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豊倉賢略歴
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2005 A-1,3:「人生80年・・・これからは100年?」 ---------何を考え行動したらよいか? 1


はじめに:
  年金生活を始めて5年余経過し、人生のゴールも先の方にちらほら見えるようになってきた。時には子供の頃のこと思い出し、その頃経験したことがその後の生活にどのように役立ったか? また、過去の生活で交差点に差し掛かった時、事の弾みで別の道に進んでいたらどんな人生を歩んでいたろうか?と思いを巡らしている。最近、明治時代以降第2次世界大戦に到る間の韓国や中国に対する日本のことが問題になっているが、それは子供の頃受けた教育や子供心に感じた日本軍人の行動に対する批判、戦後海外から流入した西欧文化と子供の頃から自然と身に付いた東洋文化・日本文化との比較などからいろいろなことを自分で考え、現職時代は自分が置かれている立場でどうすべきかを判断して行動することがあった。戦前の日本では何事も天皇陛下のために言われ、全てをそこに集約していたが、それは昨今TVで時々報じられる絶対的な権限のある将軍様が君臨している国の様子と同じようであった。戦後の日本では、敗戦と同時にそれまで正しいと云われたことの中には余り良く理由が分からないまま悪いと云われるようになったものがあったり、またそれまで通り正しいと云われたりするものがあって、その判断に迷ったこともあった。しかし、敗戦後10年を経過した頃から日本人はアメリカ流民主主義による考え方に慣れ、アメリカ流の考え方は理解され通用するようになって世の中は安定し、国内の経済活動も活発になって、戦前の日本と比較して較べものにならないほど豊かになった。その社会は目先安定した右上がりの発展が約束されたように順調に発展を続けた。この発展は、日本人の心の中で培われてきた日本特有の東洋思想とアメリカ流キリスト教思想の上に出来上がった戦後の新しい日本思想?(これは存在してないかも知れないが?)に基づいて達成されてきたように思えた。しかし、それは本物の哲学に基づいた思想と考えて良いのだろうか?戦後60年の間の日本の発展を考えた時、日本思想はそのまま国を発展させる本物なのだろうかと疑いたくなることが多々ある。1990年代の初め頃崩壊したバブル経済は15年経ってもはかばかしい立ち直りを示しておらず、これほど無作為に時間を費やしても方向の見えない低迷を続ける先進國はあるのだろうか?政治家を悪く云う国民は大勢いるが、その政治家を蔓延らしてるのは国民であり、それを反省している日本人はどの位いるのだろうか?明治以降日本は素晴らしい勢いで西欧化を進め、近代国家の仲間に近づくことが出来た。その改革の過程でも全ての国民が恵まれた境遇に移行できたわけではなかったが、その根底では国民の愛国心に支えられてそれなりの応えを出してきたと思う。第2次世界大戦までは強制されたとはいえ愛国心とは「しかじかかくかくのこと」という共通概念が日本国民の中にあった。そのため、日本人同士が会うと日本人と云うだけで仲間意識を感じ心を許して協力しようとする空気があった。しかし、最近ではお互いに協力しようとする仲間意識は自分の周囲にいる特定の人の間にしかないことが多くなってきていて、日本人と云うだけで仲間意識を持つととんでもない羽目に陥ることがある。新聞で報じられる理解できない事件も、昔から仲間意識の強かった地方で増加てきてるようで、それには種々な理由があるのであろうが、保守的な感覚が新しい時代の流れに対する理解と対応を遅らせているためでないかと思う。

  昨年の3月以降HPを始め、大勢の卒業生の近況やそれを通して卒業生が社会で活躍した時の経験やその活動をどのような考えで行ったか等の記事をHPに掲載した。これらの記事を考えながらじっくり読むとその内容に共感することが多く、豊倉も卒業生の中に入って最近考えていること、それと関連のある過去に行った行動あるいは活動、その行動や活動を決めた考え方等を卒業生と一緒に書きたい気になってきた。この様な記事は少数の人が書いても一部の人の偏見に陥る易いことがある。しかし、その内容を「大勢の人がありのままに記述する」ことによって、一部の人の意見と言う枠は抜け出し、可成り普遍的なものにすることが出来ると期待している。

