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豊倉賢略歴
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2004 A-1,5:早大晶析グループと国内晶析組織の形成と活動

  要旨: 早稲田大学における晶析研究グループの活動が活発になりその成果があがると、それを理解し活用するためにその成果に関心のある研究者や技術者は晶析グループを形成する。このグループはそれらの成果を種々の課題に適用して問題を解決し、さらに発展させるために協議を重ねる。 そのような活動を続けると。その研究は基礎的な課題に対しては深みをまし、また、その応用の範囲は着実に広がり、進展を繰り返してこれらの一連の研究成果に対する評価は高くなる。この研究グループの活動は益々活発になり、それに関心を持つ研究者・技術者は増大して、その研究グループは拡大を続ける。
  本記事は豊倉が行った45年間の研究の一部を紹介して、研究者とその成果に関心を持つ人々の研究に対する繋がりを示す。

1)はじめに

  学問や技術の発展を志す研究者や技術者が新しいオリジナルなアイデイアや手法で研究や技術開発を行う場合、ある程度事を纏めあげるまでは個人あるいは志を同じにする少数の人数で活動をすることが必要である。その活動が順調に進みある程度研究成果が出た段階で、初めてその成果を発展させるために一緒に研究して来た人達より枠を広げて討議する。その段階でその成果に関心を持った人たちも研究グループに加えて大きな組織として研究対象の幅を広げ、また、研究に深みを持たせてその研究を続けることが大切である。日本の化学工学分野における結晶や結晶化、すなわち晶析に関する研究を主要テーマとしていた研究組織は、早稲田大学城塚研究室で晶析研究を始め, ある程度の成果をあげる頃までほとんどなかった。豊倉が城塚研究室に所属し晶析研究を始めた当時は、晶析は拡散分離操作の一つとして考えられ、拡散操作を主要研究テーマにしている研究室の中には晶析に関心をもって研究していたところもあったが、晶析に強い関心を持って研究し、討議する晶析グループは化学工学の学会でも、研究者・企業技術者の間でも存在しなかった。豊倉が、CFC晶析装置設計理論を纏め、それを学会で発表し始めた1960年代の後半に、化学工学協会(現在の化学工学会の前身)で学会活動の一つとして研究委員会が設置され、その傘下に種々の研究課題を対象にした研究会が立ち上げられた。晶析に関する研究会はその流れの中で設置され、スタートした。しかし、晶析研究会はそのまま順調に発展したわけでなく、紆余曲折があって30年を越える長い年月を経て今日の姿になっている。早稲田大学城塚研究室や豊倉研究室で晶析研究を行った卒業生はそれぞれが経験した種々の事に対する思いがあろうと推察されるが、(これらについては、機会があったら是非卒業生に寄稿して頂きたいと思います。)ここでは、豊倉が城塚研究室で晶析研究を開始した1959年以降の晶析研究の発展と晶析研究組織の変遷を整理し、これから研究活動を始める若い研究者・技術者の参考になればと思い記事を書く。

2)オリジナルな研究成果の意義とそれを発展させる研究組織

  研究者はその研究者特有の研究手法を持っており、その手法を用いて得られた研究成果は他の研究者のものと異なる特徴がある。何かを研究すると言うことは、その研究成果を発展させる次の目的があるからで、その発展を期待する人がいると、その研究成果の発展を期待する人から高い評価を受ける。世の中の人は自分自身で考えた期待する将来を持っており、その将来を実現するために種々のことを考え、活動する。現在のように多様化した社会では、将来に描く未来像も多種多様であり、また、社会一般の評価も流動的である。そのことは常に高い評価を受けるような研究活動を続けることはほとんど不可能であるが、その反面現実をあるがままに正直に観察し、その事実を歪めることなく正しく捉えて、目の前の現象が変化する仕組みを自分の考えで解き明かした時、オリジナルな考え方として評価を受ける。その考え方が複数の異なる現象説明に適用できた時はオリジナルな理論として広く種々のものに適用される。自然界に存在するものは基本的に同じものから成り立っており、それが組み合わされて多種多様なものになっている。このようにベースが同じものを対象にしていると、基本に立ち戻った考えを発展・構築した理論は既に存在する種々の物質の新しい特性や、これから創生される新しい物質や特性・生産技術の理解にも適用できることが多い。しかし、その理論とは別に新しいオリジナルな理論は研究され・提出されており、それらは異なる特性の解明や生産技術の開発に適用されている。ここで提出される新しい理論は既成の理論と提出前提条件や研究手法が異なり、新しい研究を進める上でより適切なことがある。しかし、既成のオリジナル理論は新しい理論の提出によって価値が低下するわけでなく、新しい理論と組み合わせることによってさらに高度な理論体系の創生となり、新しい物質やその生産技術の開発に貢献することが多い。その意味で、オリジナルな理論や考えは何時の時代になっても普遍的に適用できるものであり、理論そのものの絶対的な価値は不変である。

