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豊倉賢略歴
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2009 A-6,1: 豊倉 賢  「 日本の ”ものづくり”について 」

1)はじめに
  1970年に早稲田大学大学院理工学研究科博士課程前期(修士課程)を終了し、日産化学工業社と日本エアーリキッド社で活躍した鶴岡さんは2003年10月の北陸先端科学技術大学院(東京八重洲キャンパス:社会人大学院)に入学された。その後、2006年4月より同大学院大学(文部省21世紀COEプログラム)・科学技術開発戦略センター拠点形成研究員としてCOEプログラム満期終了まで活躍し、それ以降もその研究を続けている。そこで、行っている研究に関連した記事はtc-pmtの2009A-1,1および2009A-5,1に寄稿いただいたので、それらを読んだ卒業生は多いことと思う。その内容については、読んだ人によって感じたことは異なると思うがそこでの研究成果は、鶴岡さんが2009-5,1に寄稿した記事によれば研究・技術・計画学会(技術と制作と経営を統合して纏めるために創られた学会)で発表され、その分野に関心のある人達によって真剣に討議されている。それは、これからの新しい社会の発展に貢献する文化の構築に貢献する可能性があると感じている。また、その人達の討議内容を鶴岡さんの記事を読んで考えると、工学分野で行って来た研究成果を工学分野の人達が勝手に行ってきたこれまでの評価と異なったものも見えるような気がして来て、鶴岡さんが取り組んでいる分野の研究を、機会を見て豊倉が行って来た研究の進め方と比較してみようと思っている。

  2009A-5,1で鶴岡さんが取り上げた「日本の ”ものづくり“ 文化を強化する試み」は、研究に従事する工学系研究者・技術者の殆どの人に関心あるもので、また工学分野で研究活動をしている人は、多かれ少なかれこの文化の強化に携わっている。豊倉は早稲田大学大学院に入学した1959年以降50年間晶析工学研究を通してものづくりを行って来ており、豊倉が行ってきた研究を鶴岡さんが研究されてきたことと対比してみる。

2)ものづくりの文化;
  ものづくり文化を考える前に、タイトルの中の「文化」について少し考えてみることにした。豊倉が中学生時の国語教科書で「文化」について議論されたことがあったことを思い出して,まず、広辞苑を引いてみた。そこに記述されてる内容は、対象を広範に捉えていたが工学分野のものづくりに限定すると、人間が自然に手を加えて形成した物心両面の成果で、それを利用することによって世の中の生活が便利になることを文化と定義しているように思えた。この記述は、これだけでも重要な意味を示していると考えることが出来るが、現代社会で対象にする文化を考えるには、物足りなさを感じる人が多いのでないかと思った。それは、現代の社会生活に慣れた人達は、自分の目に入る人達の生活より恵まれて豊かで便利な生活を享受したいという欲望を持つ人が多いからであって、そのことが人との争いを起こし、人間社会を不幸にすることが多々あることに関係する。

  そのような争いは人類の長い歴史の中で繰り返されており、今なお身近な日常生活や社会生活から人種間の南北問題やら先端技術についての国際問題等においても続いている。それを憂えた先駆者は、このような争いを沈静化して、平和で誰しもが納得できる便利で恵まれた文化社会を構築するような倫理規範を作成し、それを守ることによって高度で文化的な人間社会を創ろうとしている。この倫理には概ね、全ての人類に受け入れられる普遍的な概念に基づくと見なされるものと、個々の民族や国家が自分たちの社会を発展させるのに適したように決められた対象者に特有な倫理規範とがあり、特に後者はその社会の発展に調和するように修正を加えながら試行錯誤の道を歩みながら進んでいる。その中のあるものはものづくり技術の発展と共にその倫理規範も豊かな社会環境を構築するため、より多くの民族や国家によって受け入れられるように進んでいる。その規範が、新しいものづくり技術と社会環境と調和を取りながら発展した時、民族特有なものとして創成した文化が世界共通の文化になり、人類の誰しもが望む世界文化になるものと期待している。

