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豊倉賢略歴
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2006 A-1,6: 「 研究者の信条、技術者の信条、・・・ 」

1)中休みで舵を切り替えると? :
[ 年を取ると1年を短く感じるようになる] とよく言われるが、それはどうしてか理由は分からないまま本当に実感するようになった。豊倉が書くHPの記事も今年最後になり、何を書こうか迷いながらこの一行半を書いている間にも、その理由について色々のことが頭の中に浮かんで来た。

  「年を取ると一年が短く思えるようになるのは何故か?」改めて考えてみると本当に色々の理由が思いつく。日常生活では毎日同じことをして過ごしているようでも、その同じ行動に対して感じることは大なり小なり変わってくる。朝のテレビニュースで同じような画面の見ても、5年前、10年前、20年前、・・・・ではどのように感じ,何を考えたかを遡って一人で思いを巡らしながら楽しんでいると随分違ったことを思っていたことに気づき、いつの間にか昼になってしまう。これを真面目に考えていると結構疲れてうたた寝をしてしまい、気が付いてみたらもう一日は終わっている。夜寝てからも昼間のことを思い出して、それではこれからの人生でここで考えたことをどのように生かしたら良いかと考えていると、その結論ははっきりしないまま数日は経ってしまうことがある。それでもそれをさらに考え続けると目先にとらわれない纏まりのようなものが見えてくる。

  これは早稲田大学を退職して数年経った最近の生活の中のことです。一方、現職時代は何か本質的なことを考えようとしても、それらはすぐ毎日の生活や仕事に結びつけて考え、結論を出すことに走ってしまうのが常であった。そう思って、最近考えることを自分なりに評価してみると、それは日常の生活に惑わされることなく物事の本質をしっかり抑えて考える余裕が持てるようになったためと思える。「そこで考えてることは、高校時代の歴史その他で学んだ史実と照らし合わせても矛盾のない永遠に真実とみなされることを対象にしており、未来のある時期には現実のものになってくることに通じるような気がする。」

  数年前、ある企業の20歳代の若手技術者と技術討論をしたあとの雑談で、「自然科学的思考法で考えて、現状理論を延長して想像した新理論?を使っても説明できないものに突き当たることがある。その時にはカオス的な概念を想定してそれらとも調和させながら研究を進めないと永続的な進歩を期待できない時が来るのでないか?」と話したことがあった。その時、その若い技術者は「にんまり笑って先生もカオスに興味をお持ちですか」と云われた。物心がついてからの70年?をふり返ると、豊倉も10代の後半にはギリシャ哲学に魅力を感じて少しそれに酔ったこともあったが、それは戦後の混乱期で、学校には先生はいても国定教科書も検定教科書もまだ整ってない乱れた時代で訳の分からないことに魅力を感じたのかも知れなかったと思う。

  恐らく人は比較的若い時代に将来直面するかも知れないカオス時代を想像し、それに立ち向かおうとする面があると思うが、次第に経験を積み世の中の主役として活動するようになると近未来を見通した現実の仕事に追われるようになる。しかし、その主役を次の人達に譲ると「主役から離れた人でなければ出来ない仕事に関心を持つようになり、そのような仕事に挑戦して出てきた答えのようなものを何らかの形でこれからの人達に残すことに満足してみよう」と云う方向に舵を切り替える気になる人がいる。

2)社会の第一線で活躍した人達の使命(人生を真面目に生きた人達の価値):
  大学を卒業して企業に就職し、人生の活力のある時代をその企業のために働いて立派な成果を出し、業績をあげて企業の発展・世の中の発展に大いに貢献した人達は、その業績に相応しい責任ある地位で最後の仕事をした後退職する。 豊倉もそのような多くの人達と個人的にも親しくしていたので、それらの人達から個人的な話をいろいろ聞くことが出来た。これら現職時代に活躍した人達の多くは、退職後も自分で描いていた充実感のある満足な人生を送っている。そして、その生活の中で「自分のこれまでの生活や活動で経験したことの中でこれからの人達に役立つと思うことを、継承出来るように整理して残そう」と考え、そのような努力をしている人がいる。

