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2009 A-1,1: 鶴岡 洋幸 1970年大学院修士課程修了  (工学修士)
              2005年北陸先端科学技術大学院大学(知識科学修士)

 
  鶴岡さんは、前にも本ホームページに寄稿いただいているので、鶴岡さんをご存じの卒業生は多いことと思います。最近の鶴岡さんは以下の略歴に有りますように、2005年6月に定年退職されましたが、その退職に先立ち、2003年10月北陸先端科学技術大学院大学に入学され、知識社会システム学を専攻して05年5月修了されました。その後同大学の就職カウンセラーを務め、2006年よりそれと平行して文部省21世紀COEプログラムの研究を2008年3月プログラム満期終了まで続けて来られました。

  先日、鶴岡さんにお目に掛かり、早稲田大学大学院を卒業してからおよそ35年間化学工業やその関連分野で活躍して来られました。しかし、その定年退職前から大学院大学に進まれて新しい分野の研究活動を行って来たことを聞きました。その段階の活動では、化学企業の経験も生かされたようで、鶴岡さんがこれまでに経験したこと等を記事にしてHPに寄稿していただけたら、これから定年後の人生設計を考えようとしている卒業生の参考になるのでないかと思い、寄稿をお願いしました。合わせて、最近大学で進めて来た研究活動の紹介していただけたらと頼みまして今回掲載の記事を頂きました。特に、退職してからの研究活動は、鶴岡さんも記述してますように理系と文系の両者の性格を併せ持つ学問のようでしたが、そこで書かれている内容は理系の私にも一応理解できるように思えました。しかし、よく考えるとさらに鶴岡さんともっと深く討議してみたい内容が多々有るような気がしました。そこで、来年度のHPでは、その討議を適切な時に掲載したらと考えています。このことやその他のことも含めて、ご意見やご提案が有りましたら豊倉まで、ご連絡下さい。受け取ったものは鶴岡さんと相談して対応を取らせていただきます。            (08年12月、豊倉記)

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(鶴岡 洋幸)

略歴
1970年 日産化学工業入社(中央研究所配属)
1972年 エンジニアリング事業本部
1980年 シンガポール駐在
1983年 技術ライセンス部
1987年 日本エアーリキード社へ転職
(主に産業ガスの技術開発を伴ったマーケティング戦略部門を担当)
1998年 早稲田大学校友会稲門会(代議員・千葉県支部幹事・浦安稲門会幹事長)
2002年 応用化学会・学外理事
2004年 日本産業ガス協会へ常務理事として出向
2005年  6月 定年退職
2003年 10月 北陸先端科学技術大学院大学(東京八重洲キャンパス:社会人大学院)
2005年 9月 知識科学研究科・知識社会システム学専攻(MOTコース)を修了
2005年 10月 同大学院大学(石川県能美市)にて就職カウンセラー
2006年 4月 上記と平行して同大学院大学(文科省21世紀COEプログラム)
・科学技術開発戦略センター拠点形成研究員
2008年 3月 文科省21世紀COEプログラム満期終了につき退職


「 強い文化の創出と高い志! 」
−個人の底力を発揮させ自己実現する方法−

はじめに
  先日2008年11月8日に早稲田応用化学科の創立90周年式典が盛大に挙行され、東京女子医科大学とのジョントプロジェクトである河田町の先進生命医科学センターを見学する事ができた。ようやく早稲田にも医学の研究の基地が理工学部からの発展ネットとして構築が進んでいる事は本当に嬉しい極みであり、融合と未来志向の期待されるプログラムなので心から祝福致したく、且つ是非成功させて頂きたいと念じます。“異文化融合型のプロジェクトを成功させるには、両異文化を同時に理解できるフロント・ランナー型人間の養成が肝要である!”と、この2〜3年の間に勤めた文科省21世紀COEプログラムの研究員として体得しているので、この点がとても気に成る所であり、応用化学科と先進理工学部の力強い発展を心から祈念します。式典会場で豊倉先生、平沢先生、常田先生等化工に関係する先生方にも久し振りにお会いでき、お元気で先端分野で御活躍される事のオーラを感じました。私が理工応化の学部1年に入学したのは1963年ですから、今年まで45年間−詰まりとうとう応化の歴史の丁度半分に係わってきた事に気が付き、自分の人生の長さと応用化学科のそれが相対的に同じグラフのスパンにのって考えられる様に成りました。その様な自分が企業人生終盤に考え、歩んだ道を、豊倉先生とのお話もあり、以下にまとめてみる事を試みた。

I)企業人の終盤を襲った学びへのルネサンス
(1)企業人から社会人学生へ
  50歳代に成って定年後の事が気に成り始め、その中頃に日経の『定年前後の学会デビュー』と言う新聞記事が目に入った。外資大企業勤務の同期が55歳で定年退職して、大学で勉強を始めた話も聞いていた。 気に成った切っ掛けは、現在住んでいる自宅の近所に地域稲門会の幹事長がいて、その関わりからその稲門会の幹事長を引き受けることと成り、当時の奥島総長のお話を毎年3回みっちりと聴いていた事が影響したのか!と思える。

  企業への勤務体験としては、日系と外資の二つの化学企業に勤めたが、後半の外資系の仕事の進め方がフランス本社のスタフと進める仕事はアカデミック性も高く仕事自体がとても興味深く楽しかった。 その様な背景の中、“社会人大学院生として技術経営(ビジネス・スクール)を学ばないか!”とのお誘いが入り『“技術が判る経営者”、“経営の判る技術者”を育てる日本で話題の実学問!』と言う触れ込みで定年後の次の職を探すにも役立つかなと言う思惑もあり、定年2年前に夜の社会人学生を始めた。

