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豊倉賢略歴
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2008 A-12,1: 豊倉 賢  「 ISIC17に参加して (2)・・・日本の晶析工学の将来を考える 」
               ・・・1970年代後半の晶析工学研究に着目して・・・

1)はじめに
  前号2008A11-1,1では、1972年9月にチェコスロバキア・プラハで開催された初めての世界規模国際晶析会議ISIC5の概要と、それに参加した日本の晶析グループの活動状況を紹介し、それからの流れとして今年オランダのMaastrichtで開催されたISIC17を記述した。そこに記述したISIC5の参加者の大半は東西ヨーロッパからで、その他はアメリカから参加したProf.Larsonと日本からの複数の参加者であった。その意味では世界規模の国際会議と云うには、日本からの参加の意義は大きく、また発表論文の内容評価も高かったので、ISICにおける日本の晶析研究者・技術者の貢献に対する期待は大きく、日本晶析グループのEFCE・WPCでの地位を築くことが出来た。しかし、学問や技術を発展させるために形成された組織は、その活動を継続的に発展させることが必要で、次回のISIC6は1975年にチェコスロバキアのUstiで開催されることになっていた。そこで、当時、世界で唯一の工業晶析理論・技術を発表・討議する国際会議として開催されたISIC5で築いた日本の晶析工学の実績を継続的に維持することは重要であると考えた。その意味で、次のISIC6においても評価されるような研究成果を発表すべく、早速3年先の国際会議で発表する論文の準備を始めた。

2)ISIC6で発表する豊倉グループの晶析研究について;
  晶析工学の研究の進め方は、大学研究者と企業研究者では必ずしも同じでない。2008A11-1,1で引用したUlrichの記事のように、大学研究者の研究は。研究課題に関する個々の現象を解明し、それを発展的に集約することによって、その対象現象を明らかにする。ここで、明らかになった個々の要素現象を有機的に組み合わせて、目的製品を工業的に生産出来る工業装置・操作法を設計し、所望製品を生産できるようにすることである。このような工学研究の進め方についてUlrichは、「世界の研究者は皆同じような上記の方法で研究を進めるものと考えていた」 と記述していた。豊倉も早稲田大学城塚研究室で晶析研究を始めた時、Ulrichと同様な進め方で研究を行うよう指導を受けた。また機械工学で流体力学を研究していた実兄からも、大学研究は基礎現象を研究し、それを発展させて工学理論・生産技術を提出するものだと云われたことがあった。しかし、豊倉が実際に行った研究は、大学院に在籍した当初は、所謂大学研究者の研究法と同じ方法で研究を進めたが、大学院後期課程で装置設計についての研究を進めて行く過程で基礎研究成果の延長上で発展させるだけでなく、現状の工業装置・操作も同時に学び、それらを融合させて研究を行ってはと考えて研究を進めるようになった。そのような方針で進めた研究成果は、1972年のISICで発表したオリジナルな研究論文でヨーロッパでは以下のような評価を得ていたようであった。

  先月のHPで引用したEFCE・WPCスイスの代表を19782年より長年務めていたDr.Edward Kratzの記事では、豊倉が1972年のシンポジウムISIC6で発表したCFC設計理論を 「1970年のAHEMAにおけるJ.W.Mullin教授の”covering lecture on Laboratory Study and the design of industrial crystallizer”の最終結論で、今後充分な研究は必要であるが、パイロットプラントからのスケールアップなしに、晶析基礎理論から工業装置の設計は出来るようになるであろう」と結んでいた内容に対する提案と評価していた。一方、上記Ulrichの記事の中では、豊倉の研究法は彼が考えていた世界で広く行われていた研究と異なった独自なもので、これまでの研究者と異なる研究成果を提出していたと評価した。彼が注目した豊倉の研究法の特徴は研究対象が工業晶析装置・操作の設計や検討に適用できるようにモデル装置・操作を想定し、さらに操作条件を工業装置のそれと対比して適用し易いように設定して研究を進めた点であった。その裏付けになる結果は、1980年代になって行った彼の実験結果から得たもので、彼の研究で新しく見いだした実験事実の解釈に豊倉の研究成果を適用した例として、晶析装置内に懸濁している微結晶は ” reduces the number of free floating small crystals(nuclei) ” その微小結晶数の減少は装置内に懸濁している母結晶への付着と考え、 “ increase the overall growth rate of the mother crystals “ と記述した。1972年のISIC5で発表した研究論文は、豊倉の博士論文の主要部分である独自な発想に基づいて提出した研究の成果を発展したものであった。

