Home | ホームページ設立の趣旨 | 掲載予定の記事について
豊倉賢略歴
| apppendix | 新規掲載記事

2009 A-1,2: 豊倉 賢  「 ISIC17に参加して (2)・・・日本の晶析工学の将来を考える 」
     ・・・(1980年~86年の晶析工学研究に着目して ー ヨーロッパ4ケ月間の在外研究から日本で初めて開催された第3回世界化学工学会議まで)・・・・・

1)はじめに
  前号2008A11および12の1-1に、1972年にPrahaで開催されたISIC5および1970年代後半に開催されたISIC6・7における日本の晶析グループおよび早稲田大学の城塚・豊倉研究室の晶析研究とそれに関連のある活動を紹介した。豊倉が1966年にTVAに招聘研究員として招聘されてより、日本の晶析研究者が、海外の晶析研究者・技術者と交流するようになってその仲間として扱われるようになるのに10余年がかかった。この期間は長かったと考えるか短かったと考えるは、人によって判断は異なると思うが、晶析分野の発展に直接関与した当事者としては、その間の数年毎に新しく始めた活動の成果を整理し、それをさらに発展させるべく進んで来たことを思うと、その過程では常に時間に追われ、あっという間に過ぎた期間のような気がする。それは、先輩諸先生方のご理解とご支援のあったことを忘れることは出来ないが、同時に第2次世界大戦後の日本の復興とそれを支えた日本の産業界の発展が背景にあったことを実感として感じていた。そのことを強く感じたのは、1980年以降に化学工学協会が晶析グループを傘下の主要研究グループの一つとして認識されるようになり、また、EFCE・WPCでヨーロッパ圏外からPermanent GuestとしてのDelegateをアメリカに次いでと日本からも推薦できるようになった時であった。

  本号においては、1980年以降における豊倉研究室の晶析分野における活動を中心に日本の晶析グループの活動を紹介し、これからの日本の晶析グループをリードする晶析研究者・技術者の参考になればと思い記述する。

2) 1980 年5月~9月の間の早稲田大学在外研究員としての活動

◎1979年~1980年の化学工学グループにおける晶析グループの認識
  上記1)で紹介したHP2008A11&12で扱った記事は、主として1978年頃までの晶析研究であった。一方、その研究グループの研究実績が認められるようになると、そのメンバーが活躍する場における評価も変わってきて本来の研究活動も行い易くなった。1979年3月から始まる化学工学協会理事会には、晶析グループの有力メンバーである中井先生は理事関西副支部長に就任され、豊倉も同時期に庶務担当理事として、理事会メンバーになった。その時の理事会は会長宮内先生はじめ、副会長の大阪大学教授大竹先生・綜研化学社長中島社長、その他晶析操作に理解のある先生が多数理事会メンバーになっておられ、非常に心強い思いをした。特に、その期の理事会で決定された重要な案件の一つに1986年に初めてアジアで開催される第三回世界化学工学会議の開催地に東京が決まったことで、それは特にこれから飛躍しようとしていた晶析グループにとって朗報で、是が非でも海外主要国の代表的な晶析分野の研究者が出来るだけ多く日本に来て論文発表をするように努力しなければならないと思った。その時、実際に開催されるのは6年先のことであって、そのための準備には充分な時間があり、中井先生と早速大所高所からの相談を始めることが出来た。

  この時期、豊倉にとって幸運だったことは、1980年度の早稲田大学短期在外研究員が決定していたことであった。しかも、この派遣は実施される一年前に正式決定され、海外での活動準備も行いやすかった。1978年にワルシャワで開催されたISIC7の時には、既に応用化学科教室の内諾は得られていたので、その会場では親しくなっていたUniversity College LondonのProf.J.W.Mullinやドイツのエンジニヤリング会社;Standard Messo社社長のDr.Messingに1980年の在外研究員が決まった段階で、それぞれ機関に1ケ月づつ滞在して、研究活動を行うことの内諾を得ることが出来た。

  また1983年~4年に、1977年度に留学していたDr. P. Karpinskiに続いて、ドイツからDr. Joachim Ulrich が留学した期間であって、研究室の学生も日本語の使えない外国人と一緒に生活して国際感覚を持った大学院学生が増え、1986年の日本における世界化学工学会議に対する備えをするのに役立った。この期間に行われた研究活動については2009年3月以降のHP記事として連載の 予定です。

