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豊倉賢略歴
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2005 A-1,5:「 終戦60年を機に思うこと・・(2)」

2ム1) 「2005A-1,5」に引き続いて「2005A-1,6」を書くに当たり:
 前回のHP「2005A-1,5」では第2次世界大戦を挟んで、豊倉が経験した小学校から高校までの日本社会の急激な変化とそれに影響された初等教育等の一部を書いた。その時代はこの100年間において日本国内が最も混乱した時代であり、その時代を小学校の児童として、また中・高校の生徒として過ごしたことの意味について2ム2〜4)で最近の子供達の生活と対比して振り返ってみる。

  豊倉はこの年になって子供の頃の生活が人格形成にどのように影響するかを考えてみるようになっている。 豊倉の育った時代は今と較べると想像できないほど貧しく、しかも自由にわがままを云なかったが、その不自由な環境で身につけたことを思うと戦後の恵まれた時代に生まれ育った人達の生活や教育に対して幾つかの疑問を感じている。そのように異なった環境で育った人達を較べると子供の頃に受けた教育は大人になってからの人格形成に大いに関与していると思うことがある。兎に角、敗戦の経験を思い出すと、その日から、自分の国・日本の常識が変わり、今まで絶対に正しかったことが覆され、それらはこれからどのように判断されるか分からなくなった。今までいろいろ意見を話してくれた年長者も自信を持って意見を言えなくなり、子供であっても自分で考えて出した結論に従って行動しなければならなかった。そに時、自分の判断に従って行動しても、その行動が新しい考えで誤りと気づけば、直ちに自分で責任をもって正さなければならなかった。そのように半信半疑で進めて来た生活様式は次第に新しい考え方に従って変わって行ったが、敗戦後の新しい秩序の社会が出来るまで続いた。

  このように自分達が慣れ親しんだ善し悪しの判断で日常の生活が簡単に出来なくなるのは敗戦の時だけではなく、不慮の災害に遭遇して生活環境が著しく変わった時にも短期的には起こることがある。人格を認められた人が社会で生活する時、その人は種々のことで責任を持って判断し、行動をしなければならないことがしばしばある。この判断の善し悪しは、判断したことよって起こった物事の結果が出た時に問われるもので、判断した人はその結果に対して常に自分の責任の取り方を考えて行動しなければならない。 人間は法律で守られた社会の中だけで生きている限り、法を正しく理解してその枠内で判断していれば、責任を問われることはない。しかし、世の中にはこの場合のように既成の法ではカバー出来ないことがあり、そのような問題に対してよく考えて判断し、結論を出さなければならないことがある。その場合、その判断に対する結果が出た時に判断が悪かったとしても、罰を受けるような責任を取らされることはない。しかし、時にはその判断を下したことに対する道義的責任を取らねばならないことがある。時には過去に全く凡例のない事柄に対して判断しなければならないこともある。 そのような場合適切な判断をすることは極めて難しいことであるが、それらに対しても可能な範囲で平素から対策を考えておく必要がある。

  一般に混乱期を脱却して安定期に入ってからは、世の中の変化に合わせて対応を取ることが有効である。終戦後5年を経過した頃から、日本の復興も軌道に乗り始め、経済も活発になって来た。昭和18年に家業を廃業して横浜市の磯子で生活していた父は、昭和25年に戦前に呉服商を営んでいた横浜市内の同じ場所で再び開業し、戦後の新しい生活を始めた。そして昭和28年に豊倉は早稲田大学に入学し、通常の大学生生活を始めた。しかし、大学卒業前の昭和31年に父は他界し、卒業研究を行いながら家業も行う生活をした。そして、昭和34年4月に早稲田大学大学院に入学、同37年4月には早稲田大学理工学研究所の助手に採用された。以降同41年12月より2年間米国TVA公社の招聘研究員としてアメリカ、アラバマ州に滞在、帰国後理工学研究所より理工学部専任講師となり、1999年3月早稲田大学選択定年制度の適用を受けて退職するまで37年間早稲田大学に在職した。現在早稲田大学名誉教授になっている。早稲田大学入学以降今日まで晶析工学の理論と技術の発展にお役に立てばと思い活動をしてきた。その間行った個々の活動は本HPで扱っているそれをご覧いただければ、何時何を行ったか分かっていただけると思う。しかし、今回は育った環境に左右されながら考え・行動したことを書くことにしている。ここでは過去を振り返りながら時系列的にそれらを書く。

2ム2) 中学高校時代の日常生活:
  時間潰しに困った子供の頃の思い出;
  第2次世界大戦が始まった当初の小学生時代を思い出すと、家にいてすることがなく困ったことがあった。当時は学校から帰ると自宅に居て、近所の子供と遊んで時間を過ごしていたが、その活動範囲は自宅から大体100メートルくらいの範囲で、遊び場は公道であった。当時はまだ、テニスのボールや小さめのバレーのボールはあったが、何時も同じメンバーで遊んでいると飽きてしまって、何か変わった遊びはないかよく考えたりしたものであった。誰かが竹馬の作り方を聞いてくると、子供は少し太めの竹竿を2本探してきて、それに風呂場で燃すために用意してあった薪の中から足置きに使えそうなものを数本さがしてきて竹馬を作った。しかし、足置きを竹に固定する丈夫な紐はそう簡単に見つからなかった。そこで、近所の竹藪に入って、そのうえに生い茂っている丈夫そうな藤蔓を切り出し、子供達は自分で遊び道具を作ったものであった。秋になると近所の雑木林に生育していた自然薯を堀りに行って、夕食の足しにしたこともあった。今でもその時の自然薯の味は忘れないで、黄色く色付いた薯の葉を見つけると掘ってみたくなることがある。しかし、細長い自然薯を地中から掘り出すには深さ1メール以上の細い穴を掘らねばならず、その時、芋掘り道具で細い薯を切ってしまうと穴の中に見失うこともあった。また、薯の葉の形は似ていても薯が出来てないこともあって、自然薯堀りもいろいろ経験を積みながら工夫をしないと思うように掘れなかった。・・・私の子供時代は今の子供と違って、暇があっても勉強しろと言われることもなく、外で遊ぶ時間が多かった。子供同士が外で遊ぶと競争して駈けることが多く、単純な遊びをしていると自分達で何か工夫して新しい遊びを始めることもしばしばあった。この時代、天気が良ければ自然と外に出て、日が暮れるまで運動して遊ぶことが常であった。当時は町の中の乗り物と言えば自転車くらいで、車の通行は少なく、今から思う非常に健康的であった。