  世の中で成功した人達がこのようなことを考えて仕事をすると、世間の人は尊敬の念を持ってその人達の行動を見守る。一般にどのような仕事に従事しても、人生を真面目に生き抜いた人は皆それなりに立派な人生訓を持っており、それをベースとして自分の思想を構築し、それに従って活動する人は社会の発展、人類の発展に貢献している。

  最近の日本社会で起こっていることを考える場合、明治以降の150年の発展の上で考えるべきか、戦後60年の発展をベースに考えるべきか、あるいはそれ以前からの日本人の生活を学んで修得した長い期間に構築された日本人の民族性の中で考えるべきかは、考える対象等で適宜に選択して考えるべきものと思う。ここでは、比較的近視眼的に過去数十年間の日本人社会の変化を見ると、バブル崩壊前まで大部分の日本人は中産階級に属していると思い、経済の発展につれて日本人の生活は皆豊かになったと思っていた。それは、敗戦直後の日本人はほとんどの人が自分で努力して真面目に働き、物を大切にして貯蓄しないと日本の復興はあり得ないと頑張っていた。その結果、毎年2桁の経済成長が続き、個人的にも貯蓄が出来て、一般欧米人並みの資産も持てるようになった。オイルショック以降一時的にはちり紙がスーパーからなくなり、米もなくなりかけた時もあったが、大きな混乱もなく乗り越えることが出来た。

  「この頃の日本人は欧米に較べて低い人件費に甘んじて、決められたこと守って真面目に働き、良い製品を生産すると言う」江戸時代に育まれた庶民の礼節を重んじた勤勉さと欧米先進国が開発した海外からの移転技術の利用によって良い製品を安価に生産し、日本産業の急激な発展に成功した。この頃、日本国内では種々の産業で工場の建設ラッシュは続いて活況を呈した。このような産業立国を可能にしたのは、日本人が欧米技術を勉強・理解して短期間に日本に適した生産工程を構築し、次々とプラントを建設してそれを稼働させ、市場の需要に応える製品を生産したからであった。

  しかし、その過程で工場建設やプラントの操業・管理に従事する技術者に不足した。そのような状況下で、日本国内の教育制度は改革され、欧米の先進技術を理解し、それを活用できる優秀な大学卒業生を教育して、産業界の要望に応えるようにした。このような社会情勢の変化は日本における若者の高学歴化を進めるようになり、有名大学への志望者が増えて大学に合格するための学力アップを目指した教育を行う高校が多くなった。これは中間層のレベルアップに大いに寄与し、日本をそれまでの後進国から欧米先進国に近づけるのに大いに貢献した。しかし、この教育は子弟の持って生まれた特性や才能に対する評価を疎かにするようになり、受験勉強に対する適性が過大に評価される傾向が生まれ、時として脱落者を生むようになってきている。また既成の物を対象に考えるとその枠内での評価や判断は素早く・容易に出来るが、今まで余り考えられたことのないものに取り組もうとする気力が薄れ、新しいものへの挑戦意欲を減退させるようになった。

  後者はよく言われる日本人はマイナーな改良型を考案するのは得意だが、新しい発想に基づく抜本的にオリジナルな発明が少ないと云われることと関係しているように思えている。既成の大企業の中で立派に職責を果たしている人でも、未知なものに向かった時、日本人はどう対処して良いか分からなくなる人が多いと云われることと関連がある気がする。

  (「 天の声 」を声を聞いて問題を解く勉強) 
  豊倉は、1940年代に横浜の県立中学・高校で教育を受けたので、東京都立校と異なったアメリカ流の生徒の自主性が尊重された勉強をすることが出来たような気がした。(当時の横浜県立高校の教育は進駐軍教育官の指導が厳しく、いわゆる受験勉強は殆ど行われていなかった。そのため、自分で興味本位の勉強をする時間も本人の意思で可成り自由に取ることが出来、今から考えるとこのような教育は豊倉にとって非常に良かった。・・・・・無論受験勉強を一生懸命行っていた仲間もいたが、それは本人の意思でありそれも干渉されることなく自由であった。)

