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豊倉賢略歴
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2008 A-11,1: 豊倉 賢  「 ISIC17に参加して (1)・・・1970年頃の日本人晶析研究者・技術者の活動より日本の晶析工学の将来を考える 」

1)はじめに;
  本年は研究室HPを立ち上げて5年目となり、基本方針は今まで通りであるが、3月掲載記事より内容を少し変えた。それは、40年に亘って豊倉研究室在籍の学生と行った研究成果は、現在WPC International ChairmanのJ.Ulrich教授が ”C-PMT”に 寄稿した”approaches in researches could be quite different, aiming in the same direction”のように独自な研究法で提出したオリジナルなものであり、そのオリジナルな研究法をこのHPに整理して掲載し、これからの研究者がオリジナルな研究をするのに参考になるよう考えたからです。(・・C-PMTについては、研究室に関係のあった人はご存じと思うが、それは、1999年3月、豊倉が早稲田大学を退職した時出版された記念誌で、pp176-215に欧米で活躍していた晶析分野の知人15名のメッセイジを掲載しおり、そのpp194-196にUlrich教授の寄稿記事がある。本号の内容と関連と関連のあるKratzらとUlrichのメッセイを参考資料として巻末に記載する・・)それは、2008年3月以降本HPに掲載された記事をご覧頂けば、ある程度理解いただけると思うが、これからの日本の晶析研究をこれまでの研究活動を理解した上で、さらに発展させるのに参考になるようにと考えている。一般に、日本の晶析研究が日本を含めて広く世界で評価されるためには、同じ分野で活躍している欧米の研究者・技術者の理解と評価を受けながら発展させることが必要です。欧州における晶析研究に関する活動は、本年7月に掲載した2008 A7,1の記事のように、1960年代末にEFCEで討議されて設立されたWPCを中心に発展してきている。一方、アメリカの晶析研究はWPCとほぼ同じ頃よりAIChE・Program Committeeで検討されつつ発展してきており、1990年初頭にLarson教授が中心になってスタートしたACTは、EFCE・WPCの運営法と異なっているが、その活動目的には共通点が多く、アメリカの晶析研究者・技術者が中心になって、世界的な見地から活動を続けている。最近では、WPCはACTの主要メンバーと密接な連携を取るようになっており、時にはAIChEと共催でISICを開催している。特に、ACTが招聘する大学研究者は、研究実績と産業界の特定分野における経験も重視されるようであり、豊倉が招かれた1990年代の現職時代はWPCで評価を受ける研究者はACTにおいても招聘の対象者になり易いように見えた。

  豊倉は、2002年にイタリア、Sorrentoで開催されたISIC15には参加しなかったが、その後、2005,年と8年に開催されたDresdenとMaastrichtのISIC16 & 17に参加した。その時受けた印象は、WPCのInternational ChairmanがGarside からUlrichに代わったためかと思えたが、時を同じくしてNyvltがChairmanの時にWPCを支えた各国の代表者達も多数交代したようで、世界の晶析研究者間にも新しい流れを感じた。特に、今年のISIC17に参加して思ったことは、日本からの参加者数はフランス(37名),英国(30名)に次いで27名の5番目で、ヨーロッパ主要国の中に入っていたが、新しい若い人が多く、ヨーロッパに留学した経験のある世界に知られた松岡、北村先生もおられたが、これからの人達に、1970年代からヨーロッパで活躍された中井先生や青山さんの様子を記事に残し、これから世界で活躍する人達の参考になるよう記述する。

2)日本の晶析グループ発展の経緯;
  現在晶析分野の第一線で活躍している日本の研究者や技術者が初めて晶析操作や装置の問題に取り組む時、化学工学便覧やその他の書籍等で晶析工学を学び、他の拡散単位操作と同じように問題を解決することが出来ると思う。しかし、昭和30年代の初め頃は、日本の大学研究室の研究テーマとして、晶析操作に関する研究を行っていたのは、東京大学の宮内研や東京工業大学の藤田研など極一部の限られた研究室であった。豊倉が昭和34年に早稲田大学城塚研究室で城塚先生のご指導を受けて晶析研究を始めた時はまだ参考文献も少なく、化学工学分野の雑誌等に掲載された論文を読んで自分の研究テーマを考えたものだった。当時日本国内で話題になっていた晶析分野の主要研究課題は晶析装置設計理論の提出であった。豊倉は1963年初夏の頃、幸運にも博士論文の研究で無次元過飽和度と無次元結晶粒径に基づいたCFC (無次元晶析操作因子)を見つけ出すことが出来、それを基にオリジナルに連続晶析装置設計理論を提出でした。この理論は晶析装置を手掛けていた日本の装置メーカーの目に止まり、工業晶析装置の設計に適用できるように発展した。