   中学生時代の私生活は、2005A-1、5の4や5)に書いたように中学生になって新しい授業が始まった昭和20年4〜5月頃は緊張感があったが、5月29日の横浜大空襲で中学校校舎が焼失してから授業はなくなり、学校に登校しても午後には帰宅する日課になった。しかし、自宅に帰ってもしなければならないことはなく、小学生の時のようにどう時間を潰そうか考えるような状況であった。その頃は日本の食糧事情は既に悪くなっていて、各家庭に配給される食料の量は不足気味であった。そのため、多くの家庭では自宅の近所の空き地を開墾して野菜作りをしていた。豊倉の家でも時間に余裕のあった父は野菜作りをしていたので時々その手伝いをしていた。そこでは、植物も立派な生き物であり、その手入れのし方によって出来具合は随分異なるものだと云うことを経験した。人間は粗暴に対応するとすぐいやな顔をされ、まずかったと気が付くのものだが、野菜は口を利かないが、手入れが粗末だと生育が悪くなり、その収穫に正直に反映されるものだと教えられた。野菜作りは日々の食生活に直ぐ響くことでおろそかには出来なかったが、中学生として自分の将来を考えた時に、このまま目先のことのみ見て生活をしていたらどうなるか恐ろしかった。

  特に、8月15日に終戦を迎えてからは、学校の先生方も生徒は勉強しなければならないと考えていたようだが、学校の方針としてしかじかかくかくの勉強をするようにと云うことも出来ず、歯がゆい思いをしていた先生方の姿が生徒の目にも見えた。戦地から復員してきた旧日本軍人の姿は街の中によく見掛け、日本の社会全体に張りがなくなっていた。この様な時、夜自宅に一人でいると何か自分で納得出来る勉強を一人ででも行わねばと云う気になって、中学生になって始まった新しい教科目の勉強をぼつぼつ始める気になった。その時家にあった戦前の数学の教科書(代数と幾何)を開いて自習した。その幾何の本の初めの方には、三角形の定理があり、その定理を使って三角形の性質を証明することを行ったことを記憶している。小学生時代では、幾何特有な用語の定義や、定理を聞いたことがなく、また証明問題も行ったことがなかったので、新鮮さも加わって新しい興味を覚えた。この時この幾何を勉強して面白く感じたのは、問題を解くのにいくら時間を掛けてもよく、自分が納得するまでいろいろ考えることが出来たので幾何の理解を深めることが出来た。証明問題ができるとその性質は三角形の大きさに関係なく一般的に成立するということも学んだ。また、三角形の内角の和はどのような形の三角形でも同じ180度であると言うことは感激であった。四角形は対角線を一本引くと2つの三角形に分けることが出来、どのような形の四角形でも内角の総和は 180°x2 と云うことを容易に理解できた。この様な学び方をすると、自然に幾何に興味を持ち知らず知らずと勉強ははかどって進んだ。

  中学校の代数の入口は容易でない:  しかし、小学校で得意だった筈の加・減法の計算は数字にプラスやマイナス性質を持たした代数で対象にする加減法はそれを数直線上で考えても理解は非常に難しかった。特に加算において数字を文字で表すとその加算する意味を理解することも小学校時代の概念と全く異なったように思えて難しかった。また、多項式の計算に文字が入るとそれも充分理解することは出来なかったことを覚えている。その頃は代数で教えられる式の意味について充分考えないで、例えば1ム-1はマイナスとマイナスで加算にすると覚えて済ませたような気がする。実は数日前の朝、NHKテレビの3チャンネルを見ていると高校講座の数学氓フ講義を放送していて、そこでは中学数学の復習をして数直線上でマイナス・マイナスの説明をしていたが、その説明を聞いたのではこの計算がプラスになる意味は必ずしも理解出来たと云いけれないで、正に機械的に教えて込まれているように思えた。そこで、当時の自分の理解を振り返ってみると、その時はこの意味を十分理解したと云うよりは決まりごととして覚え込んで、理解した気になっていたように思う。というのは1ム-1=2という意味を十分理解してないため何時までも気になっていたことを覚えている。しかし、それを一つの公理のようにしてしまうと、マイナス・マイナスの計算をプラスとして覚えることでそれ以降の計算を簡単にすることが出来た。この時数学は特定の性質を持った概念に特定な言葉を与えてその言葉の定義とし、その言葉を定義した時の特性を間違えなく組み合わせて新しい概念を見つける学問のようにおぼろげに考えたような気がする。(・・・というのは、中学校低学年での数学においてその様な概念をはっきり認識していたかどうか定かでないが、その後数学の勉強を自分で行っている過程で分からなくなった時はその言葉の定義に戻り考え直すことが、何時の間にか身に付いていた。中学3年在学の時、無限数集団とはその母集団を構成する因子と集団中の部分構成因子が1対1対応出来る集団のことを云うと定義を聞いた時、無限の概念が分かった気になって感動したことがあった。)そこでは筋を通すことが必要で詭弁を使ってごまかしても通用せず、本当の学問に触れたような気がして数学に引き込まれるようになったと思う。

  この様にじっくり考えて勉強をする時間が持てたのは敗戦という混乱期のお陰で、一見趣味と思えるような勉強が出来たのは非常に良かったと思っている。しかし、そのような趣味にばかり時間を掛けると学校の授業は疎かになり、自分の興味にまかせて好きなことに時間を使うことは次第に出来なくなった。戦後の混乱期が終わって世の中がだんだん落ち着いて来ると、学校の授業もパンクチャルな方針で進められるようになり、興味のあることに時間を使って楽しむことは定期試験の終わった時とか夏休みのように長期休暇期にしか出来なくなっていった。それでも、中学生時代は高校進学の受験勉強はなく学生天国であった。この様な生活をしていると時間のある時は机に向かっているように思えるが、実際は外で球技を楽しむことも好きで、学校で余暇のある時数名の友人が集まるとボール投げやベースボールのフリーバッテイングのようなことを行っていた。前にも触れたが、当時の中学校校舎は横浜では市の南端に位置し、先生方や生徒の通学の便はまだ充分整備されていなかった。そのためか、授業は休講になることもしばしばあった。授業が休講になると大半の生徒は校庭に出てソフトボールなどよく楽しんだ。当時はやっと球技道具は入手出来るようになったが、それらは品質的にまだ問題があって自分達で修理しながら使っていた。しかし、ソフトボールなどを皆で楽しむのは実際は限られていたが、それでも各クラスに同好チームが複数出来てリーグ戦を行ったり、クラスを越えた対抗試合なども盛んに行われた。その意味ではよく遊び・よく学ぶ生活をしていた。これらのスポーツ競技も生徒が自主的に行うもので、教員は何も関与しなかった。その意味では今から思うと中学から高校への時代は理想的な中学生時代であった。

