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豊倉賢略歴
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2007 A-1,3-1 「 故平田彰先生の思い出 」     豊倉 賢

 
  平田君に初めて会ったのは昭和28年8月会津若松であった。それから50余年の人生で最も長い時間共に過ごした友人であった。ここでそのフィルムを最初から映写し直してみる。

1)昭和28年夏の奇遇な出会い:
早稲田大学に入学した年の8月であった。豊倉は、クラスの友人3人と裏磐梯檜原 湖畔のキャンプ場でテント暮らしを楽しんでいた? その頃偶々台風が日本列島に近付いていたが、台風シーズン前のことで余り気にしないで予定を強行して大雨に遭遇してしまった。一晩中寝ることも出来ず、ずぶぬれになって翌朝急遽予定を変更し、郡山の友人の家に疲れ切って帰った。その晩は友人のお母様の手作り料理をたらふく食べ、一晩寝たらすっかり元気になった。翌朝は台風のことなど忘れて、これからどうするかけんけんがくがくの口論を始めた。その時、東京から参加した友人の一人が、5月に開催された早稲田応用化学会の新入生歓迎会に、今年数学科に入学したが直ぐ応用化学科に転科した新入生がいて、彼の名は平田と言って、「会津若山東山温泉の向滝旅館の息子で、近所に来ることがあったら寄れ」と云っていたことを思い出した。すると、実家郡山の友人から、向滝旅館は福島県では誰でも知っている一流旅館で、とても近寄ることの出来ない高級温泉旅館と言う説明が加えられると、直ぐ彼に電話しようと云うことになった。

  会津若松駅に汽車が着くと平田君は迎えに来ていて、市内にある立派な邸宅に案内された。大切な息子の友人ということで、丁重な応対を受け、内心期待して若松の乗り込んだのだが、いざ、現実になるとそんなにしてもらって良いのかとお互いに顔を見合わせながら、云われるままにおもてなしを受けた。当日はお盆の最終日で、東山温泉は盆踊りで賑合うから是非それを見て行けということになって、夕刻車で東山温泉に向かった。

  車が山に入りかかると涼しさを告げる急流の音が聞こえて来て、その川の対岸に山の傾斜を生かして建てられた立派な山城のような旅館が見えきた。車はそのまま川を渡ってその旅館の玄関前に着いた。 云われるままに中に入って2階の舞台付きの大広間に入ると、その部屋から眼下に川の両岸に提灯で飾られた盆踊りの舞台が見え、「会津磐梯山は・・・ 」と云う歌声が自然に入ってきた。そこで一休みして平田君から盆踊りの話などを聞いていると、平田君の知っていた芸者のお姉さんが傍を忙しそうに通った。その人を見ると彼は早速言葉をかけて、私達のためにこの歌に合わせた盆踊りの踊り方を教えるように頼んでくれた。彼女は仕事の始まるチョット前の時間だったためか、気持ちよく引き受けてくれて、直に戻って教えてくれた。こうなると、盆踊りが始まったら学習効果を発揮しようと、平田君を先生に4人で猛?訓練を始めて、盛り上がって本番に備えた。暗くなるとどこからともなく浴衣姿の大勢の人が集まって、向滝旅館前の滝のように見える急流の両岸の道と2本の橋で囲んだ大きな長方形の盆お踊りの輪ができた。その輪を2階から見ると、平田君を追い立てて輪の中に入っていった。

  その日は、思いもかけない経験をしたが、満室でどうしても旅館の部屋を取ることは出来ないので、今夜は会津若松市の自宅に泊まって、明日晩東山に来て向滝に泊まってくれと云われて、厚かましく云われるままにまた東山に向かった。この旅行は豊倉にとっては、初めての東北旅行であって、別世界を見るような気がしたが、これが、50年間お付き合いした平田先生との初めての出会いであったことを思い出すと感無量である。