  実際社会人学生の体験を感想としてまとめると、大学アカデミアでは専門の理論を学んだり創出する努力(A)をし、企業ではそれらを有効利用して社会に貢献する働き(B)をして生活の糧を得るが、一般の順では(A)→(B)なのが、(B)→(A)に成ると(A)は如何変るか?かがその設問となる。教室では講師から多くの講義を受けるが、違いは社会経験があると自分の経験上の意見や自分なりの結論を持っているため、議論になると丁々発止のやり取りが楽しめてお互いの立場の理解と学説への支持・不支持への意見を持つ事ができる。教授と学生の共創学の授業が理想と思えるが、ビジネス・スクールでの議論が楽しくて、夜10時頃に授業が終わると空き腹を抱えながら頭は熱った興奮状態で東京駅から帰宅の途に付く毎夜の日々であった。

  ビジネス・スクール時代に明確に判った事が一つあった。国や社会や企業、家庭の文化の問題である。ここでは企業文化の問題を例に挙げるが、私がビジネス・スクールに通っていた2003年頃は、バブル経済の後遺症で日系企業の利益が上がらずに、外資系が大きな利益をあげている報告が目に付いていた。当時勤めていた外資系企業のビジネスの進め方は毎日体得していたので企業の戦略・組織の違いと会議の進め方の違いを対比して、行き着く先は会議の進め方と議論に使う言葉と考え方の文化の違いが会議の結論を導き、これが企業の成果や利益に影響すると言う自分の考え方を授業中にプレゼンテーションで行った。これに対する反応が、外資系勤務経験者(異文化経験者)は「全くその通り!」と大賛成してくれたが、純日系企業在職者の一部から、「データや論理が無いのにその様に結論付けるのは、独断と偏見だ!言葉文化と企業利益を結びつけるのは短絡的」と猛反発を受けた。いわゆる異文化理解の問題であり、日本は異文化無知或いは排斥(Ethnocentrism)の傾向を少なからず内臓している。グローバル化を謳いグロ−バリスムを必要と認識しながら、グロ−バル経営に馴染まないマネジメント体質を維持している企業は少なくないと思うが、上手く世界企業として伸びている日本企業はこのバランスを巧みにマネージしているからこそ可能と成っている。但し最近感じており難しいと思う事は、日本企業において、下手にグローバリズムを取り込み日本文化の良い点までを壊してしまう事を最も避けなければならないと思う。良い点は絶対維持しつつグローバリズムに対応する戦略を如何とるべきかを考えなければならないが、具体的に如何すれば良いのかはやさしい事では無い。良い例が最近の企業の“成果主義”の取り扱いの流れを見れば判ると思う。

  この事を日本語の特質と日本企業の村社会的経営特質とを相関させて、『強い企業文化の構築を!』〔1〕と言うタイトルで2004年10月の研究技術計画学会で発表した。外資が利益を挙げていたご時世柄とも合って指導教授から“面白いね!“との評価を頂いた。

(2)MOTの修士論文テーマに選んだのは、仕事の中の何故!から始まった〔2〕
  社会人後半の外資系勤務での最後の仕事は石油化学コンビナートへ産業ガスとユーティリティを統合的に供給する仕事であった。統合的という意味は、電力や水の公共事業の様に、コンビナート内の出来るだけ多くの工場へ窒素・酸素・水素・CO・スチーム・電力等を中央で大量生産してパイピングで供給するシステムを提供する仕事である。製造の観点から言うと酸素と窒素、水素とCO等組合せ良くガスを選び大量に製造する方が抜群に経済性が高まる事と、使う側の観点からはパイピング設備を敷設するだけでバルブの開閉のみで生産設備投資をせずにユーティリティを使えるのでお互いにWin-Win体制を構築できるため欧米ではかなり普及しているシステム(Out sourcing)である。私の仕事としては、特に大量の水素・COの供給プロジェクトが欧米では近年普及が始ったのに、日本では実績無しの状況だったので、これを進めることであった。日本で実績無しの理由は、これらの需要が工場で発生した場合には全て自分の工場内で小型の製造設備を作って自社生産する事を、コンビナート形成時から繰り返して来た日本の化学会社の文化の歴史があったためで、これを打ち壊せるかのチャレンジであった。従って、『統合生産による供給システムは何故日本では普及し難かったのか?』がMOTの修士論文のテーマに成った。そしてその答えは、コンビナートの歴史を良く知る大手化学会社の専務からのヒアリングから得られた。これに依ると戦後の石油化学勃興期にコンビナートに石化製造プラントの計画を立てた際は、多くのプロセスが海外からの技術輸入のために、同じコンビナート内企業群に於いては、生産する化学品の競争相手と成り、競争相手とユーティリティを共同生産したり統合生産を計画する考えは及びもよらなかったと言う事であった。