人間生活のベース:
  人は年齢の異なる身近な人と家族を構成し、その家族は近くの人達と連携して社会を構成する。社会組織の未熟な時代にそれぞれの家族や近隣の人達が集まる生活共同体は規模の比較的小さなものが主であり、自主的にお互いに助け合い、協力しあって一つの社会を形成してきた。その共同社会では生きてる限り一生働き続け、その体力・知力に応じてその家族や共同体の中で職務を分担して安定した生活をしてきた。しかし、社会が発展し、そこでの生活が高度化するとその組織内での職務分担は進み、その分担職務の細分化と高度化が進んだ。その様に進化した社会では特殊能力を持った人はその能力を効果的に活用できる職務を分担し、分業化が進んで近代社会を形成するようになったと思っている。この様な分業は近代社会で種々な産業を発展させ、またそれらの産業を有機的に連携させる管理機構も構築した。最近ではそれらの管理機構は産業毎に組織され、またそれらの組織は有機的に連携するようになっており、その集約は一つの国内で行われるだけでなく、全世界規模で効果的に進められるようになってきている。しかし、地球規模で考えることは理念としては望ましいことであるが、宗教を異にし、文化水準の全く違った国々の意見を集約することは難しく、世界の行き着く方向を予測した未来像を考えることは出来ていない。個々の人間を考えるとその人はこの地球上を離れて安住の地を求める術はなく、世界のリーダーが協議して決める不確定なビジョンと共存できる世界を探し、その中で古い時代の人間社会で期待されたような存在感を感じ、自分に生き甲斐のある悔いのない人生を送る道を考えてはと思う。

人生80年をどう生きるか:
  1966年米国TVA公社の招聘を受けてFlorence, Alabamaで2年間生活した。その時、最初に驚いたことは、80歳くらいの老人が元気に自分の車を運転して日常生活をしていたことであった。当時の日本では80歳くらいになっても元気に外に一人で出かける人の数は少なく、精々自宅の周辺を歩いて生活する程度であった。当時の日本人としては元気な方であった父が60歳くらいで突然亡くなっていた豊倉にとってアメリカの健康な老人は驚異であった。その頃、同じ町に来ていた日本人からもアメリカ人は元気な老人が多いですねと云っていたのを聞いたことがあった。当時の日本は平均寿命も長くなり始めていたが、今とは全く違っていた。その後、日本は高度経済成長に支えられて社会保険制度が整備され、その上、日本人の勤勉な真面目さ、食生活、気候風土等諸々のことに恵まれた生活環境のためと思うが、世界一の長寿国になり、元気な老人が増えてきた。今の日本はアメリカとは較べものにならない厳しい交通事情にも拘わらず元気に車を運転している老人を多く見掛けており、欧米先進国を旅行しても日本ほど大勢の老人が元気に生活している国はないように思えるようになった。海外へ行ってもそこで元気な老人会うが、その人の年齢を聞くと日本人より老けて見える人は多い。この様に考えると日本は素晴らしい長寿国になっていることは確かである。しかし、長寿国の仲間入りをしてから日が浅く、長年月をかけて長寿国になった先進国には未だ学ばねばならないことが多々あるようで、それらのことについては謙虚に反省して努力する必要があると思う。

  現在の日本的な長寿国に対してさらに先輩長寿国を見習い、謙虚に対処しようとしている人は国や地方公共団体その他の組織でも、個人の間でも多くなってきている。このことは、日本人にとって喜ばしいことであるが、公的な組織の活動は公的資金によって賄われるものであり、前例のあるよいことを行うには多数の賛同は得られやすく、軌道に乗せやすい。しかし、斬新な活動に対しては種々の異なる意見があり、多数の賛同を得て実行に移すには長時間の協議を要し、容易に現実のものにすることは出来ない。そのように新しい斬新な提案を早く軌道に乗せ・実現するには、その提案に賛同する比較的小規模な有志による組織によって行動することが効果的と考える。その組織の活動によって成果の得られることが確認されれば、比較的大勢の人の理解を得ることは容易になり、大きな組織・時には公的な組織に発展させることが可能になる。

