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豊倉賢略歴
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2009 A-2,1: 豊倉 賢  「 ISIC17に参加して (4・完)・・・日本の晶析工学の将来を考える 」
     ・・・(1987年以降における日本晶析グループの活動に着目して)・・・・・

1)はじめに;
  昨年9月、オランダのMaastrichtで開催されたISIC17では、36年前の1972年 に初めてPrahaで開催されたISICに参加し以来現在まで継続して活動してきた日本の晶析メンバーの活躍を振り返って感無量であった。この間、ISICを盛り立ててきた世界の晶析研究者・技術者の世代交代が進み、この会議に参加していた日本人も当初活躍して今日のISICの礎を築いた人達の後を引き継いだ2代・3代目の後継者が主力になっていた。その人達の中には日本の晶析研究者・技術者が行った活動を知っていると思われた人もいたが、それを知らないまま晶析研究を始めて過去の研究成果との比較検討を十分行わないで、過去の人達が行ったとほぼ同じような内容を発表していた人もいた。そのようなことをどのように評価するかは、晶析に関係したことのある個々の人の研究哲学によって異なるが、究極的には過去に行われた研究や活動内容を引き受け、自らの研究と比較して前任者の活動成果を広い意味で発展させることが大切であると考えている。

  このような観点で、日本の晶析研究者・技術者が、世界の晶析工学分野で活躍してきたことを纏めることは意義あると考え、本HPの2008A-11,1および12,1、2009A-1,2に豊倉研究室で行った晶析研究活動を中心に、日本の晶析グループ発展の経緯を、1959年4月に城塚研究室で始められた晶析研究から1986年東京で開催された第三回世界化学工学会議晶析セッションまでについて記述した。今回のHPではそれを次の3期に分けて概要を考え直し、その上で1997年以降の日本における晶析工学を紹介する。

初期;(今から50年前の1959年、豊倉が城塚研究室所属になって晶析研究を始めてより、1966年、TVA肥料総合研究所に留学するまでの期間) この期間は結晶成長を主に研究し、それを通して結晶成長速度をベースにしたCFC因子に基づく連続晶析装置設計理論を提出した。それを使って日本の企業技術者と工業晶析装置設計や稼働していた連続工業晶析装置・操作を検討して設計理論・工業晶析の発展を図った。
第二期;(1966年のTVA留学より1978年Warsaw開催のISIC7th参加までの期間) この期間は、早稲田大学で提出した初期連続晶析装置設計理論を適用してTVAプロジェクト研究に参画し、その成果等を通して1972年までに、米国のLarson,RandolphおよびヨーロッパのMullin,Nyvlt等と緊密な関係をつくることできた。さらに1972~78年チェコスロバキヤやポーランドで開催されたISIC5th~7thに日本の晶析研究グループメンバーとして参加し、多数の論文を発表して日本でオリジナルに提出した晶析装置設計理論や2次核発生速度、その他の晶析研究成果や日本でオリジナルに開発された晶析技術等に関する論文等を発表し、その理解と評価を受けた。
第三期;(1978年開催のISIC7thより1986年東京で開催された第三回世界化学工学会議晶析セッション開催まで) 1978年開催のISIC7thは、Dr.Karpinskiが日本から帰国直後にポーランドで開催されたこともあって、前回と異なって企業技術者を含め多数の研究者や技術者が日本から参加した。特にKarpinski の世話で日本の晶析グループとして海外で初めての懇親会をISIC開催の前夜、ワルシャワのホテル一室を使って開催した。この会は、前回までのISICで世話になったヨーロッパ晶析分野の研究者御夫妻等を招いた20名を超える盛大な催しであった。この会では、日本から初めて参加した人達もヨーロッパの主な研究者と親睦を深めることが出来た。1980年、豊倉は早稲田大学在外研究員として4ヶ月ヨーロッパに滞在し、各国の研究室や企業訪問を行って最新の晶析研究や技術についての討論を重ねて相互の理解を深めることが出来た。特に当時のヨーロッパは、戦後急激に発展した日本経済に対して関心の高い時代であって、1980年の化学工学理事会で実質的に決定された第三回世界化学工学会議・晶析セッションへの参加と論文発表を前向きに考えるようになっていた。1981年Budapestで開催されたISIC8thとそれに引き続いてカナダのMontrealで開催された第二回世界化学工学会議に日本の晶析グループメンバー二十数名が参加して、1986年東京開催の会議に海外からの参加者勧誘を行った。このような日本晶析グループの勧誘活動は1984年にDen Haagで開催されたISIC9thでも行い、その後は1986年まで毎年開催されたWPCの会議に豊倉は出席し、日本における第三回世界化学工学会議・晶析セッションの準備の進捗状況等を詳細に報告してヨーロッパからの来日・参加の勧誘を続けた。

