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豊倉賢略歴
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2010 A-9,1: 豊倉 賢  「  二十一世紀の贈り物 C-PMTを振り返って 」
         ・・宇佐美先生にご寄稿頂いた記事“豊倉賢先生の退職に想う”を拝読して

1)はじめに ; 退職記念出版物とそれから教えられたもの
  豊倉が退職した時出版された記念誌の経緯は、前回の記事に棚橋さんが紹介したように、企画が始まってから出版までの期間が限られていた。豊倉の早期退職が決まった時、平沢教授から出版委員会の意向として、その記念誌の出版・目的・内容等について豊倉の意見を尊重したいと尋ねられた。しかし、その時の話は突然のことで、深い考えもないまま、研究室の活動をご支援下さった国内大学・研究機関の先生方や先輩の方々の豊倉研究室の活動に対する想い、また、晶析現象・操作の難しさのために他の単位操作に対して遅れを取っていた晶析操作の発展を目指して共に活動してきた海外の研究者・技術者および国内学界・産業界の研究者・技術者、および一緒に研究活動を行った研究室卒業生の想いを掲載できる記念誌が出来たら良いのでないかと思って、平沢教授を通して返事をした。しかし、具体的に執筆を依頼しても、誰が賛同し、寄稿して頂けるか不明で不安もあった。基本方針が出版委員会で決まった段階で、多くの人の賛同を得るには、豊倉も可能な範囲でお手伝いし、また、出版の作業は豊倉研究室の事情をよくご存じの化学工業社の三澤忠則社長にお願いして無理を聞いて頂いた。その結果、海外からの寄稿10件を含めて総計132件(恩師先輩等26件、国内研究者・技術者40件、研究室卒業生56件 )の寄稿を受け、その内容も豊倉研究室の活動に関係したものばかりであった。

  豊倉は1999年3月に退職して10年を経過し、落ち着いた気分になって記念誌を改めて読んでみると、恩師、先輩の記事からは、ご指導頂いたことに対する豊倉の理解度の低さに改めて気付くことが多く、それを、改めることなく後輩に伝えることは、豊倉として許せないことと思った。海外の研究者・技術者の寄稿記事は一緒に仕事し、討議した内容を扱ったものが多く、その内容は20年経過しても忘れることなく記憶され、記事として纏められていて、晶析理論・技術の発展史を昨今のことのように読んだ。また、卒業生の記事内容は、豊倉にとって厳しく、講義中や討議中に話したことをその後の経験と対比して記述ており、卒業生の記事を読むことは、豊倉の昔の通信簿を読む気がした。

  豊倉が拝読して今回の掲載記事として書いた元の記事は、豊倉が早稲田大学を退職した当時理工学部長を務めておられた宇佐美先生にご寄稿をお願いして御執筆頂いたもので、その記事を読んだ内容を後輩に伝えるべく記述したものです。特に、宇佐美先生は豊倉が昭和41年7月1日(正式記録は4月1日付け)に応用化学科助手として宇野先生のご指導を受けることになった当時、応用化学科で私のすぐ上の先輩教員で、大変お世話になりました。豊倉が、昭和52年理工学部教務担当副主任に就任した時は、宇佐美先生は応用化学科主任を務められ、学部と学科では立場は異なりましたが、同じ大学機関の役職に初めて就いた豊倉にとって、宇佐美先生は心強い存在でした。豊倉が、平成11年3月末に早稲田大学選択定年制度の適用を受けたいと、宇佐美先生に相談に上がり、退職の半年前までに申し出れば充分間に合うとアドバイスを頂いたこともありました。

2)“宇佐美先生にご寄稿頂いた記事“豊倉賢先生の退職に想う”を拝読して

2・1)日本における大学教員の使命
  宇佐美先生の記事では 「 大学の教員は、教育者であると共に研究者でもある。アメリカの大学では、この教育と研究が明瞭に分けられているが、日本の大学では、教員一人一人が教育と研究の両方を兼ねるのが普通である。教育は自らの研究をもとになされるもので。教育内容を刷新するには、研究社会の仲間に入り、対等に議論し、さらにはその分野のりーだーになることが求められる。研究成果は使いやすいように体系化することで、別の言葉でいえば、学問化することであろう。これらの成果が教育につながって、はじめて教育内容も刷新されるのである。過日、先生の最終講義を拝聴したが、大学人としてのこれらのみちのりを私共にお示しになったのである。これには努力はもちろんのこと、忍耐、信念があって到達することができるもので、・・・・」と記述された。