  ここで、現実の世界を考えた時、狭い意味の新しいものづくり技術を開発すると、それはより大きな富を地球上にもたらすが、新しいものは大勢の人に容易には理解や評価され難いもので、その評価に対する時間差によって格差を生じることが多い。そのため近代社会に失望を感じ、新しいものが作られる前の時代に憧れ、復古主義に走ろうとする動きが起こることもある。しかし、その動きが大きくなると、地球上に増えた人口を養うことは出来なくなり、パニック状態に陥った社会の話は20世紀になっても沢山あった。その反面、人類のものづくり技術の発展は指数関数的に進んでいるように思われ、地球上における生活環境をその発展と調和するように整備することの難しさも想像を超えるものがある。世界の人口増加速度は過去数百年にさかのぼって考えても気の遠くなる速さの話であり、その人口増に対処出来る人類の新しいものづくり技術の進歩がないと、人類社会は益々大きな混乱に陥るのも明らかである。これらの混乱を起こさないようにものづくり技術の発展とそれに基づく格差に対する不満を解消するような対策を軌道に乗せるためには、これに係わる全てのことがらを総合的に考えることは大切である。新しいものづくりの進歩発展の速さと人間社会の変革とが調和するように抑制しようとすることは、ものづくりのどの分野においても物不足の混乱を引き起こす危険があり、それは地球の自転速度を急に減速するようなもので、慣性力によってどれほどの混乱が発生するか、昨今の経済・社会問題を想像すれば、気が狂いそうになる。

3)新しいものづくり技術の創成
  新しいものづくりを考えた場合、抜本的にオリジナルな新しいものづくりを対象にすることから、現実に各企業で行われている生産工程の部分的改善による大幅なコストダウンやより安定した大量生産や環境保全型生産を可能にするものなど、そこで対象になるものづくり技術は多種多様である。特に、生産現場のものづくり技術では、後者の開発技術は成功する公算が大きく、また部分的な改善で目的を達成する時は改善のためのコストは安価で、企業メリットは大きいため各企業現場で広く実施されている。豊倉研究室で提出した晶析装置の設計理論や2次核発生現象の解明等に基づいて行われた装置・操作の改善はかなりの成果を収めた。それは、城塚・豊倉研究室で行った工学研究を支えた研究哲学は、企業現場に適用し易いように纏めることで、どちらかと言えば、晶析分野で全く新しいものであったことと、晶析操作を発展させたものづくり技術に関心を持った先駆的企業技術者の理解と支援努力が得られたからであった。企業でのものづくりを考えると、そこで、生産されたものは販売実績を上げることが必要で、販売の拡大は新しい製品の開発にも繋がり、新しい生産技術の発展となった。この過程で、常に頭の中にあったのは、提出した研究成果を適用した新しいものづくり技術の開発の外にも、これまで進めて来た基礎研究と異なった新しいアイデイアに基づくオリジナルな基礎研究を進めることで、その努力も合わせて行った。これらに関する具体的な晶析研究内容は本ホームページtc-pmtに、Bシリーズとして、今年より数年に亘る掲載記事を予定しているのでそちらを参照いただくことにして、ここでは話題を元に戻す。

  ものづくり技術の強化は、人類にとって極めて重要なことであるが、それを軌道に乗せるためには、人類社会を構成する全ての人の理解と協力・支援が必要である。中でもものづくりに携わる人の努力は極めて重要である。抜本的に新しい理論なり、アイデイア( 第一段階 )が提出され、それを適用して新しいものづくりの技術( 第二段階 )が提出されると、それを実際に使用した新しいものづくり ( 第三段階 )が始まる。