  世界化学工学会議晶析セッションおよびその時同時に企画されたサテライトセッション・Technical VisitおよびSocial Programについては1992年4月に出版した「晶析工学の進歩」pp.47~69に掲載されている。それに関心のある人には是非御覧頂きたいが、この会議には、欧米各国を代表する晶析工学分野の研究者は殆ど出席して満足して帰国したようであった。その後、日本の晶析研究者・技術者は海外の晶析関連の会議に参加して欧米の晶析関係研究者・技術者と親しく情報の交換を行い、研究や技術について容易に討議出来るようになり、西ヨーロッパの人々とまったく同じように扱って貰えるようになった。また日本の晶析関係者が企画する晶析に関するシンポジウム等には世界の主な研究室を代表する然るべき人が必ず参加するようになった。

  豊倉はこの会議以降1999年に早稲田大学を退職するまで、毎年数回欧米その他の国で開催された晶析工学に関連する会議等に参加し、日本のみでなく、世界の晶析工学の進歩発展に務めた。その状況について、以下の章に記述する。

2)第三回世界化学工学会議(1986)以降の活動
  1980年代の化学工学協会(現在の化学工学会)は、日本の化学工学をリードする代表的学会として国内外でその活動は認められており、晶析工学や技術の発展は、化学工学協会傘下の研究会における活動成果に基づいて進展した。一方、結晶製品は種々の産業でそれぞれ異なった特性のある製品を生産しており、また多くの産業でそれぞれに適した操作法を開発していた。このように広い産業界で対象にしていた種々の結晶生産技術は、基本的には化学工学分野で研究され・発展してきた晶析工学によって行われるようになっていて、それらの要望に応える晶析工学を構築するため、これまで進歩・発展してきた晶析工学が対象しなかった産業界の課題に応えるように、さらに新しい晶析工学に発展させる必要があった。そのためこれまでの晶析工学の枠内に留まることなく、別の分野で活躍してきた研究者・技術者と力を合わせて研究開発することが必要になってきた。また、化学工学分野の晶析が発展するにつれてこれまで協力関係の薄かった研究グループからのアプローチも重要になった。実際、1986年東京で開催された世界化学工学晶析会議以降新しい組織との交流も活発になり、新しい活動も始まるようになった。それは、2・1)に纏めて記述する。また、これまで行ってきた研究が発展してくると、新しいハード面の晶析工学を発展させる研究を進めるニーズも生まれてきて。これらの新しく始めた晶析研究の概要は2・2)に記述する。

2・1) 1986年以降に動き出した晶析グループの新しい活動;

i ) 1986年9月東京開催の世界化学工学会議晶析セッションに関連して;
  今回の世界化学工学会議に関心の高かった、ヨーロッパ化学工学連合のWPCの主要国のdelegateの中には初めて来日する人が比較的多く、日本の工場見学や地方観光はホスト側で予め準備した。しかし、東京近郊観光ツワーは来日者の東京でのスケジュールが決まってから準備して、主として晶析セッションの参加者等を対象にした1日コースの「日光東照宮と中禅寺湖観光tour」を晶析セッション終了翌日の特別企画をとして開催した。このtourに参加した海外からのゲストは約30名で、そのお相手に晶析グループの日本人メンバー10名が参加して実行した。当日は素晴らしい晴天で、昼食は日本の某エンジニア企業のお世話で中禅寺湖畔のレストランに用意していただいて素晴らしい親睦ツアーとなった。その時、フランスToulouse大学研究所長のAngelino教授から1987年Bechyne開催ISIC10thの前にToulouseに来ないかとの誘いを受けた。その提案内容は、日仏間の晶析シンポジウムをToulouse で開催して工業晶析等について充分討議を行い、さらにスペインとの国境にあるAndorraの観光であった。その会議には日本から若手研究者・技術者を含めて20名超の参加があり、会議終了後City hallのロビーで市長の歓迎挨拶もあって、鄭重な歓迎パーテイーに招かれた。また、ISIC10th終了後、NyvltはPrahaで日本とチェコの専門研究者・技術者を招いた密度の高い工業晶析セミナーを開催し、その会議終了後ミチケ通産大臣主催の晩餐会の饗応を受け、宴席は大臣から二国間交流に対する鄭重なスピーチがあった。