2−1) 日本で開発された連続晶析装置設計理論に対する欧米での評価;
  CFC連続晶析装置設計理論は米国TVA公社で認められ、開発中の燐硝安プロセスの開発に適用すべく豊倉は、1966年に招聘を受けた。在米中の1968年5月にTampaで開催されたAIChE Meetingに参加し、晶析セッション座長の Dr.A.RandolphとCFC 晶析装置設計理論の話をすることが出来た。この設計理論はRandolphからProf. M.Larsonに伝えられ、CEP Symposium Series,Vol.67,No.110.145(1971) に” Design of Continuous Crystallizer”として掲載された。このTampaでのDr.A,Randolphとの初めての面会は、誰に紹介されることもなく行われ、早稲田大学理工学部彙報 (英文論文集) に掲載された論文のコピーを渡して数分間話しただけであったが、それがLarson教授に渡され、以降30年間の親交に発展した。

  1968年11月、米国からの帰途、英国LondonのUCLにProf. J.Mullin訪問の計画を立て、日時を指定してMullin研究室訪問の希望を書面で伝えた。その時、アメリカでProf.M.Larson 教授に渡したと同じ論文のコピーを同封した。間もなく、Mullin 教授からは、当日は研究室には不在だが、研究室の人間に案内させるから是非寄るようにとの返事を受けた。豊倉がUCLを訪問した時、研究室を案内してくれたのはインド人のポストドクター研究員であった。彼が一通り案内し終わったところで、今、研究室にはチェコスロバキアのアカデミー研究員Dr.J.Nyvltが来ているが紹介しようかと云いだした。その時、豊倉は、東ヨーロッパの情報が得られそうだと思い、Nyvltを居室に案内して欲しいとお願いした。

2−2) UCLにおけるDr,Nyvltとの面会
  Nyvltを訪問すると、彼は豊倉がアメリカから論文のコピーを要請したことを覚えていて、実質的には初対面であったが、気楽に種々の話をして殊のほか話が弾ンだ。その時、彼は豊倉がMullin教授に送った論文をMullin教授から見せて貰ったが、興味があるのでコピーは貰えないかと言われた。その時、一冊持っていたコピーを渡して、CFCとそれを用いた連続晶析装置設計理論の概要を説明して分かれた。

  Dr.Nyvltとは、その後数年間音信はないまま過ぎた。1971年2月、突然Nyvltから1972年9月にプラハで開催されるCHISA Congressの中で、晶析国際会議を開催から、論文を発表しないかとの勧誘を受けた。当時の日本では外国に行って論文を発表することはまだ大変な時代であった。しかし、このような機会はまた何時来るか分からないと考え、城塚先生にお目にかかり、自費ででも参加したいからと相談してお許しを得た。当時、日本国内の晶析グループは化学工学協会に設置された研究会を通して活動して丸2年経過したところで、研究者・技術者から構成された研究集団として活動していたのでこの情報を直ちにメンバーに連絡・相談して国際晶析会議参加団を結成することにした。当時、化学工学協会では、欧米への学会派遣団をしばしば送っていたので、海外派遣について様子を伺い、それらを参考に晶析関係の大学、企業訪問を加えた派遣団行程スケジュールを作成した。当時の晶析研究者は欧州の晶析研究組織や晶析関連企業との関係も浅かったが、UCLのMullin教授に「Dr.Nyvltからの勧誘を受けて1972年のプラハの国際会議に日本の晶析研究者・技術者が訪問団を結成して参加する。この会議の参加後にMullin研究室を訪問して晶析に関する討議をしたい。またその後、ヨーロッパで晶析研究を活発に行っている大学研究室および企業も訪問したいので紹介して欲しいと依頼した。それに対して、Mullin教授から、オランダ・デルフトのHSDのProf. de Jongと西欧の企業数社の紹介を受けた。これらヨーロッパ研究者・技術者の好意をありがたく利用して、ヨーロッパの晶析事情をほとんど知らない研究者・技術者集団は初めてのヨーロッパ旅行を行った。この時の様子は晶析工学の進歩(1992年4月刊行)のpp30~36に掲載されている。