  大学入学後、都立高校の卒業生から、数学の問題を解くのに、「天の声」を聞いて解くと早く解答出来る。「天の声」を自分で考えても時間が掛かりすぎて、試験時間の内に問題が解けなくなると言う受験教育を受けたと云う話を聞いた。それから、何年も(恐らく30年くらい)経って早稲田大学応用化学科に在籍していた研究室の学生から、受験勉強では「天の声」を沢山覚えてそれを使って早く問題を解くようにすることが決め手になると聞いたことがあった。その学生も大学受験とはそのようなものと教えられたようで、確立された範囲の領域で課題を解く時には「天の声」を使ってすぐ答を出していたようであった。それを思い出した時に確かに、課題に対して「天の声」を聞いて解くと、短期間に能率的に回答を出すことが出来て良い方法となることはあるが、人間社会では常に今まで誰も経験したことのない問題にぶつかることがあり、その時「天の声」を聞いて問題を解くこと主に学んできた人は、はたしてその問題に臆せず立ち向かえるだろうか疑問に思った。

  豊倉がアメリカから帰国後、初めて配属されて精製晶析研究を大学院修士課程で一緒に行った学生が大学院修了前に、「 新しい研究テーマに取り組み、自分で考え討論しながら3年間研究して修士論文を纏めた経験は、これからどんな課題を与えられても取り組んで答えを出せる自信が出来た。」と話していたことを覚えている。大学教育が、他の教育機関と異なるところは、卒業(大学院では修了)前に、新しい課題に向かって自分で挑戦して評価される回答を論文として作成することであり、それが出来た学生に学位が与えるところである。戦後、日本は大学数を急増させ、社会のニーズに応えるべく大勢の高度教育を受けた卒業生を世の中に送り出したが、その卒業生のすべてが社会の人が期待する力を持った卒業生でないことをよく耳にしている。高度の教育を受けた卒業生の中には自分の力を過大評価して挫折する人が増えているが、そのような実情についてはやはり自分のこととして考えるべきでないだろうか?

(戦後の産業立国とその復興に貢献した技術者達)
  昭和30年代から40年代に掛けて、海外からの技術移転に基づいて日本で建設された化学工場は技術的に完成度の高いプロセスで、外国の指示通り工場を建設すれば良いことが多いようであった。しかし、当時の日本の技術者の中には外国から来た技術書類を自分で検討し、日本企業の仕様に合うように検討して改善した技術者もいたようで、次第にコピープラントから改良された技術の比重を高めて海外から評価される製品を作ることが出来るようになった。

  1966年から68年にかけて、TVA公社に招聘されて米国で仕事をしていた時、日本から大勢の企業技術者の訪問を受けた。その時訪問してきた日本技術者の中にはこれからの日本企業は独自に開発した技術を持ち、それとの交換技術移転を行えないと海外の優れた技術を自分の企業に導入出来なくなるであろうと云う話をしばしば聞いた。そこで、20世紀半ば以降の日本産業界の発展を振り返って考えた時、戦後の日本が成長し始めた1950年代は、兎に角真面目に勉強し、欧米先進国の技術を充分理解できる工学理論を身につけ、それを自分なりに駆使して、日本企業に適した装置・操作法を提案してプラントを短期間に建設して製品を生産することが重要であった。その段階で産業を活発にするには、移転技術を理解し、必要な改善の出来る独創的開発能力のある技術者と、それを形にして希望通りの製品を生産できるプラントを新たに建設できる能力のある技術者が多数必要であった。

  しかし、プラントが立ち上げられ、安定運転が可能になると当初プラントの建設・試運転等に従事し、その成功に貢献した技術者は、一部の日常的な補修や改善等に必要な技術者を除いてその現場を離れて別の職場に移動し、そこで別の組織を編成してそれまでと異なる活動をするようになった。そこで始めた仕事はそれまでとは全く異なった多種多様の業種であったりして、職場を移動する度にそれまでと異なる新しい勉強をし、新しい経験を積んで技術者としての完成度を高めて行った。このような経験を通して、技術者としての自分に特有な哲学を持つようになり、仕事を進める時の自分の信条を持つようになる。このような技術者生活では、一生同種の仕事を続けてその分野のスペシャリストになる技術者と種々の技術の開発・改善等に従事してジェネラリストとして完成した技術者が育った。ここで、どちらの道を歩いた方が良いかと云うことは、大学を卒業して以降一生の間に何度も考え、人と話し合うことは大切である。実際には本人の希望のみでその道を選ぶことは出来ないことなので、それは、山登りで登る道を選ぶように、登りながら種々のことを考え確認しながら道を選ぶことが必要と思う。

