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豊倉賢略歴
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2004 A-1,4:早大晶析グループの国際交流


  豊倉が早稲田大学城塚研究室の大学院学生であった頃、“博士論文を纏めたら早く欧米先進国に留学して来い”と城塚先生のご指導を受けていた。当時、海外留学のことは若い研究者・技術者間の茶飲み話でも話題になっていたが、その意味等について実感がなかった。 しかし、今から思うと30代前半に海外留学の機会がなかったら、早稲田大学化工研・晶析グループの活動は全く異なったと思う。豊倉は大学院進学時留学についてしっかりした考えを持っていたのではなかったが、助手時代の学科内状況の変化によってたまたま留学するようになった。それらを含めてこれからの人々の参考になればと思い、1960年代の話を中心に纏める。

1) 国際交流の意義:

特定研究グループが行う国際交流の意義は、その研究グループが置かれている立場
等により異なり、一つの意見で述べることは出来ない。特に研究グループが個人的なものと、国を代表するようなグループでは異なっている。一般に研究当初の環境は一個人的色彩の強いものであるが、時間の経過に従ってある学会におけるその研究分野を代表した活動をするようになり、更に国内の複数の学会を通したその研究分野の活動を代表する目で見られるようになり、その状況によってそのグループの国際交流の意味は全く異なって来る。これらの立場はある日・ある時突然変わるものでなく、また判断する人によってもその意味を考えるベースは異なるので、自分の立場については一つの考え方のみで判断することはできず、種々のケースを考えて充分気を付ける必要がある。ここでは、1960年代に豊倉が考えた国際交流の意義を思いだして、この時期に豊倉が行った活動の国際交流への寄与を反省する立場で考えてみる。

  人間は、初期の段階で周囲からいろいろのことを学び、それを自分で考えて整理し一つの概念を作り上げる。 その時その対象毎に他人が纏めた概念をそのまま鵜呑にする人がいるが、これは社会を構成する大多数の人々にとって賢明な選択と思う。しかし、未知な世界に飛び込み、そこで新しいものを感じ取り、それを纏めた自分の考えを理解する人と協議して新しい概念を提出して世の中に役たててもらいたいと思う人、言い換えれば自分が得意とする専門分野で新しい概念を構築しようと考える人は前者立場をとることが必要である。この考え方は豊倉研究室で進めてきたPMTに通じる理論・概念の構築法と同じものである。このような概念を発展させるには、自分が構築した概念を提出した前提条件モデルと合致すると思われる条件下で起こる現象にその概念を適用し、この提出概念の妥当性を確認するとともに必要を感じた時にその修正を加え、それを繰り返すことによって完成度を高めることが必要である。そのためには、まず国内の学会や研究会等を利用して国内の研究者・研究者の批判を受けることは大切なステップである。このような国内の討議を通してある程度の完成度が確認されたところで、さらに、広い場で批判を受けるべく海外の研究者・技術者の集まる場に提出して、広い視野での批判を受けることが必要になる。それが国際交流の場である。日本でオリジナルに提出した概念・理論が欧米先進国での討議の対象になることは容易なことでない。その新しい概念を提出した研究者・研究機関が当該分野で、すでに充分な評価を受けている場合は別であるが、まだ、欧米先進国に知名度の低い日本の研究者の研究成果を海外の国際会議で発表しても評価の対象になることは非常に少ない。しかし、このようにまだ知名度の低い研究者が国際交流を活発に進めることは極めて重要なことであるが、欧米先進国の知名度のある研究者がそのような日本人の研究に関心を示すようになるためには、その日本の研究者・技術者は自分は何ができるか、また海外の研究者らは自分の何に関心があるかをよく考えて特別な努力をする必要がある。

