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豊倉賢略歴
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2010 A-10,1: 豊倉 賢  「  二十一世紀の贈り物 C-PMTを振り返って 」
         ・・城塚先生にご寄稿頂いた記事“出会い”を拝読して
                 (城塚先生の記事は青字にて記述 )

1)はじめに;
  大学や大学院の学生は、研究室学生時代、学内の先生と毎日のように顔を会わせてお話を伺い、 ご指導を受けるが、恩師の先生が自分のことを書面に書いたものを読むことは滅多にない。耳で聞いたことは、時間の経過につれて都合の悪いことは次第に薄れ、都合の良いことは自分に都合良く解釈して自分自身で悦に入って、後でとんでもない思いをすることがある。豊倉は、退職する時自分の過去を振り返るのに、厳しい教えを頂いた先生から、自分のことをどのように思っていて下さったか、どきどきしながらC-PMTにご寄稿頂きたいとお願いした。
  城塚先生から頂いた玉稿を何度も拝読するうちに、個々の語句の中に秘められた内容から色々のことが蘇るようになった。ここでは、ご執筆頂いた玉稿をそのままコピーさせて頂いて、それを細かく区切った語句を思い出した時、そこに記述された文字が意味していることを世の中のある一面として、これからの世界で活躍する将来ある若い人達に示すことを試みることにする。

2)豊倉が大学院に入学前の学内応用化学科および化学工学協会における私学の状況;

  豊倉教授が今回退職されるに際して、心から教授の今後のご活躍とご健勝を祈ります。豊倉教授と私との出会いのことを、この際思い出して一筆しておきたいと思います。

  その頃は、私が昭和28年に米国から帰国し、研究室の整備、拡張を行い、研究の方向付けを確定しつつあった。当時は、未だ旧キャンパスの9号館の2階、4階、地下の研究室で仕事をしていた。やがて、化学工学コースを設立し、また学会活動も活発化して、学内外に多忙な毎日であった。化学工学会(旧化学工学協会)の運営に参加し始めた当時は、私学のポテンシャルは極めて低く、活動上種々の抵抗があったが、活動は次第に本格化した時代であった。当時の学内の応用化学科では、故宇野昇平教授が主任教授、理工学部教務主任など務められ、私も委員に引き出されて何かと宇野先生と接触の多い時期であった。先生は、ご自身で担当されていた無機化学工業は、化学工学の裏付けが必要であると主張された。

  城塚先生がここに記述された内容は、豊倉が丁度早稲田大学に入学した昭和28年頃から大学院に入学した34年の大学院応用化学専攻に入学した頃までの状況とその中における化学工学研究室およびそれと密接に関連があった化学工学協会のことであった。豊倉が、早稲田大学助手に採用され、教員として学内外の先生方とお付き合いするようになって初めて知った大学教員は、自分が研究した成果に裏付けられた学識と研究成果なくして、専門家の間で活動出来ないことであった。城塚先生は、石川平七教授と共に早稲田大学の化学工学を日本を代表する化学工学研究室にするために努力しておられ、同年代の化学工学分野の研究者に先駆けて米国留学をなされた。そこではなみなみならぬ研鑽をされ、帰国後はその経験を生かされて国立大学の化学工学研究室に引けを取らない学生教育・研究指導をなされた。そのことは豊倉が大学院を修了し、研究者として国内外の研究者・技術者との交流が多くなるにつれて、益々実感するようになった。この頃の城塚研究室のことは城塚先生の右腕となって活躍された本田先生が、早稲田応用化学会報No.81,p.3,Apr.(2010)に寄稿された「城塚 正先生を偲ぶ」特集記事に執筆されている。

3)豊倉が城塚研究室所属になり、先生から受けたご指導;

