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豊倉賢略歴
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2008 A-9,1: 豊倉 賢  「 2008年9月に向けて考えること 」

1 )はじめに:
  今年は豊倉が早稲田大学を退職して10年目にあたり、この10年間を振り返ることにした。退職して最初の5年間は現職時の仕事の整理期間になっていたようで、特に豊倉から手伝いを申し出たわけではなかったが、晶析関係の企業から、企業現場で困っている問題の相談を受けた。定年退職者のそのような活動について世間一般の人達はいろいろ意見があると思うが、10年経ってみると自分なりにそのことについての結論が出てきたような気がする。

  豊倉が退職してから5年経った頃には、現職時から続いていた学・協会や企業技術者との晶析研究・技術についての相談は多少少なくなって、退職時に考えていた現職時に出来なかった活動の具体化を図るようになった。2004年初、一部の卒業生と相談して、豊倉研究室の卒業生や晶析研究・技術に関心のある人々とホームページを始めた。このHPの初め3年間の記事は、豊倉研究室で豊倉が行った学生指導と晶析研究・成果の状況およびそれと関連のある晶析研究や技術を発展させるための学会活動・国際交流の経緯を対象にしたものと、研究室卒業生が卒業後に活動した様子等を主にした複数の記事で、それぞれ隔月に分けて掲載した。このHPが丸3年経過した段階から卒業生の枠を広げて、晶析技術等に関心のある人々からの寄稿も受けた。今年度初より、豊倉と卒業生等からの記事は、それまで行った隔月毎の掲載から適宜掲載するようにした。その一方、豊倉はこれまで続けてきた交流の範囲を広げ、定年退職者らしい時間の使い方もするようにして、それまで余り対象にして来なかった物事まで考えて、気楽に人生のホームストレッチを楽しみたいと思うようになっている。

2 )早稲田大学退職後の5年間を振り返って:
  長年勤続していた職場で定年を迎える人は多いと思うが、実際定年を迎えてそれまで行って来た仕事から全く離れてしまうと毎日の時間の過ごし方に困る人がいると云う話を聞くことがある。しかし、豊倉が退職した10年の間では、退職して身をもてあまして困っている人に会ったことはなかった。 おそらく、人は自分の人生を大切に考え、退職する時までに自分の過ごしてきた人生を思い出し、バランスのとれた将来を想定して自分なりに満足できる生活を送っているためと想像している。豊倉が大学定例会議の報告事項で、早稲田大学に選択定年制度が出来るという話を聞いたのは50歳代初めの頃であったと思っている。その話を聞くまで、早稲田大学の定年は70歳でそれまで勤続していると、それから先のことを特に考える必要はないなと云う話を聞いたことがあって、自分もそのように思い何も考えようとしなかった。しかし、現実の話として、定年繰り上げも可能な制度が設けられると云う話を聞くと、その適用を受けるとことの意義とそれを生かして活用するための具体的なことを自分なりに考えた。早稲田大学定年選択制度の適用は、現在60歳から受けることが出来るが、最初に提案された規定では65歳からの適用で、豊倉はその頃65歳で適用受けることを検討した。

  大学研究者(工学部本属として)の大学における任務は、学生を教育することと、新しい工学理論の提出とその発展・展開、およびその適用によって新しい生産技術の構築に貢献するであり、その目的を大学在職中に達成することを可能としている人もいるようですが、豊倉の経験では無理なように思えた。そのため退職後もその活動を発展的に続けることが必要で、退職後暫くの期間はその活動を現職とは異なった立場で行おうと考えた。その具体的なことを十分検討してなかったが、5年くらいが妥当なことと考えて、定年を5年早めることが適切なことでないかと思った。

2・1) 豊倉研究室の研究方針 (・学生対象の研究指導として) 