3)近代社会とそこで活動し、その社会を支える人々:
  ここまでは、化学産業を頭のどこかに置きながら、戦後の日本社会の復興を、欧米技術に支えられた近代社会の発展やそれに貢献した工学系研究者・技術者の活躍を思い出して記述した。そこで、ここでは近代社会とそこに生きる人達の活動を少し広い立場から考えてみる。

(近代社会の形成とそれに貢献してきた人達)
  人類社会の形成や発展の歴史は誰しも子供の頃から興味あることだが、年を取って種々のことを経験し、その上時間的余裕が出来るとそれに一層興味を持ち、それらと関係のある世界の国々の歴史等に関心を持つようになる。近代社会の生い立ちを考えると、過去に世界をリードした国々の歴史とそれを支えた文化の発展にも関心が集まる。と言ってもここでは、それについて議論する積もりはなく、近代社会とそこで活躍する化学系研究者や技術者に関係することを触れてみる。

  近代社会と云っても、その国の社会形態やそこに住む人々の生活が現在の欧米近代社会のそれと違和感なく考えられる社会、基本的には現代の自由主義的民主国家が描いている社会を対象とする。その國は世界の多くの國と交流があり、その社会は平和で安定した自由主義思想が通用するところです。その社会で生活する人々はお互いに人間性を尊重しあって、自由主義国家の規範を守り、お互いに将来に向かって発展を続けるように志を同じくする人々と協力・生活している。このような近代社会においては社会の公序が守られ、その範囲で自由に職業を選択し、活動をすることが出来る。そこでの活動する場は種々のことを考えて自分で起業する場合と、これまでの社会で人々のために必要であると考えられ、既に組織が立ち上げられて実績を上げている場に職業を求めて活動する場合とがある。

  前者の自分で起業する場合は、既存組織と何か異なることがあり、それ生かした活動に大勢の人が理解し・好感を持って賛同すると、多くの人が期待して集まり、参加や協力が得られるようになることがある。そうなると大きな成果を上げ、社会の発展に大いに貢献する。しかし、充分な理解が得られないと、限られた人達の集団としての活動となるが、その活動が大衆に理解されるようになると、大きな組織となり集団として大いに実績をあげることもある。ところが、意に反して理解する人が限られ、日常の活動も思うように進まないようだと、活動の修正やその組織を解散するようなことも考えなければならない。一方、後者の既存の組織で活動しようとする場合は何らかの形でそこで活躍している人から評価されることが必要で、そのためには自分の特性を他人によく理解されるように務めることが大切である。

  ここに記述した近代社会は現在の日本のような社会で、戦後の日本社会を考えてみると、当時の日本は豊かになって先進国の仲間入りすることを目標に皆で頑張って努力していた。その甲斐あって目標に近づくことは出来たが、そこまで来るとそれまでと同じように考えて次ぎの目標を見つけ・決定することは難しくなった。そうなっても自分の力で自分の目標を決め、迷うことなく自分の責任で活動して進むことは出来る人はいたが、相変わらず大樹を探してその傘の下で楽をしながら過ごそうとする人もいてその人達は、気がついたら入る傘はなくなっていて進む道に迷うようになった。偉い人?から云われた通り真面目に行動していれば良いと教えられ、それを信じて来た人は個人的には混乱状態だった。政治家は、このような時自分の主義主張をそれぞれ提案するが、どの意見が大衆に受け入れられるか後になってみなければ分からず、その判断は自分の考えて決めることが重要となった。

  明治以降の日本や発展途上国では、為政者の方針に国民大衆が賛同し、力を合わせて協力することによって急速に発展することがあった。その時活動する人達は皆同じ方向に向いていて、それと異なる活動を選択して進めることは容易でなく、為政者の施政方針に賛同しかねる人は後れを取り不本意な活動に甘んじなければならないことがあった。しかし、現在の日本のような社会では、国民全体の意志を同一方向に向けることは非常に難しいことであり、異なる意見が共存し、それらはそれなりにプラス作用をして、社会の穏やかな前進を安定的に進めることが出来る。現在の日本社会のようにIT化や高度化などの変化は人類の発展に必要なものであり、旧態依然なものはそれらに置き換えられるのは当然なことである。しかし、具体的に新しいもののどれが必要であるか?また古いもののどれを廃止すべきか判断することは容易でなく、それらが関連する種々のことを含めた総合的な判断をしんければならない。最終的には為政者の判断は大きな重みがあるが、それは国民大衆の判断に基づくものであり、近代社会においては為政者が判断する前に各自に関連するものに対して自分自身で判断すべきものである。