  豊倉さんは、宇野教授の研究室で卒論研究をした関係で、宇野先生に大学院進学を相談されたようで、昭和34年頃に宇野先生から私の方で面倒を見るようにお話しがあり、豊倉さんは忘恩の徒の多い昨今のご時世の中で、極めて礼儀正しく、重厚な性格であると推奨された。そのような経緯で、私の下で大学院修士、博士課程を過ごされ、昭和39年3月に修了された。同年11月に博士号を取得された。終了後は、当然、宇野教授のもとに復帰される筈であったが、思わざることに昭和39年1月に宇野教授は逝去されたのであった。その当時、化学工学コースを発足させ、教育上のスタッフも亡き石川平七教授と私の二人で苦労していたため、応用化学科は、豊倉さんを将来の化学工学分野のスタッフとして残すこととなった。以上が私との出会いの一幕であった。

  さて、豊倉さんの大学院における研究については、宇野教授とも相談のうえ。晶析とした。当時晶析関連の研究は、アートに属し、晶析装置の設計は全く経験的手法で行われていた。化学工学の分野で本格的な研究者はほとんど見られなかった。このような状況下で固・液間物質移動操作として、結晶成長理論から出発して、晶析装置の設計、操作設計の単位操作として確立したのである。その成果は、多数の学会発表論文と博士論文として提出され学会でも充分評価され、また産業界でも盛んにその設計理論が使用されるようになった。その頃から、学会における晶析分野の研究者が急増し、主導的な立場に立たれたのである。次で、昭和41年には、米国TVAに留学され、その後AIChE (米国化学工学会)やヨーロッパ各国の研究者との接触も密になって、世界的な研究組織作りに奔走され、国際的に日本の晶析関連分野のポテンシャルは高く評価されるに到ったのである。

3・1)宇野・城塚先生から受けたご指導;

  豊倉が大学院に進学して城塚研究室の一員になった頃本田先生から、「君はよく城塚研究室に来れたね。 」と云われたことがあった。その時豊倉は、まず宇野先生に大学院進学を相談して気持ちよく了承いただけ、その上で城塚先生に直接お願いして先生からもお引き受けいただけたので、話は簡単に進んだものと思っていた。しかし、本田先生からお話を伺った時、学部と大学院の研究室を変えることは、慎重に進めないと簡単に進まないことに気付いた。それから30年経って、豊倉が順調に大学院を修了できたのは、宇野先生や城塚先生のご配慮のお陰と改めて知った。

  豊倉は大学院博士課程通算4年次在籍中の昭和37年5月の教室会議で、応用化学科助手嘱任が決まった。その時、早稲田大学の本属について、理工学部定員枠の空き数2に対して採用数4であった関係で、この4人の本属が抽選で理工学部と理工学研究所に分けられ、豊倉は理工研所属となった。その時の事情は、宇野先生からも、城塚先生からも伺った話で、以降の君の昇格人事は、理工学部の申し合わせ人事に従った助手3年間勤務後の専任講師昇格は、理工学部議事録に記録されたとのことでした。この人事決定後、豊倉は宇野先生にお目に掛かったことは時々あった。その時伺った先生のお話で覚えて居ることに、「今は、外のことは考えないで、まず、城塚先生の下で化学工学の勉強と研究を行い、化学工学でそこそこの評価が得られるようになってから化学工学をベースにそれも駆使して無機化学・無機化学工学の研究と教育を担当して欲しい。」と、言われた。このような工業化学と化学工学についての先生のお考えは、卒業研究の頃、宇野先生の下で勉強していたので、うすうす感じていたが、このお話を伺ってから、「まず、他大学の先生や産業界の技術者から、化学工学のこれこれの分野のことは早稲田大学の豊倉に聞けと云われるように特定分野のスペシャリストになり、それを適用して無機化学工業の新しい生産技術を開発できるようなオリジナルな工学を構築して、無機化学工業の新しい重要な分野の発展に貢献出来る。」ようにならねばと思った。そして、C-PMTに城塚先生がご寄稿下さった記事「(宇野)先生は、ご自身で担当されていた無機化学工業は、化学工学の裏付けが必要であると主張された。」を読んだ時、宇野先生のご期待に何処まで応えられたか心配になった。