  高校3年になると、戦後に改革された新しい6・3制も可成り軌道に乗って来て、その年の4月に新制度の中学校を卒業した生徒が高校1年生として進学してきた。それまでの県立横浜第1中学校は市内のエリート小学生しか入学出来ない学校で、横浜市南端学区の中学校を卒業した生徒が200人以上も入学出来るようになるとはとても考えることは出来なかった。実際その時の変貌振りは、大変であった。その時入学してきた生徒の様子からは、新制度のお陰で横浜市の有名校に入学できたので、なにもかも教わって仕舞おうという気力は感じたが、上級生から見ると何を見ても分かっているのかなと云う気がした。この頃になると終戦直後とは変わってきており、学内のサークルも体育関係の運動部の外に文化部も可成り復活して活動していた。豊倉も高校二年の後半には数名の有志と数学研究クラブを立ち上げ、学校の授業と離れた数学についての勉強を自主的に始めていた。その時数学の先生には顧問を引き受けて頂いたが、その先生には生徒から相談に伺った特別なとき以外はクラブ活動に入って頂くことはなかった。その頃理系のクラブは生物部が終戦後早くからスタートしていたが、その他の化学部や物理部は後にスタートしていたようであった。特に物理部(物理実験部ということであった。)については豊倉が数学研究クラブをスタートした頃入部を勧誘され、物理部のメンバーの一部を数学の方に誘うバーターのような形で豊倉は物理部のメンバーになった。

  その年の5月に開催された高校の記念祭では、数学研究クラブの活動紹介の展示を行った。多くの場合、数学は数式を整理したり、グラフを展示することを考えるが、その意味が簡単に分かるものでないとお客に興味を持って貰えないと考え、一つの目玉として模型を作成・展示し、そこに描かれている図形の数学的解析を示すことにした。そこで作成した模型は直角に交差するxy軸を考え、この隣あったxy軸上に線分長さが一定の紐を張り巡らし、その隣あった線分の交点を結ぶと星ボウ形になる。それはあたかも夜空に輝く星のような形になるが、その線を表す式を数学的に解析して提出し、図形と合わせて展示した。これは、当時豊倉が使っていた古い数学の本(大正13年5月1日付厳密修正第5版の竹内端三著「高等微分学」)のp283 包絡線を参考に作業して纏めたもので、この解析ではxy軸の間の線分の式 F(xy,a)=0とこの式を定数aで偏微分した式 Fユ(xy,a)=0 よりaを消去して得た x,yの相関式を誘導した。この解析は高校生には少し難し過ぎたかも知れなかったが、記念祭ということで敢えて展示した。しかし、豊倉がこの展示場を留守にした時、当時早稲田大学数学科の学生と云う人が知り合いの高校生と来ていてこの展示を見て、「この解析は間違っている。この包絡線を数式で表すにはClairautの微分方程式を解かないと駄目だ」と2年生に話をして行ってしまったというハプニングが起こった。そこで、初めて数学の顧問の先生にご意見を伺いに行き、結局我々メンバーの解析は正しいと云うことになったが、その数学科の学生は包絡線求めるにはClairautの微分方程式を解く方法しか理解してなくて、無限に漸近させた時の微分計算法を用いた方法を知らなかったことと、他人の考えをよく聞き理解しようとする心のない学生と思った。(実はこの早稲田大学の学生とは、その後記念祭で質問された学生と豊倉が高校の近所の通りで偶然会ったのでこの問題に対して話したことがあったが、我々の考え方を聞いて理解しようという様子は見えなかった。・・・それ以降早稲田大学数学科の学生は余り程度がよくないのでないかと思った。豊倉が早稲田大学の学生なった年の数学の授業で数学科の先生の講義を受けた時、その講義の内容に質問したことがあった。その時、先生は1年生の話をよく聞き、立派に対応を取って頂いたので、それ以降は高校の記念祭で会った早稲田大学数学科の学生は特別な学生だったと思うことにした。)

  物理部での活動は、個人的には出来ない物理実験を学校の実験器具を使って行うことが出来た。通常、高校の講義では、基本的な現象や理論を対象に行われるが、それを現実の事象に適用すると実際に起こっていることは理論より推察されることと異なっている。学校での教育実験は、その理論についての知識を学ぶようで? 実際の現象が理論と異なっていることが多く、その差異を定量化し、その理由を考えて実際に起こっている現象を理解しようとする勉強は殆どされてないように思う。豊倉が物理部のメンバーなった時、そこのメンバーはそれぞれ思い思いに実験を行っていたようで、それはそれとして意味のあることと思い、豊倉も自分の興味で実験テーマを考え、物理実験を行ってデータを取得した。そこでは支配的に起こっている現象を推測し、それに寄与する支配的因子を考えて操作条件と実測データの関係を定量的に相関することを行うことにした。そこで決めた実験テーマは、比較的実験の行い易いビーカー内の湯の冷却速度の実験とその現象解明を対象にした。当時の物理実験装置は今では考えられないようにお粗末なものであって、小型のビーカーの中に水を入れ、それを所定温度まで加熱後そのビーカーの中のお湯の温度が比較的均一になるように撹拌しながらその温度の時間変化を実測した。ここで実測した温度の降下速度はビーカー内の湯の温度と実験室温度との温度差に比例するというニュートンの法則に従うと仮定の下に提出されている簡単な微分方程式を説いてデータの整理を行った。この式は高校生でも簡単に解け、片対数点綴で部分的に良い相関が得られた。しかし、この実験時間が長くなると実測値はこの関係式から離れた。このような差異を解消するには、ビーカー内の湯の蒸発による気化の潜熱を考慮する必要があると考え、この冷却テストにおける湯の蒸発量の変化を実測し、この蒸発速度の項をニュートンの冷却速度の式に加えて修正微分方程式を提出した。その結果、この微分方程式から誘導した修正式でこのビーカー内の湯の温度冷却データの相関は大幅に改善した。また、単振子の実験も行った。この実験で実測された振子の運動を、重力にも基づく運動の方程式を考えて検討した。これらの検討は高校の物理では殆ど行われていなかったが、これまで自分で勉強して来た数学を使用して種々の理論的な考察を行うことが出来たのは楽しかった。この様な理論的検討は旧制度の高等学校で使用された物理の本を参考に行ったが、この様な考察を行うことによって数学の書物で勉強した微分積分が物理学の理解に必要であることを経験した。

