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豊倉賢略歴
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2005 A-1,5:「 終戦60年を機に思うこと・・(1)」

1) はじめに
  今年は終戦60年に当たりそれを機に第2次大戦に関する種々の行事が世界各国で企画され、行われている。その企画目的は行事を立案する人たちの考えによって随分異なっているようである。同じ事柄・事実を対象にした行事でも、それらは企画する人の意図によって内容の意味するものが偏って来ることもある。しかし、それを見る人が企画された行事の内容を忠実に理解すると、その行事を通して貫いている考え方をそのまま受け入れる傾向があり、時には戦争に対する考え方に対して間違った考えを持つようになる。人類の歴史を見ると数千年の間、自分が所属する民族の繁栄のみを考えて戦争を起こし、戦に勝って領土を広げ、他民族を迫害し続けた時代が長かった。しかし、戦争に勝った国が衰えるとその国を滅ぼして新しい勝者になった国は、前の勝利国が行って来たことと同じ事を繰り返し、この種の戦は繰り返し行われて来た。そして、この種の戦争を起こす度に戦争に直接関与しない人々を不幸にしてきた。長い人類の歴史においては、国の繁栄は領土を広げ、戦争に負けた国々の民衆を搾取して安い賃金で過酷で危険な仕事に就かせて、戦勝国の国民のみが繁栄を謳歌することのようであった。しかし、産業革命以降、労働者当たりの生産性が上がり、社会の新しい繁栄の姿が生まれてきた。それは、武力をよって人を殺し合いをするとなく全世界の人類が皆繁栄を謳歌出来ると思われるような、全く新しい人類社会の構築を思わせるものである。しかし、そのような人類社会をこの地球上に作り上げるには、これまでの社会にない新しい秩序を構築する必要がある。過去の人類社会発展の歴史を考えると、人類は貨幣を生み出し、それを媒介にして財産の拡充を図り、貨幣を持つ以前の社会では想像出来なかった人類の富を蓄積をすることが出来た。この貨幣を使用することが出来るようになったのは、人がこの貨幣の価値を信用したからで、もし、貨幣を信用しなかったら、資産・財産の帰属を認めなかったら現在のような社会の発展はなかったと思う。

  この様な社会を発展させて新しい将来に希望を持てる明るい平和な社会を構築するために、人間社会はそれを構成する人達の間でお互いに守らねばならない最低限の決まりを設け、その決まりの精神をお互いによく理解し、協力して相互に信頼できる社会を構築する必要がある。しかし、人にはそれぞれ独自な考えがあり、そのどの考えにおいても一方的に拒否することは相互の信頼を失うことになる。そのため、それらの意見が非常に重要なマイナスの結果をもたらす場合以外はお互いに干渉しない方が良いと思う。しかし、将来の発展のためには新しいことを決断し、行動を起こさねばならないことがある。この時は、多数の賛同によって決めた方針に従って行動しなければならず、この民主主義のルール従って進めることが大切である。しかし、一度決定した方針で進めいてることでも、状況に応じて次のような対応を取る必要がある。

ウ)方針を決定したときの前提条件が実際と異なっていた場合(状況判断や近未来の予測が不適切の場合)、多数の賛同が得られれば、再度協議をして継続して進めるべきか、一部変更するか、あるいは中止して全く異なった修正方針を決めるべきである。
エ)方針を決定した時と情勢が大幅に異なった時(方針を決定する段階では全く考慮されなかった事態が発生した場合)実行責任者は直ちに関係者に諮り、その方針の継続、変更(中止を含む)を協議して決定する。
オ)決定した方針に従って実行している段階で、不測の事態が発生し、継続することが困難になった場合は、今後の方針を協議する。