3・1) ものづくり技術開発の第一段階;
 ここの第一段階で抜本的にオリジナルな理論やアイデイアを提出することは極めて難しいことで、有能な研究者や技術者が一生懸命努力したからと言って出来るものではない。対象とする分野や目的によってもその研究の進め方・纏め方は全く異なるので、周囲にいる第三者の話を聞いても決して出来るものでない。豊倉が平素から考えていることは、このような独創的な研究をしようとする人が、過去の文献等で直接参考になるものは全くなく、自分の持って生まれた能力、体力、洞察力、忍耐力等が頼りになるだけで、何か糸口になりそうなものが見つかった時には、躊躇なく考えを巡らして細心の注意を払って色々試してみる気力の旺盛な人物で、一旦研究を始めて軌道に乗ると、食事を取ることも寝ることも忘れて何時までも研究に没頭出来るような研究者が研究を行うことが望ましと考えている。しかし、このような素質の持ち主でもどのような研究をすることが出来るわけではなく、特に本人が取り組みたい研究を本人の得意とする方法で進めて始めて目的を達成できるものと思っている。

  そこで、重要なことは、ものづくりで研究しなければ成らない課題がその研究者が得意とする研究分野と運良く一致して、それまでの研究経験が生かせる場合に初めて当初に期待した成果を上げることができることがある。この種の基礎研究で提出した新理論が妥当なものであるか否かは、工業装置で確認することが容易でないため、長年月かかることがある。豊倉がCFC連続装置の設計理論を提出した時も、一年間は学内外の研究者・技術者と検討を繰り返しても半信半疑であった。幸い、当時は工業晶析装置の設計に適用できる理論式が提出されてなかったので、数社の晶析装置を対象にしたエンジニヤリング企業技術者と豊倉が提出した設計理論によって工業装置の操作条件と製品結晶の関係を議論する機会に恵まれ、提出した設計理論の妥当性を数年で確認することができた。そこで、初期連続晶析装置設計理論の工業装置設計への適用が可能になると、理論提出時に想定した対象晶析装置の設定モデルの一般化を図るようになり、また、工業晶析装置の簡便設計法も進めるようになって、この種の研究は早稲田大学を退職した後の2000年代初めまで続いた。これらの一連の設計理論は最初に理論を提出した1963年初夏から考えると45年を超える期間であった。この間常に連続してこの問題を考えているわけではないが、各段階の基本式は豊倉の頭から消えることはなく、時には数時間掛けて再検討したブラッシュアップも繰り返している。

  何れにしても第一段階の研究は、研究者の適性に合致した研究テーマを見つけることが重要で、それが見つかるまでは焦らず根気よく探すことが必要です。研究者の中には、各時代に必要とされるトピックスに成り易い研究課題を器用にこなす人もいるが、豊倉はこのような研究は第二段階の研究と考えている。

3・2)ものづくり技術開発研究の第二段階と第三段階;
  第一段階の研究が成功してオリジナルな理論を提出した人は、第二段階の研究を自分で行う事が望ましい。完成した理論が文献等に掲載されたものを読んで研究しても、その理論を纏めた時と状況が異なるとその理論を研究した人の考えを理解することは困難である。従って、その理論を研究した人の意向を反映した理論の適用法を提出することは難しいことである。その意味で、その理論を提出した研究者本人がその理論を提出したときの状況を明確に反映した利用法を纏めておくことは意義あることと考えている。また、第三者がその原著論文を読んで検討した結果を纏めて、新しい適用法を見つけ出した場合、その理論の適応範囲はさらに広がるもので大いに望ましいことである。大学研究者を含めて、広く研究者・技術者と言われる人達の多くは、既発表の研究成果を調査し、それを再検討してよく理解し、その理論を発展させて新しいものづくり技術を開発する人がいる。特に今まで誰も適用したことのない製品の生産に適用することを可能した研究者や技術者は沢山いるが、この人達は多くの場合第一段階の研究者に準じた高い評価を受けている。豊倉は1980年5月、早稲田大学在外研究員として、London・UCLのMullin研究室に滞在した時、今年3月にお亡くなりになったJ.W.Mullin先生から日本でオリジナルに研究された工業晶析研究成果を尋ねられたことがあった。この時、先生は欧米に類似技術のない新しい晶析装置・操作法に関する技術に対して非常に高い関心を示され、その時の内容に満足していただいたことがあった。先生は1986年に東京で開催された第3回世界化学工学会議に奥様とご一緒に来日され、日本の晶析研究・技術その他の日本文化に強い関心を持っていただいた。このような行事の時討議される内容は第二段階の研究成果が対象になることは多く、そこで開発された技術が工業規模の生産工程に適用されるようになると、その技術は広く産業界に周知され、種々の製品の生産にも適用されるようになっている。