  大学の卒業生が自分の出身校の大学教員になることは名誉なことである。しかし、その職に就ける人は必ずいるが、枠は狭く種々の条件が運良く巡り合って初めて実現することである。その話は、城塚先生がこの記念誌に寄稿いただいた記事に豊倉が早稲田大学助手に決まった頃のことで、豊倉自身が知らなかったことも記述されている。それらは次号で城塚先生の記事に関する話として紹介する予定なので、そこで記述する。

  豊倉は大学院学生時代まで、旧制国立大学工学部を卒業し、昭和25年4月の新制国立大学発足で昇格した新制国立大学工学部文部教官になった実兄と一緒に生活していたので、大学教官が行う学問研究成果の重要性と、その研究成果と大学教育での講義内容が密接に関係する話を兄から聞かされていた。そのような関係で、宇佐美先生の記事にあった日本の大学で重視されていた研究と教育のことはある程度理解して早稲田大学助手になることを引き受け、その時から、研究活動と学生教育の手伝いをはじめた。しかし、応用化学科教室内の先生方のお考えは、「どちらかと云えば、君の将来を期待しているので、暫くは研究活動に専念してよい研究成果を論文に発表するように。」と云われたものだった。その段階では、特に教育をするための指導は受けることはなく、学生時代に教室で受けた授業内容を思い出したり、先生方が教室で行われる講義等を見聞して、将来の学生教育を、時々考える程度であった。

しかし、研究が進み、研究成果を学会等で発表している内に、その研究成果が化学産業の発展に貢献しなければならないと云うことを痛感するようになった。特に、豊倉が直接ご指導を受けた城塚先生から、化学工学では晶析装置設計法はまだ確立してない遅れた分野であるので、その遅れを取り戻すように晶析装置設計理論を提出して晶析装置設計法を確立するようにご指導を受けた。幸い、博士課程研究で、晶析装置設計操作因子(CFC)をオリジナルに提出することが出来た。当時、他には、工業晶析装置設計に適用できる理論は発表されていなかったので、早稲田大学の理論が国内企業技術者によって、自社晶析装置の設計に適用された。その後、米国、ヨーロッパでもこの理論は関心が持たれ、宇佐美先生の記事内容に近いような道を歩むことが出来た。その過程で、産業界技術者がその理論を容易に適用出来るように、化学工学便覧晶析の章、その他多数の書籍等にこの理論は掲載され、産業界の発展やそれに関心のある技術者の養成にも貢献した。宇佐美先生の記事では過分のお言葉をいただいて恐縮しているが、これから新しい研究を志す優秀な研究者、技術者の参考になればと思い、豊倉の経験したことを少し紹介した。

2・2)早稲田大学選択定年制度の適用で思ったこと;
  宇佐美先生は「豊倉は選択定年制を求め、退職した。この制度は自らの人生設計に資することを目的として設けられたものであるが、先生のお気持ちは正しく・・・・」 と記述下さっているが、豊倉がこの適用を受けた時のことを記述してみる。

  早稲田大学にこの制度が設けられるという話を初めて聞いたのは、1970年代の末頃で、豊倉は学部長室スタッフとして教務担当副主任をしていた頃であった。当時、化学工学協会の理事会で親しくしていた国立大学の先生から、「早稲田大学の教授は70歳定年で良いですね。70歳まで現職を続けていたら、腰が曲がって杖をついて出勤するようになりますね。」と言われたことがあった。当時の早稲田大学には、元気な先生方が活躍されておられたが、それでも、中には65歳を過ぎると急に体調を崩され、70歳定年を待たずご他界される先生が居られた。このような時に早稲田大学選択定年制度の話を聞き、帰宅して妻に早稲田大学選択定年制度適用を受けることについて気楽に話をしたら、経済観念の疎い妻は。周囲の人に迷惑掛けるようになるまで働くことはない。と言って賛成してくれた。この制度が出来た当初は、繰り上げ期間は5年までであって、豊倉が65歳になって早稲田大学を退職したらどのような生活が出来るか漠然と考えてみることにした。

