「 パーソナル・ヒストリーと豊倉先生との出会い 」
はじめに
豊倉先生とのお付き合いはかれこれ20年ほどになります。この度、卒業生の交流の場として先生が立ち上げられたホームページに卒業生でもない私がお誘いを受け、雑文を書く破目となりました。梅田望夫の「ウェブ時代をゆく−いかに働き、いかに学ぶか」を読み、共感を持ちましたので、パーソナル・ヒストリーを書き、その中で豊倉先生との出会いがあり、どのようにして今日に至っているかを書くことで責を果たそうと思います。
パーソナル・ヒストリー
人生にはいろいろな岐路があり、今の時代では自分の意志で進む道を選び開拓できる自由度が広がっていますが、私が歩んできた時代には、与えられて引かれた路線の上をいやいや歩むか、前向きに歩むかのいずれかでした。
地方大学の農学部農芸化学科で応用微生物を専攻し、1963年に卒業して就職したのは日本専売公社(現在日本たばこ産業株式会社)でした。1ヶ月の導入研修後に配属されたのは中央研究所の塩部門でしたので、「どうして?」と思いましたが、新たな研究対象に取り組むしかなく、握り拳ほどの小さな電気透析装置を使ってイオン交換膜のカリウムとナトリウムの選択透過性を調べる仕事を与えられました。
しかし、翌年2月には山口県の防府市にあった製塩試験場に転勤になりました。当時から塩の専売制度は遠からず廃止になることが噂されており、現地の職員には「どうしてこんな所に来たの」と言われました。独身の若者は一人もおらず、独身寮に一人居て欝然とした気持ちから、これから先どうなるのだろうか、何をすれば良いのだろうかと思い悩んだ時期がありました。そこでは大きな装置を使い、新たな技術であるガスハイドレート法(包接化合物)による海水濃縮と淡水化の実用化を図る研究に携わりました。9年間の在職中、一時的にかん水のせんごう(煮詰め)を担当する研究班に移りましたが、気液直接接触による伝熱係数の測定から始まり、10 m3の育晶槽を持つパイロット・プラントの建設・運転・改修で、スクラップ・アンド・ビルドの連続でした。初めて聞く材料、道具、言葉を勉強し、海外の文献を読んで、自分の研究を評価する仕事でしたが、ここでプラントの建設、化学工学を学ぶことができました。この技術開発では小さなエネルギーで固液を分離することと高価なハイドレート剤の回収が鍵となり、実用化の見通しは得られませんでした。
塩業の合理化に伴う試験場の閉鎖で転勤先と研究分野の希望を聞かれましたが叶えられず、小田原市にある製塩試験場(現在塩事業センター海水総合研究所)に配属されました。当然研究内容も変り、ここで与えられた課題は膨化剤回収装置の設計根基となるデータを取ることでした。膨化剤とは乾燥葉タバコの組織を膨らませる薬剤で、ガスハイドレート剤の一種でしたので、前の仕事と関係がなかったわけではありませんでした。葉タバコを膨化させる技術はアメリカから導入し、膨化剤の回収装置は付属しておりましたが、膨化工程から漏れる希薄な薬剤を回収する必要がありました。空気中の膨化剤を活性炭で吸着し、水蒸気で脱着し、冷却液化させて再使用します。設計データを化学装置メーカーに提供し、それに基づいて建設された装置の性能試験をしましたが、最初、液化の段階に問題があり、回収できませんでした。その理由は設計段階から分かっていました(設計者との打合せで上手く行かないことを主張したのですが、職場の上司に抑えられてしまいました)ので、改良して目的を達成することができました。
この研究は2年間位でしたが、その後にはタンク培養でタバコ細胞を育て、タバコの素材を得るカルス培養技術を実用化する課題が与えられました。大学卒業後10年以上経ってから微生物を取り扱う仕事に携わることになりました。微生物汚染に対しては無菌箱内で三角フランスの口やシャーレの取り扱いだけに気を配っておれば良かったのですが、培養装置になりますと、継ぎ手部分だけでも百ヶ所以上あり、装置の殺菌・操作・取り扱いで汚染の危険は至る所にあります。中央研究所で2 m3タンクまでの回分培養技術が確立されており、小田原では20m3タンクで連続培養技術を確立することでした。数億円単位の装置で設計段階から携わり、オイルショックの時代でしたので機器購入の見積もり有効期間も短く、極端な場合には時価といったこともありました。