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豊倉賢略歴
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2008 A-10,1: 豊倉 賢  「 2008年10月に思うこと 」

1)はじめに
  10年前の10月は、豊倉が早稲田大学を早期に退職した手続きを完了した月で、考えようでは自分の意志で新しい人生を歩み出した時でもあった。早稲田大学の早期選択定年退職制度に従って退職する場合その半年前に大学に申し出る必要があり、この月から豊倉の生活は自分の意志で早稲田大学の歯車から離れ出した。それからは、気分的にそれまでの現職時代と変わって、周囲の人達の盾と力をあてにした活動は出来なくなった。そこでは、それまで一緒に仕事をしてきた人達の中から急に抜け出して迷惑を掛けるような気になって、それを最小限になるよう注意することを真面目に考えた。実際、そのような人達と関連のある仕事をする時、それまでと異なった新しい協力関係を築いて新しい節理ある行動をしなくてはと考えた。このような考えで活動を始めることは、同じ内容の仕事をしても、それまで異なった内容になることもあり、当然異なった成果に繋がることもあり得ると想像し、活力のある時に早く退職することの新しい価値観に向かって活動しようと思った。

  それから10年、長いようで短い期間であった。この間に。行って来たことは、最初の5年間ぐらいとその後に分けて考えられる気がする。

  このように分けると、退職直後の期間は、どちらかと云えば、現職時の後始末に終始したようで、それは、研究途中でしのこした研究の整理をすることと、豊倉が卒業生らと行った研究成果について、関心を持って将来発展させようとする人達に豊倉研究室でオリジナルに研究したことを正しく理解して貰えるように「メッセージ」を残すことであると考えた。具体的には、豊倉が1959年早稲田大学大学院に入学して以降続けた研究活動で経験しことを整理して、これからの晶析工学や晶析技術の発展を目標に研究活動を志す人達に参考になる資料を残すことであった。

  退職直後の上記数年間の活動を将来の発展に繋げるようにするために始めた活動は、早稲田大学を退職して丸5年経過した時に開始した研究室卒業生らとの共通財産であるHPである。その掲載記事は、卒業生の協力を得て既に4年半継続することが出来た。その記事内容は、研究室の卒業生だけでなく、一部の応用化学科教室の先生も御覧になっているようで、さらに卒業生の協力を得ながら発展的に継続しようと考えている。

2)10年前を振り返って :
  豊倉は当初65歳になって公的年金を受給出来るようになる、1998年3月に早稲田大学を退職しようと考えて、自分の都合を調整した。1997年に晶析研究が活発に行われている欧米各国を代表する研究者・技術者を招聘して、早稲田大学で国際晶析会議を開催し、日本の将来の晶析研究・技術を背負うと期待される研究者・技術者を世界の分野を代表する人々に紹介するように準備した。その前年の1996年に豊倉は早稲田大学国内研究員に採択していただき、国内外研究機関等を訪問して晶析研究・技術の討議を行い、豊倉の退職前年に早稲田大学での開催を計画している国際晶析シンポジウムの理解と参加を呼びかける予定にしていた。その時、(公然の非公式に )豊倉研究室の後を引き継ぐことになっていた平沢先生が、1997年度早稲田大学在外研究員に決まり、平沢先生の在外研究員を優先させる方が、豊倉が退職してからの化学工学の体制に好都合との判断で、豊倉の退職年度を1年先送りすることにした。

  丁度早稲田大学で国際晶析シンポジウム準備をしていた頃、中国化学工学会の晶析分野の代表を務めていた天津大学のJ.K.Wang 教授が中国で第1回国際晶析シンポジウムを開催の準備をしていた。その話は、1996年春のACT会場で豊倉がWang教授に会った時に、Larson教授とすでに相談していたようで、Larson教授から、中国が国際晶析シンポジウムの開催を企画しているので、協力しようでないかとの相談を受けた。ここで、Larsonが一番頭を痛めていたのは如何にして中国以外から参加者を集めるかであった。その時、1998年10月に早稲田大学で国際晶析会議を開催することを決めており、日本への欧米からの主な参加者には日本への旅費・滞在費を早稲田大学で支弁することになっているので、日本での開催直後に中国の開催を決めれば日本の会議に参加する人の大部分の人達を誘うことが出来ると話をした。Wang教授はその日の内に中国に電話して、中国での国際会議の開催日を決めたことがあった。その結果、来日した欧米からの参加者の大部分人達が天津での国際晶析シンポジウムに参加して、中国の主催者から感謝された。日本人の中に、日本での国際晶析会議は中国での国際会議と同時期であったので、盛況であったと云っていた人がいたが、その辺の事実を正しく理解して、国際的な行事の開催に種々な工夫をして国際協力を軌道に乗るように平素から心掛けることが必要である。