  1991年ドイツ・Karlsruheで開催された第四回世界化学工学会議の晶析セッションは化学反応研究グループと共催の形で運営され特色のある会議となった。またこの会議では、、ドイツのWPC delegateを務めていたMuechen大学Mersmann教授は、1986年第三回会議時に日本の晶析グループが海外からの参加者対象に日本国内のTechnical Visit & Social Programを開催して海外からの参加者を歓迎したことに応えて。今回は日本その他遠方からの参加者対象にヨーロッパのTechnical and Social tourを企画しようとWPCに提案された。この世界化学工学会議の約1週間前にACHEMA展示会がFrankfurtで開催された関係で、このTour参加者はFrankfurt駅前に集合し、大型バスでフランス東部Nancyの大学を訪問から始めた。その日はMulhouseのホテルに泊まり、翌日スイスに入って、ライン川沿いにある製塩企業Saline R.burgを訪問し、Wallis の有名なリゾート地 Saas Fee(泊)後、Vispの化学会社Lonzaを訪問してからローヌ川沿いにスイスーイタリア国境の山岳地帯通ってLuzernて一泊した。最後はZurich経由でKarlsruheへの3,泊4日の行程であった。訪問先はNancyの大学とスイスの2工場であったが、日本と異なった特徴のある機関で、帰国後もよく名前を聞くところであった。旅行そのものでは、ドイツのオートバーンを快適に走り、スイスの山岳地帯のドライブは日本では味わえない景観とスリルを楽しむことが出来た。このTourに参加したメンバーはお世話いただいたMuenchen工科大学の先生方と日本に馴染みのあるSwedenのRasmunson教授の外は全て日本の化学工学関係者で、日本人には気心のよく知っていた地元の人が、日本人のために企画した印象に残るTourであった。

ii )アメリカにおける晶析グループの活動に参加して;
  アメリカにおける行事への参加はAIChEの年会と各地のNational Meetingの参加が中心であったが、これらの全て学会の晶析Program Committeeで決定されたテーマについてSymposium形式で運営されていた。親しい人が座長になると事前に発表論文の勧誘はあるが、一般には学会プログラムより適切なセッションを見つけて発表の申し込みをしなければならなかった。ただ、アメリカの学会はNational Meetingでも、Annual Meetingでも、参加者は世界中から来ていたので、どれでも構わないが、論文内容に適したセッションを選ぶことと、座長を含めて発表する論文を聞いて貰いたい人を事前に探して会場で討議が出来るよう予め連絡を取っておくことは有効であった。ただし、こちらの意志が簡単に伝わるようによく考えて連絡することは大切であった。一般に、学会に参加する人は、お互いに優秀な研究者や技術者を探すことに気を遣っているので、おおらかに考えて行動することが良かった。豊倉はアメリカの学会活動で有効であったのは1989年と1995年にホノルルで開催された環太平洋化学会晶析セッションであった。前者はIllinois Institute of Tech. のMyerson 教授、後者はBoston,Tuft UniversityのBotsaris教授から一緒に座長を務めて晶析セッションを運営しようと誘われた。この学会は12月のクリスマス休暇直前にホノルルで開催されることが多く、この会議を成功させるには参加者を世界中から集めて内容ある討議をすることが重要で、アメリカ側の座長はアメリカ人の勧誘を、豊倉は日本とヨーロッパからの参加者勧誘を分担した。幸いどちらも50名超の適度な参加者があって落ちついた討議が出来た。