  この段階になると、より高度な生産技術の開発が企業技術者によって行われるようになる。また、この段階になると開発当初に生産された製品と特性の異なる物質の生産にも適用する必要が起こってきて、そのような要望に応える装置・操作法の改善も行われるようになる。豊倉はこのような段階の研究開発は明瞭に決めることは容易でないが、便法として第三段階と考えている。この段階になると修正された類似生産技術は個々の生産工場に適したように工夫されたものが稼働されるようになっており、そのような生産工場で経験を積んだ技術者の手直しによって満足な製品を生産できるようになる。このように第三段階の技術開発によって新しい製品の生産も可能になってくると、後発発展途上国の技術者も先進国と同じような製品を安価に生産できるように成っている。このような状況になった昨今では、ものづくりの国際的なシェヤーも進むようになり、完成度の高い技術で生産できる製品は発展途上国に技術移転されて生産されるようになり、生産コストの削減も行われるようになっている。20世紀末に先進国の仲間入りをした日本の産業界は、収益性の高い高度な新製品の生産技術を開発し続けないと欧米先進国並の高い文化水準を維持することは難しくなるのでないだろうかと危惧している。

4)鶴岡さんの寄稿記事2009A-5,1「日本の”ものづくり“文化を強化する試み」を読んで;
  日本人は自国のものづくり技術に自信を持っている人は多いと思うが、実際ものづくりに関係し、欧米人と親しくしている人の中には日本の技術について何らかの危惧の念を持っていた人は意外に多いと思っていた。1990年のバブル崩壊後、日本経済の回復がはかばかしく進まないことに気がついた段階で、来るべき時代が来たと思った人は多かったのでないだろうか? 日本の高度経済成長期には、欧米先進国が数%の成長を続けた時も日本は毎年二桁の成長を続けていて、日本の成長は先進諸外国のそれと異なっていて、これからも長期に続くと思っていたようであった。戦後しばらく、日本の人件費は欧米先進国より低く、その上、江戸期の鎖国時代を生き延びるために身につけた真面目で正直に働く勤勉さが日本人の作った製品の評価を高め、その結果として日本製品は安価で良質な高級品という評判を諸外国から受けるようになっていたと思う。しかし、バブル崩壊期には、日本の人件費は欧米先進国並になり、一度高くなった人件費を低くすることは出来ず、また、日本社会の形態は欧米先進国並になったが、欧米人がその文化を創り上げるのにどのような苦難を乗り越えたかを本当に勉強して知っていた日本人は少なくなっていた。江戸時代末から明治初期の所謂文明開化時代に、欧米文化に驚愕してそれをどのように日本に取り入れようかと努力した人達を想像すると、1966年に豊倉が初めて渡米してTVAの研究所で世界各国から視察や研修に来ていた人達との会話やそれとの関連で研究所の上司と話していたことなどが自然に思い出されてくる。

  当時の米国は名実共に世界のリーダーであって、自国のことのみでなく世界の将来を真剣に考え、世界中の人々の意見を聴取してよい提案を前向きに進める空気があった。然るべきアメリカ人は、戦後の日本復興を正しく理解し、評価できるものはアメリカでも取り入れようとする空気があって、豊倉は、着任早々から意見は求められ、その内容において相容れないものでない限り尊重されたので、気持ちよく仕事を進めることが出来た。また、研究室の同僚からも習慣の違いで生じた戸惑い等は親切な支援を受けることが出来て、日本にいるのと同じ気持ちで研究活動を行うことが出来た。そこでは、人種・民族等の違いよる偏見はなく、行動や意見はその時点の豊倉個人としての思想、哲学、理念、性格、能力等から表れたものとして尊重された。その意味で、提案した意見に賛成が得られない場合も、その理由は提示され、否定されたこと言うよりは結論保留の継続と感じであった。それらを総合すると、当時の日本についてアメリカ先進国との間に大きな差を感じた。