3 ) 1972年の晶析訪欧団を振り返って :
  日本からISIC5thに参加するための訪欧団は、1972年9月11日の午後、Frankfurt経由でPraha 国際空港に着いた。そこではEFCE・WPCの国際議長秘書のDr.Rychlyが迎えに来て、ホテルやシンポジウム会場等の案内をしてくれることになっていた。しかし、飛行機が遅れ、その上空港内の諸手続きに時間が掛かって、Dr.Rychlyに会えず、初めての東ヨーロッパ訪問に多少心細い思いで、予約してあったホテルに向かった。ホテルでチェックイン等を済ませ、Congress会場に行って、初めてDr.Rychlyに会い、Session委員会室に案内されて、国際議長Dr.Nyvltの鄭重な出迎えを受けて、やっとホッとした気持ちになった。そこでは、Dr.Nyvltから1968年にUCLで彼に寄贈した豊倉の “Design Method of Crystallizer ”の話が出され、その論文を検討し、そこに記載された連続晶析装置設計理論に従って自分たちのデータを再整理したところよく整理出来き、一般性のある理論と評価した。また、日本の晶析研究に関する論文は東ヨーロッパに来てないので、その理論に自分達のデータを加えて「日本の晶析装置設計理論」と表題を付け、チェコ語に翻訳した書籍を出版した。その本は完成しているので寄贈すると云って豊倉に渡された。4年前、アメリカの帰途ロンドンUCLに寄ったことが思いも掛けなかったことになって内心非常に喜んだ。さらに、Dr.Nyvltは翌日以降のISICについての詳細な説明とISIC5thが終了した翌日の9月15日の午後開催されるEFCE公認の第4回 Working Party of Crystallizationに、日本からの参加者をGuestとしてお招きしたいので是非参加頂きたいと云われた。なお当日の話題は”Design of Crystallizers”で、そこでの話題提供者はアメリカ・Iowa State UniversityのProf. M.Larson, Czechoslovakia Academy ScienceのDr. J,Nyvltおよび日本・早稲田大学の豊倉と伝えられた。この時、豊倉がセッション、チェアマンをすることもWPCで話題提供することも事前には相談を受けてなかったので驚いたが、そのような指名を受けることは、ヨーロッパの会議に初めて参加した日本の晶析グループにとって名誉なことと思って引き受けた。

  実際シンポジウム参加する前に顔を知っていたのはNyvlt. Larsonの二人であったが、会議の前日Dr.Nyvltの話を聞いて、このシンポジウムの運営を決定していたヨーロッパ各国から派遣されたWPCの委員は、日本からの参加者に好意的で、WPCの活動への協力を期待しているように思えた。シンポジウムで発表した青山・豊倉の論文“Daidoh type crystallizer - Continuous classified-bed type crystallizer with cone shape” では、パイロットプラントテストデータに基づいて設計した工業装置のデータが、理論式を使って設計条件からの算出値と良く一致していたので、この方法で設計した装置・操作で取得したデータは,常にそのように良く一致するのか質問された。それに対して、豊倉はこの設計理論は理想モデル装置を対象に提出したもので、ここで設計された装置は、厳密には工業装置と一致していない。そこで、データの精度として10%以下の誤差は無視して近似的に相関したもので、その範囲でほぼ一致していると考えている。その精度については今後データの蓄積を図り、モデル装置と工業装置の差異が小さくなるよう研究を続けると答えた。このような討議を通して、設計理論に関心のある欧米の研究者や技術者と親しく意見の交換も行った。また、3年先の次回ISICの時には是非 自分の研究所に寄らないかと言葉を掛けられた。

4) 1970頃の欧米における工業晶析研究の状況について。
  1966~68年に豊倉は米国アラバマ州TVA公社のFertilizer Development Centerで晶析研究を行っていたが、そこでは、新しい肥料や生産技術の調査に世界各国から出張して来た研究者、技術者と晶析工学・技術の討議を行った。また、同様な討議は1968年に英国・ロンドン大学UCLの訪問時にはDr.Nyvltと、また1972年では、ISIC5thに参加した研究者・技術者とも行って、当時の工業晶析技術やそれを支える工業晶析研究の状況を知ることは出来た。この間の1966年から70年代の前半にかけて知り合った欧米の晶析研究・技術をリードしていた研究者や技術者は、豊倉が日本で行った晶析研究や活動を評価して好意的に対応してくれたが、その理由は十分理解出来なかった。しかし、豊倉はこの機会を出来るだけ生かして欧米諸国の研究者・技術者と活発に交流することは、日本の工業晶析の発展に有効であろうと考えて、発展的に続けた。