  アメリカにおける重要な晶析活動の中に、1990年にLarson教授が始めたAssociation of Crystallization Technology ( ACT )がある。これは世界の晶析研究者と企業技術者の会合であるが、年に一度総会が春にあり、そこに参加する技術者は所属する企業が規定の年会費を支払うことによって参加出来、また、希望によって技術相談を受けることも出来るようであった。総会で取り上げられる話題はアメリカ人を主にする実行委員会で検討した晶析研究・技術の動向を基に企業ニーズに即したテーマやそ講演に相応しい演者が決められていた。豊倉も設計線図に基づいた晶析装置の設計法を講演したことがあるが、その他の日本の技術としては、圧力晶析装置とDP 晶析装置が取り上げられ、前者はLarson 教授が講演され、豊倉がコメントしたことがあった。また後者は月島機械の提携していたアメリカ企業の技術者が講演したようであった。一方、大学研究者は、世界各国の代表的な研究者が毎回招かれていたようであるが、参加するために必要な旅費・宿泊費等は実費を申請することによって、企業からの納入会費の入金枠内で可成りの部分は負担されたようであった。豊倉は1991年の第2回ACTから1998年まで出席したが、その間、一部の日本企業の技術者も参加していた。1999年早稲田大学を退職した年も案内を受けたが、それ以降は遠慮した。Larson教授が亡くなられて以後、組織の一部改変はあったようですが、その後も継続して活動しているようで、日本からは日本化学工業の山崎さんが1990年代の半ば頃から継続して参加しているようで、このような会議には継続参加が大切で、山崎さんは最近ではその有力メンバーであるDr. Daniel GreenやProf.A.Myersonらと親しく連携しながら活躍している。

iii ) アジア地区の晶析研究者との交流;
  アジアの国々との工業晶析の交流は1980年代になってからである。最初、早稲田大学文学部の某教授から、その先生が早稲田大学にお招きする中国人身内の技術者が中国国費留学生試験に合格し、豊倉研究室に留学して晶析装置設計理論の研究を強く希望している。それで、その人が大学で豊倉に会いたいと申し出ている話をしてきたことがあった。それから2年くらいして、四川省成都の中国化学設計院から羅蜀生さんが来日し、2年間滞在して連続晶析装置設計理論とその工業晶析装置設計への適用を研究した。羅さんの帰国後、羅さんが所属した研究所の推薦で大連のソーダ研究所が招聘することになって豊倉の訪中が決まり、1987年に約3週間大連、天津、成都と上海の大学・研究所を訪問して工業晶析を講演した。途中、北京では中国化学工学会を表敬訪問した。この時は初めての訪中で、中国を知るという意味で大きな収穫があった。この時の招聘は夫人同伴だったので、豊倉の仕事中妻は通訳・ガイド・運転手付の車で研究所近傍の史跡等案内を受けたので、広い中国を効率よく動いて学ぶことが出来た。その後、1990年代には、化学工学会産業部門委員会と中国化学工学会との交流事業の一環で行われた中国での技術講演会のテーマに晶析工学が取り上げられ、2名の日本技術者と3人で天津大学構内で講演と討論を行った。また、1998年9月天津で開催された第一回中国国際晶析シンポジウムでは、天津大学のJ.K.Wang教授に協力した。この計画はLarson教授と相談して進められてたようでしたが、1997年のACTでLarson教授からWang教授が進めている国際会議に協力しようとの提案を受けた。その時、1998年9月に早稲田で計画している晶析国際会議は、豊倉の退職記念を兼ねて晶析研究の活発な諸外国の代表的な研究者・技術者は招聘することになっており、その開催日程も既に決定していた。そのことを配慮して天津の開催日程を調整すると、来日者の多くはその中国シンポジウムにも参加するのでないかと相談を持ちかけた。Wang教授はその日の内に国際電話で中国に連絡して日程調整を行い、その翌日にはACTに来ていたUlrich教授も相談に加わって日程を決め、中国での晶析シンポジウム開催に皆で協力することにした。中国でのシンポジウムには早稲田大学での会議終了後直ちに移動して参加し、日本人の参加を含めておよそ50名が日本経由で訪中し、盛大な国際会議にを開催した。