  日本の現状を昨今の統計で見ると「人生80年」と言っても尤もと思う人は多くなっていると思う。NHKテレビ番組でも毎週百歳万歳の番組が組まれており、「人生100年」という夢だった話もそう遠くないような気がする。最近の医学は植物人間でも生きながらえることは可能になっているので、ここで対象とするのは人間としての意志を持って行動し、それ基づく生活・活動の出来る人でなくてはならない。また、その様な生活をより長く続けるための提案は多くの専門家によって出されるようになっている。しかし、その全ての提案を実行することは不可能であるが、その中から各個人に対して適していると思えるものを選択し、それの有効性を確認しつつ実行し続けることが、必要である。そのために大切なことは、提案に対する正確で正しい情報であり・また選択し実行している活動状況とその効果に対する詳細な情報であって、それは新たな試みを始め・継続するために有効なことである。

人間らしい生活を続けるために:
  昔は個人の経済格差が大きく、福祉活動は「お上の力」がなくては何も出来なかった。しかし、最近の福祉活動は国民が支払う税金で賄うようになって、僅かな税金を支払っている人は何でも税金で賄って貰えると思う人が多くなっている。今は、国民の税金だけで良い夢を見れると思っている人が多くなって支出計画予算は税収をオーバーするようになっている。この矛盾を正すのに、新しい秩序を組み立てる時期になっていると思う。その一つの方法として、国民は自分環境を整えるために自分のお金を拠出して新しい福祉活動をすることが考えられる。NGO活動はその一つと考えられるが、私的公的年金を含めて、人生80年、100年を視野に新しい年金制度の構築も「人間らしい生活を続ける長寿国を作る」ために必要と思う。現状では曲がりなりにも、最終的には個人の責任において収支の取れた人間らしい生活設計をする必要がある。この経済的枠内で、知的能力と肉体的機能の拡大と維持設計をする必要があると考える。

知的能力の拡大と維持:  素人的に考えて全ての知的能力を記憶力と思考力の二つの分類の中に入れて考え、全ての物事はこの記憶力と思考力の縦・横の交差組み合わせで表現でき、また新しい知的創生や構築は新しい記憶と思考の組み合わせで出来ると考える。そこで、重要なことは守りの姿勢になって「維持のみ」を心掛けると必ず先細りになってしまう。そのため人間は常に何かにおいて拡大を心掛けることが必要で、拡大するものがある限り、人間は衰退してしまうことはないと考えている。そこで、大切なことはある期間を区切って、その期間内において常に新しい拡大を経験することである。そのきっかけは、新聞その他のマスコミ、IT、人との交流によって見つかるものであり、そのきっかけを逃がさないようにする精神状態を常に維持することが大切である。新しい経験は必ず整理して記録にとどめることが必要である。

肉体的機能の拡大と維持:  肉体的機能においても知的能力同様に拡大と維持を心掛けることはが全く同じように大切である。しかし、肉体的機能を運動能力で考えてみると現状能力を大幅に超える無理な拡大を一度にしようとすると大怪我をすることがあり、拡大にはその規模を段階的に考え、現状の能力で耐えうる範囲で徐々に拡大を心がれることが大切である。

むすび・・・tc-pmt ホームページ掲載の利用:

  人間は幾つになっても目標を立て、それをクリヤーするように努力することが大切である。豊倉も60歳を越えて、根気がなくなるのを感じるようになったが、最近では徐々にひどくなる気がしている。しかし、HPの期日が近づくと急に怠け癖は消滅して、まだまだ若いなと思ったりもする。しかし、その後はrecreateを心がけている。卒業生もこのHPをそのようにお使い下さい。

2005年5月

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