  海外の研究者・技術者からコンフィデンシャルな情報を得るようになることも容易なことでない。研究者や技術者がすでに構築したオリジナルな成果を発表し、それが高い評価を受けることは重要なことであるが、そのような成果を発表してもまだその内容が認められていない段階では、コンフィデンシャルな信頼を得ることは容易でない。そのためには、その研究者・技術者に対して、自分だけが出来るユニークな努力をする必要がある。このようにして海外の一流の研究者・技術者から信頼されるようになると、その人でなくては得られない貴重な情報が得られるようになり、国際交流を進める大きな目的の一つが達成されたことになる。1980年頃になって日本の研究者や技術者は誰でも容易に海外出張が出来るようになり、最近では国際会議に頻繁に参加して論文を発表する専門家が多くなっている。しかし、その会議に参加し、論文を発表しても発表論文に関心のある研究者や技術者と特別な討議をすることなく帰国する人が多い。 このようなっても当初の1〜2度はやもうえないと考えられるが、何時までもこれを繰り返しては国際交流の実を挙げることは出来ず、観光のために海外に出掛けるのと同じになってしまう。研究者は自分の研究のために、また技術者は自分の技術開発のために国際交流を役立たせるには何をすべきか真剣に考え、それに応える成果が得るように努力しなければならない。

  国際交流進めることは、それを推進する本人が行った研究成果や開発した技術に対する国際的評価を受け、グローバルな見地から検討を加えて、飛躍的に発展させるために有効である。このような国際的な評価を受けると、国内の他分野の研究者や技術者からも自分たちが活動している専門分野の研究や技術が評価されるようになり、国内の研究グループは活性化されて益々発展するようになる。


2) 海外研究機関で滞在し、そこで評価を受ける研究をするためには:

  海外の研究機関で評価される研究をするには、その研究機関での活躍が期待されて
招聘を受けることが望ましい。そのためには、招聘を受ける前にオリジナルな研究成果をあげ、その研究成果を適用して訪問研究機関の抱える研究課題の解決に貢献できる可能性があることを相手の研究機関に認めさせることが有効である。招聘される研究機関での資格は高いポジションが望ましく、そのようなポジションで招聘されることによって研究所内の待遇はよく、また研究環境もよくなる。豊倉の場合、アメリカの研究所におけるポジションはprofessional chemical engineer として招聘され、アメリカ人のprofessional chemical engineerと同じ扱いを受けた。そこでの研究の進め方については全面的に豊倉の研究方針・研究計画が尊重された。このような環境では当然のことだが、研究計画に従って研究を進め研究成果を挙げることが必要であった。また、豊倉が担当した研究を統括した上司は豊倉の研究法の詳細を理解するように努力し、研究を進める上で必要な便宜を図ってくれた。日本からの若い留学生は自分の留学先の研究室の調査を充分行い、受け入れ教授と留学後の研究についての打合せを充分行った上で留学することは比較的少ない。しかし、その討議は充分行うべきである。Ulrichが1982年にドイツのアーヘン工科大学から早稲田大学豊倉研究室に留学した時、彼は留学前の1980年にドイツで2度豊倉に会って、彼の博士論文と早稲田大学豊倉研究室ですでに発表していた論文についての検討を充分行った。豊倉のよく知っている若い日本の研究者は文部省の派遣研究員でアメリカに留学を決定するに当たり、受け入れ教授と直接打合せするために、留学前に自費でアメリカ・ボストンの研究室を訪問し、詳細な打合せを行って留学を決定した。 このような努力をすれば、外国の研究機関で必ず満足な研究生活を送れると言う事ではないが、その可能性は大きくなると考える。特に留学先研究機関の受け入れ教授と親しい研究者等の紹介の下、お互いによく理解したうえで、留学先とそこでの研究テーマを決定をするようにすることは意味あることで、このような努力は出来るかぎりすべきである。しかし、そのために留学のチャンスをいたずらに延ばすことは必ずしもよくない。特にここで述べた準備が充分整う見通しが立たない場合には、博士論文を纏め、基礎知識と研究経験を一通り修得した若い段階で出来るだけ早く留学し、見聞を広めると同時に国際的に一流と評価されてる研究室を経験し、一流の研究者と研究哲学を討議してくることは大切である。次に1966年〜1968年に豊倉が行った国際交流とその後の展開の概要を纏めてみる。