  この時まで、大学研究者の仕事を自分の退職と結びつけて考えたことはなかった。そこで、改めて、周囲の研究者の活動を見ながら自分の研究と在職時年齢のことを考えて見ることにした。研究は、世の中の発展に貢献するかも知れない新しい考え(通常は新しい理論)を提出し、それを試行錯誤しながらこの理論に関心のある人達が理解し易いように纏める。その理論を必要とする人達はそれを使って世の中の発展に貢献できるようにすることを考えて人生を送る。自分の研究生活は、定年が決まっているとその年限まで自然の流れに従って人生を送る人は多いような気がする。しかし、仮に自分の退職時を自分の裁量で自由に決められると、その範囲で時間の使い方を考えると満足な人生を効果的に送れるような気がしてくる。学内各年次の先輩教員の研究活動を思い浮かべると、自分の将来の研究生活を頭の中に描くことが出来るような気がした。

  そこで、豊倉が選択定年を考える時までに行ってきた晶析研究を思い出してみると、1960年代は、初期晶析装置設計理論を提出した。それを受けた1970年代は、この設計理論を欧米で発表し、それを発展させるための新しい晶析現象基礎の研究(オリジナルな2次核化現象、初期設計線図、精製晶析現象の提出等)等を順調に進めた。ここでは、欧米先進国を視野に入れてこれらの研究成果をどのように発展させるか、その研究生活モデルプランを描き、修正しながら研究活動を進めた。今、豊倉の現職時の研究成果を振り返ると、晶析研究を始めてた15年は、選択退職を考えるまでの研究初期であり、それは早稲田大学での研究が中心であった。それ以降早稲田大学を退職するまでの20年間は枠を広げた晶析研究の中心に国内外の学協会等で活動した時代であった。

  早稲田大学理工学部教務副主任2年間の任期を終了した段階で、当時の村上学部長のご支援で、1980年度早稲田大学短期在外研究員に採用され、4ヶ月間ヨーロッパの大学・企業等の研究機関に滞在・訪問した。そこでは、既に発表した早稲田大学での晶析研究成果に対する討議を行って、世界の化学工学分野の研究者・技術者と新しい関係を築くことが出来た。特に、ドイツ企業技術者との討議を発展・提出した一般化晶析装置設計線図は世界で評価され、多くの工業晶析装置、プロセスの開発に貢献した。化学工学協会で長年理事等要職を務められた城塚先生の副会長任期満了後を引き受けて豊倉は、庶務担当理事に就任し、世界の化学工学で活動するようになった。豊倉が出席した理事会では、1986年にアジアで初めて開催される世界化学工学会議が日本で開催することを決定した。この話は豊倉が1980年にヨーロッパ滞在時に、ヨーロッパの主だった晶析研究者や技術者に伝え、6年先の訪日勧誘を行った。その頃、EFCE・WPCのInternational Chairman ; Dr. J. Nyvltとも親しくなり、毎年開催されるWPCに米国代表の Prof. M. A. Larsonと非ヨーロッパ圏からのGuestとして毎年、招かれるようになった、この会議に対する日本の晶析グループの努力の甲斐があって、1986年に東京で開催された会議では、豊倉は日本側の晶析Session Chairman を務め、欧米より各国を代表した研究者・技術者等30名が参加し、日本の晶析グループや化学工学の発展に貢献した。その様子は1992年に豊倉研究室で出版した「晶析工学の進歩」pp. 47 ~69 に掲載した。

  1986年の世界化学工学会における晶析セッションの成功は、日本の工業晶析の研究・技術に対する欧米先進国の評価となった。また、国内における理工学系学協会からも高い評価を受け、ヨーロッパでは、WPCのPermanent Guestとして正式に承認され、また1990年代に米国に設立したIowa State University, Larson教授記念のACTにも毎年招聘されるようになって、豊倉は早稲田大学に在嘱していた1998年度まで毎年参加した。その他、1989年に仙台で開催された第9回国際結晶成長会議には、砂川委員長の要請を受けて、日本国内では初めて工業晶析セッションを設けてそれに応えた。その他、1989年、1994年にハワイで開催された環太平洋化学会晶析セッションでは米国のProf. A.MyersonやProf. G.D. Botsarisと座長を務めヨーロッパより多数の参加者を募って会議を成功させた。その他アジアでも日韓合同国際分離技術会議の晶析セッションを定期的に開催し、中国では米国Prof. M.A. Larsonからの要請を受けて1998年に天津で開催した最初の国際晶析会議を支援して海外からの参加者を勧誘して成功させた。一方、日本国内では(社)日本粉体工業技術協会から、創設者井伊谷剛一先生から同協会内に晶析分科会を立ち上げるようにとの強い要請を受けた1997年に立ち上げ、日本化学工業会長棚橋純一氏の諒解を得て、同社執行取締役の卒業生山崎康夫氏に代表幹事を引き受けていただき、産業界に密着した晶析技術・晶析工学の発展を進めるようになっている。