  戦後の混乱が切掛けで勉強を始めた数学は、いつの間にか高校生の学習範囲を越え、自分なりにそこに何かあるような気がするようになった。高校を修了した段階で、今後大学に進学してここで勉強したものをさらに進めることができたらと云う気になった。また同時にもし世の中が安定した時代に高校生活を過ごしていたら全く異なったことを経験し、将来に対して全く異なった未来志向を描いていたかも知れないと思った。豊倉は偶々第2次世界大戦とその戦後を経験し、その時代を生き抜いたことは良かったことかどうか分からないが、将来の方向を決めるのに大きく影響したと思っている。数日前の夜、NHKのテレビで若者と現在第一線で活躍してる大人がフリーターを含めた若者の人生観についての討論会を行っていた。そこで発言していた若者の中に、自分の仕事に対してベストなものを探していると話した人がいた。しかし、自分にベストと思える仕事を探して決めることは非常に難しいことである。実際にはある大人が発言していたように、自分の前の限られた広い仕事に関するものの中から自分にベストと思える仕事を決めることは可能であり、それをベストと思いそれをベストにするように努力すべきである。豊倉の場合、高校時代に勉強し経験したものをその後も考えながら発展的に継続し、さらに経験を重ね、窓口も拡げながらさらに発展させると同時にそこで修得したことを活用して、これまで仕事を行い人生を過ごして来たように思う。

2−3)大学受験から学部卒業まで:
  高校3年になると、1年先輩の上級生の大学受験結果が耳に入るようになり、東京大学を初め、一流の大学に順調に合格していた。また、その頃入手した試験問題も必ずしもそう難しいとも思えなかったので入学試験に対して甘い考えを持ってしまった。そのような気の緩みがあったためか、入学試験に失敗して浪人生活を始めた。丁度その頃家業を廃業して8年近く無職で、町のボランテアことをして過ごしていた父は戦前に店を出していた横浜市内の同じ場所に昔と同業の呉服店を開店した。その頃は日本経済も戦後の混乱期を脱出しつつあり、父の店は開店早々から順調に繁盛した。そんなことで時々店の手伝いをしながら受験勉強を続けた。そのような言い訳は通用するものではなかったが、最後に運良く早稲田大学理工学部応用化学科に入学して救われた。

  早稲田大学受験当時の思い出:  早稲田大学を受験する時、もし豊倉が私学を受験するのであれば理工学部であろうと誰でも思っていたようであったが、応用化学科を受験すると予想した人はいなかったと思う。当時、兄から聞いた話では、工学部の中でも合格点の高いのは機械、電気、応化ということを聞いていたので、その3学科以外を受験する気はなかった。この3学科の中で入学後数学をよく使うのは電気と機械と聞いていていたが、もし、早稲田大学に合格したら一番数学を使わない学科で数学を使うような新しい分野で勉強したいと思い応用化学科を受験した。学科志願を出す時兄にも相談をしなかったので、兄は電気か機械を受験すると思っていたと合格してから聞いたことがあった。1次合格の発表を見に行った時、募集者より非常に多い数の合格者が発表されていたので驚いた。後で知ったことだが、私立大学では国立1次の発表前に入学試験を行うので、国立大学の発表後に辞退者が出る。そのため、辞退者数を見越して発表しておかないと後の処理に困ると云うことを知らなかった。従って、2次面接の受験者数は多く、試験官は手分けして面接試験は数会場に分けて行われた。ここでの面接試験の主な目的は最終合格の発表に対して入学手続きをする可能性を調べることのようで、その状況によって補欠発表をするかどうかの腹積もりをすることのようであった。その様なことだったので、面接試験の空気は全く緊張感がなく、試験の出来具合などを聞かれた。それでは、応用化学科の先生は余り数学のことは知らないのでないかと思って数学に話をしたら、逆に面接をしていた一番若い先生からいろいろ聞かれて、大学の先生の中に化学系でも数学のことをよく勉強している先生がいることを知ってホットした。(入学してから知ったことだったが、この先生は理論化学の専門で、数学が非常に堪能な先生であった。) こんな話をしていたら、外の試験官の先生が試験結果のリストを見て、君は数学の試験は良く出来たね。入学したら数学科に行ったらどうかねと云われてしまった。・・・・・実は早稲田大学受験の様子は受験前には何も知らなかった。入学後の学科ガイダンスでこの年の合格最低点の理工学部中一番高かった学科が応用化学で、その合格ラインは8割くらいと聞かされ、数学が満点近い点が取れなかったら合格しなかったのでなかったかと思った。早稲田向きの受験勉強は何もしなかったが、中学・高校時代に数学の勉強を自分でしてなかったら、合格したかどうか分からなかったと改めて思ってホットした。

  早稲田大学応用科学時代の思い出:  豊倉が在職中は、在校生から応用化学はレポートが多く、非常に厳しい学科という話をよく聞いたが、豊倉の学生時代も講義は毎日朝8時より午後4時まで詰まっていて、実験はこの時間内には終わることはなく、レポートは多くて可成り厳しい学科であった。高校時代は理系の科目と云っても、学校の授業における数学と物理は特別な勉強は何もしないでも困ることはなかった。一方、化学は理論的なことは簡単であったが、分類学的な内容の覚えることは例外的なことがあって、数学や物理のように理論的に考えればすべて理解できる訳ではなかったが、それでもその数はそれほど多くなかったので余り苦にならなかった。しかし、大学の化学は高校とは較べものにならないくらい覚えることが多かったので、化学は数学や物理と大分違うと改めて知った。その意味では1年生の教養科目の数学や物理の講義の方が化学の講義より興味があった。2年生以降はどちらかと云えば物理化学や化学工学の方に興味があった。特に在学中は特別なこともなく4年次生になってそろそろ就職のことを考えるようになった。その頃になると、父の店はすっかり軌道に乗り、店内の拡張を行って順調に進んでいたが、父も60歳に近くなり、店の将来をどうするかが家の中の話題になっていて、最終的に豊倉が大学を卒業してから店を継ぐことにした。しかし、在学中は余り店の手伝をしないで、卒業論文を中心とした大学生活を続けた。