  豊倉が宇野先生からご教授いただいたもう一つのことは、昭和39年11月頃、早稲田大学からの帰宅途中に先生にお目に掛かり、都電早稲田から飯田橋で乗り換え、国電秋葉原駅に着くまでの間であった。先生は、豊倉の博士論文の審査員をなさって下さっていた時のことで、豊倉の博士論文を読んでいて、ご注意する積もりでお話し下さったように思えたことがあった。それは、「 化学工学の研究では、化学現象を研究し、そこで実測したデータを立式して整理し、その式を種々の条件で実測されたデータに適用して検討し、化学工学理論を提出する。それは、装置内現象を解明し、装置・操作の設計理論や設計法の研究・開発に良い方法であるが、時には、式の提出を急ぐ余りに、現象の把握が不十分で、式を提出し易くするために現象の表現を近似化し過ぎて、一般性の低い式になってしまって、理論式と云えなくなるものがある。化学工学手法は本来、素晴らしいものであるが、時には問題ある理論となるから気を付けるようにとご注意を頂いた。実は、この話を伺った時が、宇野先生にお目に掛かった最後となった。この時、豊倉は宇野先生に翌年の1月2日午後、新年の御挨拶にお宅にお邪魔して良いとお許しを頂いてお別れした。しかし、宇野先生はその1月2日の午前中にご自宅でご逝去されたのであった。

3・2)城塚先生から受けたご教授;
  豊倉が先生から受けたご教授は、大学研究者として研究した成果を更に発展させると同時に、それぞれの各段階で発表した成果を関連する工業装置・操作の新しい技術開発に適用して、産業界の発展に貢献することであった。その内容は晶析工学を軸にしたものであったが、その考えは化学工学における晶析操作以外の多種多用な操作にも通用するものでしたが、ここでは、C-PMTに御寄稿された城塚先生の記事で扱われたものを対象に、豊倉の研究活動や発展に関連し、それに影響したご教授の一部を扱う。

i)当初の晶析工学研究に対する城塚先生のご指導;
  豊倉は昭和34年4月、城塚研究室所属が決まった時、城塚先生は日刊工業新聞社発行の最新化学工学講座に八幡谷正氏が執筆した書籍「晶出」を持って来られ、現在化学工学で発刊されてる晶出の本はこのくらいしかないが読んでみたまえと渡して下さった。その書籍の中には、Miersの準安定過飽和溶液内の結晶成長現象や、過飽和溶液内で析出する結晶形状に影響する媒晶剤などの記述はあったが、工業晶析装置・操作についてはKrystal-Oslo型晶析装置の概念が扱われた程度であった。そのような状況下で、城塚先生は化学工学分野の晶析関連文献のみでなく、理学系の結晶成長の研究論文調査も行うようにご指導下さった。その当時の調査研究は、晶析装置内晶析現象の理解に役立ち、工業晶析装置の設計に貢献する晶析装置設計理論の提出となった。大学院修士課程の研究では、晶析装置内で生産される結晶が、工業製品として充分評価される結晶に成長する操作条件と操作法の研究を行って修士論文を纏めた。その成果が纏まった2年次生末、昭和33年10月に刊行された全訂改版第2版化学工学便覧を手にされて拡散単位操作には、装置設計の節が有り、装置が設計出来るようになっているが、晶析の章には装置設計の記載がない。早稲田大学で早く装置設計理論を提出して、便覧に晶析装置設計法を掲載しようじゃないかと話されて、豊倉の博士論文は、晶析装置設計をテーマにするように云われ、大きな目標を与えて下さった。その時、先生は、晶析装置内の結晶現象は、過飽和溶液内の溶液過飽和度差に基づく拡散が主要な現象であるので、これまで研究室で研究して来た拡散単位操作と同じように進めれば、必ず晶析装置設計理論を提出できると、研究を進める道筋を示された。