  オリジナルな理論を創生するためには、その理論を研究し・提出する適性のある研究者が情熱を持って研究することが大切である。一般に、オリジナルな理論を理解し評価出来る研究者・技術者が少なく、それがある程度出来上がった時に、他の研究者や技術者が抱えるある問題の解決に適用して初めてその理論の価値が評価されることが多い。そのため、新しい理論を構築した場合、その理論の提出者はその研究に直接携わったことのない研究者や技術者が、理論提出の前提条件、導出の過程、提出された成果を理解できるように纏めることが重要で、次の段階としてその成果を現実の課題に適用する方法を示して実際に役立つことを容易に確認出来るようにすることが必要である。そのためには、学会誌にオリジナルペーパーを発表することは当然のことであるが、その他業界誌に解説論文を掲載し、また、講演会や講習会でその内容を当該分野でない人達にも分かり易く解説することが大切である。豊倉の経験ではここで述べたことを学び、勉強しても多くの研究者や技術者はオリジナルな理論を充分理解することは出来ない。オリジナルな理論を理解するためには、専門の技術者でも現行理論・技術で目的とする製品を生産することが出来ず、新しい別の技術を開発しそれによらねばならない時、その技術者が新しい理論を理解し、それを使って新技術を開発し、新製品の生産等に成功して目的を達成したときである。一般に、所望の新製品がまだ誰もが生産に成功してない場合でも、新しい理論を使って開発しようとすることは希である。従って、技術者が新理論を充分理解するためには、担当する技術者が成功するかどうか分からない新理論を勉強して抱えている新製品を生産出来る技術開発に新理論を適用して研究する環境を作ることが必要である。

3)新理論を適用して技術開発を行う環境の構築

  新理論を適用して新技術を開発しようとする場合、その技術開発法が確立しており、すでに業界の一部で技術開発に適用して成功した実績があると、その技術開発担当技術者が所属する企業内に実績がなくてもその理論を使って技術開発する環境は整っているとみなすことが出来る。しかし、理論が確立していても、生産技術を開発した実績がない場合、担当技術者の上司が新理論を適用して他の技術開発に成功した経験があると、上司が行った技術開発の経験を生かして検討し、充分成算が見込まれる場合に、企業内で新理論を適用した生産技術の開発を行うことが出来る。しかし、そのような環境でない場合、新理論を適用して新技術を開発することは容易でない。かかる場合、学会・その他で対象とする技術に関する専門分野の研究者・技術者で構成する研究会を組織し、そこで最新の研究成果を討議し、その成果がどのような分野の発展に貢献するかを協議して、学問・技術の発展に貢献すべく活動することが必要である。以下晶析分野の発展を例に豊倉らの研究成果を中心に国内の晶析研究・技術に関心のある研究者・技術者が研究グループを組織し、晶析研究と晶析技術の発展に寄与した活動を記述する。

4)装置設計理論の提出がきっかけとなって行った私的晶析グループの活動による晶析研究・技術の発展

  晶析装置設計理論は1940年〜1950年代にヨ−ロッパ・アメリカで研究され、論文は日本にも紹介されていたが装置設計にはほとんど使用されていなかった。豊倉が城塚研究室で大学院博士課程に進学した時、指導教授の城塚先生から博士論文では晶析装置設計理論を提出するように指導され、博士課程3年目(1958年)の6月頃、初めて晶析装置設計に関する重要な無次元操作因子 CFC:Characteristic Factor of Crystallization (晶析操作特性因子)を見つけ、この概念に基づいて体系化した連続装置設計理論を提出した。当時、日本は高度成長期の最中で、主要な単位操作の装置設計理論はほぼ完成されていた。このような環境で晶析操作についての研究は東工大の藤田研究室や東大の宮内研究室ですでに行われていたが、晶析装置設計理論を提出したのは早稲田大学城塚研究室であった。そのような事情で業界誌が行う晶析特集等の晶析装置や装置設計についての記事の執筆や企業人対象講習会での晶析装置設計の講演をほとんど豊倉が行っていた。その関係で晶析装置設計を行っていた技術者や結晶製品を生産していた多数の企業技術者は豊倉の所属した研究室に通って来て企業現場の技術上の問題について討議した。その中には海外のエンジニヤリング会社と技術提携して、晶析装置・操作関連部門を充実しようとしていた企業の担当技術者や総合化学企業で結晶製品の製造担当技術者がいた。ここで対象になる装置は本体容積数十立方メートルの生産規模工業装置で、テスト用パイロットプラントでも大学研究室で扱う装置の数十倍から数百倍であった。 これらの技術開発支援は簡単な口約束のようなことで行われたこともあったが、それもなく紳士的に行われることが多かった。ここで豊倉が経験した工業装置内の現象は当時の工学理論で前提にしていたことと異なってることが多く、工学理論をそのまま使って工業装置の設計や工業操作の検討をすることは出来なかった。そのため、これらの問題に対してどのような対応をとって工学理論を工業装置の検討に役立つようにするかが豊倉の仕事であり、研究であった。実際に設計理論に基づく計算結果は現場装置内の状況とどの程度の差異があり、その差を企業技術者の許容範囲に納めるためにはどのようにするかを決める工学理論の提出も必要であった。その方法はknow-howと言われるかも知れないが、研究者の立場として工学理論を提出する必要性を感じた。化学企業が生産対象とする製品の種類が多く、基本的な現象に基づいて提出した理論を広く普遍的に適用できるようにするためには、多くの企業の状況を学ぶ必要があった。そのためには、より広く企業技術者が参加する晶析研究グループ結成が必要あり、1969年以降そのような活動も続けた。