  そして’70年代の2回のオイルショックの際に“日本の化学企業の競争相手はお隣の企業ではなく、世界のコンビナートである!”という事に気付いて、統合生産によりユーティリティを安く入手する事の重要性に気付いたが、既に投資し原価償却の終らない小規模プラントを廃棄して統合生産に切り替える決断を各工場が同時期に下せる筈もなくなっていた。その様な文化的な背景を考えると、日本の企業人は同じ社内には凄く協力的であるが、対社外の事では非協力的に成り易い傾向がある事を学んだ。 これに対して、欧米企業では社外の事でも、自分の仕事に係わる事は同時に対応する比較文化が明確であるとの論文も見つける事ができた。そして一度小規模自社生産設備を作ったため多くの工場が同時期に同意できず、大量生産の生産設備をスタート稼働出来ないために、統合生産設備から購入する様に切り替えられない事情を創ってしまった初期の考え方・文化が重要であったのが良く判った。そして欧米ではコンビナートの初期の建設時点で統合生産を行うユーティリティ供給会社をコンペで選出して最初から関与させるコンビナートの建設文化の問題でもある事も判った。モノ造り日本も強みと弱みがあり、他の事例からも、又経産省傘下の産業技術総合研究所の理事のお話を聴いても、日本の産業文化は、細分化(ミクロ化)には強く統合化(マクロ化)に弱い村社会体質文化を持っている事が理解できる様になった。この話をある学会〔3〕で講演させて頂いた後で、トップの石化企業の管理部長から、「欧米のコンビナート内で全工場へのユーティリティを一括供給しているシステムは、日本では到底考えられない。マクロに弱いんだね!」と言われた時はようやく判って頂けたのかと思えてとても嬉しかった。

  論文の構成としては、2004年に学会発表した『強い企業文化の構築を!』〔1〕の内容をコンビナート建設の背景にある文化の存在を謳って別枠で1章を儲けて論理の厚みを増す事ができた。そして日本語文化の特質と日本のコンビナート文化の特質をアナロジー的に相似概念で繋ぐモデルとしてSECIモデルを据えて論理を構造化した。SECIモデルは、一橋大学大学院国際企業戦略研究科の野中郁次郎・竹内弘高両教授の著作〔1〕に詳しいが、日本企業による知識創造プロセスを四象限モデルにまとめたものでありこれを以下の図-1に示す。『企業内で新しいアイディア・発明・コンセプト・戦略・計画等がどの様に組織の中から核が生れて、課題に育ち、テーマになり、大きく育って環境に適した経営戦略にまで成長して行くか!』をプロセス化しており、『S(共同化)→E (表出化)→C(連結化)→I(内面化)を時計周りに配置したモデルで、アイディアの創出のプロセスは〈S→E→C→I〉→〈S→E→C→I〉のスパイラルで発展・体系化・実施されて行く!』と言うのが骨子である。

図-1 4つの知識変換モード内蔵のSECIモデル

  何故このモデルが世界の経営学者に認められたかの経緯は、1985年以前は日本のモノ造りの強さを海外に理論的に説明できる然るべき論理が無かった折に、このSECIモデルがハーバード・ビジネスレビューに載ってからは、世界の経営学の引用文献のトップを維持し続けその代表的な地位を得て、日本のモノ造りプロセスをクリヤーに説明できる代表モデルに成った。今でも野中先生は経営戦略論で有名なMポーター教授等と定期的に議論を交わされている。(野中教授は北陸先端科学技術大学院大学の初代知識研究科長でもあり授業を直接受けた。現在もその弟子教授の博士ゼミに出席して話は良く聞いているため。) そしてこのSECIモデルは日本のモノ造りの特質も表している。 図-1の四象限の真ん中縦線の左側のSとIには暗黙知が大きく作用し。右側のEとCには形式知が大きく作用する。暗黙知は日本の村社会企業文化内では重要な伝達の質を高める因子であり、この暗黙知の説明無しでは、欧米側から日本のモノ造りの強さは理解できなかった。そしてこの暗黙知は日本語の中でも重要な役割をしている。即ち主語が無くて、表現が曖昧で感性的で、構文が不明確な日本語文化を使って議論を進める(欧米人には勘で会話をしている様な)モノ造りのプロセスで有りながら、その結果たるや、何故世界トップの品質の競争力を維持できたのか? をしっかり説明出来るのは、日本人がこの暗黙的な伝達方法を身につけているからであり、そのカラクリは日本語文化にあると言うのが、前述した論理の1章で私が言いたかった事であった。(反対に欧米では絶対神の下に真善美を目指した真理の文章化(形式知)が可能で重視され、日本との対比となって居る。)

  この様な文科系の内容を論文化する方法は自分では特に学んでなかったので、私の書いた修士論文がどこまで審査教授に判って頂けたのかは良く判らない状態であったのだが、2005年9月の修了式では、思いもかけずMOTコースを含めた全修士修了生の中で、只一人の優秀表彰を頂いた。同期には東芝、松下、新日鉄等の工学博士取得済みのダブルデグリー狙いも多く居たから、自分としては大いなる自信に繋がり、人間関係もかなり強化された様に感じた。

