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豊倉賢略歴
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2006 A-1,4: 「 近況報告・・・学協会等での活動に関連して 」

1)はじめに
  私、1999年3月早稲田大学を退職して7年を経過し、退職後の新しい生活にも慣れた新しい生活リズムを卒業生に報告することにした。前にも書いたことがあると思うが、自分の退職する年齢を自分で考え、退職後はそれまで以上に自分の意志で生活する時間を多く持つようにしようと、早稲田大学を規定年齢より4年早く退職した。退職した時考えたことは、現職時に自分が考える仕事上のノルマに対して、充分責任を果たしていると自分が考える活動に自信が持てなくなり、またそれからの生活を他人に余り迷惑を掛けることなく年金で慎ましく送れる見通しが立てられることが必要ということであった。しかし、実際退職を決めようと思った時は、必ずしもそこで考えたことに充分な見通しがあったわけではなく、通常の年金が受けられる65歳になった時が、上記の条件がほぼ充足?した時であると決めて心の準備をした。

  定年の年を決めると、退職する時自分に勝手な「退職の美学」を作り上げ、自分と共に研究活動をしてきた人達のこれからの活動を支援する行事を企画した。そこで具体的に考えたことは、1959年4月に早稲田大学大学院に入学して以降、晶析研究の指導をして下さった恩師の先生方、共に研究してきた卒業生や学外の研究者・技術者に謝意を表して40年間に行った研究成果を纏め、最終講義の準備をすること。および、長年に亘り第一線で晶析研究活動を行ってきた世界の著名な研究者・技術者20名余を招聘して、早稲田大学国際会議場および大隈講堂で2日間に亘って国際晶析シンポジウムを1998年に開催することであった。このシンポジウムでは、日本の将来を担う研究者・技術者の活動状況を世界の研究者・技術者に紹介する目的があった。また、この年にはLarson教授の支援を受けて天津大学のWang教授が天津大学で開催する中国での第1回国際晶析シンポジウムに早稲田大学で開催されたシンポジウムに欧米諸外国から参加した研究者らが天津に行くための便宜を図った。豊倉が退職した1999年秋には第14回工業晶析シンポジウムがイギリスのCambridge で開催され、それに参加した。2000年にはオランダのDen Haagで世界ソルトシンポジウムが開催され、それに参加した後にドイツ、Frankfrutで開催されたACHEMAプラントショウに日本企業の視察訪問団を案内した。

  このように早稲田大学を退職した数年間は現職時の延長で学会関係の活動を続けていたが、それでは早稲田大学を早期に退職して自分の時間を作り、現職時と異なる自己研鑽の実を上げることは出来ないと考え、定年退職後の新しい生活を考えることにした。

2)人生の生き甲斐は?
  空腹を抱えた生活を続けると何とか食べ物を手に入れ、食べ物の心配のない生活を出来るようにしようと考えるものである。日本でも第2次世界大戦末期から戦後に掛けて、物資は不足し、食料も統制下で何とか配給されたが不足気味で、特に都会の人々は不足した食糧を補うためにいろいろ努力していた。当時の子供は今日この頃と違ってそれほど勉強するわけでなく、時間的余裕があったので土地の開墾をしたりして畑作りの手伝いをし、そこいジャガイモやサツマイモなどの種や苗を植えてどうやってそれらをの収穫物を沢山作り、それを上手に保存して食糧不足を補って空腹の解消に役立てるか子供心に考えて、農作業をしたことがあった。その頃は、食糧増産を真面目に考えて,キチンと働けばそれなりの成果は得られ、食物を生産してお腹を満たすことが出来、不安のない食生活を確保することが出来た。その時の子供は食料の生産に貢献したと云うことで努力は報いられ、お腹を一杯にすることでささやかな満足感に浸り充実感さえ味わうことが出来たことを覚えている。このような些細な努力であっても、真面目に務めれば、困っている人を助けることもできと、子供は実感として学んでいた。こんな時結果的には小さな子供でも大人の役に立ったという気持ちになって、子供なりに人としてのチョットした生き甲斐を感じたものであった。こんな生活は最近の子供にはあまり想像できないように思うが、それは現在の生活環境が物資は豊富にあるが表層的になっていて、何か歯車の噛み合わせが狂ってるような気がする。