3)2008年開催のISIC17に参加して :
  今年度のEFCE公認WPC主催のInternational Symposium on Industrial Crystallization がオランダ南部のMaastrichtで開催された。豊倉がDr.J.Nyvltの招きで参加した1972年にPrahaで開催されたISIC5とは全く異なった会議になっていた。当時の会議の様子は「晶析工学の進歩」p.30~36に掲載されているが、その記念写真に30名足らずの人が撮影されたように、会議に参加した人々の数は精々50~60名という感じであった。その様子は、最近の国際会議のように300名を超える参加者が世界中から集まる会議の初期の頃とは想像できないものであったが、国際的に知名度のあった、Prof.LarsonやNyvltなどと誰でも話が出来る雰囲気の漂う会議の空気であった。その後、1977~8年にかけてポーランドのDr.P.Karpinskiが来日したが、それは1975年にUstiで開催された次のISIC6で豊倉が発表した2核化現象の論文がきっかけになったもので、国際会議にどのように取り組むかはその後の研究活動を大きく左右するものであることを知らされた。

  彼が早稲田大学に留学した時大学で行った研究成果は1978年ワルシャワで開催されたISIC7で発表されたが、その論文は1980年8月に豊倉がAachenの大学に招かれて、当時大学院博士課程の学生だったMr. Joachim Ulrichと討議することになった。その時の討議の結果、彼は早稲田大学の豊倉研究室に関心を持ち、フンボルト研究財団の派遣研究員として早稲田大学に1983~4年の1年間留学することになった。このDr.P.Karpinskiは、日本からポーランドに帰国したがその後数年して、Iowa State University のLarson教授に研究員として迎えられた。その後、米国、RochesterのKodak 研究所の研究員を務め、現在は米国のNovartis Pharma.Corp.で研究活動を行っている。前回のISIC16にも参加して論文を発表していたが、今回は論文を発表すると共にSession T6: Product design and characterizationのSession Chairsを務めた。

  一方、Prof.J.Ulrichが早稲田大学で行った研究は、過飽和溶液中で発生する結晶核がその溶液中に懸濁している結晶に付着し、それが、結晶に取り込まれる現象について研究した。その内容はドイツに帰国後1985年にJ.Chem.Eng.Sci;,40,No.7,1245(1985)に”On the problem of the effective secondary nuclei”として発表した。彼は日本から帰国した時、一時Aachenの大学に戻ったが、ほぼ1年くらいでBremenの大学に奉職し、晶析分野の研究を続けた。彼がBremenで研究室を持って数年経った頃、日本の晶析関係者がBremenを訪問しようと伝えた時、彼は、ドイツの研究者を集めるから独日若手研究者・技術者を主な対象にしてWorkshopを開催しようと、BIWICを始めた。それはほぼ3年に2回程度の頻度で続けられており、若手の研究者・技術者の育成に貢献している。今年もISICの前にHalleで開催され、日本からも大勢の研究者・技術者が参加したようである。

4)むすび :
  今年は、9月にISIC17に参加して、30年前の国際会議に較べ、大きく変わった ことをつくづく感じた。20年30年親しく来た参加者はWPCの主要メンバーとして円滑に会議のリード、運営していた。その反面、豊倉知っている参加者は相対的に大幅に少なくなってきたが、かっての研究者・技術者が育ったように、これからも次の時代をリードする人が一人でも多く育つようにお手伝いをしなければと感じている。


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