工事監督では絶えず汚染原因の排除に気を付けました。世界に前例のない技術で、細菌汚染により1夜で培養液が変色し、失敗することが度々でした。汚染原因が明らかになれば安心して再試験できますが、原因が判らない場合が多く、考えられる限りの手段を講じて不安を持ちながら再試験に臨まなければなりませんでした。最終的に20m3タンクで60日間の半連続培養(連続給液、連続取出しでは設備が小さいことと培養物の処理が大変)に成功しました。しかし、得られたタバコ細胞の利用技術が確立されなかったことと、培養の炭素源に蔗糖を使うことでコスト高になり、実用化には至りませんでした。この研究では生物化学工学を勉強することができました。この成果を国際植物組織培養会議で発表することになったのは良いのですが、会場は山中湖湖畔の山上にあるホテルマウント富士で、海外には行かれず何とも恨めしい感じでした。この件では本社に転勤になり塩の仕事をしていて、忘れた頃になってからシュプリンガ・フェルラークから植物組織培養の書籍を出版するので書かないかとの勧誘がありました。今さら英語で書くのも億劫だなーと思いましたが、この研究は丸秘にされてきて、日本発酵工学会誌に1報発表しただけでしたので、専売公社が行った開発事績を残しておきたいと思い、引き受けたという苦い思い出があります。
さて、カルス培養技術は日の目を見ませんでしたが、この設備の中で2 m3のタンクを使い、乾燥葉タバコの熟成を促進させる細菌の培養とその凍結保存や凍結乾燥技術の開発に研究は移りました。培養は1夜で終わり簡単なのですが、この細菌は胞子を形成し、葉タバコの熟成効果を発揮するのは形成し始めの段階でしたので、菌体の収穫時期の判断と短時間で分離・凍結処理できる機器を選定することが重要で、いろいろな機器の特性を学ぶことができました。この技術は実用化され、香料会社に技術移転されました。
次に、やはり2m3のタンクを用いて糸状菌を培養し、糸状菌がペレットを形成した段階でタバコの香料となる原料を投入して香料に変える微生物転換技術を確立する研究を与えられました。微生物利用の技術は三角フラスコ・レベルまでは中央研究所で開発され、小田原は大型装置で実用化を図る技術の確立が役割でした。しかし、規模拡大すると処理時間が大きな問題となってきます。その他にこの技術には非常に難しい要素がいくつもありました。ある大きさのきれいなペレットを形成させること。培養時間が長く、適正に転換された段階の菌体取り出し時期を判断すること。培養時間を制御できないこと。香料の原料となる物質の品質が製造ロットにより違い、できる香料の品質がそれに左右されること。などで良い品質の香料を得るために、ガスクロによる分析で取り出し時期を判断しなければならず、作業が深夜に及ぶこともたびたびでした。この技術も先の香料会社に移転することになっておりましたが、その前に私は塩の研究に戻されてしまいました。
今さら塩の研究に戻されても、人・物・金が豊富にある訳でもなく、遠からず塩専売制度は廃止されることは分かっているので、何をする気にもなりませんでした。翌年には本社の先輩がタイで天日塩製造の技術指導に行く際に連れて行ってくれました。初めての海外出張で天日製塩なるものを理解することができました。帰るとすぐさま本社に転勤になりました。タイへ連れて行ってくれた人のところです。この時、タイへ鞄持ちで連れて行ったのは布石だったと覚りました。副本部長に呼ばれ、「こと塩技術に関する限り、国内では今の部署が最高部位で、何かあれば全て対応しなければならない。試験研究機関では研究のことだけを考えておれば良かった人に来てもらってすまないが、ここの立場は今言ったようなことなので、よろしく頼む。」と言われました。なるほど、国会開催中に議員から塩の問題を尋ねられると副本部長が応えるのですが、その回答案を作成するために質問が来るまで待機しなければなりませんでした。幸い質問はなく12時過ぎてからホテルを探して泊まったことがありました。副本部長に言われても、何をどうして良いか、まったく見当が付きませんでした。上司からは特にどうしろとの指示はなく、どうして塩の技術が衰退してしまったのか、この先どうすればよいのか、といったことを潜在的に考えながら、これまで生産者側に向いていた技術行政を続けながら幾分かでも販売者・消費者側に向けて技術情報を流して行くことにしました。折りしも塩が悪者にされ、なぜ悪者にされなければならないのか、その理由が分からず、尋ねられると答えようがなかったので、副本部長の訓話もあり、懸命に専門の医学雑誌の論文を読みました。それと、当時、専売制度廃止のために塩業の自立化が声高に叫ばれておりましたが、海外の塩生産会社がどれくらいの力を持っているのか、皆目情報の収集をする気配がありませんでしたので、極力情報を集めて国内の生産会社にそれを流しました。