この様なルールを適切に守って組織を運営するためには、情報の公開を適切に行い、必要に応じて協議出来る体制を整えることが必要である。また、ここで、対象になる組織は、公的政府機関や地方公共機関、民間の営利企業やボランテイアのNGOなど多くの機関があり、その運営法は機関によって異なってくる。実際組織で意見を同じくする人達だけで作ることは出来ない。また同じ組織の中に意見の異なる人がいることは時として極めて重要である。しかし、限られた時間内に事を起こして何かを仕上げるためには、ある段階で結論を出し、実行する必要がある。しかも、その判断は、人類社会発展の歴史を考えまた最近の科学技術発展の状況等から行う必要がる。その過程では曖昧な討議でごまかすことなく真面目に行うことによって紆余曲折を繰り返して最終的には正しい方向に向かうと思っている。豊倉も物事の判断がある程度出来るようになった今、これまでの70年近い年月で振り返ってみると、今では当然おかしいと思うことでも戦前は何の疑問を持たなかったり、子供心におかしいと思ったことでも世の中の仕組みと割り切って行動したことなどを時々思い出すことがある。そこで、平成17年度の後半のホームページの分類Aで、終戦60周年を機に戦前、戦中、戦後に経験し、思ったり、考えたりしたことを断片的に書いてみる。

2)  戦前の思い出( 〜 1941年)
  昭和8年に生まれた豊倉は、戦前のことはほとんど覚えてないが、子供心に当時の家の中のことは幾つか覚えている。生家は横浜で小さな呉服商店を営んでいたが、関東大震災前に創業開業したようであった。しかし、実際軌道に乗ったのは震災後で、私が物心がついた頃には3店舗で営業し、使用人も数人働いていて順調に繁盛していた。私はその家族で4人兄弟の末子として可愛がられて成長した。当時の小店舗の経営者は使用人に対して絶対的な権限があり、年上の若い小僧さんを相手に我が儘を言い通していた。兄たちが学校に行っていると遊び相手がいないので時々店の小僧さんを相手にして遊んでいたが、それを見かねた母からは店の使用人と云ってもずっと年上で何でも良く分かっているのだから、我が儘なことを云ってはいけない窘められたことを覚えている。この様な時代は周囲の状況から判断して小学校に上がる数年前のことであったが、その頃注意されたことは幾つになってもよく覚えている。最近自宅の隣にある公園で遊んでいる近所の小さい子供が退屈してか、時々我が家にジュースを飲ませてと云って入って来ると、子供の頃のことを思い出して務めて対等に相手している。数人の子供が家に上がって来ると堀炬燵に入ったり、ソロバンで遊んだりして満足して帰っていくが、まだ、塾通いを始める前の子供をみていると明るく平和で、戦争前も今もほとんど同じような気がしている。

  私が小学校に上がる1〜2年前の初夏だったと思うが、母が肺炎を患った時、結核かも知れないと誤診され、当時営業されていた市電に乗って本牧の先の終点駅間門のすぐ傍の閑静な病院に入院したことがあった。その時父は退院後の母を静養させようと京浜急行屏風ヶ浦駅より徒歩3分くらいの場所に土地を見つけ、そこに店補と別に自宅を新築して翌年の夏前に移った。その引っ越した直後に台風が来て、屏風ヶ浦海岸の遠浅砂浜にトリ貝が沢山打ち上げられ、近所の住人は大勢で拾えたことがあった。当時この付近は丘のような小さな山を一つ越えたところのお百姓さんが朝取りの野菜をりやーかーに載せて毎日売りに来ており、また、冬には海岸で取れた海苔を干す干場があちこちに出来て本当に長閑なところであった。その翌年昭和14年4月に小学校に入学したが、その時は今ほど学区制がハッキリしてなく、横浜市内の店に近い小学校に通った。屏風が浦に住んでる人の中には、横浜市内に店を持っていて、昼間はお手伝いさんに留守番させ、自分は毎朝店に通い、また子供を店の近所の学校に通学させている人がいた。私の場合朝は自宅から通学していたが、帰宅はまっすぐ帰ることもあったが、時には店の方に帰り、母と一緒に帰宅することが多かった。従って、自宅付近の友達は精々10人足らずの子供しかいなかったが、逆に横浜の町中に大勢の学校の友人を作ることが出来た。この様な生活を思い出すと、毎日の生活には都会の忙しい時間と半農半漁の寒村を思わせる時間があり、今の子供のように勉強・勉強と云われることもなく平和そのもののであった。ただ、母の教育ママらしい面の記憶はまだ屏風ヶ浦の家に引っ越す前の話であったが、世界一周客船が横浜港に入港していて、その日の夕方まで一般公開することがあった。それで、母は兄たちが学校から帰宅するのを待って横浜港に駆けつけたことがあった。しかし、その時港に着いた時間が遅く船内の見学は出来なかったが、母が私達に、皆大きくなったらこの様な大きな船に乗って外国行くんだよと云われたことを忘れることが出来ない。当時は家の中で生活していると戦時下と云うことに触れたのはラジオのニュースで中国の戦況が伝えられていたくらいで、それ以外の話を耳にすることはほとんどなく、子供には戦争のことは縁のない話してあった。