  当時の応用化学科の学部一年の授業は、教養課程の化学の講義はなく、その時間に、専門必修としての応用化学科基礎3科目を受講する変則的な科目編成だったので、転科しても1学年最初の科目登録の時に年度を越えた綿密な計画を練って登録しないと絶対4年間で卒業必要単位を履修することは出来ないようになっていた。平田君は転科当初その詳細な説明は事務所から受けていなかったようで、理工学部を5年かけて卒業すればよいと考えていた。そこで、1学年の授業は数学科対象に時間編成されてる教養科目を選択すれば、数学科の中に大勢の友人が出来る。応用化学科の専門科目中心授業を翌年度入学の学生と一緒に受講すれば、応用化学科内に2学年に亘って親しい友人が出来、そのことは自分の一生を考えると計り知れない財産だと云って自分の学生生活を大切にしていた。そのためか、授業を通して親しくなった応用化学科の友人は昭和29年度入学の学生で多いように見えた。その一方、28年度学生のクラス行事には必ず出席していて、このクラスにも気心の通じ合った友人を多数持っていた。このような学生生活を送っていた平田君を見ると何とスケールの大きい人物だなと思えた。昭和57年〜58年の一年間フンボルト派遣ポスドク研究員として豊倉研究室に留学していたドイツの若手研究者に、豊倉研究室の学生がドイツでは何年で博士号を取得できるかと質問した時、彼は、「ドイツでは最短4年で博士号を取得することは出来る。しかし、それは必ずしも良いことではなく、5〜6年かけて取得することが最適である。それは、正規の学習の他に、それを有効に活用して大きな成果を上げるために必要な(それにプラスする)学習と経験を合わせ備えるようにすることが大学生時代に大切だからであると」話していた。この話を学生の傍で聞いた時、平田君は学部学生時代にその考えに通じることを実行していたと思った。

2)早稲田大学大学院でお世話になった平田さん:
  豊倉は、家の事情で学部卒業後家業を継いでいたが、昭和34年4月早稲田大学大学院化学工学専修に進学することを考えて、城塚正先生をお尋ねした。その時、城塚先生から色々お話を伺ったが、その中で一番嬉しかったのは6年前に会津若山でお世話になった平田さんが、城塚研究室修士課程1年次生として在籍していたことであった。平田さんは卒業論文を城塚研究室で纏め、その経験を生かして大学院に進学して、修士課程学生として超音速流体中の諸移動現象の解明を目指して研究を進めており、その実験装置も城塚先生のご指導下で自分で設計・注文して、その組み立て段階に入っていたようだった。その上、大学院生として、研究室配属の学部学生の世話もしていで、平田さんが研究室にいたことは、何にも増して心強く感じた。

  城塚先生から、大学院入試判定結果が出て、豊倉の城塚研究室配属が決まった時、城塚先生の目白のお宅に平田さんと平田さんの婚約者(現平田夫人)ともどきお招きを頂き、研究室配属後の研究テーマや研究室の運営方針など色々伺った。これで、大学院進学が決まったとなると、これから本当に研究室生活が出来るかなと不安になった。その時、平田さんから「今まで大学院学生は自分一人だったが、これから君が一緒に城塚研究室で研究できると思うと心強い。」とお愛想を云ってもらえて、研究室に自分の居場所があるかなと思えて心なしかホットした。

   当時の研究室では、4年生の卒業論文発表会が終了すると、配属の決まった新4年生が研究室に来て、4月から行う卒論研究テーマが決まり、すぐ、そのテーマの研究準備に入った。卒論研究は原則として各自自分の装置を持ち、その装置の管理、補修など原則として研究担当者が自分で行わねばならなかったので、実験装置の組み立てに必要なパイプの切断から、ねじ切り、配管など自分で行わねばならなかった。しかし、豊倉は、化工実験装置の組み立て経験がなかったので、新規卒論配属者と一緒になって平田さんの世話になった。研究室での実験は、個々に行っていたが、装置・操作上のトラブルは思いがけない時に起こるもので、それを最小限に抑えるため、また、データを効率よく測定するためにも時にはお互いの助け合う事も必要であった。そのために、化学工学研究室では、研究担当者は自分の装置や実験環境だけ考えれば済むものでなく、研究室内の人間関係を良好に保つことは大切であった、そのことについても、平田さんは、親切で、真面目に、丁寧に皆の面倒を見ていた。また、後輩に頼られることも多く、色々面倒をよく見て、非常に忙しかったが、それらを責任をもって手際よく処理して、皆から人望があった。学会発表の前や、卒論提出が迫ってくるとなかなか実験が思うように進まなくなり、皆、気が立ってくることもしばしばあった。そのような時など、平田さんが会津弁で窘めると自然と皆の顔に笑みが浮かんで丸く収まることがあった。夏休みなど行われる研究室の親睦旅行の懇親会や、地方で開催される学会主催の研究発表会には城塚先生はじめ発表論文に係わった大勢の学生も参加しており、その時は反省・親睦会を恒常的に行われていた。そこでは、皆で研究室の将来等について本音の話をしていた。その時など、平田先生は何時も自分の考えていることを人間味ある話をまじえながら正直に語っていた。城塚先生は研究室の学生に、研究成果をあげ、海外の研究者から評価されて招聘をうけ、滞在費の負担を受けて海外留学をするようによく云われていた。また、平田さんは会津の田舎から東京に出て勉強するのは大変なことだ。自分はまず東京の大学で勉強し、それを足場にしてアメリカ留学の夢を実現するのだと話していた。当時の日本は為替管理が厳しくて、学生の外国留学を考えるのは夢のまた夢であったが、平田さんがその夢の実現に向かって努力する姿は研究室で共に研究していたわれわれに大きな刺激を与えてくれた。