  豊倉が1968年米国から帰国後に早稲田大学で行った研究は、渡米前に行ったオリジナルな研究法をベースにさらに発展的に晶析研究を進めた。実際、豊倉の米国留学中も城塚研究室では、それまで行ってきた晶析研究のポテンシャル維持のために晶析研究継続を決め、大学院修士課程学生の修士学位と学部4年生の卒業研究課題に晶析研究のテーマを数件設置した。その段階での晶析研究は、既に提出した連続晶析装置設計理論を適用した晶析プロセスの開発についての晶析研究と晶析法による融液の精製分離法を対象にした新テーマであった。その結果、豊倉の留学中も晶析実験装置は稼働しており、豊倉の帰国後直ちに晶析研究を続けることが出来た。1975年のISIC6および1978年のISIC7で豊倉研究室が発表した研究論文は殆ど1968年に帰国して以降に始めた研究で、その研究思想は1972年に発表された論文と同じ考え方であった。

3) ISIC7開催の1978年頃までの豊倉研究室における晶析研究;
  研究室の研究テーマには、継続的発展のための研究と、これまで行ってきた研究と全く異なった観点からの新規研究があり、それらは研究室の状況に合わせてバランスの取れた方針で進めることが大切である。その上で、それらが当初想定された期間内に 達成された段階で、それぞれの研究成果を集約整理する。そのことによって研究室の研究成果を総括し、より価値の高い研究成果に纏め上げる重要である。   豊倉が1968年に帰国した時、豊倉が渡米前に行った晶析研究成果を振り返り、それを欧米の研究者に紹介し、討議することによって得たもの、および、米国TVA研究所で新たに行った研究や討議で修得したもの、英国UCLでDr.J.Nyvltとの討議で渡米前日本で行った晶析装置設計理論に対する反響を踏まえてこれからの研究テーマと研究の進め方を決めた。その主なものを以下に記述する。

i) 晶析装置設計理論について;
 理論そのものを産業界の技術者が容易に理解でき、しかも、その理論を用いて誰もが安心して工業装置の設計を容易に出来るようにする必要があると考えた。当時の化学工学では、まだ、計算尺や電動計算機と線図を使用して計算することが多かったので、理論の完成度を高くすると同時に工業装置の設計や検討がより容易に出来るように研究を続けた。そこでは、当時卒業論文で連続混合層型晶析装置やDTB型装置・DP型のように均一粒径結晶を生産できる成長型装置対象の設計線図の研究を行った若林さんは、新しい設計線図を提出した。そのアイデイアはDr.Nyvltによって関心が持たれ、それ参考にDr.Nyvltが研究をして纏めていた結晶核発生速度と結晶成長速度の指数関数式で相関される系を対象にした設計線図提出した。

  一方、豊倉はTVA研究所で世界の重要課題であった食糧問題解決の一方策として考えられていた新しい低コスト・安定生産可能な燐酸系肥料の生産技術の開発を行った。具体的に担当したプロジェクトは、その生産過程で生成する硝酸カルシウム4水塩結晶を低コスト・省エネルギー・安定操作で生産する技術開発であって、このプロジェクトにおける晶析プロセスでは装置容積当たりの結晶生産速度を高くすることを研究した。そこで所望製品結晶を比較的容易に安定生産するには、結晶の粒径成長速度を適切な範囲に押さえて操作することが必要で、小型の実験装置を用いて研究し、適切な操作条件を決定した。ここで、決定した操作条件より装置内懸濁結晶量と所望特性製品結晶成長のための平均線成長速度より単位装置容積当たりの結晶生産速度?を決定した。それとは別に晶析装置に供給される溶液供給速度と濃度および操作溶液濃度より、単位装置容積当たりの製品結晶生産速度?を決定し、この?および?が等しくなるような晶析装置・操作の設計する方法を提出し、晶析プロセス設計を行った。