  最近の日本では空腹を心配する子供は殆どいなくなっていると思うが、かといって自分から本当に進んで一生懸命努力して自分の意志で何か自分の満足する成果を出そうと努力することは少ないようである。評判の良い子供達は、学校の先生や親などに云われて一生懸命勉強しているようであるが、それは少しでも試験の成績を良くするために努力をしているようである。その子供達の努力の成果は子供同士の競争に勝って試験の成績を良くすることであり、その競争に勝って良い成績を取れるようになった子供は、さらにその上の難しいテストで良い成績をとり、そこでの勝者になるように機械的に努力をするようになっている子供が多くなっているのでないだろうか? そこで良い成績を上げた子供はさらにその競争を繰り返し、最後に選りすぐられた子供は世間で評判の有名校に入学し、本人も優秀な子供として将来を約束されたと思い、一見満足しているように見えることがある。その様な勝者になることが「人生の生き甲斐」と考えている人もひょっとすると可成りいるような気もする。私は、このような努力を続けて試験の成績を良くすることは決して悪いこととは思っていないが、このような努力をして試験の良くするだけで人を評価することに非常な疑問を感じている。

  試験の成績だけを良くする努力をして満足している人の中には、自分と異なる意見を持っている人を受け入れようとせず、その様な人の話を理解できない人がいて、時には社会の中から脱落して行くのを見ることがある。そのこと等より試験の成績をよくすることで勝者になった人は、多様な人々の集合体である社会の中で本当に満足して生きていけるだろうか? また、ある一つの選抜法で最後に残った人を勝者と決める方法では、その過程で可成り才能のある大勢の人物を蹴落して勝ち残ってきたのでないだろうか? そのようなことを考えた時、その過程で「社会の中で人々から人望を集め、リーダーとして期待される人はこのような勝者なのだろうか?」、「自分が勝者になることは、自分にとって多くの得るものがあり、また、自分を支援してくれた周囲の人達にも満足してもらえるものを残せ、さらに社会発展に貢献して社会全般にそれなりの富や然るべきものをもたらすことが出来るか?」、「一般的に考えて自分のしてきたことに対して、社会の人々はその内容を概ね理解し、受け入れるであろうか? また、自分のしてきたことに対する評価は社会の発展・変化においても、大きく変動することなく継続するであろうか?」などいろいろ考え、本人が自分の考え、行動を総合的に判断して「ある程度の満足感」を持った時、その人は「自分の人生に生き甲斐」を感じるのでないだろうか? 言い換えると、自分の思想・行動に「人生の生き甲斐」を感じた時、「自分の人生に満足」を感じるのでないだろうか?

  「豊倉の話は抽象的で分かりにくい」とか「話の対象についての定義がくどくて分かりにくい」とよく言われることがある。それは世の中に類似のものが沢山あり、それらに対して一つの基本的な考え方を可能な適用して考えているからである。最近、世界中の話題がお茶の間の会話にも入るようになっていて、世の中には多種多様な考え方が存在することに驚かされている。戦時中までの子供時代は、日本における常識的なものの考え方は日本中心の軍国思想で統一され、子供心に疑問に感じることにも反論を許さないで強制的に認めさせられたが、それが、戦後一変してキリスト教的な宗教思想をベースにしたものの考え方に移行した。と言っても全てが急に一変したわけではなかったが、それでも、可成りのスピードで進んだと思っている。ここでは、今日の宗教論争を話題にする気はないが、現在日本で流通しているアメリカ的自由主義思想は、どの考え方に対しても自由に意見を述べることが出来、また何事に対しても広く自由に考え・発言することが可能になっている。それは重要事項の決定に充分討議することが出来ることを意味し、特に新しい学説、新理論の提出には現状では最も優れた環境を提供できると考えている。ここで提出される新学説や新理論はそれを裏付ける充分な再現性のある実験データ等の根拠が必要であり、それらが充分揃えられるまでは研究者・技術者によってその学説・理論は承認されない。また、高度生産技術の開発研究等では、複数の専門研究者・技術者による共同研究チームが組織されることはしばしばある。この研究チームは合議制により民主的に組織・運営されることが重要であり、その進捗状況は紆余曲折を繰り返しながら研究成果が示す方向に向かって進められる。豊倉の工学研究はその線に沿って進められ、20世紀後半に工業晶析装置・操作の設計理論体系化を図り、晶析プロセス開発法を提出してきた。今回豊倉が早稲田大学退職後もそれの継続的発展のために活動している様子を以下に記述する。