  昭和31年6月18日未明、父が寝起きをしていた店から「父の容体が急におかしくなった。」との電話が入った。父は狭心症という診断で、兄と一緒に店に着いたときには既に息は途絶えていた。これを機に豊倉の生活は一変して家業の店の仕事をすることになったが、当面主に仕入れ関係と経営に直接関係することを分担した。父の急死で店は一週間程度休業したが、それ以降は平常通り開店して営業を行った。父は急逝するまで全く平常の生活をしていて、7月のお盆に向けての商品の手配は済んでいたので、当座の仕事としては夏の商戦で販売した商品の補充程度の仕入れで済ますことは出来た。

  4年次の卒業論文は宇野先生のご指導で「にがり溶液」に無機塩を加えその時の飽和溶液組成成分を化学分析にて実測し、相平衡図を作成した。この平衡図を用いてにがり溶液から特定成分を析出させる操作条件の検討について操作線を立式して行い、卒業論文を纏めた。通常、卒業論文の作成は、学生の就職が決まった後に精力的に実験を行って纏めていたが、豊倉は店の仕事の関係でその時期を繰り上げ、夏から秋にかけて精力的に行った。一方、店の仕事の方も秋には一通り頭の中に入り、商品仕入れと経営面のことに加え商品販売の接客も行った。商品管理は父が殆ど一人で行っていたので良く分からなかったが、前年度の帳簿の記録や在庫などを定量的に解析して店の客筋を自分なりに理解し、それに取引先から入手した最新情報を考慮して総合的に判断し、個々の仕入れ商品の店内におけるモデル在庫期間を想定しながら、商品の仕入れ時期、種類・数量を決定して仕事をした。父の営業方針は、顧客の信頼を得ることであり、特に新規客には信頼を得て比較的高価な商品を納得して購入してもらうようにすることは小売店として重要であると前々から聞かされていた。

  その一方、取引先の信頼を得ることも重要であり、そのために取引先の社長以下経営者のみでなく、若い係の担当者の信頼を得ることが大切で、それには毎日の生活を誠意を持ってキチンと長期間続けることであることを取引先との取引を通して学んだ。忙しいときには、顧客の特注に応えるために、東京掘留界隈に1日に2度往復することも珍しいことでなかった。この様な行動は取引先からの評価にプラスになったようで、産地の事情で急遽入荷した掘り出し物など、特別に廻してもらうこともしばしばあった。その時老舗の取引先は将来頼りになる若いオーナーや人材に高い関心を持っており、将来を考えて丁重に対応していることを知った。良好な人間関係は、頭で考えれば分かることでも、生活の中で経験し・行動で表して初めて出来上がるものであることを学んだ。また、その行動は相手が自分の過去の経験と比較して理解して初めて評価するものであった。ここで経験したことはその後の豊倉の人生の大いに影響した。

  大学を卒業して、2年近く経過した頃には素人家族の集まりで引き継いだ家業も軌道に乗り、今後どのように進めるか家族で相談して、豊倉は再び大学に戻ることにした。その時、直ちに化学系の技術者として企業に就職するか、一度大学院に入学してそれから就職を決めるか考えて、早稲田大学卒業時のクラス担任石川先生と卒論指導教授の宇野先生に相談した。その時の先生方のお話では、昭和34年度卒業の学生の就職はほぼ終了した時期だが、急いで就職を希望するのであれば受け入れる企業はある。今、早稲田大学大学院は新入生募集中なので今からなら大学院受験を応募しても間に合うので大学院に進学する選択肢もあると伺った。そこで、兄とも相談し、種々の可能性を考えて大学院進学の入学試験を受けることに決めて、上記の両先生に再度相談に伺った。この時、豊倉の希望として、自分が専修したい分野として化学工学分野で城塚先生のご指導を受けたいと申し出て両先生のご賛同を得た。その段階で城塚先生に受験することをお願いして、先生のお許しを得た。

2−4)早稲田大学大学院理工学研究科院生〜助手時代(1954〜1989):

  昭和34年4月1日付けで早稲田大学大学院修士課程入学が決まり、城塚研究室で研究活動を開始した。その時の研究テーマは城塚先生より晶出現象の研究をするように云われた。しかし、当時の豊倉には結晶という言葉は聞いたことはあったが、晶出とは何か全く知らなかった。当時の城塚研究室では抽出操作の研究を行っており、特に城塚先生がアメリカより帰国されて以降、異相界面付近の拡散現象を中心に研究されていた。豊倉が城塚先生にお目に掛かった時、城塚先生の研究のご方針は拡散分離操作の確立を目指して居られたようで、豊倉には液相から結晶を析出させ、それによって成分分離を行う操作法の確立を大きな命題として研究するように云われた。この分野の日本国内の趨勢は後から分かったことであったが、昭和20年代に既に東京大学の宮内先生が研究を始めて居られ、また30年代の初めには東京工業大学の藤田先生も研究を始めておられた。当時、この分野をリードしておられた先生方は昭和31年に化学工学協会関東支部主催の晶出に関するシンポジウムを開催していた。しかし、これらの先生の研究室の晶出研究はその研究室にこの分野の研究を行う研究者がいた時、数年間研究を続けていたようだったが、長期に継続的に研究が行われるようになったのは中井先生や中島先生がそれぞれの研究室で晶出研究を始められてからで、それは豊倉が城塚研究室に所属し、晶出研究を始めた頃とほぼ同時期であった。