  また、1963年早稲田大学大学院博士課程3年次の時に晶析装置設計理論を提出して以降、国内化学製品生産企業や化学装置プラントメーカーから、種々の系の工業装置・操作設計の相談を受けるようになった。これらの相談は具体的な系の工業生産プラントに関するものであり、それに、米国での経験を加えて、これらプラントの主要因子に着目してモデル装置・操作法を対象にした結晶製品生産プラント研究をスルファミン酸結晶生産プロセスその他の系で行って、その一部を発表した。

ii ) 晶析法による精製分離法( 融液晶析法 )の研究;
  1960年代の半ば、CFC晶析装置設計理論を提出したところで、その理論によって設計された装置によって生産される製品結晶の品質で重要な因子として結晶純度に着目した。その段階で生産される結晶純度向上に対する研究を取り上げ、晶析法による精製分離法の研究を始めた。当時、金属分野の研究者はゾンメルテイングによる高純度金属の精製に関する研究が活発に行っており、豊倉の渡米中はその調査と予備的な研究が大学院修士課程の学生を中心に行った。豊倉は、1968年11月米国より帰国して、この間の研究成果を総括・整理した。ゾンメルテイング法における操作は、金属塊の融解とその晶析を交互に繰り返して操作することであって、その晶析過程で固相成分の組成を変化させて高純度結晶に効率よく精製する操作の研究を検討した。そこでの現象解明には、融液に接している固相界面の結晶化現象を明らかにし、融液の固相表面の形状およびその界面積とそこにおける表面温度を決定する方法とその実験を比較的容易に行えるような、2重管型装置を考案した。その上で比較的容易に操作できるように、常温付近で融液になり易い共晶系を選んで実験を行った。この研究の詳細は1976年に出版されたAIChE Symp. Ser. ,vol. 72, No. 153, p,87 に掲載された “ Crystallization of Naphthalene from Naphthalene・Benzoic Acid Mixtures”を御覧頂きたい。この研究実験装置本体は2重円筒管でその内部に冷媒を通過させることによってその円筒管外表面の温度を所定の冷却温度にほぼ均一になるように操作した。その段階で、この冷却円筒管を、所定均一温度に保たれた混合融液を保持した撹拌槽内に浸漬して、その冷却円筒管表面にNaphthaleneを晶析させた。ここで、冷媒循環円筒管を冷却するために供給した冷媒温度は共晶点以上の所定温度で、また、撹拌槽内の融液中に浸漬した冷却2重円筒管は所定時間経過した段階で常温空気中に取り出した。その時その冷却管表面に付着している融液は直ちに固化して、中空円筒状のナフタレン結晶となった。この操作で用いた融液の組成は、あらかじめ実測した融液の凝固点と融液組成との関係を用いて凝固点より決めた。また、冷却管表面の温度と撹拌槽内の融液組成より推定した凝固点との温度差を、冷却管を融液に浸漬した直後の冷却管に析出した結晶の初期温度過飽和度と考えた。操作過飽和度と晶析したNaphthalene実測値からナフタレンの成長速度から算出し、結晶成長速度と温度過飽和度との相関を求めた。この実験で、結晶成長速度の大きい浸漬時間の短い時に成長した結晶組成は融液組成とほぼ同じであったが、浸漬時間が長くなるにつれて不純物である安息香酸の濃度が減少し、さらに長時間浸漬すると、ナフタレン結晶中の安息香酸の絶対量はナフタレンの結晶量が増加しても減少するようになり、最終的にはナフタレンは高純度になることが確認された。この一連の研究を通して融液の晶析では、現象に関与する主成分は、ナフタレンであるので、主成分が晶析しても結晶周辺の融液相の組成変化は小さく、結晶の析出による結晶化熱の方が結晶成長速度に大きく影響するなどの現象を明らかにした。これらの融液晶析の研究は、1980年代になっても継続し、晶析法による省エネルギー精製分離法の発展に貢献している。

iii ) 2次核発生速度の研究;
  20世紀前半の核発生や発生速度の研究は,主として理学分野の研究者によって、1次核発生現象が研究されてきた。しかし、晶析操作が産業界で着目され、工業晶析装置で種々の結晶物質が生産されるようになると、工業装置内に結晶が存在してない過飽和溶液において結晶核の発生が認められないような場合でも、装置内に結晶が懸濁していると結晶核の発生(2次核)が起こることがしばしばあり、1960年代末から70年代に掛けて、活発研究されるようになった。ここで、発生する2次核の発生機構は1次核発生と異なり、特に過飽和溶液に懸濁している結晶と装置内に設置された回転している撹拌翼との衝突による核化現象は顕著に激しいことがあり、欧米で活発に研究されるようになった。一般に晶析装置においては、所望粒径に成長した結晶を製品としており、そのためには所望粒径に成長するまで結晶は装置内に滞留させねばならない。その場合、比較的粗粒結晶を生産する場合、粗粒結晶が装置内で回転している撹拌翼と激しく衝突することがあり、それによって過剰な結晶核が発生しやすい。工業晶析操作で比較的結晶粒径の大きな結晶を生産するには、同じ過飽和度の溶液においても結晶核発生速度の少なく、結晶成長速度を大きく出来るような操作法が望ましく、20世紀前半には装置内の結晶が流動層を形成するOslo型装置が開発された。