  鶴岡さん記事に書かれた内容は、それに対する関心の持ち方で色々分けられると思うが、今回この記事から豊倉が何らかの印象を受けたものを取り出して記述してみる。

4・1) 日本の国際競争力の変化とその将来の回復について;
  鶴岡さんは図?1にIMDデータに基づく種々の因子の推移を示している。この図は、数年前、化学工学会新年会の講演で話された通産のお役人が使っていたので、その時のことを思い出した。その時の豊倉の印象は、その数年前でも日本の国際競争力を世界一とは思っていなかったので、この図はある種の実態を示しているかも知れないと思った。豊倉が関係する分野については平素から世界のどの辺にいるかを考えていたので、この図の表示していることについては特に何とも思わなかった。それより、豊倉、日本の晶析グループ、および晶析技術をベースにした日本企業に実力はどの程度で、今後如何にすべきかを自分では考えていた。その答は明確な形で書いたことはないが、今回の記事の中にその中で重要と思っている複数の要素は書いたが、時期を見て詳しく記述できたらと考えている。

  鶴岡さんは、ご自身が2社で経験されたことを通して民族や国家を支える文化や言語の影響を書かれている。そのような意見も40年前に米国で会った日本人から少し聞いたことはあって、記述のように思えることもあった。外国人と討議した時などでは、そのことを考えて議論しないと時間の浪費になるように思ったこともあった。最近のようにグローバル化が進んで来ると、世界の複数な民族や国家のものが組み合わさって一人の個人としての事の進め方になるような気がする。しかし、それを個人の考え方とするとケールバイケースで多数の分類が必要になり、それを頭に入れておく必要があるように思えた。

4・2) “高い志”
   何事も事を起こすのには高い志を持つことは豊倉も必要と思います。ただし、この高い志に対する定義のようなものを自分自身ではっきりして置くことも大切と思います。現実の問題としては、事を成し遂げるために、高い志を掲げるのであればその表現は長期に亘って不変なことも大切でしょうし、また時によってはその意味を変化させることも必要と思います。自分自身のための活動指針でしたら、強く心の中に秘めておくことも有効でしょうし、また、多数の人と力を合わせて活動するための錦の御旗にするのであれば、またそれだけの準備が必要と思います。新しく組織を立ちあげるのであれば、そのビジョンと言うことでも良いのかも知れませんが、そのリーダーの過去の実績も参画する人達の活動に影響してくると思います。高い志という意味では、それを言い出した人のためになることを強調しすぎると、大勢の賛同は得られ難いでしょうが、長続きさせるには、ある程度当事者のメリットもあってよいのでないでしょうか?事を成すのに高い志を持つことの大切さは、鶴岡さんの云われる通りです。

4・3) 欧米と日本の文化の比較
  鶴岡さんの記事では図- 2 および - 3 に 「三つの国別文化パワーのベクトル」と「文化の重心と方向性の比較」と題して日本文化と欧米文化の特徴を示された。このような表示は新しく提出された事で、この図を眺めているとフランス、アメリカ、日本のそれぞれの特徴は分かったような気がします。豊倉は各国の文化の特徴を比較出来るほど勉強したことも研究したこともないので、縦軸、横軸の定量的な関係を確かめることは出来ないのですが、これまで漠然と考えていたことを図面上に思い浮かべることが出来た。これから先に進めることができたら。今まで見えなかったことが分かるのでないかと期待してます。