◎1980,5 ~ 9における早稲田大学在外研究員としての活動;
  通常の外国留学は、留学先で研究活動を行い日本では修得することの出来ない研究を行って経験を積み、それを日本に持ち帰って大学における研究・教育活動に反映するようにすることが多いようであった。この考えは、日本の研究・教育水準が欧米に較べて低かった時代はそのように進めることは妥当と思う。しかし、豊倉は1966~8年に行ったアメリカでの研究生活では、留学前に日本で行った研究成果が海外で理解され、評価されるように研究することが重要なことを経験していた。そこで対象になる研究の進め方は、実際に研究する機関、種々の状況によって異なるが、本人が日本で提出した研究成果や方法は、何時の時代でも世界の何処へ行っても評価される可能性のあるものでなくてはならないと考えるようになっていた。研究者が行った研究成果に対する考えは、1970年代に参加したISICの国際会議やその時訪問した大学・企業の研究所等でも経験していた。その結果、この4ヶ月間においても同様な方針で研究活動を続けることにした。

i ) 4ケ月間の主な訪問先とそこでの研究活動;
  この間の訪問先は;
5月、主としてUCL ,London ,EnglandのMullin研究室滞在とそこでの研究。
6月 ~ 7月、主として、TU Delft in Netherlands,; Escherwiss & MWB in Switzerland ; Czecho. Acad.Sci.Praha in Czech. ; Wroclaw Univ. Wroclaw in Polandの訪問とそこでの主な研究調査および日本での晶析研究活動の紹介。
8月 ~ 9月 主として、Standard Messo Co. Ltd.,Duisburg in Germanyにて研究活動を行い、その合間にAachen工科大学,J.Ulrichを、また,France, Universite de ToulouseにProf AngelinoとLagerieを訪問して工業晶析の討議。 また、卒業生の鵜池靖之さんが研究員として活躍していたスイス・BaselにあるSandoz社から晶析装置設計理論の講演依頼を受けて訪問した。
ii )University College London での1ケ月間の活動;
  Londonには日本から直接入ったが、5月のLondonは初めてで、見事なリラの花に驚かされた。当時、Dr.GarsideはUCLの講師として務めており、豊倉が研究室に着いた日に、すぐ、Londonで生活するアパートを探してくれて引っ越しを済まして、その翌日から大学に出勤した。大学では学生100名程度が使用できる中程度の広さの学生実験室の奥にあった客員教授用の個室をあてがわれ、そこで仕事をした。そこでの主な仕事は、日本出発前に準備して来れなかった、それまでに豊倉が行った晶析研究成果をヨーロッパの研究者や技術者が容易に理解できるように整理することであった。そこで対象にした主なことは、

a)オリジナルに提出した晶析装置設計理論とそれを容易に工業装置設計に適用でき、実際に設計した装置で所望結晶製品を生産できたことを示すこと。
b)一連の2次核発生速度の研究結果の整理とそこで明らかにした研究結果に基づいた工業晶析装置・操作の検討結果の纏め。
c)欧米でmelt crystallizationと言われた晶析法について、豊倉がその工業操作の製品特性より名付けた精製晶析法についての豊倉研究室で行った研究成果の纏め。
d)日本で開発された工業晶析装置・操作法の整理、その他の検討事項。 等であった。それらは、一ヶ月間の滞在期間中にほぼ目的を達成して、次の3ヶ月間の滞在中の活動に利用することが出来た。