(3)文科省21世紀COEプログラム『知識科学に基づく科学技術の創造と実践』へ参加!
  稲門会の代議員になって数年後、文科省プログラムのCOE(Center of Excellence)が2002年から始り、大学間学術力の競争がCOEを幾つ受諾したかで判定される様になった。初年度は早慶が5つを獲得したが、早稲田を応援する意味でプログラムに興味を持っていた。2005年9月に大学院を修了した後、優秀表彰のお陰か10月から石川の本キャンパスで勤務する話を頂いた。学生の就職コンサルと翌年4月からCOEの研究員としてであった。COEのテーマは『知識科学に基づく科学技術の創造と実践』という文系と理系の二つの研究科を融合するプロジェクトであり、2003年秋にスタートして2年を残す処で、研究科の蛸壺文化で融合が進まない悩みを抱えているようであった。又文科省から時代の要請としてイノベーションを科学技術の創造で取上げる様プログラム期間の中頃から提言を受けて重要テーマに浮かび上がっていたので、これを担当する事となった。企業のイノベーション経営はMOT(Management of Technology)で学んでおり、イノベーション文化は勤務外資企業のフランス人の大好きな文化であり、それを研究科間の文理融合に適応するのは企業人としては難しい事とは考えなかった。企業では売り物にする技術開発を顧客と一緒に進めたり、他者と共同開発するから異文化をまとめイノベーションを創出するための異文化理解の包容力が必要な事は、これまでの経験から判っていた。その点大学での研究者は御自分の研究世界がありこれを曲げてまで融合努力をする必要性を感じないから、COE研究テーマの追求が十分に進まないままに期間が修了してしまう恐れがある。そこで日本の産業側がイノベーションを技術開発に取り込もうとしている動きを一つの論文〔5〕にまとめ発表し、続いてイノベーションを最初に明確に提言した元祖シュムペータ〔6〕の考え方を適応し、そこでイノベーションの原理モデルとなる新結合の考え方を概念化したモデルを整理して、これを5つの進捗しているプロジェクトに適応して、誘起しようとしているイノベーションの特質と文理融合して創成され特定される新学問分野名を推定記述して、各プロジェクトを対比させ幾つかの表やモデルの図を入れ論文に仕立て上げた。

  「学会発表と論文の提出は研究員・教授の大切な成果・実績!」と言われたので、先ずこれを研究・技術計画学会で発表したのが2007年10月で、且つCOE責任者の准教授に遠慮して敢えて英文セッションで発表した。続いてCOEの代表教授が外国の教授と共同主催している知識科学の国際学会が日本で開催される順番と成っていた運もあり、これに推薦を頂き同11月に発表し、続いて国際学会誌の”International Journal of Knowledge and Systems Sciences”〔7〕に掲載されて、次々と論文が補強されて、最終的に国際学会誌に査読認可された自分の論文が掲載される実績にまで到達してしまった。次いでイノベーション・プロジェクトの文科省への最終成果報告書をまとめる段では、私の書いたものが採用されて報告書〔8〕に製本されて今夏に贈られて手にした時はやはり嬉しかった。この間、空路による週初・末の通学が15ヶ月、単身赴任が9ヶ月ある中でCOE活動に専任出来たのは単身赴任の期間の9ヶ月のみでやりあげた成果である。特に冬の12月からCOEのまとめの書類作りが佳境と成った次期が、北陸の雪の時期と重なり、長靴を履いて2両連結の田舎電車でトコトコ通い、白山の中腹に位置する大学構内を滑らないように吹雪をかわし歩いた事とか、しんしん降る雪を窓越しに眺めながら文科省への報告書を書いたのがもう懐かしく思い出される。朝の電車の中では通学の高校生の顔はほぼ全員覚えてしまった。

雪のキャンパス風景

  COE活動に参加して感じた事は、活動で私の様に外から参加出来る人が増えたが、その成果とか考え方やノウハウが大学内にキチンと残ってその次の企画やプログラムに使える様に能力の蓄積の拡大をしっかり図れたかが問われると思う。又国家官庁と同じく、予算の獲得には獅子奮迅で挑むのは良いとしても、その成果や社会貢献への評価になると余りに軽過ぎる様に感ずる。COEの活動内容が、社会への還元策として?がり実績が出て初めてプログラムを獲得した本来の趣旨が評価される様な厳しさが要求されて然るべきだと思う。予算を使い切ったらプログラムが終る様な感覚が残って居たとしたら大問題と思う。そして文科省の教育行政と大学内の教授の先生方のお考えとのギャップも良く判る様に成った。

  大学勤務中は、大学内の豊富な講演は出来るだけ多く聴く様にし、多くのプロジェクトには参加する様に心掛けたので、広い範囲の人の言う事や職種に興味を持つ様になった。これは脳科学者の言う“脳が活性化して、やる気を創ってくれた賜物”であれば有り難いが、以前は関係なく思っていた事象や職種も話を聞くと何となく自分でも出来る様に思え強い興味を持てる様になった。企業や地域の良きリーダーの体験談とか心構えのあり方とかを学ぶ機会も可也あり、多様な知識を学んで頭にインプットする事ができた。

 学んだ事は多くあるが、加賀市・能美市等地域活性化プログラム、伝統工芸イノベーションプログラム(九谷焼き、山中漆器、輪島塗等)、七尾市地域興し活性化プログラム(加賀屋ホテル、商店街まつり、漁業まつり、木彫り木工組合MOT、等々)、北陸企業MOT触発会議、等々・・・・・・・・・・・・・・

(4)私の人生構造
  2008年3月でCOE活動の報告書類を全て書き終わり、自宅浦安に引上げて来た。私の人生は早稲田時代の現役学生〔6年間〕と国立大学院での社会人学生並びに研究員勤務のアカデミア勤務期間〔5年〕で二つの化学企業人生〔35年間〕を挟んだ、サンドイッチ人生を過ごした事になる。包む両側のパンが大学アカデミアで、挟まれた“具(ハム・卵・野菜)”が企業人生と成るのだが『このサンドイッチのお味は如何に?』と言う所です。3月で一応(終わった)と記したのは、研究員としてイノベーションをテーマにしたので、その他社会人学生として技術経営を学んだ事を含めてビジネスで再び実現・活用してみたい思いが強く、これから学んだ事を応用するビジネスに戻って次の展開を狙って見たいと思っている。