  論文を孫引きしながら自分で調べた晶析装置設計理論の研究は、ポピュレーションバランス式から進めたBransomの撹拌槽型晶析装置の研究とSaemanが1947年に発表した塔形式の研究であった。豊倉は拡散単位操作の設計理論式を参考に晶析装置設計理論を研究するには、塔形式装置の代表であったKrystal-Oslo型晶析装置設計法が研究し易いと考え、それから始めた。その研究では、定常操作時の晶析装置内の結晶成長現象をそのまま用いて研究してきた装置モデルより、工業晶析装置の実状により近いモデルを提出し、均一粒径所望結晶製品を生産できる装置底部の最大溶液過飽和濃度と装置塔頂部の最小操作過飽和度との比で示した無次元過飽和度と装置塔底部と塔頂部に懸濁した結晶粒経比で示した無次元結晶粒径で表した無次元晶析操作因子をオリジナルに提出した。その無次元因子と製品結晶粒径・結晶生産速度および装置内最大結晶成長速度等から所望粒径結晶を晶析装置断面積当たりに生産出来る結晶生産速度と装置塔高で容易に算出できる、設計理論式を昭和38年6月に初めて誘導した。ここで、オリジナルに提出した晶析装置設計理論はこの研究で初めて提出した無次元晶析操作因子に基づいたもので、それは、晶析装置形式を限定すれば、製品結晶の種類、結晶粒径、結晶量に関係なく広く適用できるもので、予め、無次元製品結晶粒径・無次元操作過飽和度に対する線図を用意しておけば、容易に晶析装置を設計できるものであった。また、このKrystal-Oslo 型晶析装置対象に提出した晶析操作特性因子の概念を、当時、世界の化学工業で広く適用されていたDTB型や連続撹拌槽型晶析装置にも適用すべく研究を進め、同年度内に同様な特性を持つ晶析操作特性因子を両形式の晶析装置に対しても提出し、世界で稼働していた代表的な連続晶析装置に対する設計理論体系を纏めて提出した。

  昭和38年度の晶析研究で提出した連続晶析装置設計理論を実証するための小型連続分級層型実験晶析装置の立ち上げ計画は、城塚先生のお許しを頂いて直ちに着手し、年度内に発注を済ました。その装置の組み立ては、昭和39年度配属の卒論学生と行い、終了後直ちに実証実験を始めた。当時の晶析実験は、比較的所望結晶を生成し易い塩素酸ナトリウム水溶液系を用いて行い、この系の単一結晶の成長速度は前年度の研究実験で測定したものを晶析装置内現象の検討に用いた。

 連続晶析装置による実証実験テストデータは、定常操作時の装置内懸濁結晶流動層高を実測して求めた。一方、この設計理論式によって設計した晶析装置の実証は、その実証実験を行った時と同一操作条件時の晶析装置内結晶流動層高を設計理論式にて推算した数値と上記実測結晶層高との比較によって行った。その結果は、算出値と実験データの間に約一桁( 10倍 )の違いがあった。この数値の比較は、設計理論式の最初の検証実験結果であったので、城塚先生にそのまま報告申し上げると、先生からは、そんなに違っては全く使いものにならないと云われてしまった。豊倉は自分の席に戻り、この推算値と実測値を一致させる方法をすぐにでも提出しないと2度と城塚先生にお目にかかれないと思って、設計理論を提出した時の設定モデルと実験装置の実状について比較・検討した。そこでは、このように大きな差異を生じたと考えられる項目を慎重に検討し、その個々の項目の積と組み合わせて使用できる補正係数の提出を考えた。また、設計のためにはその補正係数はスケールアップの影響を受けないような操作法で実測する事も大切であって、最終的にはモデル晶析装置設計理論によって設計される晶析装置から生産される製品結晶を表示する数値とそのモデル装置を設計する時に設定された製品結晶を表す数値とを等しくする補正係数がそれらの生産量等で変わらない一定値であることが重要とあると結論した。そのことは、言い換えると、特定の装置形式の晶析装置を設計するには、その装置で目的結晶を安定生産出来る操作条件で結晶を生産する時の補正係数を予備テストから決定できる方法を提出することで解決することとした。

