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豊倉賢略歴
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2007 A-1,3-3 「 平田彰先生の思い出 」秋谷 鷹二 1972年大学院修士課程修了  (工学修士)
              (財)造水促進センター 常務理事


 化学工学会からのメールが転送され、平田先生の訃報を知りました。先生のご冥福を深くお祈り申し上げます。

 告別式で久しぶりにお会いした豊倉先生より、平田先生の思い出について何か書くようにとのありがたいお言葉をいただきましたので、学生時代の思いでを以下に記しました。

 早稲田大学の応用化学科に進学し、毎日講義を受けていた日々を思い出しております。平田先生の講義で一番の思いでは、「プロセス設計」だったでしょうか? 夏休みの宿題で蒸留等の設計演習がありました。先生からは、化学工学便覧を利用するようにとの指示をいただいたと思いますが、小生には便覧だけでは無理で、その他に数冊の参考書を購入し、汗にまみれ計算尺を駆使(?)し、結構部厚なレポートを提出しました。これで、俺も、蒸留等の設計ができると秘かに自惚れておりました。この自信は、すぐに壊れましたが。同期の友人達が就職し、新人研修におけるプロセス設計の現状を詳細に聞かされた結果でした。やはり、現実は厳しいとつくづく実感しました。

 そんなこんなで、ようやく昭和44年に研究室に配属となりました。卒業研究として同期の藤原君、丹羽君と小生に対して複数のテーマが提示され、各自で選ぶようにとの指示がありました。当時から平田先生は「異相系接触操作における移動現象論」が主たるフィールドであったと理解しておりましたが、その観点から提示されたテーマは高度な数学的素養が必須との印象でした。そこで、テーマの具体的な内容の紹介で、これは装置設計の基礎研究であり、この卒論の成果を基にして実装置の設計を可能とする課題であると説明された「液−液抽出操作におけるミキサセトラの研究」を迷いも無く選択しました。装置設計の研究であれば、数学的素養も期待されないのではとの甘い期待、きちんとまとめれば装置に係わる特許の申請も可能であり、特許が売れれば、多大な収入も有りそうだというのも秘かな動機でした。しかしながら、やはり研究というものは、そんな簡単なものでは無いことにすぐに気がつきました。ミキサセトラは抽出装置としては、最も基礎的な装置だと思います。前段であるミキサつまり攪拌槽で抽出操作を行い、後段のセトラつまり抽剤の分離槽からなっております。ミキサについてはすでに十分な基礎研究が有りましたが、セトラについては残念ながら研究例は少なかったと思います。セトラ内では連続相中に微細な液滴として分散された分散相を如何に効率良く分離するかというのがターゲットです。分散液滴が凝集していく過程を合一と称しますが、この合一を決めるのが液滴間に存在する連続相の排出速度です。従って、本来卒業研究のターゲットは、この液滴間の連続相の排出に係わるモデルを提出し、その輸送方程式を解くというものだったと思います。これが、平田先生のライフワークである「異相系接触操作における移動現象論」の実装置設計への展開であったと思います。不肖の弟子である、小生としては、先生が志向された様な数学的な取り扱いは気がつかず、合一現象係わる文献を読みながら、こんな研究で実装置が設計できるのだろうとうそぶいていたというのが当時の実態でした。しかしながら、これでは卒業研究にはなりませんので、若干の方針を転換し、分散している液滴の合一速度を測ろうと考え、水相中に有機液滴を送入し、有機液と水との界面における液滴の界面への合一速度を測定する事にしました。

 平田先生の学生指導の方針は、基本的には学生の自主性に任せる。しかしながら、見るべきところはきちんと見るということで、週報の作成を指示されました。毎週、この週報に基づいて実験の進み方、今後の方針をディスカッションするというスタイルです。告別式でもご紹介された様に、先生のご指導は丁寧でした。同時に厳しいものがあったのも現実です。小生などは、そもそも合一現象への理解が不足している、また数学的素養も無いという学生でしたから、平田先生のご指導について行くのは、なかなか厳しいものがありました。当時は、それほど気にすることも無く、先生のご指導をありがたく頂戴しておりましたが、ある時、先輩が小生へ、「あそこまで言われなくても良かったよな」と一言漏らされた事がありました。昔から、先生は本当に教育熱心だったと今更実感しております。そのおかげも有りまして、60才の還暦を迎えるまで、たいしたトラブルも無く、仕事に従事できていると、改めて先生のご指導に感謝申し上げる次第です。

 当時は、日米安全保障条約の更新時でもあり、また、早稲田大学としては学費値上げに係わる学生運動の名残もあり、全学的に学生運動が盛んになっておりました。理工学部としては、他の大学にも珍しがられるほど、学生運動が盛んとなり、学生ストライキとして授業が中止となりました。それでも六大学野球には十分に楽しませてもらいました。

 また、ストライキの為、卒業研究ができなく、自宅待機という事になりましたので、これを機会に公務員試験に挑戦し、結果的に、これが小生の生涯を決めることになったのも良い思い出となりました。

 先生は会津のご出身とのことでお酒も強く、またお酒を楽しむことも上手とうかがっておりましたが、残念ながら、研究室時代に先生とご一緒させていただいたとの記憶は残っておりません。先輩からは、宴たけなわになると襖をはずし、それを横にする。そして、その襖の蔭で上半身を肌脱ぎにし、たばこの煙をたなびかせて、まさに温泉を楽しんでいる様子を見せるという芸を紹介するとの楽しい話しを聞いた事があります。もっとご一緒できていればと残念です。

 とりとめの無いことを書きました。卒業後も長い時間が過ぎて記憶も乏しくなっているようです。化学工学コースには、酒井教授がお元気で研究活動をリードしておられます。また中堅としての平沢教授や常田教授が精力的に研究活動あるいは学生指導に力を尽くしております。小生も仕事柄、折々ご指導をいただきに研究室をおたずねしております。次回に研究室をおたずねする際には、在席時代にご指導をいただいた研究室を再確認し、先生のご恩を忍びたいと思います。

 最後になりますが、先生のご冥福と残された奥さまの今後のご健康を心よりお祈り申し上げます。

                                    合 掌

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