II)強い文化の創出と文明のモデル創り

(1)100年に1度の超大国のバブル
  2008年初秋から、超大国アメリカは100年に1度と言う証券化商品に基づく金融危機(証券化金融バブル)を誘発して、世界に激震が走っている。日本が不動産バブルで経済が行き詰まり企業も利益が上がらなく成った1990年以降、得意の金融のビジネスモデルに依って大きな利益を生んできた(と信じられた)米国は日本にとって未来モデル創造型の眩しい存在であっただけに、あのアングロ・サクソン文化も大きく蹴躓(けつまづ)く事もあるのだとフットため息を吐く初冬のこの頃です。ため息と表現したのは、私の理解では、日本では過去の経験と現在に立脚して極く近い未来を考え、アメリカでは現在と理論・理想モデルに立脚して未来を考える文化の差があり、論理性は平均化すればアメリカ側が強い様に感じていたからです。今回のアメリカの金融危機は楽観的な未来志向性が強すぎて、返ってその馬脚を露(あらわ)してしまった現象なのかと思います。

(2)早稲田のバブルと創立125周年記念式典
  ここで話を早稲田に戻すと、早稲田大学は入学受験者数で人気を占うと1990年に16万人を誇ったが1992年から急降下し1998年に10万3千人で底辺を打つまで降下した。この8年間の連続低下でやはり信用バブルがはじけている(現在は12万人レベルを維持、何れも日本の大学間で常時トップ)。原因は1990年に開校した慶応の湘南藤沢(SFC)のIT・政策・環境をコンセプトにビジネス・スクール的な対話型授業形態を取り入れた新学部の稼働にほぼ10年、ハーバード大学との交流を通じた慶応のビジネス・スクールの稼働に対して20年程、早稲田が対抗策を打ち出せなかった事にあると推測される。 もう一つ『その間とそれ以前から授業・試験ボイコットをする学生運動を放任して学問の府であるべき学園を長年荒廃させた事が大学力を大きく落す原因を創った!』と奥島総長の講演でも強調されている。1995年辺りからは週刊誌による大学へのバッシング記事が載る様になり、1998年から稲門会の代議員となり当時の奥島総長の話を新鮮な気持ちで聴く巡り合わせになる。特に毎年1回の県支部大会の代議員への現況報告では、太った体躯を揺すらせて大汗をかきながら90分に渡る大熱弁をぶち上げて、早稲田の現状解析からその改革への対策、対策への学部や教授の大きな抵抗の様子など手に汗を握る様な展開を滔滔とお聴きし、「今こそ早稲田の踏ん張り処であり総長には絶対に頑張って欲しい!」と厚い大きな声援を送りたく思う迫力を感じるのが常であった。そして奥島総長の大フアンに成った。ここで感じた事は大学の校風や総長や多くの教授やOBの考え方・文化・心構え・思いやり・哲学等、全ての事が絡み合って大学の総合力が決まって行く事。それらに影響する大学経営の文化の根底がとても大事である事を心底から学ぶ事ができた。私が文化が大事と思える様に成ったのは、日系・外資系の両方の異文化の企業に勤務する体験を持てた事と、奥島総長から毎年聴いた早稲田大学のマネジメントの熱弁から体得した事がとても大きい。お話を伺った奥島総長が決断し進めた多くの施策により早稲田も大きく復活して、そして白井総長が引継いで昨年2007年10月にあれだけ大々的に創立125周年式典をOBの福田首相を主賓挨拶に配して挙行出来たのは、最大の喜びであり心底嬉しく慶賀の至りこれ以上のものは有りません。会場の記念会堂の式典に出席させて頂いて思い切り歌った校歌には、自分の人生が深く重なって、溢れる涙がずっと止まらずに立ち尽くした。早稲田大学には何としてでも是非とも世界で一番の大学になって欲しい。

  その前日に行われた校歌100周年の講演も感動的であった。東儀鉄笛の作曲のオリジンが米国にあるという探求から、大隈重信の意図では校歌の歌詞の真髄は2番の『東西古今の文化のうしほ、一つに渦巻く大島国の、大なる使命を担いて立てる』にあるとの話で、これは4大文明の発祥から文明が東進して日本に至り、一方の西進した文明が欧州・米国経由で日本に至って、日本で再び融合すると言う、気宇壮大な文明の流れと日本の行く道を現しているとの事で、この章の後で述べる梅棹教授の文明の生態史観モデルにも通じるものがあり、シッカリと腑に落ちた。早稲田の最大の誇りは校歌であると思う。 そして一番欲しいものは、より強い早稲田の団結心と団結力〔9〕だと思う。

(3)日本経済のバブル崩壊
  次いで日本経済の話に移るが、1990年末から日本の不動産・株でバブル経済がはじけた。折りしも早稲田のバブルと全く軌を一にする。日本と早稲田は同じ文化を背負っている様な気がします。