5)化学工学協会(現化学工学会の前身)晶析研究会

  化学工学協会に研究会を設置しようと言う話は1966年、豊倉が渡米する前に既に話題になっていた。1968年11月に帰国した時、城塚先生に晶析分野の研究会を立ち上げて欲しいとお願いして1969年4月より活動を始めた。当初、大学所属の研究会メンバーは城塚先生の外に広島大学の中井先生、姫路工大の中島・広田先生と早稲田大学の豊倉、企業所属メンバーは月島機械の守田・河西、三菱化工機の広田、大同鉛の青山、三菱重工の米田、呉造船の谷、舞鶴重工の松岡、旭硝子の守山、日産化学の小久保氏らが中心であった。この会の幹事は中井先生と豊倉が務めた。当時の化学工学協会で公認された研究会の活動期間は1年で、1年間の延長は認められても通算2年であった。この研究会では、大学で行われていた研究の紹介とその狙い、および産業界の晶析技術の実情報告が主であって、それらについての意見の交換は行われたが、共同研究を行うまでにはならなかった。しかし、この会の活動を通して、晶析工学・技術の発展と利用を真面目に考えている人達が定期的に会合して親しく討議した意義は大きかった。この研究会活動は2年経過したところで公式には終了したが、私的な会に切り替えて継続することは、晶析研究・技術の発展に必要であるとの意見で一致し、城塚先生のご提案で、中井先生と豊倉が幹事を務めて存続することにした。その会の活動は原則として、化学工学協会の本部大会や晶析関係者が比較的大勢集まる行事の時に研究会を開催し、情報交換を行うようにした。1972年にCzechoslovakiaのPrahaで開催された5th Symposium on Industrial Crystallizationにはこの研究会の主要メンバーが参加し、日本とヨーロッパの晶析研究者・技術者の交流が始まった。1970年代の半ば、豊倉が化学工学協会研究委員会委員をしていた時、当時の研究部門委員長片山俊先生が本会の研究グループによる研究会を組織は一巡したようなので、来期は既に研究会を組織した研究グループでも目先を変えて、活発に活動している若手研究者を代表者にした研究会も設置してはとの提案があった。これを受けて、豊倉は晶析研究会に持ち帰り相談して、新たに晶析研究会の設置申請を研究委員長の提案に応えて行うことにした。この新しい研究会は若手研究会との建前で発足したが、開催通知は晶析に関心のある研究者・技術者に送付したところ旧研究会の全メンバーが参加され、実質的には化学工学協会所属の晶析に関心のある研究者・技術者全員の研究会となった。豊倉が代表になって2年経過し、任期が来た段階で、代表者に中井先生になって頂き、以降晶析理論・技術に熱意を持って活動して頂く先生にほぼ年齢順に一期間代表を務めて頂くことにして、研究部門委員会の組織が改革されるまで通算でほぼ30年間継続して日本を代表する晶析研究者を中心とした会として活動した。
  