そのうち、1985年に日本専売公社から日本たばこ産業株式会社に民営化されました。何時までも民間会社が専売権を持って塩事業を続けられないので、今後、塩専売制度をどうするかについて社長は塩業審議会に諮りました。この機会に副本部長(前の人ではなく、後にソルト・サイエンス研究財団の理事長になった人です)に今後の塩技術行政をどうするかについて日頃考えていたことを話し、答申をまとめる際に、答申案の中に技術に対する取組みの考え方を盛り込んでもらいました。その結果、具体的には応用・実用化研究を担う機関として海水総合研究所の設置、塩に関する様々な分野の基礎研究を促進する研究助成機関としてソルト・サイエンス研究財団を設立することになりました。
当時、海外から塩の国際シンポジウムを日本で開催することを打診されていた副本部長は研究財団の設立に伴って引き受けることに決め、その仕事を私に命令しました。もちろん、引き受ける前に私に打診されましたが、とんでもない、私にそんな才覚があるわけではなし、とても出来ないと断りました。それで話がついたと思っていたところ、オランダから塩会社の役員が副本部長のもとへ開催要請に来て、私はその場に呼ばれ、引き受ける方向で検討するようにと、業務命令を出されてしまったのです。さて、どのように運営してよいのやら見当もつかない中で、とにかく研究財団が主催することとし、塩技術調査室の中に事務局を作り、私が事務局長となって、これまで行ってきたアメリカの機関と打ち合わせながら組織作りを始めました。人手もないことからプログラム委員長としても切り回すことになり、桜の満開時期に京都の宝ヶ池にある国際会議場で、特に海外の参加者から喜ばれて成功裏に終えることができました。この後、1年間でオランダのエルゼビア出版社から2分冊のプロシーディングス(
http://www.saltinstitute.org/symposia.html)を編集出版しました。この時、発表者の原稿を集め、査読者に渡し、著者との修正交渉をし、エルゼビアの編集担当者との打ち合わせ再修正を伝えると言った面倒な仕事をこなしました。この時、エルゼビア担当者の語彙の豊富さ、簡潔・適切な表現能力による修正に感心し、非常によい勉強になりました。この仕事で海外の塩関係者のトップと懇意になり、海外出張の折に、製塩工場、天日塩田、岩塩鉱山、博物館などを見ることができたことは望外の収穫でした。
プロシーディングスを出版してから短期間でしたが海水総合研究所に転勤になり、先々の方向付けをする前に再び本社に戻されて、情報収集・整理・配布の仕事をすることとなりました。そのうち退職に時期となり、在職中に設立したソルト・サイエンス研究財団に奉職することになりました。そこを退職する前に先輩からの引継ぎとして大学の非常勤講師を引き受け、現在でもこの仕事を続ける傍らで塩に関する情報を流して社会貢献を果たすためにホームページを立ち上げ、毎月の始めに記事の追加更新をしています。塩に関心のある方は
http://www.geocities.jp/t_hashimotoodawara/を見て下さい。
以上が勤務生活で歩んできた道でした。振り返ると、勤務先の要請にしたがって仕事の内容がドラスチックに変り、得がたいさまざまな経験、勉強をしてきました。通常、退職すると何もすることがなく漫然と過ごしますが、非常勤講師を続けられ、生活に密着した塩に関する情報を提供できるのは幸運なことです。何を今さらと塩の世界に戻されたことを不満に思いながらも、何が問題で、どうすれば良いかを考え仕事をしているうちに世の中が変って新しい展開ができるようになったとき、対応できる材料を持ち、方法を身に付けていたことが幸いしました。冒頭で述べた梅田氏は著書の中で、ウェブ社会では自助の精神が必要であることを強調しています。これはどのような社会であろうと必要なことですが、読んで強く印象に残りましたのでパーソナル・ヒストリーを書いてみました。