3) 第2次世界大戦の開始時より国民学校(現在の小学校)卒業まで
  1941年12月8日朝学校に登校した時、戦争が始まったことについての話は友人の間で話題になっていたが、戦争の意味することについては小学校2年生にはよく分からかった気がする。その日は全校児童を集めて開かれた朝礼で、校長先生は開戦の話をしてたが、やはり良く分からなかった。戦争についてのニュースでは初戦の連戦連勝が報じられこのまま進んで勝てるのでないか思いながら日本軍の進軍状況をアジアの地図の上に記入して喜んでいた。しかし、開戦後1年を経過した頃には戦線が硬直状態になり、その後次第に物資は欠乏するようなった。昭和18年には平和産業に対する企業統制が厳しくなり、企業整備が始まった。

父は自分で立ち上げ、震災後軌道に乗せた呉服店を締めて悠々自適な?生活を始めた。若い人達は戦線に狩り出され、それより少し年上の中年の人達は軍事産業で働くために徴用されたが、父はその人達より年をとっていたのでそれらの対象にならなかった。また、高等・専門学校・大学の文系の学生は徴兵制の対象になって、学徒動員も決まったが、それとは対照的に理系の高等・専門学校、大学生は徴兵は卒業まで延期されることになった。兄は家業の呉服店を継ぐべく横浜の商業学校に進んでいたが、家業は閉店し、徴兵検査年齢の引き下げでそのまま文系にとどまると、軍事産業に狩り出され、その後すぐ徴兵の対象者になることから、商業学校卒業後、直ちにその進路を理系に変更した。昭和18年の米軍機による本土空襲以来、何時米軍機が再度来襲するか分からない情勢となって、大都市圏小学校(戦時中は国民学校に校名を変更されていた。)の3年生から6年生の児童対象の強制疎開が昭和19年7月の1学期修了後に実施された。

この時、私は家族と離れて埼玉県にいた母方遠縁の親戚の家に部屋を借りて縁故疎開をした。それまでは学校の宿題などちょっと面倒なことがあると末っ子の特権で姉や兄に面倒を見てもらっていた。ところが、家族から離れて田舎に住むとそれまで甘えた生活から脱却しなければならなかった。この頃は都会の子供は田舎の子供より勉強は出来るが、体が鍛えられてないと見られ勝ちであった。しかし、私は小学生としては体格がよく、また横浜屏風ヶ浦の空き地で、食糧不足を補うために開墾して野菜作りの手伝いをしていたので、鍬や鎌の使い方は田舎の子供に負けなかった。その意味では、疎開しても田舎の子供に気兼ねすることはなかった。戦争も終わりが近づいた頃には、都会の子供は家で勉強する余裕は無くなっていたが、それとは逆に田舎の子供の方が落ち着いて勉強する環境が整っていたような気がした。その当時の疎開先では、夜近所の広い家に子供が集まって自習する制度があった。実際にはどの程度実施されていたかは分からなかったが、私は近所のお寺の本堂に集まる自習会に参加した。そこには地域指導を担当していた先生が時々見まわりに来ていたが、特別カリキュラムがあるわけでなく、子供は思い思いに学校の授業の復習など行っていたようであったが、実際は遊んでばかりいる子が多かった。

私は当時6年生で、そのお寺さんに5年生の男の子がいて、彼のお母さんは息子の勉強の具合を覗きに来ていた。また彼の中学生のお兄さんも算術の問題集を持ってやって来て、その中の問題を彼にやらしていた。その時私は都会から来た6年生だから弟の相手に一緒にやって見ないかと云われた。ところが、その我が儘な弟は出来ないと云ってお兄さんに解き方を教わってしまった。しかし、お兄さんの答えが問題集回答欄の答えと違っていたことから、お兄さんは問題集の答えが間違っているとして、自分の解き方を弟に説明していた。その時。私も答えが出たので、それを見せると私の答えは、お兄さんの答えと合わなかったが、問題集の模範回答と一致した。そのことは弟にとって大変なことでちょっとした騒ぎになったが、実際にはたいしたことでは無くすぐ収まった。しかし、身内の人のいないところで解いたことのない問題を一人で解いたということは私の記憶に鮮明に残った。この問題を解くのに私は、問題の意味をよく考えて間違えないように計算しただけだった。この問題集はお兄さんが小学生で使った本のようで、お兄さんは小学生の時この問題を自分一人で解いたと思った。話によるとお兄さんは真面目な模範生のようで今の受験生と同じように問題の解答法を勉強してたが、その時はたまたま解き方を忘れてそれを間違えたのだと思った。