2-4,ウ)1959〜1961)
  この時代の豊倉の晶析研究は、過飽和溶液内の溶質の拡散現象としての結晶成長現象を対象にした時代であった。その研究成果は化学工学協会学会誌・化学工学や早稲田大学理工学研究所報告に発表し、その一部はすでに本ホームページで紹介した。しかしこれらの研究を行った頃の実体は、溶液から結晶を析出させた経験のない時代であったので、晶出現象や晶出操作を研究する場合の基礎的なことを一々実験し、体験して文献に記述してあったことを理解しながら進めた時代であった。その意味では、何でも試して見れる時期で楽しかったが、そこで実験したものは外部では研究として余り評価されるものではなかった。それでも新しい分野を研究する場合、文献の記述を実験することなく読んでもその内容を本当には理解できないことが多いことを体験した。その意味では、この時期の研究経験はそれ以降の研究を進める上で非常に大切な時であったことが後でよく理解できた。・・・豊倉が体験して理解したことを既に経験した人から聞いていたら、真の現象を表層的に理解し、それを疑うことなく研究を進めるようになって、研究結果を早く纏めることは出来たかも知れなかったが、独創的なアイデイアを見出す機会はずっと減っていたのでないかと思っている。・・・・・過飽和溶液内の準安定域についての考え方。過飽和溶液内のクラスター等について。媒晶作用の動的な概念。結晶成長と凝集物の生成。その他についての独創的なモデルの想定は、一連の研究実験の過程で観察した現象が広く通念的に認知されていた概念や理論では理解出来ないことがしばしばあって、それを検討し続けた結果10年20年と経過してから生まれて来たものである。また、この頃は化学工学分野の若い研究者や技術者の参考になるような基礎的な文献の紹介がなく、城塚先生のご指導でそれらの調査・整理も行ってのを化学工学協会会誌等に紹介した。

2-4,エ)1961〜1963)
  豊倉は昭和36年4月早稲田大学大学院博士課程に進学し、博士論文のテーマは「晶析装置設計理論の提出」に決まった。当時、拡散単位操作の装置設計理論は蒸留・ガス吸収等で既に提出され、工業装置の設計に適用されていた。そこで、城塚先生のご指導は、まず、これらの設計理論とアナロジーに基本式を立て、それより所望の結晶を所定量生産する晶析装置の設計理論を代表的形式の晶析装置個々に対して提出するようにとの方針であった。まず、1940年代末に提出されたSaemanやBransomらの理論式やその他の関連文献を調査し、これらの論文を参考に検討してより妥当と考えた独自なモデルを想定して設計理論式を提出した。これらの調査研究を行っていた段階で、装置を扱っていた日本の技術者の多くは、それまで化学工学分野の研究者が使っていた「晶出」のことは「晶析」と呼んでいたので、我々の研究対象が企業技術者がそれまでに使っていた工業結晶化装置であることを示すために「晶出」を「晶析」、そしてその装置を「晶析装置」と呼ぶことにした。それらの論文を完成した過程についてはすでに本HPに掲載したので関心ある諸氏はそれらを参照にして下さい。ここで、豊倉の設計理論が当時すでに提出されていた理論と異なる主なポイント(Nyvlt他海外の研究者がオリジナルと評価したポイント)について以下に示す。:
a) 分級層型装置では塔頂部から排出される溶液内残留過飽和度があることを想定し、さらに装置内の特性を示す関係式に対してより妥当な相関式を検討・選択することによって、晶析装置設計理論の体系化を可能にした新しい無次元因子「CFC」を提出するのに成功した。

(この因子はこの式を含む設計式が誘導されるまで存在するとは考えていなかった。ただ、スケールアップを容易にする設計理論体系を提出するためには、各装置形式に対して製品結晶の生産量・粒径、装置内結晶の成長速度を無次元数で表せる無次元晶析操作因子は提出できないものか期待して提出した設計基本式の変形を行った。この結果幸運にもこの因子を見つけることが出来た。これは、「式の変形・誘導には中学・高校時代から絶対的な自信を持っていたこと、この様な作業は自分の調子の良い・気の乗った時に比較的短時間に行うようにしていた。」のが良かったと思っている。研究は内容によって程度の差はあるが、特に基本になる式の提出は、一つの新因子、一本の新しい式が見つかれば出来るように思う。そのような鍵になる新しい因子、新しい式は、チョットした瞬間にひらめくもので、短時間に集中された洞察力は必要で、スポーツ選手の集中力、瞬発力と相通じるものがあるように思う。)

b) この無次元CFC因子を円筒分級層型装置に対して提出したことより、同じ特性の晶析操作特性因子は連続撹拌槽型、連続運搬層型(この装置は世界中で広く稼働しているDTB型やDP型のモデル装置)や円錐型晶析装置(CE型クリスタライザーのモデル装置)に対しても提出され、工業晶析装置の設計に使われるようになった。

c) 1963年には国内企業で稼働されてる晶析装置・操作の検討や晶析装置設計に使用されるようになり、その一部は学会誌等に掲載された。
   この晶析装置設計理論は昭和42年に提出し、その翌年この設計理論を中心に博士論文を纏め、早稲田大学大学院理工学委員会で工学博士が決まった。また、大学院博士課程在学中の昭和 42年5月の教授会で理工学部助手嘱任が決まった。(人事枠の関係で抽選で理工学研究所本属で4月1日付けにさかのぼって決まった。その時の応用化学科内の処理は卒業論文で指導を受けた宇野先生が豊倉助手の指導教授で、大学院在学中は引き続き城塚先生のご指導も受けることになった。)また、理工学部の教授会では豊倉は3年間の理工総研助手任期終了後は理工学部専任講師で受け入れることは決まったと云う話を宇野先生や当時主任の石川先生、城塚先生から伺った。)このようにして、宇野先生の助手に決めて頂いたが、大学院在籍中は宇野先生に直接ご指導を頂く機会は比較的少なかった。昭和37年12月たまたま先生にお目に掛かる機会があり、大学の近所でお酒を頂いたことがあった。私は宇野先生が化学工学協会会員で、応用化学科内で化学工学を理解して下さってる先生の一人で、当時実用化されていた有名な宇野式沈降槽についての研究論文は化学工学に発表して居られたと聞いていた。