3)1966年〜1980年に豊倉が行った国際交流

  3−1)豊倉が留学前に行ったオリジナルな研究とその研究成果:

  豊倉が城塚先生から与えられた研究テーマは大学院入学時にまだ確立されていなかっ
た「晶析装置設計理論を提出し、晶析装置の設計体系を確立するように」とのことであった。昭和33年に出版された改訂2版化学工学便覧には晶析の章はあったが、晶析装置設計についての記述はなかった。城塚先生は、晶析は結晶周辺の過飽和溶液内の溶質が結晶表面に拡散し、結晶表面に到着した溶質分子が結晶格子に配列して結晶成長となるので、この拡散現象に着目すれば、ガス吸収装置等と同じ拡散単位操作の装置設計式と同様に晶析装置の設計理論は提出することが出来、HTUやNTUの概念を適用して、晶析装置設計理論体系を確立出来るとご指導受けた。海外ではアメリカTVA公社の肥料総合研究所のW.C. Saemanらは円筒分級層型晶析装置設計理論式と完全混合型晶析装置内に懸濁する結晶と装置より取出される結晶のポピュレーションバランスより提出した完全混合型晶析装置の設計理論を提出していたが、その理論による工業晶析装置の設計は報告されていなかった。このような状況下で、豊倉はこれらの論文を検討し、円筒分級層型晶析装置に対してSaeman が想定した晶析装置塔頂部に到着した溶液は飽和濃度になっているとしたモデルに対してその溶液中には残留過飽和度が存在していると修正し、また流動層内に懸濁する結晶の流動特性に対して諏訪らが日本専売公社小田原塩研究所報告No.6, 103 (1961)に発表した食塩結晶が流動層を形成するときの流動特性式を使用して、新に晶析装置設計式を提出した。この設計式は 城塚・豊倉・関谷共著の論文として、化学工学29巻9号、698(1965)に「連続式分級層型晶析装置の塔高算出法について」として発表している。(この研究に関心のある人は原著論文を参照いただきたい。)この論文では、設計式の誘導とその式を用いたパイロットプラントデータの整理法とそのパイロットプラントデータより設計定数の算出法が扱っている。さらに、ここで求められた設計定数を用いた工業晶析装置の設計法も提出した。ここで豊倉が提出した設計理論式を主要因子に着目して再整理すると次の式(1)ようになる。

(晶析装置高さ)= (定数)x A(製品結晶粒径、装置底部結晶成長速度、生産速度)
          x CFC (無次元結晶粒径、無次元過飽和度)    (1)

ここで、(定数)は上記論文で提出された設計定数で、連続円筒分級層型装置に対しては同型式の小型装置テスト結果より容易に求めることが出来る。A は設計される晶析装置で生産される装置断面積当たりの製品結晶生産速度(ここに結晶の生産速度を入れると式(1)で求められるものは晶析装置容積となる)、および製品結晶粒径と設計される装置内底部において操作可能と考えられる最大結晶成長速度(これは小型装置テストにおいて所望製品結晶が生成したときの結晶成長速度より決める。)から求められるもので、対象とする系の特有な操作条件と物性値から決まる結晶成長速度と設計する時に規定する結晶の製品粒径と生産量に対して決まる値である。また、CFC( Characteristic Factor of Crystallization )は晶析装置型式に対してそれぞれ提出されものであるが、それに影響する因子は装置塔頂部と装置底部に懸濁する結晶粒径比で表わされる無次元結晶粒径と塔頂部と塔底部の溶液の過飽和度比で表わす無次元過飽和度であり、結晶の粒径や溶液過飽和度の絶対値に関係ない。CFC は予め必要な装置型式に対して提出されてる関係式より上記無次元数との相関を求めて線図化されているので、系に関係なく容易に適用出来るようになっている。ここで提出された設計式(1)は完全混合槽型装置やDTB型装置に対しても提出し、連続晶析装置設計理論を体系化した。 ( これらは、化学工学30巻9号、833(1966) および CEP Symposium Series , vol.67, No.110, 145 (1971) に詳細は掲載されている。 )この晶析装置設計理論は、1964年より国内M造船企業やN化学企業の晶析装置設計に適用し種々の検討を行い、さらに工業晶析装置設計・操作法の決定にも適用されて実績を積んだ。