私の小学生時代は学校で難しい勉強はしないので算数の解き方はほとんど勉強しなかった。横浜の小学校にいた時、ある友人が「鶴亀算」の計算法を話していたことを横にいて聞いたことがあった。その頃、私も兄から鶴亀算の問題を出され、四苦八苦して答えを出したことがあったが、その解き方を知らなかった。その時友人が話していた鶴亀算の計算法を盗み聞きして、上手い方法だなと感心したことがあった。(今から思うとその方法は2元1次方程式で解いた時の計算手順で解く方法の話でした。)それに対して私求めた方法は鶴と亀の頭数の合計数が設問の数になるように設定し、その設定頭数の時の足数を算出し、それが設問の足の数になるまで試算法で計算を繰り返して、鶴と亀の数を決めていた。算数の問題の解答法は定法で解けるようにするのが良いか試算法で解く方がよいかはいろいろ意見のあるところである。塾をはじめ、多くの場合は簡単に問題を解く方法を教えているのでないかと思う。しかし、今から思うと物事をよく考え、少しでも便利な方法はないかと自分で考えて、問題を解くとその方法はその後ほとんど忘れることはなく、また、どのような新しい問題にぶつかっても臆することなく、正面から自信をもって問題を解く努力をするようになるように思う。・・・この後者のような解き方を身につけることは、少し面倒なことであるが、全く知らない初めての問題を解くのに役立つことで、非常に重要なことと思っている。

4) 中学校入学[昭和20年(1945年)]以降
  昭和20年になると空襲は多くなり、偵察機の来襲を含めると殆ど毎日のように米軍機は日本のどこかに来ていた。3月には中学の入学試験はあったが、その設問は国語や算数ではなく、出身校からの入学実績と内申書で入学が決まったのでないかと思われるような入学試験であった。4月から中学生として大人の扱いを受けるようになったが、学校にはゲートルを足に巻いて毎日通学した。当時は大都市の中学校は3年生以上の生徒は勤労動員で軍事工場での労働に狩り出されて学校には来てなかった。また、当時の中学校には軍からの派遣将校がおり、また武道担当の柔道と剣道の先生はいたが、それは小学校と変わったところであったが、別にそんなものかと思っていた。私達新入生は上級生と異なって中学校一年生としての正規授業を受けることは出来た。しかし、米軍機の来襲に対して警戒警報が発令されると全ての授業は休講になり、すぐ、帰宅するようになっていたが、どちらかと云えば米機の来襲は夜間が多く、昼間の授業を殆ど正常に受けることが出来た。

しかし、昭和20年5月29日には横浜大空襲があり、私の中学校は1日にして灰燼に帰した。その後、暫くは自分達の校舎焼け跡や、横浜市内の焼け跡の片付け等を行ったが、それはほぼ一ヶ月程度で高学年児童の強制疎開で空いた近くの小学校の教室借りて3部制で授業を再開した。この授業はまさに焼け野ガ原に残った鉄筋校舎の一部を借りて空襲の合間に行ったもので、通常の授業とは程遠いものであった。この年は学校の年間スケジュールは大いに乱れ、夏休みは1週間程度に短縮され、夏休み後の8月半ばに1学期末の期末試験が行われることになっていた。しかし、この夏休み中の8月15日に終戦を迎え、学校は予定していた期末試験を中止し、今度は米国進駐軍の受けいる準備の手伝いに狩り出される始末になった。それと同時に今まで使用していた教科書に対して進駐軍の教育担当者から厳しい検閲を受けた。特に横浜は進駐軍指導のモデル地区になっていたかのように監視が厳しく、その中でも私の中学校は横浜では名門の県立第1中学校であったためか、特に厳しいようであった。そこでは、中学の英語の授業にはアメリカ兵が授業の傍聴をすることがあり、その教科書の内容が不適切であると云っては干渉されたクラスがあったようである。全般的に云って終戦の日まで行われた授業内容は否定され、また、教科書に対しても進駐軍教育担当者の許可のあるものしか使用出来ないようになった。