  豊倉が行った早稲田大学における晶析研究は、化学工学の範疇における晶析工学基礎を勉強し、それと産業界における晶析技術の発展に貢献するオリジナルな晶析工学を研究して晶析工学の発展を図った。特に1980年代以降は大学の工学研究者と企業技術者が対等に活動する学会や協会の責任あるポジションで活動して、宇佐美先生が、考えられるような道を歩むことが出来たのは幸運であった、しかし、1990年代の半ばを過ぎた頃から、豊倉は体力の限界を感じるようになり、先輩の研究者・技術者の協力を得て、ここまで順調に進めてきた晶析工学の発展を後継者に委ねるよう方向を変更し、豊倉も15年前に考えはじめた早稲田大学選択定年制度の適用を進めることとした。

  そこで、重視したことは、EFCE・WPCを通して1972年以降積極的に参加して構築してきた晶析研究・技術の発展させる国際的活動の継承を円滑に進めようにすることと、豊倉がオリジナルに確立した晶析工学に高い関心のある日本の後継者の理解を支援することであった。前者については、豊倉が早稲田大学在籍中に世界の晶析工学・技術をリードする研究者・技術者と充分膝を交えて晶析工学の討議を行い、その上でこれら世界主要国のリーダーを東京に招いて、豊倉退職後の晶析工学の発展を担う日本の新しいリーダーや若手研究者・技術者を養成しようとすることであった。この計画には当時の宇佐美工学部長もご理解下さって、選択定年制度の適用やその直前に一部変更になった早稲田大学国内研究員制度の申請についてもご注意いただいて進めた。その結果豊倉は1997年度早稲田大学国内研究員制度の適用を受けて、晶析工学で世界的に有名な欧米の研究機関や主要国で開催された国際会議にも参加して、1998年に早稲田大学で開催した国際晶析会議の準備をした。この会議は欧米研究者・技術者の便宜を諮って、中国で初めて開催した晶析国際会議と日程の調整を行って開催し、早稲田大学での国際会議にはおよそ300名の晶析専門家が国内外から参加して、当初の目的を達成することが出来た。

2・3)宇佐美先生からご指導いただいた、教育機関としての早稲田大学
  宇佐美先生から寄稿頂いた記事の中に、豊倉が応用化学科主任を務めていた関係で、宇佐美先生に理工学部長になって頂くようお願いし、そのためのお手伝いをすることになったと記述していただいた。豊倉は、それまで、大学行政の仕事は殆どしたことがなく、学科内の若い先生方のお知恵を拝借し、また他学科に広い人脈のある先生方にお願いして他学科の学部長選の動向についての情報収集のお手伝いもしていただいた。その時、豊倉は学部長選のための運動は、主任として通常の常識的なことしか行わなかったが、宇佐美先生は、非常に高い投票を得て当選された。その後、私の在職時に宇佐美学部長にお目にかかることがあったが、そのときは何時も早稲田大学の現状と将来についてのお話しを伺って、大学教員としての勉強が出来たことは、その後他大学の先生方とのお付き合いの時など役に立つことが多く、何時も先生に頭の下がる思いをした。

3)むすび・・・宇佐美先生のご教授を思い出して
  宇佐美先生は、早稲田大学在籍中、豊倉にとって年齢の近い先輩の先生で種々お世話になり御礼申し上げます。大学教授は、教育、研究、行政の何れも疎かにすることはできないが、そのすべてで才能を発揮することは出来ないようである。実際、大学に奉職すると、そのどれかで大学や社会の発展に貢献する責務があり、どの分野で活躍するかは、教員の特性によって異なるもので、どの仕事で活躍するかは一概に決めることは出来ない。   豊倉は研究と研究成果、およびその研究成果の新しい応用、展開によって研究活動の評価を行ってきた。しかし、研究は人類の発展と共に進歩させねばならず、その研究や成果を継ぐ人達が容易に、正しく継承できるようにすることも必要である。豊倉は、現職中に研究そのものの整理を纏めることが出来なかった。それについては、退職後、研究室ホームページを立ち上げ、残した仕事の記述・整理を続けて責務を果たす。

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