  UCL滞在中にMullin教授と討議した内容で、最も興味のあったのは、Mullin 先生から尋ねられた「最近、日本産業の発展は非常にめざましいことだが、大学の研究者はその発展にどのような貢献をしたか?最近日本でどのような晶析技術が新しく開発されたか?それに、大学の研究者はどのように貢献したか?」であった。その中の日本の技術について、欧米の技術を改良した日本技術を含むのかと尋ねたら、先生は即座に改良技術はいらない。抜本的に新しい技術について、聞きたいと云われた。当時、Mullin先生は、1975年以降3年毎に開催されたISICでお目に掛かって、日本の技術開発について討議していたので、日本の最新技術は可成り良くご存じで、5年前の1975年に開催されたISICで青山さんが発表した改良CEC crystallizerを用いて開発した湿式燐酸の精製プロセスなどに興味を持っておられ、その装置は、ヨーロッパにライセンスしないのだったらヨーロッパ企業に紹介しようと云われたほどであった。この時の滞在で、豊倉がMullin先生と研究室で討議は1時間足らずの限られた時間であったが、その時の話は、守時さんが神戸製鋼で開発した高圧付与の圧力晶析の話に終始した。Mullin先生はその内容に非常に高い関心を持たれ、ヨーロッパの雑誌に紹介したいから、すぐ資料の提供を受けたいと云って、神戸製鋼ロンドンの事務所に電話を掛けられた。また、私も、日本にいる守時さんに手紙でこのことを伝えた。また、この滞在時のDr.Garside との討議では、Garsideが米国Larson教授の研究室に留学した時に研究した、過飽和溶液内で発生した2次核は成長過程で非常に複雑な挙動を示したデータを見せられ、結晶核発生の結晶成長現象への関与に対する重要性を強く印象づけられた。この時期、研究室にはインドからDr.Tavareが来ており、その他東ヨーロッパのチェコやルーマニヤからも若い研修者が来ていて、Garsideのロンドン郊外の家に一緒に招かれた。そこで会ったこれらの人達とはその後東ヨーロッパの改革が進んだ1990年代まで交流を続けることができた。

  UCLの1ケ月滞在後、Mullin先生に紹介されたスイス企業、エッシャーウイスとブックスのメタルヴェルクの2社を6月から7月に掛けて訪問した。エッシャウイスは日本の月島機械と技術提携をしていて、当時既にDP Crystallizerのヨーロッパにおける販売を行って、充分な実績を上げていた。そこでは、晶析担当のDr.KratzとMr.Hoyerに会って1975年のISICで発表した初期設計線図に基づく工業晶析装置設計について討議した。ブックスでは日本に長年滞在していたことのあるセールスエンジニヤーのMr,O.Fischerにまず会った。その時、彼は、自社技術として開発した濡れ壁式の溶媒精製晶析装置の説明をし、その分離精製機構として回分蒸留操作と対比しながら説明した。その時彼は、この操作では回分の操作回数を少なくして容易に純度を上げることが出来ると強調した。そこで、豊倉は、1976年のAIChE Symposium Series に発表した論文を使いながら、Fischer説明したデータは早稲田大学で取得しているデータと矛盾なく、比較的容易に精製されると思うが、その現象は全く異なっていて、結晶中に包含された融液の純度は溶媒結晶の成長によって低下するが、この不純物が濃縮された融液は、融解操作を始めた当初に結晶中より選択的に排出され、それが、結晶純度の急激上昇になっているのでないかと説明した。この説明に対して、Fischerは、自分はこの装置の発明者でなく、詳細な現象は分からないが、実はこの装置の発明者である、ETHの卒業生であるMr. Saxerは、現在外国に出張中で、今日の午後帰社するので、それから討議をしてくれないかとの提案があって、隣町の岩山の頂きにあるローマの砦跡を改装したレストランに昼食に行った。

  食事後、最寄りの駅で、Saxerを拾って社に戻り、午前の討議の続きを行った。その説明では、結晶中の不純物が濃縮されている融液を効果的に排出するため、発汗操作は有効であると付け加えた。それに対して、Mr. Saxerは、豊倉が話したような現象を自分も見つけており、豊倉の意見に賛成と云われて、この席の話は終わった。その後メタルヴェルグ社のカタログ説明は大幅に変更され、発汗操作も加えた説明になった、その後、この時訪問したスイスの晶析2社はそれぞれSulzer Chemtech Ltdの傘下に入り、世界を代表する晶析プロセスエンジニヤリング企業になっている。