  近代社会は、自分の進む道は自分の性格、特性、能力を考えて自分で決めるべきである。最近でも、新聞紙上にこれからは理工系と云う意見が多くなると、自分は理工系が適していると思い、また、これからは営業だとなると、その道に進もうと思う若者が多いと云われる。しかし、社会に出て活動する期間を30年とか40年と考え、その期間同じ分野で働くか、時流によって変えながら働くかも本人が考えることである。近代社会は多様社会であり、そこでは満足して働くためには、自分の考えを受け入れる可能性のある人達に自分の信条を認めてもらゥことが大切で、そうなれば、どのような道に進んでも満足して活躍出来るのでないだろうか?

4)工学系研究者の信条と技術者の信条:
  豊倉は高校時代まで理学部に進学しようか、工学部に進学するか迷っていたが、早稲田大学に受験する時、工学部に進学することをきめた。その当時、学会の様子とか、学者間の話は兄から少し聞いていたが、研究者として評価されるには、学会で活躍している先生の指導を受けることが必要で、大学で卒業論文の指導を受ける先生によって可成り変わってくるであろうと想像していた。

  ここでの記述は、豊倉研究室卒業生が早稲田大学応用化科出身者であり、その大部分は工学系研究者か技術者として活躍している。その一部にはセールスエンジニヤーや医者その他広い分野で活躍している。豊倉は、理工学部応用化学科を卒業後実家の呉服店経営を2年行い、その後大学院に在籍して博士号を取得し、以降早稲田大学理工学研究所および同理工学部で研究者生活をした。この間國内外の工学系技術者とも交流を重ね、これらの経験を基に工学系研究者・技術者としてあるいは工学卒業生が他分野等でそれぞれの使命を果たすのに参考になると思うことを記述する。

(工学系研究者の使命)
  研究者は広い意味では何でも研究する人を対象にすると思うが、ここでは大学を卒業あるいはそれと同等以上の工学系実力者が行うに相応しい研究を対象にする。その研究内容および成果は「論理の進め方、その研究を進める理論、工場における生産プラントの扱いおよび研究成果」において、該当分野の専門研究者や技術者が通常の博士論文のレベル以上と評価されるもので、斬新性のある研究成果を含んでおり、その成果は、今後新しい工学理論の提出・生産技術の開発に貢献あるいは貢献すると期待されるものが望ましい。また、工場生産に関する研究では、新製品の生産やコストダウン、製品品質アップ、その他生産現場における生産工程の合理化に関する新しい装置・機器や操作法の開発研究で、生産現場でその実績があげられた研究である。工学系研究者の使命はこのような生産技術の開発に貢献する理論、すなわち工学理論をオリジナルに構築することである。ここで、真にオリジナルな理論を開発するということは、その適用範囲の拡大を図ることも使命のうちにあり、豊倉が1963年に始めて提出したCFC晶析装置設計理論は既に43年を経過しているが未だにやりかけている研究が残っていて、行き着くべきところまで到着していない思いである。この研究を通して自分の研究を振り返えると、主な過程は下記のようになる。

  1. 最初に研究を行う時に、まず過去の類似研究を勉強し、その理論に関連する生産プラントのすべての問題は解決できるかを検討し、それに寄与する主要検討因子を抽出した。
  2. その論文で行ったモデル設定が対象としている工業プラントの実情と比較して、より妥当と考えられるモデル設定を行い、新しい相関式を提出した。
  3. この時提出された理論式の適用範囲を拡大し易いように無次元化を試みた。
  4. この設計理論にパイロットプラントデータを適用して容易に設計できるようにした。
  5. 当初と異なる形式の装置に設計できるようにした。
  6. その装置モデルを検討して、生産性アップのための装置形式を提出した。
  7. 任意な製品結晶粒径分布を設計理論式に組み込んだ新設計理論の提出。
  8. 連続晶析装置対象に提出した理論式の回分晶析装置設計への適用法の提出。