  最近日本の晶析分野の第一線で活躍している30~40歳代の研究者から、豊倉は世界の著名な研究者や技術者と長年に亘って親しく交流しているが、それはどのような経過を経て続いているのか尋ねられことが多くなった。豊倉自身も確かに運良く、世界の著名な研究者や技術者と交流を重ねてきたが、それはどうしてか考え直して見ることにした。それに関する資料として、豊倉が早稲田大学を退職した1999年に卒業生が出版した記念誌「二十一世紀への贈り物 C−PMT 」に掲載されたヨーロッパの親しい友人から寄稿された記事の中から2件(参考資料1;pp.184~185、E.W.Kratz & O.Fischer著 ” The Challenge in Design of Industrial Crystallizers” および、参考資料2;pp.194~196, J.Ulrich 著 “ A View from the Outside on the Resoarch approach to Professor Toyokura”)の記事を参考に記述する。

  参考資料1では、1969~1970のヨーロッパにおける工業晶析の状況が紹介されている。その中で記述された1970年に開催されたACHEMAの技術会議において、Mullin教授が行った表題講演”Laboratory Studies and the Design of Industrial Crystallizers”では、核化・結晶成長・晶癖の基礎研究は、過去には晶析装置の設計には使えないと考えられていたが、将来はパイロットプラントからのスケールアップなしにラボテストから直接工業晶析装置設計はできるようになるだろうと展望した。この講演内容と豊倉が1972年のISIC5thで発表した新概念CFC dimensionless factor に基づいて提出した新しい設計理論は相通じるものがあって、Dr.Kratzはその豊倉の設計理論は、Mullin教授の講演内容の実現に向かったChallenging task と評した。また、呉羽化学の齋藤さん等が別論文として発表した “Continuous Purifier by Crystallization”は、再結晶法と機械的撹拌付き向流洗浄コラムを組み合わせた装置で、混合有機化合物の分離精製装置として、最も期待されるものの一つとして評した。

  一方、参考資料2は、現在WPCの国際議長を務めているProf.J. UlrichはInstitut fuer Verfahrenstechnik der RWTH Aachenの大学院博士課程学生であった1980年8月以降、豊倉としばしば晶析研究についての討議を行ってきた。彼は、その討議を通して知ったことを纏めて記述している。その内容は彼が日本に来るまで考えていた「工業晶析のResearch approaches は、世界中同じであろうと思っていたが、来日して豊倉研究室に居て、研究目的は同じであってもそのアプローチは全く異なっていることのあるのを知った。その豊倉の研究アプローチ法を整理して記述し、その具体例を2件示した。その一例は彼が博士論文の研究でオリジナルに行っていた2次核化現象の実験室的研究成果に対して、豊倉はそのテスト結果が装置内現象の推測に適用できるようにするために考案した撹拌流動層を用いて研究すると、そのまま工業装置の検討に適用できる結果を提出出来。合わせて新しい工業晶析装置内の有効核化や結晶成長現象に対する新概念の提出になったこと。もう一例は、欧米の研究者が進めている工業装置の設計法はすべての影響因子を捉えて研究するが、豊倉の方法は支配的に影響する因子に着目してそれが製品結晶に関与する関係を提出し、それらを線図化することによって、企業技術者の抱える多くの問題に対して期待される解答を容易に出せるようにして、産業の発展に貢献している。しかし、全ての問題解決にはまだ超えなければ壁はあり、その研究を続ける必要なあることも指摘している。

5)むすび、
・・・4)の記述では40年前の欧米における工業晶析研究は、欧米の誰も が認める基礎概念をベースにした方法で行われた。それに対して、晶析研究において後発であった豊倉グループは、対象を産業界が当面必要とする事項に限定することによって短期間に素晴らしい成果を出し易く、産業界の発展に貢献するような方法で研究を進め、オリジナルで独自な成果を出した。それは、欧米の研究アプローチ法と異なった方法であり、欧米と異なった成果を短期間の研究で出せるようにしたことが、40年前の日本と欧米の関係を作ってきたと思う。豊倉研究室の研究法はそれを発展させるべく続けており、1975年のISICでは別課題の成果を発表した。12月のHPでは、今回の記事で不十分だった内容は緒言で補足し、さらにそれ以降の活動を紹介する。


・・・・・・・・・・・・・添付資料 「二十一世紀への贈り物 C−PMT 」より・・・・・・・・・・・・


 参考資料1;pp.184~185、E.W.Kratz & O.Fischer著 "The Challenge in Design of Industrial Crystallizers"



参考資料2;pp.194~196, J.Ulrich 著 "A View from the Outside on the Resoarch approach to Professor Toyokura"

なお、この記事中の参照文献は引用番号のみ示しているが、その具体的な表示は上記原本に記されている、。その原本が不明な場合は豊倉までお問い合わせ下さい。

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