豊倉先生との出会いとお付き合い
豊倉先生との出会いは日本海水学会の研究会活動の場でした。このサイトで2007年6月に田中さんがお世話をして設立した「海水利用工学研究会」のことが書かれています。当時、私は本社の塩技術調査室にいて塩生産会社に対する技術行政を行っていました。塩専売事業本部としては塩業の自立化を図るために塩の生産コスト低減に向けた施策を実行していました。生産コストを下げるためにはせんごう工程の生産性を向上させることが必要です。塩生産会社、装置製作会社、日本たばこ各社の塩技術者が集まり、豊倉先生の指導の下で真空式蒸発缶運転時のデータ収集を始め、その解析の手ほどきを受け、改善策を立てて試行し、その成果を発表する検討会を開催するなど、実務を通して技術の向上を目指す晶析に関する研究会を始めました。ある時には先生の別荘に近い施設に泊り込んで活動したこともありました。私は毎回研究会に出席するわけではありませんでしたが、この時には参加し、林間にある別荘で酒を飲みながら歓談した思い出があります。熱心な先生のご指導は業界でも評判で、その後、長くご指導頂くことになりました。
塩の国際シンポジウムの開催では、様々な発表分野がありました。各分野に日本、アメリカ、ヨーロッパから一人ずつ選んだ3人のセクション・マネージャーを配置し、その分野の運営を切り回してもらうこととしました。豊倉先生には晶析関係を担当していただき、プロシーディングスの編集者にも名を連ねて頂きました。シンポジウムが終わってからの座談会記事(
http://www.geocities.jp/t_hashimotoodawara/salt7/salt7-sale-92-13.html)に豊倉先生が果たされた役割が掲載されております。
ソルト・サイエンス研究財団の発足当時に助成研究の中で日本海水学会の研究会活動を支援する目的もあって、豊倉先生がリーダーになってプロジェクト研究「塩化ナトリウム結晶生成のための最適連続晶析装置・操作の基礎的研究」を3年間にわたって進めました。この成果は製塩企業で実際に生産性が向上したことに現れております。私が研究財団に奉職してからも、中断していたプロジェクト研究の再開で「食塩晶析工程の高効率化」を始め、3年間進めて頂きました。(
http://www.saltscience.or.jp/kenkyu/jyoseilist/project.htmlを参照)この中では6人の先生方に助成しており年2回程度、研究の進展状況を発表しあって、質疑応答による盛んな論議のあと、先生からのコメントで研究の方向付けがされ、さらに研究が進められました。先生の懇切丁寧なる指導でプロジェクト研究の成果がまとめられ、設備更新時にそれが生かされることが期待されます。
私が財団在職中に研究運営審議会委員長としても何かと相談に乗って頂きました。例えば、プロジェクト研究再開、助成分野間の研究助成費配分、助成額といった重要な諸問題の解決、現在も毎年、早稲田大学の国際会議場で財団が主催するシンポジウムを開催しておりますが、(
http://www.saltscience.or.jp/event/saltscience-simposium/simpo-index.htm)会場を借用するにつけて先生にお世話になりました。
豊倉先生が日本海水学会の会長をされた時期に私は副会長の1人として学会の運営に携わりました。少ない会員数と比較して評議員・役員が多く、理事会開催にも問題がありましたので、会長の意向を受け、幹部の人数・組織を整理し改革することになりました。そのための委員会を作り、委員長として改革案とそれに伴う会則・規約の変更案を取りまとめ総会で承認してもらいました。この間、先生のよろしき指導を得て順調に遂行できたことは幸いでした。
その他にもいろいろな場面でご指導を頂きましたが、財団を退職してからの先生との交流の場は年1回行われる財団の研究発表くらいです。このサイトを通じて卒業生の交流がますます広がるように祈念しております。
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