  これを要約すると、「豊倉の研究思想は、まず現象を良く観察しそれを理解するためのモデルを提出する。そのモデルに基づいて、将来工業的に展開しやすいような理論式を提出する。それを工業装置操作に容易に使用しやすいように改善し、使用する。次ぎにこの設計理論式を検討してより工学的に改善された装置・操作法の開発を図る。・・・・・そして、僅かな疑問点も放置せず、次の研究課題として残し、設計理論の改善を図り、新技術開発の努力を続ける。」と言う当たり前の「研究者の信条」が豊倉の頭の中に形成された。ここでは豊倉が行った晶析装置設計を例に記述したが、これは、晶析以外でも豊倉が個々の問題にぶつかった時に考える方法であり、豊倉の研究「信条」であった。また、その各ステップでの討議で、研究は何処まで続けて、暫定的に終了するか、細々と継続するか、一時的に休止するかの判断は、登山家の撤退のように慎重に行うように心掛けた。わなければならない。また、その判断を下す基準については「信条」の中では表現できないようなケースバイケースの匙加減があり、それについては種々の経験や理論的な検討を重ねて自分の頭の中に形成されるものである。

(技術者の信条)
  企業の技術者の「信条」も、豊倉が昔お世話になった先輩の技術者から聞いたことがある。故人A氏は、「 企業の人は大学の先生が提出した理論は企業現場のデータには適用できないと云うが、先生が理論を提出したときの前提条件をよく理解しないで、先生の式を誤って適用してる人が多い。それは理論が現場のデータの整理に使えないのは当然のこと」と話されていた。また、故人K氏は、「企業現場で所望生産量の製品を生産するのに、原料が装置内に供給されてから取り出されるまでに装置内に滞留させるべき滞留時間をよく理解しないで設計してくるメーカーの技術屋がいるから困る。」と云って居られたことがある。その話は、「豊倉は大学の先生なんだから、学生に基本的なことを良く教えるように」と云われているように聞こえた。先日も豊倉が退職直前の卒業生から、「化学工学を勉強しないで工場現場の機器設計を始める人がいると」云って嘆いていた。

  先程豊倉は何か仕事をする時にはまず基本を身につけ、その考えを基に自分で責任もって仕事を行い、それが満足に済んだかどうかを確認して進めること大切だと思っていると書いた。大学の研究者は自分が行った研究成果の上に次の研究を行うので真面目に研究している研究者は、自分の仕事を進める「信条」を持っている人が多いが?(最近は目先のデータ取って研究と思い、その内容を良く考えたり、検討したりしない先生もいるようですので注意する必要があるようです?)企業現場で種々の研究を広く行っている現場技術者の中には、自分の研究をよく理解しない内にテーマが変わって、工学理論を企業現場の仕事に適用するときの確たる「信条」持たない人がいるような気がする。企業現場には、装置の動きが突然おかしくなっても、それを瞬時に元に戻せる特別な現場技術者がいるようですが、その人はやはり仕事を進める「信条」を持っていると推測している。そのような「信条」は結局のところ研究者も技術者も同じなのでないかと思う。先日、応用化学科を卒業して飛行機の操縦士として働いている人が、研究室のHPに日常の仕事で、早稲田大学の学生時代に学んだことで非常に役立つことがあったという記事を書いていた。豊倉が呉服屋経営をした時は扱うものは全く異なっていたが、仕事の考え方、進め方は全く同じであったと実感している。それは商品の扱い数をそのまま一枚のグラフに書いて相関は取れなくても、上手く無次元項で表現してグラフに点綴するとそれは装置内の現象と類似の相関が得られ、時には商品の動きを予見することも容易であった。

5)むすび
  今回、これまでと異なった記事を書いた積もりだったが、工学屋の書いたものは何時も同じようになってしまった。そのことは人間、納得するところまで頑張って努力すると、対象は違っても同じような考え方が適用できるようになって、それなりの答えはでるものである。特に初めて経験するような出来ことでも、前に解決した時のことを思い出して、そのことが解けそうに感じる道を着実に歩むと、必ず然るべき答えが見えて来るものと思う。世の中は常に徐々に変化していて、それを避けることは出来ないが、それに対しても自分の経験したことの中から生まれた「信条」に自信を持って当たれば、必ずや新しい希望を見出せるものと思っている。

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