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豊倉賢略歴
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2005 A-1,4:「 退職して5年・・・日頃考え、行動していること(1)」

  早稲田大学を退職して5年余を経過し、やっと退職後の生活も落ち着いてきた。このホームページも立ち上げてから1年半を経過し、卒業生から寄稿された近況や仕事上の記事なども大分増えてきた。これらの記事を読むと卒業生が研究室で研究に没頭していた頃のことが昨今のように思い出されて来る。この記事を書いた古い卒業生の中には既に定年を迎えた人がいて、それぞれ定年後の新しい人生を歩み始めている。また、定年まで後数年と云う卒業生の中には未だ何も考えていないのでそろそろ定年後のことも考えなくてはと思っている人がいる。これからはそのような卒業生は増えることが予想されるので現職時を振り返って、卒業生と共に定年後の人生を有意義に送ることに対する想いを記事にし、皆で将来の参考になるHPにしてはと思うようになった。この種の記事としては昭和38年3月に卒業された岡本和男さんが今年4月および5月掲載のホームページに「 私のサンデー毎日(1)&(2)」(2005C−2、1&C−3,1)を寄稿している。それを読むことにより岡本さんが定年後の人生を如何に謳歌されているかが分かる。岡本さんは5月下旬に海外旅行に出かけたが、「私のサンデー毎日」は今後数回連載すると云っているので卒業生の皆さんもそれを期待して下さい。既に定年を迎えられた方々は自分の考える意義ある第2の人生を送っていますし、また、これから定年を迎えられる人達も意義ある第2の人生に想いを巡らしてることと思いますので是非それらを寄稿して下さい。豊倉もこれからは分類Aに定年後の生活:「何を考え、何を思って行動するか?・・・」について書く積もりですが、今回は「私の退職と退職後の行動」について書きます。

1) 退職年齢は何歳くらいが妥当か?
  昔は早稲田大学に定年はなかったようだが、私の学生時代には既に70歳定年制が決まっていた。その後今から20年くらい前に選択定年制が施行されて自分の定年は何歳くらいが妥当であるか自分で考えるようになった。私が助手の頃、恩師の石川平七先生が老骨に鞭を打たれて教壇に立っておられた。その頃先生は早稲田大学の要職を務めておられ、学科内のこと・早稲田応用化学会のことなどで先生を研究室に尋ねてお目に掛かることが多かった。私の学生時代、石川先生は健康で病気を患わない先生として評判であったが、65歳を過ぎた頃から何となくお疲れでないかと私の目にも見えることがあった。早稲田大学の先生は国立大学の先生と較べて定年は高齢であり、しかも、現職時の担当講義時間は多く、指導しなければならない大学院の学生数も多いことから、定年まで勤めることは並大抵のことでないと感じていた。頑強な石川先生が定年を迎えられる前にお亡くなりになり、早稲田大学で定年まで勤めることの難しさをつくづく感じた。その頃、65歳から70歳の間の選択定年制度が早稲田大学に決まり、私は自分なりに考え、家内とも相談して65歳を目途とした選択定年制度の適用を受けることを考え始めた。その時はまだ、65歳退職をそれ程真剣に考えたわけではなく、石川先生の晩年のお身体の様子を考えた時65歳で退職しても良いように準備しておこうという程度であった。

  私が化学工学協会の関東支部長時代に親しくしていた東北大学の斉藤正三郎先生は早稲田大学で定年まで勤めると腰が曲がるようにならないように身体を鍛えておかないと笑われたこともあった。私は生まれながら健康で50歳代は病気で気になることは特になかった。53歳(1986)の時に東京で開催された第3回世界化学工学会議では、晶析セッションの座長を仰せつかり、その時欧米先進国から世界を代表する研究者を多数集め、日本の晶析分野における研究者・技術者の協力と日本企業の支援を得て日本の晶析分野のactivity を欧米の第一人者に認識して貰い、評価を受けようと心掛け、国際会議開催の数年前から準備を行った。すなわち、毎年開催されるヨーロッパ化学工学連合のWPC(Working Party Crystallization)にはguest member として出席し、この会議に参加していた各国の晶析グループ代表メンバーに東京で開催する世界化学工学会議に参加を要請し、木目細かく勧誘した。当時は今のようにまだメールを使用してなかったので航空便やファクシミリを使ったが、その連絡についてMullin教授からはお前から受け取った訪日の書類だけで厚いファイルが出来たと云われたことがあった。この世界化学工学会議では前後にはサテライトイベントを開催するなど多忙を極めた。