3−2) 豊倉の留学先決定とそこでの国際交流活動:

  豊倉の早稲田大学における昇格人事は、理工学部の申し合せで昭和40年4月に行われることが決まっていたが、学科内の人事枠の関係で延期となった。しかし、1年遅れの昭和41年4月も再延期と決まった昭和40年末に、豊倉は海外留学の希望を城塚先生に申し出てお許しを頂いた。この時まで豊倉は海外留学について真剣に考えていなかったが、昇格人事について1年は我慢したが、それ以上の期間もそのまま放置することはよくないことと考え、留学先の選定を始めた。当時、カナダのNRC post doctoral fellowship を受けて留学する日本の若手研究者が多かったので、それへの応募を一つの選択肢とした。それとは別に数年にわたって研究し、ある程度の成果をあげた晶析関連分野の研究機関も対象と考えた。そこでは過去にSaeman が晶析研究していたアメリカ合衆国TVA Fertilizer Research Center とイギリス ロンドンのUCL にあるMullin 研究室を希望先と考え、留学受け入れの申請を送った。当時留学の方法は種々の外国のscholarship に応募して旅費、滞在費を受けて留学する方法、文部省派遣を含む日本国内の種々の機関の助成を受ける方法と受け入れ機関が滞在費を保証する方法とがあり、受け入れ外国研究機関での研究分野を希望した場合、後者がその可能性が大きかった。しかし、豊倉の申請に対して、Mullin教授からは滞在費は持参で来るかとの問い合わせは来たが、それについては特に返事を出さなかった。

  この申請書を送ったカナダNRCから申請書類に対する内定通知と受け入れ先研究所の連絡が来た。丁度その直後に、豊倉が申請したTVA研究所に滞在していた中央大学の安藤淳平先生からTVA研究所では豊倉の受け入れを前向きに検討しているが、受け入れの予算権を持っているMr Slackがヨーロッパ出張中で、9月上旬の帰米まで正式に受け入れを決定できないが、決定はほぼ大丈夫だから他の機関から決定通知が来てもTVAに来るようにとの連絡を受けた。その後安藤先生とは手紙で連絡を取り続けて、実質的な準備を始めた。その過程の手続きは順調に進んでその年末の12月5日に家族と一緒に日本を出発した。この出発の直前に、UCL の Mullin 教授から滞在費を持つからロンドンに来ないかとの連絡を受けたが、それに対して、TVAの受け入れが決まったのですぐは行けないが、アメリカの帰りに都合が付けば訪問したいとの礼状を送った。