3)平田先生との二人三脚:
平田先生は、「豊倉、君と僕は車の両輪のように力を合わせて進もう。」とよく話さ れていた。平田さんと豊倉はほぼ同時期に早稲田大学助手に嘱任し、研究活動の評価を受ける学会も、城塚先生が昭和30年代から理事を何度も務められた化学工学協会であった。平田さんは昭和38年3月に工学博士を取得され、関東支部幹事も引き受けられて学会活動を活発に行った。豊倉が同関東支部幹事の委嘱を受けたのは、その2年後の昭和40年4月で、学会の会議に出てはじめて、歴史のある大学からは複数の先生が学会の複数の委員会の委員になって活動しているのを見た。それらを通して、早稲田大学の先生は平田先生が云われるように少人数で協力して力を発揮し、活動することが必要なことを体験した。

  豊倉は昭和41年12月にアラバマ州にある米国大統領直轄のTVA公社・研究所から招聘を受け、城塚先生から2年間のお許しを受けて米国に留学した。この間、平田先生は晶析研究を続けた学生のお世話もして下さった。豊倉の帰国後、平田先生はカナダのNRCからscholarshipを受けられてトロント大学に留学され、大いに実績をあげて帰国された。平田先生は帰国後も化学工学協会その他の学会で活躍され大いに業績をあげられた。城塚先生が1979年2月に化学工学協会副会長を退任された翌月(1979年3月)より1998年3月平田先生が化学工学会副会長を退任するまでの19年間平田先生と豊倉がほぼ交互に同学会の理事・理事会メンバーとして化学工学の発展に尽くした。この間平田先生の下で化学工学教育を受けた学生は、化学工学に関することは何でもこなせるように教育された。そのためか、日本企業の技術者が早稲田大学平田研究室の卒業生はどのような問題でも取り組んで答えを出すと評価していたようでした。それは平田先生の学生教育の賜と敬服してます。

  その一方で、平田先生は愛妻家としても、日本男子の鑑であった。特に1997年4月平田先生が化学工学会副会長に就任されて間もない頃、奥様が倒れられて突然入院された。先生は責任感が強く、大学や学会の役職を務めながら、奥様の介護・リハビリに献身的努力を続けられた。大学でも、学会でも平田先生の過労を気遣う人は多かったが、先生は一途に奥様の回復を願って看病を続けられ、その甲斐あって徐々に回復された。一昨年3月平田先生の退職パーテイーで奥様に久ぶりにお目に掛かった時には、その回復を本当にすばらしいと喜びました。これで、平田先生はこれから奥様の介護一筋に心おきなく尽くして頂けると思っておりました。それが、4月13日に平田先生が急逝されたと言う知らせを受けた時どうしてかと思った。19・20日の青山葬儀場で平田先生がお亡くなりになった日のことを伺うと、12日の午後から多少腹痛があったようでしたが、平田先生はそれを気にされないで、13日に奥様が病院で受ける診察のことを気にされて、平田先生の運転で病院に向かったとの事でした。その途中お腹の痛みは増したようでしたが、我慢して無事病院に着くことは出来たようでしたが、その後はもうどうにもならなかったようです。

「最近は80歳を過ぎても元気に過ごしている人が多くなっているのでつい油断しがちだが、平田先生のご不幸は、元気な人達への警鐘と謙虚に受け止めて、健康に呉々も注意しようでないか」とメールを送ってきた大学同期の友人がいた。葬儀所で平田先生をお見送りしていた時には、平田先生の分まで生き続けることが平田先生への何よりの供養になるのでないかと思えた。
   平田先生安らかにお休み下さい。ご冥福をお祈りします。   豊倉 賢

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