  台湾の晶析グループとは台湾大学の陳成慶先生を通して関係を保っていたが、1987年に中国工程師学会・台湾大学工学院主催の「晶析技術講習会」があってそれに講師として招かれた。またその時初めて会った、戴教授はその後ISICでもよくお目に掛かる先生で、台湾における晶析グループのリーダーとして活躍されている。

  韓国の晶析グループの先生は、1987年に開催された日韓合同分離技術シンポジウムでお世話になったSogang UniversityのChoi教授が1990年代を通して活躍された。その後、Choi教授の後を継いだDr.Koo Kee-Kahbは数年前にIllinois Institute of TechnologyのMyerson 教授の研究室に留学し、その後ISICにも積極的に参加している。最近日本にも良く来ているProf.Kwang-Joo KimはドイツのProf.Mersmann やProf.Ulrichとも共同研究を行っていたようで、活発に研究活動を行っているて、2007年からはSouth Koreaから派遣されたWPCのdelegateを務めている。

豊倉はアジアの国々の人とのお付き合いは1990年頃からで日が浅く、良く分からないと云った方がよい気がするが、国際会議の時などアジアの国から来ている人達と晶析工学やその他の話を良くしている。それらの話の内容を思い出すと、彼らの頭の中には、欧米の研究者に追いつくことに非常に意欲的活動してるように感じている。その点、日本の研究者や技術者は着実に輿を据えた研究を行ってオリジナルな成果を出さないと、次第に忘れられるような気がする。

iv ) 日本国内の晶析研究活動;

a)製塩企業技術者による晶析理論の学習とそれに基づく食塩結晶生産技術の開発;
戦後の製塩工業では、製塩工程の採かん、せんごう操作の研究が進み、特に専売塩 の生産装置・操作法はほぼ確立されたと見なされていた。しかし、1980年代の晶析工学の進歩は、現行の結晶缶を最新の晶析工学理論を適用して検討しようとする動きが塩工業会技術部会に起こり、1988年4月、日本海水学会に海水利用工学研究会が設置され、製塩企業技術者を中心としたOJT晶析委員会が活動を始めた。この委員会は修得技術の進捗状況に応じて3段階に分けて活動し、1996年9月に各社技術者によって行ったヨーロッパ塩業視察にて当初の目的を達成し、終了した。(その詳細は1997年6月日本海水学会発行の「製塩工業における晶析」総頁286に記載されいる。)

b)日本の化学工業における晶析技術の進歩;
1960年代、日本の化学産業は急激に発展するようになり、晶析操作を適用して生産 される結晶製品は多種多様化し、また大量に生産されるようになった。ここで使用された装置は当初装置メーカーに発注され、共同開発されることもあったが、生産技術の高度化が進むにつれて、晶析理論に基づいた自社技術で開発される晶析装置、操作法も多く使用されるようになった。そこで、対象になる晶析プロセスはこれまでのコモデイテイーケミカルから高機能ファインケミカル、食品・医薬品の生産等に及び、また沿岸汚染ヘドロ対策技術等の環境対策技術、省エネルギー生産プロセス等の開発に適用されるようになった。そこで開発され、高く評価された技術は1997年(社)化学工学会編として工業調査会から出版された「日本の化学産業技術?単位操作からみたその歩みと発展第6章晶析」pp.153~185に掲載されている。また、大同化工機(株)青山ら、(株)神戸製鋼所・守時ら、新日鐵化学(株)佐久間ら、味の素(株)成瀬らが開発した晶析技術は1977年以降逐次化学工学(協)会から化学工学技術賞を受賞している。