  6月にZurichのエッシャーウイス社を訪問した後、オランダ・DelftのTUDelftにProf.de Jongを訪問した。彼はAKZO社から大学に移籍した企業経験の豊富な大学教授で、大学キャンパス内にはパイロットプラントが数セット設置できる大きさのエンジニヤリングビルデイングを持っており、晶析の大学研究室としては世界最大の規模の研究室であった。そこでの討議では、スイスでDr.E,Kratzに説明した設計線図について討議した。ここでの議論では、設計理論提出のためのモデルは、製品粒径は連続完全混合モデル装置にて生産される結晶粒径か均一粒径製品結晶に対して提出されているが、実際に工場で生産される製品結晶はこれらの理想モデルで表される製品ではない。その差異はどのように扱って所望工業製品を生産できる工業装置を設計するかと云う質問が出された。その対する検討は未だ日本では行なわれていないが、現状では企業技術者の経験に基づいたknow-howで対処していると応えるにとどまった。しかし、この問題は、晶析装置内の有効2次核発生速度を考慮した装置設計法と合わせて早急に解決しなければならない課題で、訪欧以前から日本で考えていたことであった。それと同じことがDelftでの討議で話題になったことは早急にこの問題を解決しなくてはと思った。

  7月中旬は、チェコスロバキアとポーランドを訪問した。チェコでは、親しくしていたWPC 国際議長であったDr.J.Nyvltを彼の研究室に訪問した。そこでの見学・討議で印象的であったことは、彼が、1969年のロンドン晶析シンポジウムで発表したDouble crystallizerの実験を改良した回分装置で10年経っても同じ研究テーマを続けていたことにヨーロッパ研究の底の深さを感じた。この研究で用いられた装置は操作温度の異なる2槽間を微結晶の懸濁しているスラリーを循環するもので、粒径の揃った結晶を容易に生成することが出来ると説明していた。また、この一連の研究について、世界の情報を最も良く入手出来る研究者が、一つの形式の装置について長期に亘って研究すると云うことはそこに深い意味があるのだろうとも思った。その一方、彼は豊倉研究室で提出した晶析装置設計線図に興味を持って質問され、設計線図のアイデイアに彼が長年に亘って整理していた結晶核発生速度と結晶成長速度の指数関数相関式を組み込んだ新しい線図を提出しようとの提案があった。そこでの討議に基づいて、Nyvltは豊倉との連名で ”Charts for Crystallzer Design”と標題を付けた論文をCrystal Research and Technology, vol.16,No.12,1425(1981)に発表した。この時、Nyvltは、今、アメリカのProf. M.A.LarsonをWPCのdelegateに推薦しているが、豊倉もWCPのdelegate に推薦したいがよいかと云う相談を受けた。そのことは、日本の晶析グループにとって願ってもないことと考えてお礼を言って直ちに了承した。当時、WPCはヨーロッパ圏の委員会であるので、delegateになることは、ヨーロッパ圏内の人でないとなれないのでないかとMullin教授から聞いたことがあったのでどうなるかと思っていたが、その後、Permanent Guestとして1982年にLarsonが正式に決まり、豊倉は1986年に正式に承認された。

  チェコスロバキア訪問後、1977 ~78 に豊倉研究室に留学していたDr. P. Karpinskiが所属していたWroclaw University of Technologyの招聘を受けて、Polandを訪問した。その時、Wroclaw Universityでは、Dr.Karpinskiが早稲田大学に留学したとき使用した2次核発生装置に改良を晶析装置を組み立てて研究を行っていた。豊倉のWraclawの滞在は1週間であったが、その間.Karpinski研究室の人達に早稲田大学で行っていた晶析研究についての講演もした。当時の東ヨーロッパは西側と全く異なっており、通常の学会時と違って人々の生活などにも触れることができて、戦後の日本の生活と較べながら種々の勉強をした。

  8月1日、在外研究員としての纏めをするために予定していた最後の1ケ月間を過ごすため、ドイツ・DuisburgのStandard Messo社を訪問した。当時のMesso社は創業25周年を迎えた直後の活況期であったようで、Duisburg駅から徒歩15分足らずの市の中心街を抜けたところにあったMesso Buildingの一室に豊倉の部屋が準備されていて、そこで研究活動を行った。Messo社社長のDr.Messingは1970~80間WPCのドイツdelegateを務め、1970年代のISIC時に開催されたWPCでしばしば会って、晶析工学やその他種々の話等をよくしていた。特に、’78年Warsawで開催されたISICの後には突然Duisuburgを訪問するように誘われ、日本から一緒に来た先生方と数時間別れDuesseldorf空港で再開することにして、急遽本社訪問した。そこでは、Messo社が開発したTurbulence crystallizerや工業晶析について討議した。その時、’80年8月の滞在ついても社長の了解を得て、技術担当の責任者Mr.W. Woehlkと打ち合わせも済ますことが出来た。