  鶴岡さんがフォンテンブローのビジネス・スクールでの話が書いてますが、豊倉も一度だけパリー郊外の静かな街に行ってアンテイックの店で素敵な薄ブルーのグラスを購入して帰ったことがあったが、ここは。日本と違った学問の討議をするのによい所と思い出した。高校生時代に一時、哲学、数学、自然科学を並べて考えたことがあったが、哲学が一番奥が深そうで憧れを感じたが、年を取るにつれて実学よりに移りました。豊倉の意見では、自分自身で居心地の良く思えるところで勉強し、研究をしたらよいのでないかと思っている。図-3 の表示も鶴岡さんの説明は理解できるのですが、自分の考える学問の進展と作業等の関係がいまひとつ繋がらないので、これから鶴岡さんに説明を聞きながらよく勉強し、自分の工学と学問の位置付けが出来て、学問、工学、技術の新しい関連が見えてくることを期待してる。

4・4) 欧米と豊倉研究室の晶析研究;
  鶴岡さんは、早稲田大学理工学部と大学院修士論文で晶析研究を行い、その時勉強したMiller & Saeman とRandolph & Larsonの論文について2009年5月のHPにその内容を掲載された。その研究の主な対象は、晶析装置内の結晶スラリーを理想完全混合状態として、Population balance 式で表して解析的研究を行って、連続晶析操作の重要な関係式を提出した。そこで提出した式を用いて小型連続晶析装置データの解析を行い、装置内の結晶成長速度、結晶核発生速度の実測法を提出し、晶析基礎データの収集に貢献した。豊倉は城塚先生のご指導を受けて、基礎データからの連続工業晶析装置設計法の提出を研究した、その研究はSaemanの論文発表後15年経って行われたもので、連続分級層型工業装置内の結晶スラリー流動モデルを修正して、連続晶析装置の操作状態を示す無次元過飽和度・無次元結晶粒径の概念を提出した。さらにそれらを発展させた無次元晶析操作特性因子も提出し、一連の連続晶析装置設計式を提出した。

  これを発展させて小型パイロットプラントデータより工業晶析装置を設計する方法も提案した。これらの研究は、欧米の研究者は理想モデルを対象にその枠内で数値計算を駆使して、研究を進めたのに対して、豊倉研究室の研究は、工業装置内の実状に着目し、それを数式化できるようにより工業装置内の実状に近い工業装置モデル対象に解析し、より精度よく工業装置設計を行うことを可能にした、装置内の現象がより簡単なモデルで精密に表現できるのであれば、欧米流のモデル解析法で満足な設計は可能になったかも知れないが、現象の複雑な晶析操作ではより複雑な装置内現象モデルで考えたことが精密な装置設計を可能にしたのでないか?これらの一連の晶析装置設計理論は1980年代に掛けて研究された。また、豊倉研究室で工業装置設計の研究を行ったこの時期は、日本企業の晶析プロセスの発展期と重なり、多数の工業装置の設計や工業晶析装置操作の検討に貢献できたことも幸運であった。よく来日した英国で晶析研究を行っていたDr. Tavareは、日本企業は大学研究者と活発に共同研究を行うので良いなと生前言っていたことがあったが、それは、豊倉研究室の晶析研究は、工業晶析装置・操作の設計や結晶製品の品質向上・生産コストの低減に貢献する研究をしたからである。

  5)むすび
豊倉研究室では、1959年4月より晶析研究を開始、以後40年間一貫して晶析研究を続 けてきた。この間、1963年に初めてオリジナルな晶析理論を提出し、その後日本企業との共同研究を繰り返し、’66年に米国TVA公社の招聘を受けた。’68年欧米の晶析分野を代表するLarson & Randolph, Mullin & Nyvltらと交流を始め、’72年のWPC 参加、’74年のAIChE参加等による論文発表を繰り返し、世界の研究者、技術者との交流を発展させた。企業人は毎日の活動によって、製品を生産しつつ技術開発を続けなければならないが、大学研究者は日進月歩理論を発展させ、永続的な製品の安定生産に貢献するよう精進しなければならない。

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