  この時宇野先生から、「無機化学で対象となる現象を化学工学理論にしたがって定量的に扱って研究を発展させることは重要であるが、化学工学では定量的に数式処理するために現象の捉え方が大まかになり、重要な現象を見落し易いのでそのことは気を付けるように」とご指導頂いた。今思うとこの時先生から頂いたお話は最後のご指導となった。学部学生時代もデータの取り方で小さなミスに拘わることを見逃さないようにご指導うけたことがあったが、先生からのご指導は豊倉の研究哲学“C−PMT”のPを研究する時に最も注意すべきこととして、何時までも頭の中に記憶されている。

2-4,オ)1964〜1968)
  人事は思わぬ時に進むことがあるが、何か予期せぬことが起こるとほぼ決まっていたことも急に頓挫することもある。昭和40年4月には私は専任講師として理工学部本属になることにほぼ内定していた。しかし、宇野先生が39年1月に突然お亡くなりになり、その後の人事枠の処理がつかなくなり、理工学部への帰属は延期になった。この時城塚先生から事情の説明を受け、今年は見送りになるが、今まで通りに研究活動を続けるようにとのお話があった。そして、1年経った昭和41年4月も状況は変化しなかった。そこで、これ以上そのままのポジションに居続けることは尋常なことでないと考え、人事の見通しが付くまで海外留学をさせて欲しいと城塚先生に申し出た。先生は豊倉の希望を了承して下さり、海外留学先の探すように云われた。当時、海外留学と言っても日本国内のお金で海外留学をすることは各機関の予算や事情があり、容易にそれを受けることは出来なかった。ただ、理系の場合、日本人博士に対する海外の評価が高いのでpost doctoral fellowshipは比較的容易に受けることが出来るようだった。そこで、海外から募集の来ているpost doctoral fellowshipの書類を受け取るようにし、まずそれに応募することにした。もう一つは自分の研究に関心を持っていそうな外国の大学教授や研究所を探し、そこで留学費用を持って受け入れて呉れるか問い合わせを出すことも考えた。そこで豊倉は、自分の研究歴と主な研究成果を纏めた書類を作成し、それに留学希望等の一通りの書類と城塚先生に書いて頂いた推薦書を揃えて留学希望先に送った。

  海外への留学はこれまで全く考えたことはなかったが、留学についての作業を行って国内外の人々とお付き合いを始めると、国内で活動するだけでは得られない経験をすることが出来た。留学願いの書類は5〜6件送っただけであったが、3件の返事や問い合わせが返ってきた。最初に来たのは、イギリス、ロンドンUCLの Mullin 教授(この頃はまだ直接会ったことはなく、初めて留学希望の書類を送った。)からで、費用は自分で負担して来るのかとの問い合わせはあったが、それに対する返事は出さなかった。しかし、それから半年位してから、今でもロンドンに来る気はあるかとの問い合わせが来た。その時は既にアメリカに行くことが決まっていたので、そのことを伝え、アメリカに行った帰りに研究室に寄れるようだったら訪問したいので宜敷頼むとの返事は送った。アメリカTVAはかってSaemanが晶析設計理論の研究を行い、さらに工業装置を建設してそれを稼働していた研究所で、最近その研究所のGetingerがIECに晶析についての論文を発表していたのでGetinger 宛に留学希望の手紙と書類一式を送った。丁度その時中央大学の安藤淳平先生が2度目の招聘を受けてその研究所で研究活動を行っていた。そこで、Getingerは私の送った書類を持って安藤先生の所に相談に行ったようで、安藤先生は無論私のことは知らなかったが、早稲田大学は日本で有名な大学でそこで博士論文を纏めたのなら立派な人だからと強く推薦して下さって、以降話が順調に進んで1966年12月に留学することが出来た。豊倉の手紙がTVAに着いた時の様子は安藤先生から直接お手紙を頂き、TVAの研究所はとても良い所だからこの研究所に来られると良いと云うお話も伺うことが出来て、豊倉もそこに留学で出来たらよいと思った。安藤先生からお手紙を頂いた直後にカナダのNRCから、post doctoral fellowship 内定の通知を受けたが、安藤先生と連絡を取った上でカナダの方はお断りした。TVAにはおよそ2年間滞在して研究活動を行い1968年11月にヨーロッパ経由で帰国した。その時の様子は既に本HPや豊倉が退職した時に卒業生が出版した「21世紀への贈り物・・・C-PMT 」に掲載してあるのでそれをご覧下さい。

  ここで1964〜1968年の間のことを振り返ってみると・・・・1964年(昭和59年)の人事では、早稲田大学応用化学科内の事情で豊倉の昇格人事に予想しなかったことが起きた。人は皆自分の将来についてそれなりにある種の夢を描き、その夢を実現するように努力し、種々の準備をするものであるが、長い人生の間には予想外ことが起こる。豊倉がユ64〜66年に経験したことは公的機関でほぼ公式に決められたことのようであったので、それが長期に亘って滞るとは考えていなかった。しかし、このような機関でもやはりそれなりの事情があって急に変わることがあることを経験した。この時のことは既に決定したことが白紙になったというわけでなく、基本的には生きたままであったが、前に決まった通りに進めることが出来なくなったと云うことだった。同じ頃非公式に他の国立大学から来ないかと言葉を掛けられたことがあり、自分の身の振り方を決めることは難しかった。似たような経験をした人は応用化学科内に私の外にもいたようであったし、また、研究室の卒業生の中には全く同じことではないが、自分が想定してないことにぶつかり、転職した人もいた。この様な場合転職による方向転換は一つの解決法であるが、豊倉は海外留学の道を選択した。この留学に当たっては、城塚先生・安藤先生はじめ、国内外の先生方や技術者の理解と協力を得て留学前に日本国内で行った研究の枠を発展的に拡大させ、新しい業績をあげると同時に実績を伴う経験を増やすことが出来た。その概要はこれまでの本HPに書いたので、時間のある時にでも読んで参考にして頂けたらと思っている。ここに記述しているように、豊倉は留学を選んだ結果、帰国後日本国内の企業技術者とのコンフィデンシャルな討議が活発に出来るようになり、また欧米の研究者・技術者との交流も頻繁に行なえるようになった。また、この2年間に早稲田大学の学内の事情も進展し、1964年以降止まっていた豊倉の人事も動き出した。この間当初より5年遅れの昇格となったが、海外で学んだことは日本にそのままいて身に付けたろうと推定されることより遙かに多くのものを得たように思っている。数年後の学会の理事人事や学会賞受賞等の時期を思うとそれには学内の昇格人事の遅れは影響しなかったような気がしている。