  TVAの滞在は約2年間であったが、その間TVAを訪問した約40名の肥料関係企業の日本人技術者の世話をした。当時は世界の食糧問題との関連で肥料産業は注目されており、アメリカでは成長産業の一つとして石油関連企業も強い関心を持っていた。TVAでの豊倉の研究は世界的に供給の不足が予測された硫黄の消費を節約して燐酸肥料を生産する Odda Process の開発で、このプロセスの主要操作の一つである硝酸カルシューム4水塩の晶析装置・操作の開発を日本で研究したCFC晶析装置設計理論を用いて進めることが出来たのは幸いであった。そこでの研究の進捗状況の評価よって、研究を始めて6ヶ月経過した段階で管理職研究員に昇格し、豊倉がTVAの研究所に着任する前にこのプロセス開発研究をしていた、年上の Professional Chemist を豊倉の研究に加えて共同研究を続けるようになった。同時に研究所内の晶析関連の技術開発についてもしばしば相談を受けるようになり、いろいろアドバイスすることによって新しい経験を積むことが出来た。また、TVAを訪問する外部の研究者、技術者とも親しくなって、帰国後共同研究を進めてはと言う相談を受けて、New York, ManhattanのPan American Building にあるエンジニヤリング会社のhead office に招かれた。また1968年5月にFlorida Tampaで開催されたAIChE National Meetingの晶析シンポジウムに出張し、座長を務めていた Dr. A. Randolph に会い工業晶析のことを種々話した。その時Randolph に寄贈した豊倉の博士論文を英訳した ”Design method of Crystallizer” Momoirs of the school of Sci. & Eng. Waseda Univ.,No.30, 57 (1966)の別刷りは後に、Prof. M.A.Larsonに渡され、1969年にWashington DCで開催されたAIChE Meeting における「連続晶析装置の設計」の発表となっている。その論文はCEP Symposium Series vol.67, No.110, 145 (1971)に掲載された。

4)1970年以降の国際交流:

  1968年11月アメリカからの帰途ロンドンのMullin研究室を訪問した。そこで、Nyvlt博士に会い、豊倉研究室の晶析研究と晶析装置設計理論および晶析装置設計法について討議した。この時の討議内容はNyvltの評価を受け、1972年にプラハで開催された5th Symposium of Industrial Crystallization に日本からの参加するように要請された。このSymposiumでは豊倉はopening sessionの座長をNyvlt と務めた。このシンポジウムに引き続いて開催されたWorking Partyでは豊倉はLarson教授やNyvlt博士と3人で晶析装置設計についての話題提供を行った。このシンポジウムに日本から参加したメンバーはシンポジウム終了後London、UCLにあるMullin研究室とオランダ、THDelftのde Jong 研究室を訪問し、工業晶析についての討議をした。以降3年ごとにヨーロッパで開催されたSymposium on Industrial Crystallizationには毎回複数の研究者・技術者と日本から参加するようになった。1975年にチェコスロバキアのウスチで開催されたシンポジウムには早稲田大学で考案した2次核発生装置で研究した2次核発生速度についての研究を発表し、大きな反響があった。この論文を聞いたポーランドのKarpinski博士はこの研究手法を修得する目的で、Nyvlt博士の紹介状を添えて留学したいとの申出を送ってきた。彼は日本学術振興会の長期研究者受け入れの助成プログラムに採用され、1年間豊倉研究室に滞在して研究した。以降日本の晶析研究者や技術者は欧米の晶析の専門家と親しくなり、活発に最新の晶析研究・技術について討議するようになった。1980年には豊倉は早稲田大学短期在外研究員としてヨーロッパに4ケ月滞在し、ヨーロッパ各国の工業晶析研究会(WPC)の代表者を訪問しこれらの研究者・技術者と特別の関係を築くことが出来た。1986年に東京で開催された第3回世界化学工学会議には、これまでの交流で親しくなった晶析関連の研究者や技術者は日本に強い関心を持って参加した。 このようなクローズな関係は、1999年に豊倉が早田大学を退職するまで続いた。そして、1998年にはこれからの日本の晶析研究者・技術者を欧米の研究者・技術者に紹介するために、早稲田大学大隈小講堂で国際シンポジウムを開催した。この時約300名(内10%は海外からの参加者)の晶析に関係のある研究者・技術者が参加して約100件の論文が発表された。2003年のSymposium of Industrial Crystallization では1983年〜1984年に豊倉研究室に滞在したドイツのJ.Ulrich教授がEFCE・WPCの国際議長になり、親日家の彼がリードするWPCはこれからも日本人にとって理解のある運営がされることを期待する。

2004年9月

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