  そこで豊倉は、一連の研究で提出した設計理論式を整理し、2個の変数グループとそれを結びつける補正係数の3項からなる相関式を提出した。ここで、各ランのパイロットプラントテストで得られたデータより、関係式を構成する2つの変数グループの一対の数値を求めて1次相関を示すグラフ用紙に点綴すると、それらの数値は原点通過の直線上に乗り、その勾配より一定値の補正係数を決定した。この補正係数を用いると、連続分級層型晶析装置は容易に設計できるようになった。ここに記述した研究データの詳細と補正係数の決定手順は化学工学、29、(9),122 (1965)に発表した。その後、?山氏はこの研究と同形式のパイロットプラントテストデータより、ここに示した方法にてCEC工業晶析装置を設計し、その装置の操業データと共に化学工学,37,(4) 416 (1973)に発表した。

  この晶析装置設計理論は、城塚先生のご指導によってオリジナルに提出したもので、C-PMTに先生が記述されたように、豊倉は、昭和39年11月の大学院工学研究委員会でこの研究を中心に一連の関連研究を含めて工学博士が授与され、城塚・宇野先生のご指導に感謝申し上げた。

  城塚先生のご指導は、豊倉の博士論文の作成のみでなく、化学工学分野の晶析工学を充実させ、広く産業界の晶析関連技術者の啓蒙にも務められた。また、大学院学生時代には早い段階から晶析工学基礎、晶析装置・操作、結晶製品の生産に関連する文献を結びつけた整理を行い、それらの解説記事を学会誌・業界紙に発表することも、研究論文同様に行うようにご指導下さった。特に豊倉が晶析装置設計理論を発表した頃は、新技術開発の観点から、研究室を訪れる企業技術者も多く、これらの技術者との産学協同研究を進めるようご指導頂いて、企業技術者の新技術開発に貢献する晶析工学理論の発展を続けることが出来た。

ii)初期の晶析工学基礎研究および晶析装置設計理論とその工業晶析装置設計への適用;
  昭和38年秋以降昭和41年11月に掛けての3年半は、早稲田大学化学工学研究室で提出した連続晶析装置設計理論をより充実するための研究を主に行った。それと同時に、外国企業から晶析技術の移転を図っていた日本の造船企業や晶析技術を社内で開発していた化学企業技術者のお手伝いも行い、それを通して工業晶析装置・操作を勉強して、日本国内の晶析技術の発展に貢献した。   また、この時期は改訂三版化学工学便覧の改訂期であった。昭和39年4月に最終的に決まった目次案を受けて城塚先生は晶析の章担当委員を引き受けられ、章「晶析」の執筆は、城塚先生と豊倉が行うことになった。その時、城塚先生は工業晶析装置の設計が出来る晶析装置の設計法を今回の化学工学便覧から掲載するようにしようと云われて、章内の節、項、目を決め、締め切りの41年12月までの脱稿を目指して執筆を始めた。