  Messo社で行った研究は、日本で大学院学生の研究テーマにしていた、「結晶核発生速度と結晶成長速度に基づく装置設計理論の提出」を時間的に余裕があり、その上企業現場の情報を得易いこの滞在期間に自分自身で行うことにした。この時、ヨーロッパでもしばしば話題になった工業晶析装置で生産される結晶の粒径分布も考慮した理論にすることにした。そこでまず、Messo社で、実務を担当していたMr.G.Hofmannと討議し、製品結晶粒径分布の表示にドイツ産業界で広く使われているRosin?Rammler式を用いることにした。ここで、対象にした連続晶析装置設計式は、適用範囲を広く出来るように設定条件を可能な範囲少なくし、設計に当たっては所望品質の結晶を生産できる結晶成長速度と有効核発生速度および装置内結晶懸濁密度をあらかじめ小型実験装置テストで決定し、それを用いて所望粒径・粒径分布の結晶を単位装置容積当たりに生産できる生産速度を決定する関係式として提出した。この関係式にて算出された容積当たりの結晶生産速度より、所望製品結晶を生産できる晶析装置容積は容易に計算できた。また、この設計式で使用された晶析操作と製品結晶を評価する因子 ( 結晶成長速度、有効結晶核発生速度、装置内結晶懸濁密度、製品結晶粒径と粒径分布および装置容積当たりの結晶生産速度 )間の相関を示す設計線図を新しく提出した。この設計線図は同一装置を使用して、生産される結晶粒径や生産速度を変更して安定生産出来る晶析操作条件(結晶成長速度・有効核発生速度・装置内結晶懸濁密度等)も容易に対応取れるようにすることができた。これらの詳細は改訂化学工学便覧第6版、7版等で示されている。

  Duisburg滞在時に、Messo社社長Dr.Messingの勧めでAachen の大学を訪問し、大学院博士課程に在籍していたMr.J.Ulrich と会って、彼の博士論文の内容や彼の関心の高かった早稲田大学行った工業晶析研究成果について、丸一日討議を続けた。この討議の結果、1983年早稲田大学豊倉研究室に留学することが決まった。その一方、彼の留学は豊倉研究室所属の学生に大きな刺激を与え、結果的には1986年に東京で開催された世界化学工学会議における晶析セッションへの学生の積極的な参加となり、その成功に大いに貢献した。

3) 1981~4年に開催されたISIC8およびISIC9における日本の晶析グループの活動 :
  1984年は世界化学工学会議の開催年で、Budapestで開催されたISIC8に引き続いてモントリオールで行われた第2回世界化学工学会議に参加し易いように日程は設定されていた。そのためか、日本から20名余の晶析関係者は2つの大きな国際会議に続けて出席し、5年後に東京で開催される第3回世界化学工学会議開催への国内ムードを盛り上げることが出来た。ISICで発表された論文は、学会後1982年に発行された論文集(Ind.Crystallization’81)に開催されているので、ここでは、会場で特に話題になった豊倉研究室が関係した論文2報について、概要を報告する。