  その頃は若かったためか、夜12時まで帰宅すれば翌朝6時前の起床時間までに前日の疲れは解消出来て午前7時前に自宅を出て海外から参加した人々の相手をすることが出来た。しかし、3年後の1989年に仙台で開催された国際結晶成長学会では当該学会会長の砂川先生から工業晶析の人達にも是非参加して欲しいので工業晶析セッションを設置して世話をするように云われた。この年は大阪市立大学の原納先生が退官する前年で、その直前に大阪で原納先生退官記念国際会議を開催し、それに引き続いて仙台に移動する強行スケジュールを企画した。この会議でも独自なSocial & Technical Program を計画して竣工直後の瀬戸大橋の見学と讃岐塩業訪問などのイベントも開催した。この一週間は気が張っていたせいか無事に済ませることは出来たが、行事関連の事項がすべて終了した翌日、久し振りに早稲田大学に出勤すべく自宅から最寄りの駅に着き、電車に乗るべくプラットホームを歩いていた時、急に腰が痛くなって歩けなくなった。その全治には約2ヶ月を要した。この様な経験はそれまで一度もなく、50歳代も後半になると今までと違うことをいやと云うほど知らされた。それ以降はそれまでとは替えて身体にも注意をするようにしたが、欧米への出張を毎年数回繰り返して、ヨーロッパの国際会議やアメリカでスタートしたACTの活動に協力した。私、TVAから帰国した頃学生にもよく話したことですが、豊倉の日本での生活パターンは通勤に片道1時間くらいは掛かっていた。その帰宅時はその日の仕事の結果を整理し、その内容を考え次にどう続けるかを考えるのに都合が良く、また出勤時はその日の多岐にわたる仕事内容の確認とそれを進めるその日のスケジュールを考えるのに使い、研究室に着くとすぐ机に向かって効率よく仕事を進める準備が出来た。しかし、60歳を過ぎて2〜3年経つと、どことなく疲労を感じるようになり、朝、出勤のために電車に乗っても何か疲労が残っていて、その日の仕事をフレッシュな気持ちで考えられなくなった。研究室に着き、学生と顔を合わせると、疲労感は瞬時に消え、それまで通り仕事に取り組むことが出来たが、その準備が満足に出来にくくなった時に退職を真剣に考えるようになった。

2)退職に当たって考えた退職の時期:
  退職後に対してまず最初に考えたことは人に迷惑を掛けないで生活出来る生活様式を考えておくことであった。当時は厚生年金の支給は条件付きで60歳から可能であったが、基本的に支給される年齢は65歳からであり、その年金で生活することを基本に考えた。   次に考えることは、自分が過去において行ってきたことの延長や発展を継承しようとする人に可能な範囲で手助けをすることであった。その数年前に京都大学のある先生から、大学教授は自分の研究を十分理解し、継承できる後継者を育て、その人に自分の席を譲るべきといわれたことがあった。その点、城塚先生が退職される数年前に応用化学科より平沢氏を迎える許しをいただいていたので、種々の条件は恵まれていた。すなわち、平沢氏は大学院在籍中以来長年にわたって私の研究に関連のある仕事を続け、早稲田大学に助教授として嘱任されて以降メイジャーは分けていたが、全体としては共同指導を行っていたので他の誰に引き継いてもらうよりよかった。その意味で、平沢さんが早稲田大学で活躍しやすいように協力することは当然と考えていた。当時平沢さんは1996年度の在外研究員を希望しており、それを済ますまでは私は現職としての職を離れることは出来ないと考えた。この段階でもう一つ在職中に考えていたことは、早稲田大学に奉職した1957年以来続けてきた晶析研究を整理し、国内外の研究者・技術者の理解を受け、工学理論としての完成度を高めると同時に産業界の発展に寄与するように務めることであった。そのために、平沢さんが海外研究員を終了した段階で、豊倉は最後の務めを果たすために1997年度早稲田大学国内研究員(この国内研究員という意味は国内席をおくと云うことで、研究のために海外出張することは許されることになっていた。)の申請をして大学の許しを得た。この場合、少なくとも一年間は早稲田大学に現職として在職し、その成果を学生に教えることが義務づけられていた。したがって、私が、最終的に退職を考えてから、公式に退職の手続きに入ったのは1998年度に入ってからで、実際には66歳と1ヶ月で退職した。

