家と私ども家族はそれ以後親しくおつき合いさせて頂いており、いつもご夫妻の明るさと誠実さに触れて、春のそよ風のような爽やかさを感じる。先生のお仕事がその後も大きく発展して世界各国から高く評価されていることも、先生の優れた能力とともに、仕事に対する誠実さによると思う。

  世の中は急速に変化しており、科学技術の分野でも40年前には世界的な食料不足解決のために化学肥料の製造が重要課題であったが、その後有機合成に重点が移り、最近は新素材や生命化学、情報通信関連などが脚光を浴びている。21世紀にはどのような分野が発展するか予断を許さない。

  しかし深く眺めてみると、社会や人間の本質は昔から少しも変わって居ないことが分かる。例えば、民主政治はすでに2000年前にアテネで行われており、ソクラテスの高弟プラトンはこれを批判して、議員が選挙の票を集めるために目先の利益で民衆を誘導するので、将来を見据えた優れた政治はできないと述べている。これは現在の状況とまったく同じである。

  当然科学の分野でも、最近わかったことのように思われて、実は古くから知られていたことも多い。二酸化炭素もよる温暖化は100年以上前にヨーロッパで論文が出ており、宮沢賢治は70年前に温暖化童話を書いている。

  学問の本質も時代によって変わることはないであろう。学問の本領は真実の追究であり、技術は学問を応用して社会に寄与するもので、豊倉先生のお仕事はまさにその模範であると思う。21世紀には情報の氾濫が予想され。情報に埋没しないためには、豊倉先生のように物事をはっきり見据えて真実を追求する姿勢が大切であろう。


  豊倉のアメリカ留学は、安藤先生からTVAに来るようにと、親切なお手紙を頂いて実現できた。実際、カナダの NRC post doctorate scholarship を受けて留学する日本人は比較的多いが、そこでの研究課題は相手の用意するものと本人が希望するものとのマッチングにそれなりの努力は必要なこともあるのでないかと思っていた。豊倉の場合、早稲田大学で研究した工業晶析基礎と工業晶析装置設計理論の成果をすでに日本企業の工業晶析装置・操作の開発や稼働していた工業装置の改善にも適用した経験があったので、豊倉のアメリカ留学はそれを生かす研究が出来て非常に幸運であった。特にTVAの研究所は世界的にも知名度は高く、特に肥料の研究では、世界のメッカとして西欧先進国やアジアの国々・国連推薦国の研究者や技術者の訪問が多く、居ながらにして、世界の情勢も学ぶことが出来た。研究所内の討議は、何時も世界人類のことを考えながら研究のテーマや内容を議論した。時としては、日本のことも世界的な視野で眺めることができた。それらを通して各研究者も、世界のリーダーとしての誇りと責任を持って毎日の研究を行っていたことを学ぶことが出来た。

  安藤先生は、この寄稿で、2000年間の西欧の歴史を例に”変わるものと、変わらないもの”をお示しになってその両者のバランスのとれた姿に、人類夢の世界があることをご示唆いただきました。豊倉が安藤先生にお目に掛かってから既に40年余を経過しており、先生の記事は豊倉の行って来た研究を御覧頂き、、傘寿を目前にした豊倉に活を入れていただきました。これからは、先生に御指導いただいたご恩に少しでも報いるために、将来ある研究者・技術者の参考になるものを残せるように努力しようと思っている。

5)むすび;
  1966年当時、全く無名の豊倉がTVA化学研究所に留学したいと書いた手紙を御覧頂いて、過分のご推挙をいただき、以降順風満帆の研究生活を送れるように、御指導・ご支援賜りました安藤先生ご夫妻に衷心より御礼申し上げます。10年前、早稲田大学選択定年制度の適応を受けて定年退職年齢の4年前に退職し、それから早稲田大学現職時代に行った研究成果を化学産業界の発展に少しでも貢献できればと思い、発表論文等で表現できなかったことを整理する目的でホームページtc-pmtを始めた。その手順として、1991年に化学工学会より化学工学会賞を受賞した時は、「晶析工学の進歩」を出版し、1999年の退職時には ’91の出版物でカバーできなかった記事を「二十一世紀への贈り物 C-PMT」に纏めて出版した。特に、’99に出版したC-PMT には豊倉の恩師・先輩の研究者・技術者、海外の親しかった一部の研究・技術者、国内で共に研究した研究者・技術者・卒業生らの記事を132件掲載しており、2010年4月の城塚先生を偲ぶ会以降、これらに掲載された記事を再読して、今年9月よりtc-pmtに記事の再掲載と豊倉の思い出を掲載し始めた。今回は3回目に掲載したもので、安藤先生の寄稿記事を中心に掲載したが、卒業生諸君の参考になるとが多いと思う。これからも豊倉の恩師、先輩の先生や先輩の方々の記事から順次掲載するので、参考にしてご活躍下さい。

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