iii)TVA留学と海外留学で得たもの;
  城塚先生は研究室博士課程の学生に、「博士号を取得したら早い時点に欧米の大学などに留学して見聞を広め、世界に通用する研究者になって来い。」と云われてご指導下さった。しかし、豊倉は現実の問題として留学を考えたことはほとんどなかった。しかし、城塚先生の記事にあったように、宇野先生がご逝去され、学科内の人事枠の事情が変わって、理工学部議事録のように豊倉の人事が進まないことは40年末にはっきりした。その段階で豊倉は、海外留学を城塚先生にお願いしてお許しを得てから、海外留学の準備を始めた。まず、欧米の大学を中心に留学希望の手紙を送り、その後、対象を研究所まで広げた。その結果、米国TVA公社の研究所に決まり、城塚先生から学生時代に伺っていたような経験を積んで、帰国した。その時、同研究所に中央大学の安藤淳平先生が招聘研究員として招かれていて、豊倉は将来の飛躍に繋がるご指導をいただいた。豊倉は、帰国後も親しくご指導下さった安藤先生に、早稲田大学を退職した時出版したC-PMTへの寄稿をお願いして、豊倉が留学したTVAでの研究生活に関連した記事を頂いた。その記事は、豊倉にとって40年の研究生活を振り返るのに貴重な内容で、早稲田大学で化学工学の研究生活を送った卒業生やこれから外国留学を志望する研究者等の参考に、次号の2010A11-1,1に、先生より御寄稿いただいた記事と、豊倉が米国で家族と生活した経験や海外で学んだこと等を掲載する。

iv)留学後における国内晶析グループでの活動;
  昭和43年11月、帰国早々、研究室で城塚先生にお目に掛かり、留学の御礼と帰国のご挨拶を申し上げた時、先生から君が留学する前に書いた化工便覧の章晶析の原稿は製本されて完成本になっている。君への著者贈呈本を預っているからと云われて、ケースに入った本を頂いた。その場で、晶析装置設計のページを開き、早稲田大学で提出した晶析装置設計理論と設計法の活字を見た時、12年前便覧に設計法を掲載しようと云われたことを思い出して有難うございましたと申し上げた。

  実は、その年の4月から化学工学協会に新しく研究委員会が設置され、複数の研究会がスタート・活動してることを聞いたので、早速、城塚先生に代表になっていただいて晶析に関する研究会を設置して下さいとお願いした。先生は、その場でご了承くださり、広島大学の中井先生と豊倉で幹事を務めて実務をするように云われた。そこで、協会に研究会設置を申請して活動を始め、これを機会に、城塚先生を中心にした晶析の国内研究組織を構築した。丁度、この頃、チェコスロバキア科学アカデミーのDr.J.Nyvltは、ヨーロッパでも、EFCE・WPCを立ち上げ、WPCは1972年開催のCHISA Congressの中で世界最初の晶析国際シンポジウムISIC5thの開催を決め、日本からもこのシンポジウムに是非参加するようにとの勧誘を受けた。この勧誘について城塚先生と相談し、晶析グループの有志7名で初めての参加団を結成して渡欧し、世界相手の活動を始めた。

  米国留学から帰国した時、城塚先生から君は研究の方向を変えて、新分野のテーマを始めるか、それともこれまでの晶析研究を続けてさらに深めるか?尋ねられた。その時、豊倉は、晶析装置の設計法も未だ始めた段階であり、これからの新課題として晶析による物質の精製法、また未研究の大きな課題としては、2次核化現象あるので、これからも晶析研究を続けたいとお願いして先生のご了承をいただいた。その時、城塚先生は、国立大学学長を務められた元化学工学協会会長の先生は、新しい学科を開設した時など、暫く、新しい研究課題の取り組みを積極的に続けて、カバーする研究間口を広くすることは必要であるが、安定成長期に入ると間口を絞って奥の深い研究を進めることが大切だと云っていたと話された。

4)むすび・・・早稲田大学退職時に城塚先生から頂いたメッセイジ(1999年1月)を再拝読して;

  今回、豊倉教授が、処世上の方針に従って早めに退職される事となったことは、大変残念に思うのであるが、今後とも産業界への関与と、指導に携わり、ご活躍下さるようにお願いする次第です。

  豊倉は、1980年に早稲田大学短期在外研究員、1997年度には同国内研究員(規定変更により、期間中の海外研究も可)の任命をうけ、世界の晶析研究者と討議を重ね研究を続けた。しかし、豊倉が意図した研究成果の卒業生・後輩への継承は未だ不十分で、これからもtc-pmtへの掲載を続けて、恩師のご恩に少しでも報いた

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