(4)競争力の源泉は文化力!
  さて、ここで文化の話をまとめてみる。
2007年11月に八王子セミナーハウスで文化セミナーがあり参加した。テーマは『多文化共生の道を探る』(第1回国際教養セミナー)−グローバル化の中の他文化と日本−であった。 そして基調講演が東大大学院総合文化研究科教授の文化人類学者の船曳建夫教授であり以下のまとめを話された。19世紀後半から現在までの『日本人論』(内村鑑三、新渡戸稲造、岡倉天心、和辻哲朗、ベネディクト、中根千枝、イザヤベンダサン、ヴォーゲル、司馬遼太郎、ウォルフレン、NHKプロジェクトX、等々その他etc.)の著作の根拠は以下の三つに大別できると;

    i )日本が島国であること。
    ii )江戸時代があったこと。
    iii )日本の近代化が文化的政治的孤立感を与えていること。

  そして船曳教授の現在の日本文化への結論は以下の3点であった。;

 『a.日本人には変革を興す気持ちが身に付いていないこと。
(直ぐに江戸時代の安定閉鎖系に戻りたがる)
  b.Globalizationを外からやって来るものと捉えると、ソフトな全体主義に戻る。
  c.従って、能動的な変革を興す気持ちをこれから持ち続ける必要がある。・・・』と。

  私は文化人類学の全くの素人であるので、これ以前にはこの学問との距離感をかなり持っていたが、この三つが根拠で全てが述べられているなら原因が明確なので、文化の解析も難し過ぎる事も無かろうと思える様になった。文化の問題は特別に勉強して無くても、外国人と日本人の異文化や、県人会文化、地方文化、大学文化、企業文化、家庭文化、個人文化の比較等実際体験しているから・・・・。続いて分科会へ参加して「日本を強くするには、良い日本文化を醸成することが大切!」と訴えたら、新聞社に勤めて大学の博士コースに企業派遣が決っている若い新聞記者の卵が「人間が文化に依って影響されるのに、文化を変えようなんてとんでもない!出来る訳がない!」と一蹴されてしまったのも苦い苦い思い出となった。

  改めて記すが、私が文化!文化!(もっと深化させると哲学!になる)と言っている意味は、企業を元気付け、日本を元気付け、早稲田を元気付けたい気持ちをその底に懐いた上で言っている。そしてその底に流れている文化が重要であり、良くない文化は、弱い文化は、出来れば修正したい。 そこの議論が何時も難しい。 特にバブル崩壊後の早稲田冬の時代に、「弱い点があるのでこれは頑張って強化する必要がある!」と発言すると、「早稲田の悪口を言う奴は校友ではない!」と一刀両断されるケースが時々生じた。現状の問題点を掴まなければ、改善の切っ掛けも掴めないではないか! 校友会でパーティーを楽しんで校歌を歌った後にでも、出来れば早稲田が強くなるにはどの様な文化創りをすべきかを、社会体験の中からあるべき大学の理想像から、教授や学生にフィードバックする位の志が欲しい様に思う。そして早稲田が世界一になって欲しいという目標を共有できれば理想的だと思う。

  ビジネススクールでの日本文化の件でも前述した通りで現象的には全く同じだ。 そして辿り付いた結論は、その文化の強みを訴えてプラス志向の自信を持たせた上で、本質の強さと弱さを対比する文化比較論から議論を進めて、より高い質の方へレベルを上げて行ける文化モデルが必要であると思うように成って行った。

(5)梅棹忠夫の『文明の生態史観』
  そして、そして、2008年10月に知って読み始めた梅棹忠夫の『文明の生態史観』(中公叢書)〔10〕はこれまでの文化論を一蹴する正に目からウロコの文明文化論であった。梅棹忠夫は京都大学人文科学研究所教授であり理学部の生物学の出身である。長年モンゴル、アフガニスタン、パキスタン、インド、東南アジア、中国山岳部に行き現地の人と住みながら文明を学んでおり、ベースに生物学者として身につけた考え方の“生物が自己品種の繁栄を狙いながら、異品種との共存を計って行く生物(生態)の分布力学(史観)”があると思える。 梅棹の文明の生態史観を図-2に示す。

図-2 ユーラシア大陸の2種類の地域文明

  即ち、今考える文明をユーラシア大陸に限定すると、日本と西欧が第1地域、その他が第2地域となる。第2地域には大きく分けて中国、インド、ロシア、地中海・イスラムの4世界があり、真ん中を斜めに乾燥地帯が横切っている。この乾燥地帯が悪魔の巣窟であり、遊牧民による暴風的な破壊活動の震源地で、この4つの世界は絶えず侵略を受けて帝国は200〜300年程を周期に繁栄と没落を繰り返し、文明の連続性を保てていない。

  これに対してユーラシア大陸の東と西の両端にある日本と西欧は、遊牧民の破壊活動を受けずに済んだため、封建時代を300年程を維持できた後に成熟した市民社会に移行する事が出来て文化の成熟が可能に成っている。

  この様にほぼ日本と西欧は文明の歴史的推移が並行的に対応しており、第1地域として分類できる。 第1地域では1450年辺りから市民社会へ移行しており、日本では室町文化から、西欧ではグーテンベルグの印刷術から宗教革命、ルネサンスが開花する時期と一致する。そして日本と西欧の違いを生んだのは、江戸時代の鎖国で、日本が国を閉じている時期に、西欧は大航海時代から植民地を開拓して、南北アメリカ大陸、オーストラリア、アフリカを所有する差を生じた事と、西欧はイギリスを筆頭に略6ヶ国で事に当たったが、日本は1ヶ国で当事国を勤めるハンディがあったこと。