2−5)1969年以降の活動:
  豊倉は1969年4月早稲田大学理工学部応用化学科に専任講師として嘱任し、翌年助教授、1975年教授に昇格した。1968年に帰国した時、留学前に晶析の章を執筆した化学工学協会編化学工学便覧第3版は出版されていて、城塚先生が預かっていて下さった執筆者への寄贈本を受け取った。また、留学前に同協会内に動きのあった研究会は1968年4月から発足していた。そこで、帰国してすぐ、城塚先生に1969年4月より晶析に関する研究を立ち上げていただくようにお願いしてスタートした。

  1959年に早稲田大学大学院に入学し晶析研究を始めて丁度10年が経過した1969年から晶析に関する研究活動は新しい時代に入った。そこでの活動を分類し、それらを時系列的に整理すると以下のようになる。この詳細は次回以降のHPに掲載することを考えており、ここではその主な項目を中心に内容の概略を記述する。

2-5,ウ)国内晶析研究グループの立ち上げとその発展:
  国内の晶析研究グループは、1969年4月に化学工学協会の晶析研究グループ会として発足し、既に35年を越えて活動している。そこで当初から活動していた主要メンバーは既に変わっており、その活動の状況は紆余曲折があった。その進展に過程で‘75年頃から蒸留技術懇話会の中に晶析に関するグループが新たな活動を始めるようになり、また、‘88年頃には日本海水学会を中心に製塩業会で食塩の生産技術に関する研究活動等も行うようになった。‘95年頃からは日本粉体工業技術協会の中に晶析技術に関する分科会も設置されるようになり、晶析研究・技術の発展に対する関心は日本の産業界で非常に高くなった。これらの研究グループの立ち上げ、発展は早稲田大学の豊倉研究室の活動を中心に進んで来ている。

2ム5,エ)豊倉研究室の晶析研究の展開:
  大学研究室の使命として最も重要なことは、その研究室でオリジナリテイーある研究成果を主導権持って独自にあげることであり、特に工学分野においては、そのオリジナリテイーのある研究成果を発展させて福祉社会の構築に寄与する生産技術の開発・発展に貢献する活動をすることである。この考え方に基づいて豊倉が晶析研究を始めた10年間は、化学工学晶析基礎としての結晶成長速度と初期の連続晶析装置設計理論(CFC設計理論)の提出およびその工業装置設計への適用を中心に研究を行ってきた。1969年にアメリカより帰国してこれまで行ってきた研究を継続的に発展させるための新しい研究として、2次核化現象の研究(この基礎部分の研究成果は本年度のHPで紹介している。)と晶析操作による精製技術の発展を目ざした高純度結晶生産技術に関する基礎研究を始めた。同時に1970年代の後半にはCFC晶析装置設計理論の工業装置設計への適用を容易にするための初期連続晶析装置設計線図を提出した。1980年には連続工業晶析設計理論の一般化を進めて新しい理論展開を行い、定常操作時の有効核発生速度と結晶成長速度、装置内の結晶懸濁密度とロジンラムラー線図で表示される製品結晶粒径および装置容積当たりの結晶生産速度の関係を示す新しい設計線図を提出した。この線図は広く工業装置の設計、その装置の操作条件と結晶生産速度との関係検討に適用された。また、核発生現象と結晶成長速度の関係や発生した結晶核の結晶純度に関するオリジナルな研究を発展させた。これらの一連の研究活動に対して、1991年度化学工学会学会賞を受賞した。1980年代末には豊倉研究室で提出した一連の晶析装置設計理論に基づく工業晶析プロセスの研究を始め、2次元核発生現象の解明による新しい光学分割プロセス法を提出した。また、針状結晶成長段階の破砕現象を考慮した装置内懸濁結晶の成長現象や過飽和溶液内で成長している結晶表面上のひび割れ現象など種々の晶析特有の現象も検討している。1995年頃には連続晶析装置設計理論を回分晶析装置内の現象解析と対比して検討し、連続晶析装置に対して提出された設計線図も僅かな工夫をすることによって回分晶析装置の設計や操作の検討に適用できることも示している。

2ム5,オ)国際的な活動の展開:
  1968年にフロリダ・タンパで開催されたAIChEのNational Neetingに参加して初めてDr. Randolphに会い、それが切っ掛けでProf.Larson の紹介を受けた。またその年の10月にLondon,UCL を訪問してDr. Nyvltに会うことが出来たが、これらの研究者と知り合いになれたことは豊倉のためのみでなく、日本の晶析グループの国際化に大いに役立った。これらの著名な研究者も当時はまだ若く、世界の晶析研究、技術の発展に意欲的に努力していた。豊倉がこれらの世界的に有名な晶析研究者と親しくなれたのは豊倉が提出したCFC晶析装置設計理論が評価を受けたからで、それが切っ掛けになって彼らが豊倉と日本の晶析研究に強い関心を持っようになった。1972年春、Prof.Larsonはヨーロッパからの帰米の途中日本に寄り、東京で日本の晶析研究者に晶析の講演会を開催した。同年CzechoのPrahaで開催された第5回晶析シンポジウム(実質的には最初の世界的な晶析シンポジウムであった)に豊倉は招待状受け取り、この時中井先生や青山さんと相談して訪欧団を結成してヨーロッパを訪問した。これが切っ掛けで日本の晶析グループは世界の晶析グループのメンバーと密接な関係が出来、現在も続いている。

2−6)むすび:
  豊倉が晶析研究を行った期間は1968年までのアメリカに留学し、ヨーロッパ経由で帰国したまでの期間と、それ以降の期間に分けて考えていることが出来る。この前の期間は主に日本で行った晶析研究の成果を中心に活動した時期であった。それに対してそのあとの期間は世界的な視野で物事を考え、判断することが大分出来るようになった期間で、次回以降のHPでは後の期間の2ム5)に記述した内容をより具体的に記述する予定である。最近いろいろの人と会って話をする時、この人は何歳くらいだろうかとよく考える。そして、この人と同年齢の頃の豊倉は何を考え、何をしていたかを考えるようにしている。このように考えながら人と会っていると豊倉は今何をすべきか考えやすいような気がする。皆さんの参考になれば!!

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