c)日本国内における晶析グループによるその他活動
晶析グループは1969年4月城塚先生に代表になっていただいた晶析に関する研究 会が設置されて以来今日まで研究活動を続けている。その一方、藤田先生からのお誘いも受けて1970年代より分離技術会と密接な関係を保って活動してきた。また、1980年代末には日本海水学会及び関連のソルトサイエンス研究財団とは晶析グループの多くのメンバーは協力して活動するようになった。1990年代後半には日本の粉体工学会・工業技術協会を創設された井伊谷先生から粉体工業技術の新しい発展を推進するため、粉体工業技術協会晶析分科会の世話をするように御下命いただいた。この会は産業界の技術者中心のユニークな運営をする会で、日本化学工業(株)山崎さんに代表幹事をお願いして1998年に発足した。その後コーデイネーターを北村・城石先生にお引き受けいただいて活動を続け、昨年創設10周年を迎えた。現在、慶応義塾大学名誉教授の柘植先生にコーデイネーターをお引き受けいただき、新しい活動を展開している。

  晶析研究会の発足以前より晶析分野の発展にご尽力いただいた中井先生と中島先生は1980年代後半にそれぞれの大学を退官された。その時先生方のご活躍を記念し、後継者の益々の発展を祈願して、広島、姫路でそれぞれ中井先生、中島先生退官記念晶析シンポジウムを開催した。このシンポジウムにはそれぞれ100名を超える晶析関係の研究者・技術者および卒業生らが参加し、両先生の現職時のご教訓に感謝した。

  晶析研究会発足当初より研究・運営にご尽力いただいた原納先生は1990年に大阪市立大学退官を迎えられた。その前年8月に仙台で国際結晶成長学会が開催され、この国際会議大会委員長を務められた東北大学の砂川先生のご提案で初めて工業晶析セッションが設置され、それに参加するために海外から来日した晶析分野の研究者を大阪にお招きして原納先生退官記念国際晶析シンポジウムを開催した。その会場は大阪市立大学構内田中記念館で、海外からの研究者はじめ、国内の晶析研究者や技術者、化学工学会関西支部役員・市大卒業生など多数の関係者が参加して盛大に開催された。その時先生が企画された奈良・京都のSocial programは大好評で、その会議終了翌日仙台に移動して国際結晶成長学会に参加した。

2・2 )1986年以降の豊倉研究室の晶析研究;
  1986年に東京で開催された第三回世界化学工学会議の晶析セッションおよびこの時来日した海外からの研究者等を対象に行った行事は、それまで晶析グループメンバーが日本で行ってきた研究活動とその成果が日本の学会や産業界にどのように受け入れられ、評価されているかを訪問者にお目に掛ける機会であった。その意味では、この学会で発表された研究内容はさることながら、日本企業を訪問して会った日本の技術者が、海外から来られた研究者にどのように見られたかも重要なことであった。この時来日された研究者の中には、来日早々ご夫妻で新宿にある一流ホテルのレストランに招ねかれて日本の技術者が紹介され、日本企業が抱える緊急な技術移転問題の概要説明受けて、その後の支援交渉成功に発展した例があった。また、地方工場訪問時の接待がきっかけになって、その工場の現場責任者との密接な関係に発展した来日研究者もいた。これらは、これまで日本で行った晶析研究や技術の開発成果が、来日した研究者から高い評価を受けていたからである。その意味からも、これからの晶析研究はそれまで以上に海外の研究者から期待され、高い評価が得られるように考えて研究テーマ及び研究法を検討して研究課題を決め必要があった。そこで、対象になる研究は、従来行ってきたオリジナルな研究の延長課題Aとこれまでとは全く異なった発想に基づく課題Bとに分けて考え、研究を行った。豊倉研究室で行った各課題研究の概要を以下に記述する。