  私は個人的に、これまで以下の歴史の事実テーマのその理由を考え出せないでいたが、この文明史観で全ての回答を得て疑問の天井がストーンと抜けた気になった。

   i )種が島に鉄砲が伝来した後、略30年後に、日本は世界最大の鉄砲数を所有する。
   ii )江戸時代に商業が発達して、世界で初めての商品先物やデリバティブが出現する。
   iii )絢爛たる江戸文化の成熟、鮨・てんぷらの庶民発の食文化
   iv )アヘン戦争以降、東アジアで植民地に成らなかったのは日本のみ
   v )明治の開国から日露戦争までの世界の1等国への驀進路線
   vi )戦後の復興景気からモノ造り力世界一による経済大国化路線

  文化モデルは明るくて楽天的なのが良いが、但し押し付けも良くないから説得を続けるしかない。この梅棹モデルは丁度日本の高度経済成長期に入った時期に発表されて居り(1967年)、タイミングも抜群の時期だ。日本文化の明るく力強い未来を信じて、良い文化の醸成を図って行けるモデルだと思っている。

(6)日本の鎖国令とハーバード大学
 鎖国令がその後の日本の経済と日本人のメンタリティーに与えた影響も甚大と思う。 梅棹・他の文明史観に依れば、西欧が富を蓄積した大西洋貿易圏に匹敵するものを、東洋側も日本の戦国時代後半から南シナ海貿易圏として構築が始っており、鎖国がなければ日本にも大いに富の蓄積が可能であったと書かれていたのがその一つ。二つ目は伊達政宗の命により支倉常長が1613年に太平洋を横断して北米大陸経由で欧州に渡りローマ教皇に謁見している事実から、鎖国がなければ、日本が北米大陸の西海岸側を領土にしていた可能性が有るとも書かれており、この二つには胸のすく思いがした。歴史的な米国植民史のピルグリム・ファーザーズのマサチュセッツ入植が1620年であるから、日本の方が早いとも言える。折りしも日本の鎖国令(1635年)が出たのと、ハーバード大学が設立決定された時期(1636年)は1年の差しか無く、文化・文明の捉え方・考え方の積極性が、国の命運を斯くも変えてしまうものかと思える事実である様な気がする。誇大妄想に陥る危険性を織り込んでも、気持ちだけは明るく大きくデッカクなれる様に思う。

III)志の高さと人生の師(メンター)
  さて前座で想いの丈を次々加えて書き綴ったので、後半の原稿の主旨に入る。
就職コンサルタントを務めたことから、若い人に自分の人生設計を如何にするかをどう伝えるべきか?と言う命題でまとめてみる。

(1)自分の人生を生きがいのある自己実現の舞台とするための積極的な意欲とそのDriving Force(DF)の問題;
  日本人は戦後、食う事に困らなく成ってハングリー・スピリットが無くなったとよく言われる。これに付いては学生時代に豊倉先生から聞いた話を思い出す。

  私が学部4年生になる前に配属が晶析班に決まって卒論研究をする事前指導用の講義を受けたのが、初めて豊倉先生の謦咳に触れ、講義を受ける機会を得た瞬間であった。先生は、その後間もなくTVAに晶析研究の留学をするために米国に発たれてしまったが、その際に私が質問をしたのが、「晶析研究で、日本のトップに成る様な御活躍が出来るエネルギーの元は何ですか?」とお聴きした。先生の答えは「日米戦争により徹底的に日本がやられて、日本を何とかしなくちゃと思った事かな!」と答えて頂いた。
又最近の先生のC-PMTのHP記事で、米国のTVA研究所の先輩研究員から『自分と母国に誇りと尊敬の念を持てない奴に、良い研究などできる訳がない!』との発言を聴いて全く同感だと記されている。母国は企業や、母校、地域社会、家庭と置き換えても良いと思うが、最近この様な正しい事を、明言する事や場が少なく成りすぎたため、DF(Driving Force)が個人に十分に機能しなくなるのが問題だと思う。母校早稲田は、この問題をどう解いているのだろうか?

(2)人生の志の高さについて;
  奥島前総長は校友会の講演の際に、「早稲田大学の教育の主旨は志の高い人間を育む事である!」と良く言われた。この言葉は、聴く側に立てば良い響きを持ってアドレナリンの分泌が高まってハイ状態にしてくれるが、それをどう実現するかは、自分の人生を振り返ってもそう易しい事ではない。

  自分のサンドイッチ人生を振り返って、一番自分に自信が持てたのは還暦前の社会人学生(ビジネススクールは文科系に属する)とCOE研究員の時である。何れもその時に挙がったテーマを仲間と喧々諤々議論して、自分でも本や論文を読んで(仕事と兼務の社会人の時は超大変だった)論文をまとめて学会で発表し、研究員ではその専門の査読付き国際ジャーナル誌に投稿したら運良く受理され(専門ジャーナル誌に論文が載る事は博士資格の重要な要件)、余禄で頑張ったらこれをパスした流れになった。又社会人学生の修了式では首席修了表彰を頂き、同期の松下・東芝・新日鉄等の工学博士取得済みの仲間とも対等以上の関係に成れ自信に繋げる事ができた。そしてこうなると、病気ゆえに1年留年して自分で精神的なブレーキを少しずつ踏んでいた現役学生時代とか企業人の時代にももっとやり方があったかも知れない気がしてくるから人生は面白いと思う。