i )青山さんが工業晶析装置の試運転で取得した9件のデータを、豊倉が1980年にDuisburgのMosso本社で研究・提出した設計線図に点綴して、製品粒径と生産速度の相関を表す第一操作線を初めて示した。特に、カリ明礬系のテストでは、装置容積 7.4, 670, 9700 リットルの容量の異なる3種の装置によるデータがほぼ同一線上に点綴されることを示し、この理論が比較的容易に装置のスケールアップを行える可能性の有ることを発表した。
ii )大学院博士課程の内山さんが、豊倉研究室で考案した撹拌流動層型晶析装置を用いて取得したカリ明礬系2次核発生速度の実測結果をCMSMPRの定法で取得した2次核発生速度と比較したところ、前者は後者に比較して大幅に少ないことを見出し、その現象は多数の種結晶が懸濁している領域で急激に発生した2次結晶核の多くはその領域内に懸濁している種結晶に付着するものが多く、そこで生き残って有効2次核となる数を減少させるモデルを想定し。その2次核数の減少は、その領域に懸濁していると想定される2次核数と結晶懸濁表面積および操作過飽和度の関数で求められると想定した相関実験式を求めた。この発生2次核数と有効核発生速度数との関係はこれまで発表されていなかたかったので、この研究に対する反響は大きく、当時のヨーロッパ晶析分野の大御所であったTUDelft の Prof. de Jongはこの発表に対して詳細な質問をされた。また、豊倉はUCLのProf. J. Mullinから内山が博士号を取得した段階でUCLに留学させないかとの誘いを受けた。この留学は内山さんの博士号取得後実現した。
iii )このSymposiumには、Aachenの大学からDr.J.Ulrich が先輩のDr. Offermanや数名の学生と一緒にBudapestに来ていて、豊倉研究室の学生とMr.Ulrichの早稲田に着いてからの打ち合わせをしたいからと云われて、博士課程の内山さんと修士課程の真野さん等と一緒に食事に誘われた。このようなことは国際会議では決して珍しいことではないが、学生も国際交流等で大切な役目も果たす経験になったことと今でも思っている。

  1984年のISICはオランダのDen Haag で開催され、この会議前にDr.J.UlrichはAachenに帰国していたので、早稲田大学豊倉研究室の卒業生もUlrichの育った大学を見たいと云ってドイツ、オランダに来ていた。この学会では博士課程に在籍していた山崎さんも出席して論文を発表した。この時発表された論文は “Ind. Crystalliztion ‘84”として1984年にElsevier Sci, Pub.から出版されていた。この会議は東京での開催が決まっていた第3回世界化学工学会議の2年前で、日本の晶析研究グループの主だった研究者や技術者は出席して、皆、それぞれ親しい人達に1986年の来日を勧誘した。豊倉は、毎年開催されたWPCに参加して、日本で進めていた化学工学世界会議の準備状況を伝えると同時に、日本への訪問を考えている人達に、訪日中の訪問先等についての希望聴取も行った。このWPCの会議に参加していたヨーロッパ各国のdelegateからは、戦後復興の著しい日本を是非見たいので、万難を排して参加したいと言う声を聞きくことが出来き、その要望を踏まえて、特に欧米の晶析研究者・技術者の来日に対する準備を行った。そこで、用意した主な企画は、特に晶析分野に関心のある研究者・技術者とその同伴者対象に日本の晶析グループで特別に準備したTechnical Visit, Social Programと他の組織の企画の枠内で行った Main Scientific Program や学会終了後に分離技術懇話会と共催したSatellite Session等であった。世界会議で発表された論文は、化学工学会で出版されたproceedingに収録されている。また、その他の行事の記録は、分離技術懇話会で編集されたが、そのコピーは、1992年4月に豊倉が出版した「晶析工学の進歩」pp.47~69に掲載されている。

4) むすび
  工学や技術開発研究の初期段階は、その特定テーマに特に強い関心の有る研究者や技術者によって研究され、進歩・発展する。その研究成果が当事者グループや周囲の人達から評価されると、その周辺の人達が関心を持つようになり、当初対象に考えなかった人達も一緒の研究するようになる。そうなると学会等で認められる組織となり、研究成果の適用範囲も広くなって、種々のアイデイアも加わり、益々急速に発展するようになる。それが、国内の枠を超えた国際的な組織になるとその学問・技術の活動は益々大きくなり、世界の産業・経済・社会の発展に貢献するようになる。日本の晶析グループも20世紀後半に活動を開始し、1960年代後半から70年代に掛けて海外との交流が行われるようになった。それが、1980年代になって、世界の研究者・技術者の仲間に入れるようになり、1986年の東京会議を機にやっと一人前になったような気がする。

top

Home | ホームページ設立の趣旨 | 掲載予定の記事について
豊倉賢略歴
| apppendix | 新規掲載記事