課題A; 城塚研究室で晶析研究を始めた当初は、研究室でこれまで行った拡散操作についての研究経験、実績に基づいたご指導を受けた。そこでは、まず化学工学とは何かを学び、その上で晶析研究に関する文献を調べて、そこに記述されていた結晶を作ることから始めた。しかし、最初は文献通りの結晶が出来ず、操作中の晶析現象と文献記述の内容を対比しながらよく考えて自分なりに晶析現象を理解し、自分の哲学に従って研究を続けた。化学工学分野の晶析研究は、所望の製品結晶を所定量、安価に安定生産することであり、それに必要な結晶装置設計理論と晶析現象に対して1980年代の半ばには、晶析工学に関心のある世界の研究者、技術者がオリジナルと評価した研究成果を上げた。その主なものは、連続晶析装置設計理論提出、2次結晶核発生速度に関する一連の研究、発生2次結晶核の結晶成長速度への影響、生成融液結晶の精製機構と所望純度の結晶生産のための操作条件の決定法等があった。1986年に開催された世界化学工学会議以降に豊倉研究室で行った課題Aの範疇の研究課題はこれらの研究成果をさらに発展させることであり、より品質の高い製品をより安価に効率良く生産するために、これまで生産された操作条件より過酷な条件下で生産するための研究を行った。そこでは、操作法を従来と同じにようにしても生産される結晶製品の品質が低下したり、装置内の現象が異なってきて安定生産が難しくなることがあって、その問題解決のための研究も行った。また、その生産装置内の晶析現象等の研究は、企業技術者と共同で研究を行うことが多くなり、そこでは研究室の小型装置では容易に把握出来ない現象を見つけ出すこともあった。また、その工業装置内現象より新たなモデルを創出することも出来た。ここで新しく提出したモデルを小回りの効く実験室規模の装置にてテストすることによって確認し。そのモデルの適用範囲を明らかにして、新しい理論を提出したこともあった。これらの研究成果の一部は、来月以降のHPで紹介する予定である。

課題B ; 研究者は、既に提出した研究成果をさらに発展させるべく研究を続ける必要 がある。今まで行ってきた研究と余り関係ないような新研究を行うことはそれまでの想像を超えた発展をするために大切なことである。しかし、その研究もオリジンナリテイーのある人類社会の発展に貢献する可能性のあることは重要で、当事者本人は少なくともそのような期待をするテーマを研究する必要がある。また、その研究課題に対して本人が考えている目的は達成できる可能性の有ることは当然だが、将来的には今まで研究してことと結びついて大きく発展する希望のあるものが望ましい。そのことは、この課題Bの研究が進んで区切りのついた段階で、長年研究してきた課題Aと結び付くかどうか検討してそれを組み合わせて発展させると、本人はもとより誰も想像できなかったような発展になる可能性が考えられる。豊倉研究室は、このようは考え方に基づいて研究を行ってきており、1980年代の後半以降は、晶析法による光学活性物質の優先分割法に関する研究を始めた。この考え方は新しいことではないと云う意見もあると思うが、豊倉研究室では2次核発生現象と2次元核発生現象の差異を有効に使用して新プロセスを開発しようとするもので、新しい操作法の提出となっている。また、操作法や操作条件を工夫することによって起こる結晶多形現象を利用した装置内総活結晶成長速度の大幅な増大法を見出し、その現象を適用しやすい系に対する新しい高効率晶析プロセスも提案している。このアイデイアは一次核発生を利用した新しい微粒結晶生成プロセスの開発に適用して実験室における研究において成果を上げている。

3 )むすび・・・日本のこれからの晶析研究・技術をリードする研究者に期待すること;
  1959年4月早稲田大学大学院に入学し、城塚先生のご指導を受けて晶析研究を始めて50年、数えることの出来ない世界中の研究者・技術者・研究室の卒業生等からご支援と協力を得て、50年前には予想できなかったような研究活動をすることができた。そして、現在自分が行い・経験したことなど、現在第一線で活躍している人やこれからの世界を担って行くであろうと期待される人達の参考になるかも知れないことを記録に残すことは後期高齢者の責務と考えてホームページの記事を書いている。

  この50年の研究生活では沢山のことを先人から学び、それを共に研究した仲間と協議し、力を合わせて自分のため、世のため・人のためになるように活動した。それらを通した思想は、独自に考えて納得したオリジナルな理論の構築と、それを独自な方法で種々の課題に適用しやすいように纏めて、新しい工業装置・操作の開発や新製品の生産を効率的に出来るようにすることであった。これらは、提出されてから長期に亘って使われ、世の中の発展と併走して改善・進展するように心掛けた。その過程で失敗した経験は、慎重に検討してその原因を究明し、それから新しい展開に進む核を見つけて発展させた。該当分野の専門家から評価を受ける日本の研究者・技術者の活躍を期待する。

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