戦争が終わって半年経ったところで、小学校に間借りしていた校舎から横浜市の南端(京浜急行金沢八景)にあった軍の施設の払い下げがあってそこに移転し、新1年生を迎えて中学校本来の姿を取り戻した。しかし、それまでの6・5・3・3の制度が6・3・3・4の新制度に移行することになり、中学校は併設中学校と名称を変え、中学3年修了の段階で新制度高校1年生となった。

  私の中学生時代は校舎の焼失、敗戦により、中学校での教育機関としての機能は低下し、同時に教育方針、カリキュラム、教科、クラブ活動は急変して、それまでの中学校・高校の学生生活とは全く変わったものになった。同時に帝国主義に支えられた軍事優先の世の中が自由主義に変わり、社会主義思想が広く受け入れられ、多くの常識が短日時に崩壊した、それに変わる新しい常識は混乱したままであった。経済的には戦後の日本通貨価値は急速に低下し、またそれまで使用されていた日本円の金融機関に預金されていたものは突如として封鎖された。それによって従来の額面の通貨を個人が使用する場合は特殊な規則によって厳しく規制された。また小作農解放という農地改革は断行されたが、占領行政のためと云え日本経済、社会はそれ程の混乱もなく推移したのは、日本の戦後の復興と合わせて奇跡と思われるように順調に進んだ。昭和20年8月、日本の無条件降伏が伝えられた時、若手軍部が提唱した連合軍の進駐に対する本土決戦をほとんど混乱なく阻止出来たのは、日本人の良識ある行動と新しいものへの順応性・責任のある行動によることを忘れることは出来ない。この敗戦直後の日本の立ち直りは、江戸末期の武家政治から明治政府への移行や日本の近代化への改革成功に匹敵することのように思える。また、明治維新より140年経過した今、明治時代の変革を成功させた官僚政治と官営公社を民営化に移行させようとする最近の社会組織の改革は、明治時代の西欧化をさらに大幅に前進させて日本を世界先進国の仲間入りを可能にする重要な出来ことであり、日本はこの様な難局を幾つも乗り越えて新しい世界の構築に貢献するものと思う。

  次に、戦後の中学生生活を思い出してどのようなことがあったかその一部を記述する。

5) 終戦直後の混乱期中学生の活動:
@  私が中学に入学した時、軍部から中学校に派遣された将校は「貴様らは選ばれて県立横浜第1中学校に入学したエリートだ。そのことを自覚して責任ある行動をしなければならない。」と教練の度に云われた。これは終戦前の話しであったが、その時入学した生徒は皆そのことを自覚し誇りに思っていた。この派遣将校は終戦後も数年間この中学校に教員として教鞭を執っていたが、その話の内容、生徒に対する態度は、戦後別人のように変わった。しかし、その将校の人柄は全く変わったところがなく、周囲の如何なる変化に対してもその態度を変えない正々堂々とした態度は立派な先生として見習うと思った。クラスの仲間を見ても終戦前後で仲間の態度や行動、本心で話している内容の変わった人は殆どいなかった。戦時中は学校では帝国主義的な教育がされ、組織としての立場ではその線に沿った発言や行動をしても、個人レベルでは人間本来の自分の考えに従って発言し、行動していた。

A 中学生時代の余暇時間: 一般に真面目で良い中学生はお互いに競争してよく勉強し、そのために非常に忙しいよう である。しかし、終戦の年に中学校に入学した生徒は、戦時中は空襲に悩まされて、落ち着いた思うような勉強をすることは出来なかった。戦後は4)に記述したように進駐軍の指導があり、特に進学校と思われる中学校の学習について学校は生徒に勉強を強要してはいけないと云うような指導をしていて、それに対して厳し監督があったようで宿題を出された記憶は殆どなかった。学校で使う教科書については進駐軍教育部の承認のあるものしか使用できず、また新しい教科書に対応した参考書もまだ殆ど出版されていなかった。それに加え、横浜の県立中学校では週休2日制が採用され、昭和21年の夏休みは例年より長く、都会に居ると食べ物が充分ないから田舎のある人は田舎に長く滞在するようにと言う指導もあった。その意味では自主的に勉強しようとする気持ちのある人は自分で自習する時間が充分持てた。しかし、その勉強に使用する参考書がなくそれを探すのが容易でなかった。私は、幸いなことに兄が商業学校を卒業して理系に変更しようとした時に使った旧制度の数学の本や参考書が自宅にあったのでそれを使うことが出来た。