3)生き甲斐のある人生を過ごすために:
  人が幸せを感じるのは、満足した毎日を送ることであり、それは「生き甲斐のある人生を過ごす」ことでもあり、そのために人は自分の進む道を考え、その線に沿った生活している人が多いと思う。しかし、そ生活は画一的なものでなく、その人が生きて来た環境、性格、才能、体力・・・によって全く異なり、多種多様なものである。豊倉自身過ごしてきた70年足らずを振り返えると、その時代環境・その時の社会的は立場・年齢等々によって考え方、判断、行動を変えながら生きてきたことを思い出す。そして、これからも先の見えない未来に向かって、その時々でベストと思う方向に進むべく努力していく。そこでは、将来の姿を予測するがそれは何時どのように変わるか分からない現実の世界(カオスの世界)を前提にしている。しかしその反面過去の事実をよく思い出して検討し、それが変わって行くメカニズムを有機的に捉え、自然の法則に従って規則正しく変化しつつ進むと推定される未来の姿を考えて(P・M・T)それなりの準備を考えながら研究を行ってきた(サイエンス)。このカオスとサイエンスの世界は一見相容れないように見えるが、どちらがどのように起こるか判断しなければならない時でもどちらが起こるか分からないことが多く、この境界でどのような現象が優先して起こるかを少しでも明らかにするために世界の研究者は真剣に取り組んでいる。この二つの世界の力関係が変わると、サイエンスに対する人々の評価も大幅に変わることが予想されるが、豊倉が研究室や学会で行って来た活動はサイエンスを主軸に進めてきたものであり、その分野における最近の活動を紹介する。

  最近毎号のように記述しているが、自分はどの分野に進みどのような仕事をすべきか真剣に考えることは重要であるが、それはいくら考えて正しく(後から考えて正しかったと思えること)選択することは出来ない。また、自分の判断でその分野や具体的な課題を決めても、その仕事を依頼する人の考えもあり、時には全く同じ仕事を希望する人が現れる場合があって、最終的に本人がよく考えて結論を出すべきである。その時、自分と同じ仕事を希望する人のその仕事に対する適性度をよく考えて自分が行うべきか、他の人に仕事を任せるべきかを判断することは現実の社会では必要である。この時その仕事に対する社会のニーズを大所高所よりよく考えて判断する必要がある。しかし、いくら考えてもそれに関する仕事に従事することに自信が持てないよう場合は、躊躇なく別の仕事も想定して選択対象を変更するが必要である。

  このように、自分が活動する場を選択する場合、定年前の現職年齢者と定年後の年金生活者では当然異なってくる。今回は豊倉の近況紹介の中で書くので、後者の定年退職者の仕事とその進め方について書くことにする。


4)豊倉の近況報告・・定年退職者の生活と仕事の進め方:
  最近団塊世代の人達が定年を迎えた後の生活や仕事が良く話題になっている。今年3月末に東京工業大学で開催された化学工学会年会の懇親会で、現東京大学学長の小宮山宏さんと東京工業大学教授の仲勇治さんが最近定年を迎える団塊世代の技術者が退職してから10年先、完全に仕事を離れた時、高レベル技術者を確保することが難しいと話しているところに豊倉も首を突っ込んだ。定年退職者が持っている技術をどう活用するかは良く耳にする話題であるが、それは考える人の社会的な立場で問題にする焦点は異なってくる。現職で活躍していた人が定年を迎えて出勤しなくなると、その翌日から生活のリズムが変わり、それに戸惑う人の働く場をどう作り出すかが話題になる。数週間前のNHKテレビ1チャンネル午前4:20〜4:30の視点論点(昼間は3チャンネルの午前10:50〜11時)でも団塊世代の定年後の生活とその人の現職時に培われた経験や高度な現場技術の次世代への継承が取り上げられていた。小宮山さんらの話はTV番組で対象になっていた人達とは少し異なっていて、それより高度な技術者が退職後数年は後継者の育成を含めた技術の伝承を行っても充分目的を達成できるだろうかと云うことを話してたような気がした。早稲田大学理工学部を卒業して長年に亘って世界の産業と対比しながら日本産業界の発展を携わって来た卒業生は、定年を迎える年に近くなるとやはり東大総長と同じような視野で産業界高度技術の長期的展望を考えながら定年後の仕事を心配している人が多いのでないかと思っている。