  これに対して豊倉先生の志と実績はとても凄いものと思う。博士論文の内容が化工便覧の執筆内容と成り、その後の米国留学で世界のトップに認められる道筋を開拓された。それを可能としているキーは世界にも認められるオリジナリティーのある設計モデルを創出された事にあると思う。企業経営で言うCore Competenceをしっかりと自分のモノとして創出されている事である。
人生の志は、総長に言われたから、それではと高い志を掲げれば良い訳にはいかない。それをどれだけ実現可能なものに近づけられる事が重要で、志に対してどれ程の自分のCore Competenceを創出できたかにあり、良い自己実現の人生とは、志の高さと自分の能力としてのCore Competenceの創出と二つのレベルの差の調整とコントロールが上手く行く事だと思う。私の現役学生時代では、この視点と意欲が欠けていたのを反省せざるを得ない。Core Competenceと表現したが、最初から身に付けられる訳ではないから、初めは自分の興味でも、目標でも、憧れでも、或いは憧れの人の物真似でも良いと思う。それが志に繋がる。

(3)良き師(メンター)を持つ事;
  『これまで素晴らしいそして有り難い先輩や仲間に助けられたお陰で今の自分がある』と言う事実は誰でも経験している。もしその先輩や仲間に恵まれなかったら!と言う事を考えると、持つべきものは良い師であり仲間である。其々の分野で良き師を持つ事をモットーとして10人の師を持つ事を実行している人を知っているが、特にサラリーマン人生では、良き上役や上司とそうでない場合には、正に雲泥の差と成る事は経験済みと思う。人間関係は巡り合せなのだが、大事な事は絶えず良い師や仲間を求めて行くことを実行して行くと必ず見つかる様になる事だと思う。上司にとって自分が良き部下であったかどうかを反省しながら、良き師を探しながら、立場が変ったら少しでも良き師に成れる様に努力する事が人生を豊にできるのだと思う。学生に就職指導をした際は、『良き師を絶えず求めて探して教えを請う様に!』と何時も伝えた。

社会人として折につけ豊倉先生に学生時代に言われた事をふと思い出す事は多かった。晶析とか化工の事で壁にぶち当たり先生に相談に伺う事は、残念ながら無かったが、転職する時は相談に乗って頂き本当に有り難かった。その際に助言頂いた事は、今振り返ると、全て正しかった。偉大な師を研究室の先生として持ちながら、指導をもっと仰ぐべき事は沢山あった様な気がする。学生には、良き師から学ぶ方法論を次の機会に話して見たいと思っている。

(4)結論
  以上の1)〜3)は、私の経験から若い人達へのコメントとして書いたが、これを今の自分に適応すると以下の様になるのか!と思う。
企業人生から再び社会人学生として学び文科省プログラムの研究を推進して自分がどう変ったかと問われたら、『知識と常識が増えて、自分のDFが強く大きく成ったが、自分の人生の志はこんなモノで良いのか?と迷いも生じてきた。従って、そのための良きメンター探しの旅に出ようとしている処』と言うのが心境かも知れません・・・・。

まとめ
  思っていることを記事にしてと豊倉先生に言われ、頭に浮かぶ事をほぼ時間経過に従って記述を進めたら、ここまでの様なものとなった。定年前後のアカデミア人生はやっている時はいつも熱中できて大変に面白く過ごせた。『終わり良ければ全て良し』と言うから・・良かったと思いたいが、最終的には、やはり未だ“中途半端”である様に感じている。 文化・文明モデルで、企業を・組織を・日本を・地域を・そして個人を少しでも励ます事が出来れば、良いのだけれども・・・・と志は大きく持ちたいと思っている。
 ご意見や反論有れば、是非御教示を宜しくお願い致したい。
                            浦安市の自宅にて

References
〔1〕鶴岡、遠山、近藤、亀岡、『「強い企業文化の構築」−日本語・文化からの脱却−』
     研究・技術計画学会年次大会、東京工業大学、2004年10月
〔2〕鶴岡洋幸、『コンビナート向け工業ガス・ユーティリティの統合生産ネット供給体制の構築』、北陸先端科学技術大学院大学・知識研究科知識社会システム学専攻修士論文、2005年9月
〔3〕鶴岡洋幸、『「強いコンビナート文化の構築II」−ミクロに強く、マクロに弱い日本の 技術文化−』、第2回次世代ポリオレフィン総合研究会年次大会、東京大学駒場、2007年8月
〔4〕野中郁次郎、竹内弘高、“知識創造企業”東洋経済新報社、1996年3月
〔5〕鶴岡洋幸、『今なぜ「学際融合」と「イノベーション創出」か?』、“知識創造場論集”、
    −イノベーション研究特集号−、第4巻、第2号、2007年6月
〔6〕Schumpeter, J,A., 『Theorie der Wirtschaftlichen Entwicklung,2』,1926
(シュムペーター,J,A.,塩野谷、中山、東畑訳:「経済発展の理論(上)(下)」、岩波書店、1977)
〔7〕Hiroyuki Tsuruoka, etal., “On the Cross-Disciplinary Innovation Creation Projects as COE Activity”, International Journal of Knowledge and Systems Science,Vol.4, No.2, 2007
〔8〕鶴岡洋幸、『COE最終成果報告書、“2.イノベーション研究活動”』、“知識科学に基づく科学技術の創造と実践”、北陸先端科学技術大学院大学、2008年6月
〔9〕鶴岡洋幸、『早稲田人の遺伝子改良を!』、早稲田大学応用化学会報、巻頭言、No.69,September 2003
〔10〕梅棹忠夫、『文明の生態史観』、中公叢書、中央公論新社、1967年

   −以上−

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