3)退職後の活動について:
  退職してから親しかった人達と久しぶりに会うと、ちっとも変わってなく元気そうだからこれからも仕事を続けると良いと云われることが多い。しかし、定年を迎えた人は若い人が行う仕事の中に入って何とか人並みに出来るからと云って仕事に手を出すことは良くない。年を取ると知らず知らずに根気がなくなり、新しいことに疎くて古いことに拘りやすくなる。その上具合の悪いことに余計なことを発言して若い人達の斬新な意見や活動にブレーキを掛けることが多くなる。それらのことを考えると、余り若い人達の間に入るべきではないと思う。しかし、時には年取った経験者の発言や手伝いが期待されることがあるので、どのような時に年寄りは現職の人達の間に入って手伝ったら良いか時々考えるようになってきた。次にそれらについて最近経験していることを少し整理して思い出したこと列記してみる。

ウ) 第一線を退いた人が昔行ったことで、現在でも現職の人達とほぼ同程度に出来ると思っていることがあれば、現職の人達が忙しくてなかなか手が廻らなくて困っている時には、緊急的に応援することは大いに喜ばれることと思う。しかし、だからと云って長期に支援することはいろいろ差し障りを起こすこともあるので、慎重にすべきである。兎に角、現職の人達の将来を冷静に考えて邪魔になるようなことはすべきでない。

エ) かって現職であった時に自分が考案し、開発した斬新な考えや技術で、現職の人達が充分理解してると思えない場合は、あえて、若い人達の中に入って自分の考え、その理論や技術の本質を伝えることが必要である。まだ、世の中に十分浸透してないときには意外に誤解されてることがあり、この場合は正しい考えを伝承するように務めることが大切である。それと同時にその理論や考えの前提条件を正しく伝え、特に拡張解釈して誤った使用をしてないか注意する必要がある。ただし、現職の若い人達が発展的に研究し、拡張したものを年取った人達は誤解しないように注意しなくてはならない。

オ) 現職の人達が目先のことに囚われすぎて広い視野の判断から逸脱しているような時やある会合で若い人が斬新な意見を発言出来なくて困っているような時など、皆の意識喚起を引き起こすための発言をする必要はある。その様なとき将来を充分考えた発言をする必要がある。 その他、特に依頼を受けて、現職の人や大学を卒業して未だ年数の余り経ってない人達の間で一緒に仕事したり、アドバイスしたりすることがある。この時も発言に注意しなくてはならない。会議に同席している場合、特に発言をしないとそこで討議されたことを容認したことになり、また余計な発言をすることによっては討議が混乱することもある。

  一方退職すると現職時と異なった時間の使い方が出来るようになり、自由な時間は大幅に多くなる。その反面何事もすべて自分一人で行わなければならないことが多くなる。しかし、毎日の生活は多少程度の差はあるが、人間社会との関与を切って離れることは出来ない。そこで、人は生きてる限り新しいことを学び、吸収し続けることが必要である。また、人間社会での生活では大勢の人の世話にならねば生きることは出来ず、そのことは世のため人のためになることもしなければならない。その段階では、ボランテイア活動は退職者が世の中から温かい目でみられる姿であり、誤解を招くと不信感に繋がるが、気を付けて参加することは意義あることである。1980年代の初め頃当時応用化学科の宇佐美先生が学科主任をされておられて、新入生のオリエンテーションを八王子のセミナーハウスで開催したことがある。その時学科の長老の先生方も参加され教室では聞けない話をされた。その時、吉田忠先生が「人間は年を取ると自分一人で楽しむことを見つけだせないと幸せになれない。」と言う話をされたが、私も今の年になると実感としてよく理解できるようになって来た。これらのことを組み合わせて意義ある老後を送ることが大切と思っている。学生時代、社会で活躍した時代、そして退職後の時代をどのように組み合わせるかが晩年を満足して送れるかを決めるような気がする。

4)むすび
  定年後の人生は、人による差異は可成りあるが自由に使える時間を考えると人生で一番多い時と思う。それをどのように送るかは結局一生の価値を決めるものでないだろうか?これからは、毎日の生活に中で考えてること、行ってることをHPの記事の一部にして卒業生と一緒に楽しい人生を過ごせたらと思っている。

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