6)その他の晶析に関する研究委員会

  化学工学協会(会名変更後の化学工学会)における晶析に関する行事の大半は5)の研究会を通して行われ、大学研究者と企業技術者との交流は活発であった。しかし、大学研究者の活動は研究者自身の研究哲学が尊重されるべきもので、メンバー大半の賛同を得て活動する化学工学会の研究会のみでは充分な活動は出来なかった。1970年3月に研究会の活動期間が切れた蒸留研究会はその時のメンバーを中心に蒸留技術懇話会を発足し活発な活動をしていた。1970年代の半ばに、当時の蒸留懇話会会長・藤田重文先生から蒸留技術懇話会編集委員会に委員として出席するようにとのお手紙を豊倉が直接頂き、蒸留技術懇話会のメンバーになった。その時藤田先生の真意はよく理解してなかったが、先生は拡散分離操作の大局的な発展をお考えのようで、これから発展が期待される晶析分野の支援として、会誌「蒸留技術」に晶析関係の記事を掲載するように編集・企画を担当するようにとのことでした。晶析グループには独自の機関誌がなく、晶析グループの活動記事が掲載できれば、国内の晶析研究・技術の発展に貢献すると考え、喜んでお手伝いすることにした。会誌「蒸留技術」に晶析関係記事を掲載する作業を行って、分離技術としての晶析関連活動を蒸留技術懇話会のメンバーと一緒に行うことに晶析グループで活動していたメンバーの賛同も得られた。晶析グループの主要メンバーであった中井・中島・原納先生や青山さんには副会長をまた東農工大の松岡先生には1980年代より編集委員をはじめ長年にわたり主要な役員を務めて頂いた。

  晶析操作を主要操作とするプロセスは広議化学企業の広い分野で工業化されているが、その中でも最も重要視されてる分野の一つである製塩業界では、塩の国際的な自由化を勝ち抜くために製塩プロセスにおける塩生産技術の向上を目指して1988年より日本海水学会の海水利用工学研究会を組織して約10年間塩生産技術の研究活動を続けた。このメンバーとの交流は単に豊倉と製塩企業の技術者のみでなく、晶析分野で活躍する化学工学会、分離技術のメンバーと製塩企業技術者との交流にも寄与している。

  晶析分野で対象になる製品は結晶固体であり、晶析関係者は粉粒体を主に扱う粉体技術に高い関心を持っている。しかし、晶析研究は溶液内より析出物資の拡散現象から入った研究者が多く、また、粉体関係者はまず固体が存在しそれを粉砕・処理するところに焦点がおかれ、すれ違う傾向があった。今から10年くらい前に井伊谷先生から日本粉体技術工業会に晶析分科会設置したいので世話をするように言われて、そのお世話もすることになった。当初この話を頂いたときには晶析に関する研究会は既に化学工学会に設置されまた分離技術会が活動しているので今更と考えたが、井伊谷先生から「企業所属の技術者を代表幹事にし、代表幹事を中心に幹事会を組織して運営する会」と伺い、豊倉がその立ち上げとスタート初期の世話をした。一般に多くの学会活動は大学の先生中心で運営されているが、この会は企業の技術者中心に運営する会で、代表幹事に負担がかかるので、本人もさることながら、所属企業が粉体技術工業協会分科会を理解することが絶対必要で、そのような対象になる人物を推薦するように井伊谷先生から言われた。実際この会が立ち上げられたのは日本化学工業社長の棚橋さんの理解と発足当初より代表幹事を務めた山崎康夫さんの努力のお陰です。この会は今年で発足以来8年を経過し、豊倉がコーデイネーターを退任して4年経ち、豊倉が勧誘・依頼した幹事や分科会メンバー、海外の連携・協力者の顔ぶれも大分変わって来ている。また活動内容も産業界の動きにあわせて幹事会のビジョンを持って発展的に進めているので、豊倉が最も期待している日本国内の晶析組織になっている。

7)むすび

  豊倉が晶析研究を始めて45年経過した。当初は文献を頼って研究を行い、産業界に役立ちそうな研究成果が得られた段階で、身近な先輩や研究成果に関心を持った技術者の協力を得て、まがりなりにも博士論文の内容を企業技術の開発に使えるようにできた。それが、きっかけになり、海外の研究者・技術者とも親しくなり、それが巡り巡って国内の多くの研究者・技術者とも親しくなった。幾つつかのプラント設計や、装置操作法の改善を豊倉の研究成果に基づいて行った。これらを通して国内外における複数の学協会の晶析研究組織を世話し、晶析関係国際会議の組織・運営もしたので、晶析工学・晶析技術の発展にお役に立てたのでないかと思う。そのような工学や技術の発展に貢献する活動をするのは時間のかかることであるが、この間を通して持続的に一連の活動を続けるためには、その活動は自分自身が提出した普遍性のあるオリジナルな理論と哲学に基づくことが重要である。このような理論や哲学を纏め上げるには地道な研究活動とその成果を期待する研究組織に恵まれることも必要で、当事者は研究を理解し支える組織の育成に務めることも必要である。

2004年11月

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