  1. 勉強と学習: 研究室に配属される大学4年生の中には、既に体系化した工学やその後発表された新しい工学理論を学び、それを使って新しい生産技術の開発を簡便に出来るようになることを主目的と思って研究室に入ってくる学生がいた。特に小・中・高校教育で優秀な成績を修めた学生の中には、大学に進学しても高校教育の延長のように考えて、出来るだけ多くのことを学んで豊富な知識を修得し、その活用に徹しようとした学生がいた。その学生は先生が体系化した講義内容に従って勉強と学習を行い、労なくして多くのことを学び、先生の指導に従って学習を重ね、そのマニュアルにしたがって多くの課題に対する回答を素早く出せることを誇りに思っていた。(この勉強は人によっては良い方法であるが、豊倉の考える高等教育では、進歩の著しい時代に、世の中の激しい変化に耐えて発展を続ける方針を提案できるようなリーダーになれる人の育成であった。)大学受験前の高校教育で修得した知識や勉強法は、西欧先進国で既に開発した生産技術を理解し、それに改良を加えた比較的マイナーな改良技術を短期間に開発することには便利なこともあるが、それは嘗ての日本のように先進国に較べて人件費の安い国では、よい製品を安価に市場に供給して社会の発展に貢献した。しかし、これからの日本を考えた時、既存の理論・技術を使用して開発した新製品のみで、新時代の産業立国は出来ないと考え、早稲田大学豊倉研究室では、高度にオリジナルな理論・技術を創成出来る大学教育を行うよう心掛けた。
  2. 新しい理論の創成: 豊倉が学部低学年の学生相手に学習指導をした時、「日本の受験予備校の理数系先生の中に”根本的な理論や奇弁を労したような素晴らしい問題の解き方は、ずば抜けて頭脳の持ち主が神様から授かったもので、受験生はそれに拘っていると問題が解けるようになるまでに時間がかかって進まないから、その理論・方法は鵜呑みにするのがよい。” と教えられて実行している」と云った学生がいた。最近の予備校の先生や親の中には自分の関係する生徒の試験の点数が良くなることを考え、試験の成績が上がることと学力を付けることを同じであると考えてる人がいると知った。豊倉の現職時代に実験結果を討議した学部学生の中に、実験データを整理するのに、その実験と関連のありそうな数種類の関係式を持ち出して、それらの式に実験データを機械的に当てはめて整理し、最も良く相関されたものを選び出してレポートを書いても、なぜそれを選んだかその理由を全く理論的に詰めようとしない学生がいるのに驚いたことがあった。

  既成の理論を勉強し、それを良く理解するために学習することは必要だが、早稲田大学を卒業する学生はこれまでに提出された理論で満足な説明の出来ない課題に直面した時 (作った問題はこれまでの理論で説明出来るように作成されてるが、自然界で起こっている多くの現象は、これまでの理論で精密に正しく説明出来ないことがしばしばある。)その理由をよく考え、自分が取り組んでいる現象を解明できる理論を提出して、その課題を解決しようとする学生を育てることが大学教育と考えて学生指導をした。豊倉研究室の学生指導では、時には研究室で提出した工学理論を例示しながら学生と一緒に研究を進めたこともあった。そこでは、研究対象現象を解明のために慎重に観察し、それがどのように変化していくか実験条件を適宜変化させながら繰り返して考え、その現象変化に対する操作因子の関与を定量的に表示しやすいモデルを想定した。ここで想定したモデルが装置内の現象を正しく表示してるか否かを確認することは、特に重要で、そのために種々の異なる条件下の確認実験を繰り返しながらデータを実測してモデルの妥当性を確認した。モデルの確認が進んだところで実験条件と実験結果を表す理論式を提出した。その段階で、提出された理論や関係式がどのような工学上の問題解決に貢献するかを考えて、その関係式の表示形態も、工学上の問題解決に適用しやすいように務めた。特に化学工学で対象にする研究では、小型実験装置で取得したデータを使用して大型工業装置・操作の設計に適用し、生産コストの低減に貢献することも大切で、時には無次元項で種々の因子を表示することも重要であった。

2・2) 豊倉研究室の主要研究課題とその産業界の適用に対するアフターケヤー 
  豊倉研究室の主要研究課題は、化学工学における主要単位操作の一つである晶析装置設計理論の提出とそれを使って晶析プロセスの開発であった。その内容については、近い将来、本ホームページに掲載する予定であるが、ここでは産業界の企業技術者との協力関係等について紹介する。

  豊倉は早稲田大学大学院在学当時、城塚先生のご指導を頂いたが、前期課程は結晶成長速度についての研究を中心に行った。修士課程修了後の博士課程においては、化学工学単位操作で後発だった晶析操作の遅れを挽回すべく、未だ定かでなかった晶析装置設計理論体系の確立を、豊倉の博士課程研究の大きな目標にするようご指導受けた。幸い、博士過程3年目の春、CFC因子を提出することが出来、年度末までにCFC因子をベースにした連続晶析装置設計理論の提出を行うことが出来た。当時の化学産業では、晶析装置の建設に対する関心が高く、学会の講演会や街の講習会屋等から一年間に数回の頻度で晶析装置設計に関する講演依頼を受けた。また化学工学協会の会誌「化学工学」や化学工学系の専門業界誌 「ケミカルエンジニヤリング」その他の専門雑誌からも晶析装置設計に関する記事連載や特集の寄稿依頼を受けた。そのためか国内数社の晶析担当技術者から晶析装置設計や晶析操作法に対する相談を受け、工業晶析についての経験を積むことが出来た。大学院博士課程修了後の1966年12月には、米国TVA公社肥料総合研究所から招聘を受けて当時同研究所プロジェクト研究であった省硫黄燐酸生産プロセスにおける燐硝安生産プロセス中の燐酸カルシューム4水塩生産晶析プロセスの開発研究を行った。この渡米でも、豊倉が早稲田大学で、研究し提出したCFC連続晶析装置設計理論を適用して研究を進めた。当時の米国TVA研究所は新肥料開発研究の世界のメッカであって、アメリカ国内はもとより、共産圏を除く全世界の肥料関係者の訪問がしばしばあって、全世界の晶析研究者や技術者と知人になることも出来た。ここからの帰国時にロンドン大学UCLを訪問して、Mullin 研究室でJ.Nyvltに会えたことは、日本の晶析研究グループと欧米の晶析関係研究者・技術者との間の長期に亘る深い信頼関係の構築に貢献した。