  私が中学1年生の時には今の生徒では考えられないように充分な余暇時間のあった。そこで、一科目でも自主的に勉強してみようと兄に相談したところ、数学の内容は戦前とか戦後とか云う状況の変化に関係ないので、古い数学の本を使っても勉強は出来ると教えられ、戦前の中学生の数学の本で自主的な勉強を始めた。その過程で分からないところを兄に聞いても余り親切に教えて貰えなかったので、結局自習方式で行った。この勉強は何時までに決めたことを勉強しようと云う制約があったわけではなかったのが、一応勉強の進行予定は立てて行った。しかし、実際には自分の理解の状況に応じて自習内容の進捗スケジュールを変更しながら勉強した。通常の勉強では学校の進捗状況にある程度合わせなければならないことが多いが、この時の勉強ではその様な制約はなく楽しみながら続けることが出来た。このような勉強は初めて行ったことであったが、その結果数学に対して特別な興味を持ち、興味本位で勉強したいように進めることが出来た。その後中学3年の3学期には、先輩の先生の趣味で集合論の入門講義をして頂いたことがあり、無限数に対する概念を学んだりした。しかし、高校へ進学後は中学時代のように興味本位で数学の勉強をすることは出来なかったが、中学時代に行った数学の勉強で身に付けたことは計り知れないものがあった。

B 大人として扱われた中学生: 最近は先生の指導や父兄の希望によって中学生の進学方向は決められ、それに即した勉強 を強要される中学生・高校生は多くなっているように見える。しかし、昔の県立校は自らの行動には責任を持たねばならなかったが、その反面生徒の行動は自分の希望と判断で決めることが許されていた。その意味では正に大人として扱われていた。学校でのクラブ活動も自主的にクラブを立ち上げることが出来、顧問の先生はいろいろアドバイスして下さったが、それ以上の指導はほとんどなかった。先生の授業も生徒に「とことん理解させるための授業」をするのでなく、今日の授業はここまで話したと云えば、授業でそこまで教えたことになり、生徒は先生の授業で理解出来ない部分は自習してそれを理解するために自分でキチンと勉強しておかなければならなかった。また、その段階で特に興味を感じさらに難しいことなど深く自分で調べて勉強したりしていた。この様な教育を受けると、僅かな自習勉強で先生の話を十分理解できる科目があれば、またいくら勉強してもなかなか理解できない科目もあって、生徒は自ずから自分の適性を知ることが出来た。このような教育は社会に出て新しい仕事を始める場合、自分が満足して働け、しかも周囲の人が充分評価する成果を上げることが出来る仕事を選択するのに・・・このような自習を繰り返すことによって、自分の得意な分野や自分の適性を知ることになり・・・大いに役立つと思う。

6)むすび
  第2次世界大戦は私にとっても、日本や世界の歴史にとっても本当に大きな出来事であった。この戦争を機に原子爆弾は現実のものになり、発展途上国の独立運動が活発になるなど人類社会は大きく変わり、それらは大所高所よりいろいろの専門家によって議論されている。私はそれらについて自分としての意見は持っている積もりであるがそのことについては素人であり、戦争をはさんで70年余生きたものとして、まず中学・高校生時代までを思い出して書いてみた。今回書いた対象期間は若い18年間であったが、その時経験し、考え、行動したことはその時代に生きた人のみしか語れないことかも知れない。しかし、それを経験したから思いついたことがことがあり、それをこのHPに気楽に書くことによって何かの参考にする人もいると思って書いた。ただ、ここに書いたことは私の経験したことのごく一部であり、何か興味のある人は何時でも討議し、議論したいと思うので問い合わせ下さい。中学・高校時代は数学に対して私なりにある種の思いを持っていたが、大学に進学するに当たり、結局化学工学を専攻するようになり、それから45年間化学工学分野の結晶化=晶析 を軸に世界の人々と交流を続けて来た。次回11月に掲載するHP2005A-1 にはそれを記述する予定である。

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