  現職時に然るべき職責を果たしてきた人は、何らかの形でそれまでに経験したことを次の世代に伝承するため、それぞれの職場でそれなりの努力をしている様子を部外者の立場で時々耳にしている。しかし、日本を代表する一流企業のトップの話でも、実際はその対策は難しくて余り順調には進んでいなさそうな話を聞いている。その理由は各企業の内情にも関係があるようで、一概には言えないような気がする。大学で基礎理論を構築してからその企業技術への適用を考えて独創的な新技術開発のお手伝いをした立場から考えると、技術の伝承がうまくいくかどうかは、オリジナルな技術の開発の根幹である工学基礎理論に対する考え方とその内容の理解・応用を対象にしているかどうかで、目先直ぐ役立つknow-howをベースにした手先の現場技術技術の伝承を対象にしたものではないと思う。現場に直ぐ役立つ技術は一部の経営者には喜ばれるがそれはそのままでは長期経営に寄与するものではなく、時代の流れにつれて変化するニーズに応えられるオリジナルな技術を開発する思想と環境を伝承するようにすることが大切なような気がする。私が昵懇にしていた(株)クリスタルエンジニヤリングを起業した初代社長の故青山氏は「 (基本的には)know-howは大事にしまっておくものでなく、学会等で公表して良い。公表すれば、他社に真似されないようにこちらはさらに先の研究をするようになる。相手の方が自分より上であれば、隠しておいても相手は見つけて追い越すでしょうし、こちらの方が上であれば公表しても相手はこちらの意図を見つけることも理解もできないでしょうから、相手に先を越される心配はない。」 と話ながら、私が提出した理論に基づく応用技術を説明すると、手許にあったデータを整理して理論や技術の確証をしてもらえた。(例えばAoyama,Y. etal.; Industrial Crystallization ’81,p.199,(1982) North Holland Pub.; Aoyama,Y. etal,; Industrial crystallization ’87,p.337 (1988) Elsevier Sci.Pub. )

  最近、学会等の講演とか、若い研究者・技術者との討議は控えるようにしている。また会議でも誰かが私と同じような内容の発言をしそうな場合は、豊倉は特に発言をしないように心掛けている。10年くらい前だったと思うが、ある学会の記念式典の記念講演の御願いに故桐栄先生のお宅にお邪魔したことがある。その時、先生は数年前の京都大学化学工学科の行事で講演したのを最後に公式の場での講演は引き受けないことにしているからと云われて断られたことがある。その後このことについては何も伺わないうちにご他界され、その意味につぃて私は今でも自問自答を繰り返している。最近はまだ答えのでないまま、自分しか経験してないことは若い人達に話して、それをどう考えるかはこれからの人達に考え、判断に委ねるように心掛けている。


5)むすび
  大学研究者等がオリジナルに提出した理論やその理論を発展させて開発した生産技術は、これらの理論の提出や技術の開発を実際に行った研究者や技術者の研究や研究哲学を充分理解して初めて利用できるもので、それを理解しないと理論や技術の適用を誤ることがあり、それを発展させて新理論の開拓や新技術を開発することは出来ない。1960年代以降の晶析工学の発展を考えると工業操作への適用を対象にした研究の可成りの部分は豊倉研究室で行われてきた。そのため、企業技術者の中には豊倉研究室で提出した理論を展開して工業装置・操作の改善を行ってきた技術者は多いが、その中には理論を誤解したり、適用可能範囲を充分理解しないまま誤って適用をしているものがいる。また、工業協会などの講習会では豊倉研究室で提出した理論を誤って説明している講師もいて、その訂正に悩むことも時々ある。豊倉研究室で提出した理論を使って研究発表したり、講習会で講演している技術者は、豊倉と親しい人達が多いので、それほど誤りが多いわけではないが、その誤りを放置する訳にはいかず、かといってこれらの人達の発表にブレーキを掛けるわけにも行かず、その誤解を正すのも今後の課題である。しかし、このような技術者が、装置設計理論とその適用法について研究したり、講演したりすることは、世界の晶析技術の発展に大いに重要なことであり、そのような活動の支援することも定年退職者の使命と考えている。

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