  豊倉が1959年早稲田大学大学院に進学して以降1972年に初めてプラハで開催された世界規模の晶析国際会議まで13年間に、早稲田大学の晶析研究組織は世界に認知されるようになって、日本の晶析研究・晶析技術の発展に貢献した。

2・3 ) 1959年~1999年の晶析研究成果のその後の展開 
  豊倉研究室の研究活動成果は2・1)および2・2)に纏めたように、研究室で作り上げた研究哲学に基づいて築き上げられたものであり、それが本物になるためには早稲田大学豊倉研究室を離れて一人歩き出来るようになることが重要であると考えていた。豊倉が早稲田大学を退職してからも、一部の卒業生とは豊倉の早稲田大学在職時と同様、種々のことについて討議を続けたが、多くの卒業生は日常の本務に追われていたようで、豊倉と意見の交換をする時間を作ることは容易でなかった。それに対して、2・2 )に関するような晶析関係の仕事を行っていた人達とは豊倉の退職後も現職時に大学の研究室に来ていたように、豊倉の自宅に出張してきて、晶析研究や技術のことについて種々討議を行って工業晶析装置・操作の開発を続けた。そのような討議は豊倉が現職時に研究する時間がなくてそのままにしてきた晶析研究を続ける機会となり、豊倉も晶析工学・技術の発展に参画するようになっている。

3 ) 豊倉退職後5 ~ 10年の活動を振り返って:
  この期間は早稲田大学に在職当時考えていた卒業生等との交流の場としてのHPを立ち上げた。その経緯は本稿の1)はじめににも記述したが、兎に角最初の3年間は方針を変更することなく続けて実績を作ろうと思って進め、卒業生から100件近い記事の寄稿を受けた。その内容は、卒業生の最近の家庭の様子、本務での活躍状況、定年を迎えた古い卒業生からは第2の人生における新しい生活などであって、豊倉は、寄稿した卒業生が研究室で活躍した頃と最近の様子を重ねて思い出し、感無量であった。最近の卒業生は海外で活躍する人が多くなり、異国文化の中で、所属する日本企業を代表して活躍している様子も事細かく読むことが出来た。それを読むと、1967~8年頃の豊倉のアメリカ生活を思い出し、当時海外で活躍していた日本人が皆偉くなっていることと較べ、将来の卒業生の姿を想像して悦に入っていた。また、卒業生の中には、研究室時代を思い出しその頃豊倉が良く学生に話した「オリジナルな思想に基づく判断と活動の重要さ、他人の信頼を受ける正直で思いやりと責任のある行動の意義」など、卒業してから経験したことで、後輩に伝えたいことなど沢山寄稿して来た。豊倉の記事では、研究室で一緒に行った研究成果に対する外からの評価、また、オリジナルな考えを提出した時の経緯、卒業生が分担した研究成果に対する貢献の紹介。その他卒業生などに伝えておきたいことなど、思い出すままに記述した。掲載した記事に対して、卒業生のみでなく応用化学科工業化学の先生の中にも読んだことのある先生がいて、わざわざ感想を伝えて呉れたこともあった。また、晶析に余り関係ない人も読んでいるようで、これからも卒業生や晶析に関心のある人からの寄稿を継続してお願いしようと思っている。

4 ) むすび・・・これからの活動:
  豊倉は今年でほぼ3/4世紀を生きていたことになった。今のところ健康上特に問題はないが、喜寿に近づいて来ると還暦の頃とは種々のことで違いに気付くようになっていて、余りぼけない内に纏めておかねばならないことは、HPを使って済まさなければと考えいる。今年は9月に計画しているヨーロッパ旅行で、自分の体力を確認するために Schwarzsee(2552)からHoernlihuette(3272)まで歩いてくる予定にしている。残り短くなって来た人生、人に迷惑を掛けないようにして健康を維持するように心掛けて有効に生きたいと思っている。


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