  1972年に参加したISIC5で、当時既にアメリカで行われていたと同様な2次核発生についての研究論文がヨーロッパの研究者によっても発表され、日本でもこの研究を行わねばならないと考え、帰国後2次核発生についての文献調査から検討を始めた。2次核は過飽和溶液に存在している種結晶に基づいて発生する結晶核で、その存在を規定する熱力学的概念はほぼ確立されていたが、発生した2次核を1次核と区別することに2次核発生速度を研究する前段階の課題があった。ここで、豊倉が対象にした発生2次核は、そのまま成長して結晶製品になる結晶核で、発生直後の過飽和溶液内では確認できないと考えた。そこで、小型の結晶流動層装置を作成し、所定過飽和度に調整した溶液を結晶層底部に供給し、その流速を調整して安定流動層を作成した。流動層を通過した溶液は飽和温度より10度程度高い温度の溶液貯槽に戻し、その溶液中に存在する結晶核や胚種を充分溶解して再循環し、結晶流動層装置に供給した。操作が安定したところで、排出過飽和溶液の流路を変更し、流動層内の溶液温度に保持された恒温槽内に設置されたシャーレに入れ、シャーレが満杯になったところで流路を元に戻し、シャーレ内の溶液を静置して、セル内の状況変化を観察した。流路を切り替えた直後にはシャーレ内には何も変化はおこらなかったが、時間の経過にしたがってシャーレ底部に微結晶の発生が確認された。この実験装置に結晶種を入れないで行ったテストでは、シャーレ内に微結晶は発生しなかったので、ここで、発生した微結晶は2次核が成長したものと判断して、流動層種晶による2次核発生速度を実測した。この最初の論文は、1975年に化学工学論文集第1巻3号262頁に発表した。その後、この装置は種々の研究目的に合わせて変更され、種々の系の2次核発生速度の測定に使用して研究成果を纏め、ISIC6,7やAIChE Meetingで発表した。それらは、それぞれのSymposium Series等に掲載されている。ISIC6で発表した早稲田大学の研究発表を聞いたポーランドのDr.Potr Karpinskiは1977~8に日本学術振興会の招聘研究員として早稲田大学豊倉研究室で2次核発生の研究行い、その成果をISIC7で発表した。Karpinskiは現在、米国New Jersey州のNovartis Pharmaceutical Corp.の研究所で活躍しており、今回、オランダのMaastrichtで開催されたISIC17では現在行っている研究成果を初日午前の、SessionT6:Product design and characterizationで発表し、同日午後のSessionT6ではSession Chairmanを務めて、会議の進行に貢献していた。1999年豊倉が退職したとき出版された ”21世紀への贈り物C-PMT”に日本で経験したこと等を夫人と別々に纏めて寄稿しているので、それらの記事を巻末に添付する。


4)むすび
  今回は2008A-11,1に続いて、ISIC6,7で豊倉研究室が発表した論文の研究状況を纏めた。また、豊倉研究室も日本の晶析研究グループの一員として、国際会議の研究発表をどのように考えて研究したかを研究のオリジナルな最も重要な点に着目して記述した。個々の研究内容の詳細については2009年以降の本HPに寄稿する予定であるが、今回は、ヨーロッパにおけるISIC40年の発展経過を考えながら、将来の晶析工学・晶析技術の発展に向けて如何に進めてるかを可能な範囲で纏めてみた。


・・・・・・・・・・・・・添付資料 「二十一世紀への贈り物 C−PMT 」より・・・・・・・・・・・・

Dr. Piotr H. Karpinski & Mrs Elzbieta Karpinski が
1999年豊倉が退職したときに寄稿された記事のコピー


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