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豊倉賢略歴
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2004 Aム1,2: 1972〜1980年のロンドン、UCLでの Mullin 教授等との討議を思い出して

「日本の開発技術についての討議」( 日本の技術開発に対する研究者の貢献 )

  

  A-1の主題は、「研究室の研究を通して晶析工学を如何に発展させるか」である。早稲田大学豊倉研究室の活動を考えるとその第一ステップは、1959年に晶析研究を開始しから豊倉研究室の活動が世界の晶析分野の代表的な研究者・技術者に認知されるようになった“豊倉が1980年度早稲田大学の在外研究員として4ヶ月間ヨーロッパに滞在した9月上旬迄の間”である。この間の活動期間を更に細分すると、その初期は1966年11月迄の間で、“日本国内で晶析装置設計理論を提出し、それが国内企業の評価を受けた期間”である。その次は、1968年10月までの約2年間“アメリカに滞在して研究活動を行い、RandolphやLarsonと知りあえるようになって世界への足固めができた期間”で、最後はそれまでの実績の上に“日本国内およびヨーロッパを中心に行った新たな活動の時代”に分けられる。この最後、1968年より12年間の活動は、主として1972年より東ヨーロッパで開催された「ヨーロッパ化学工学連合公認のWorking Party of Crystallization(WPC)と開催国の担当学会との共催で3年毎に開催されたSymposium on Industrial Crystriallization (SIC)」を通して行った。1972年に開催されたこの国際会議は、世界で初めて開かれた晶析に関する世界規模の会議で、以降今日までSICには、ヨーロッパ・アメリカ・日本の主だった研究者や技術者は必ず出席して論文を発表するようになっている。 

  1972年開催のSIC国際会議Opening Session のChair Personsは International Chairman の J. Nyvltおよび J.W. Mullin と豊倉が務めた。この中に豊倉が加わったのは、日本国内での豊倉研究研究室の活動成果に加えてこの国際会議までの豊倉らのアメリカ・ヨーロッパでの活動と日本の目覚ましい産業界の発展がその背景にあったと思っている。その詳細は、このHP(2004年9月)に掲載を予定している A-1,4「豊倉グループの国際交流」に記述する予定である。1972年以降SICは1975、1978に開催されており、このシンポジウムの前後にUCLにMullin教授を訪問し、晶析工学・技術についての討議を行った。


1) 1972年のUCL の訪問とMullin 教授との討議

  A-1、1(3月)でも少し触れたが、1968年豊倉がアメリカからの帰途 UCL in London の Mullin 研究室を訪問した時、Mullin教授は出張中で不在だった。それで、Mullin教授から留守中に豊倉が来たら研究室を見せるように云われていたインド人のポスドク留学生が研究室を案内してくれた。最初に彼に会ったとき彼は研究室の話をしてくれたが、その時チェコスロバキヤからDr.Nyvltが来ているという話があった。彼の案内で構内を歩いていた時 偶然Dr. Nyvlt と会うことが出来、紹介された。実は、豊倉はロンドンに来る前アメリカからチェコスロバキヤにいたNyvltに論文のことで問い合わせをしたことがあったが、彼はそのことを覚えていてくれて、時間があれば是非自分のオフィスに寄るように誘ってくれた。豊倉はMullin教授の言いつけで指示された研究室や実験室を一通り案内してもらった後、Nyvltが滞在していた個室に案内された。そこではおよそ30分ぐらいアメリカTVAや訪米前に日本で行った研究の話をした。その時訪英前にアメリカからMullin教授に送った豊倉の博士論文主要部分を英訳した “Design of Continuous Crystallizer”(Memoirs of the School of Sci. & Eng. Waseda University,No.30,57(1966))をNyvltに贈呈した。この論文は後にNyvltと豊倉、日本とヨーロッパの晶析研究者の非常に密接な関係を作り上げるようになった。今から思うとこのUCL訪問では、Mullin教授と直接討議は出来なかったが、その論文をDr.Nyvltに寄贈出来たことは非常に大きな意味があった。

  豊倉がMullin教授とのクローズな討議ができたのは1972年チェコスロバキアのプラハで開催されたSICに参加後、再度ロンドンUCLを訪問して実現した。実はMullin教授に初めてお目に掛かれたのはSICの晶析セッション終了後、そこで予定されていた1972年度WPC 委員会に招待され、Larson教授, Nyvlt博士 と豊倉がそれぞれの晶析装置設計理論についての話題提供をした時であった。その時Mullin教授はPrahaに来る直前にお母さんが亡くなられ晶析セッションには出席できなかったが、Prahaの後Londonではゆっくり晶析について討議しようとの話があった。このシンポジウムには日本から中井先生、青山さん、守山さん、河西さんら日本国内の晶析グループリーダーら8名が参加したが、この晶析主要メンバーはそのまま一緒に UCL in Londonを訪問した。そこでは、Mullin教授と Garside博士(現マンチェスター大学学長)の2人で相手をして貰えたが、実質的にはMullin教授自ら案内していた。その時の詳細は「ケミカルエンジニヤリング(1)、p.107(1973)“第5回晶析シンポジウムに参加して”」・・そのコピーは晶析工学の進歩pp30-36(1992,4)にも掲載・・をご覧頂くとして、ここではこの記事の記述してないことを紹介する。
  その時は、日本からの訪欧団はLondon 市内Euston駅近くのホテルに滞在していたので、Torrington Palace StreetのEngineering Buildingには徒歩20分足らずで行くことが出来た。企業からの参加者は、なかなかLondon 市内を観光する機会がないからということで、午後はフリーにして欲しいとの申し出があり、Mullin教授には到着早々に企業の人達は午後別の予定があるので、午後は中井先生と豊倉2人が残って一日中晶析の討議をしたいと申し入れ、快く了解を得た。

この日の主なスケジュールでは午前中は実験室訪問と最近研究室で作られたオストワルドライプニング現象を撮影した16ミリフィルムの映写とそれらについての討議であった。午後時間は主として、Mullin 教授室で晶析研究・技術の討議に費やした。この研究室訪問で特に印象的でだったのは、カリ明礬系だったと思うが、温度制御が可能なように設備された対物レンズの下に置かれた透明セル内の高濃度水溶液の中の微小結晶状態変化の映像をスクリーン上に写し出された時だった。その様子を簡単に説明すると、その微結晶の粒径に差があると、小粒径結晶群の間で小さい方の結晶の溶解度は大きい粒径のそれより大きくなる。そのためこのスラリーの温度を適度に制御すると、小さい結晶は溶解して溶液濃度の上昇に貢献するが、その一方で大きい結晶はその溶液内で過飽和状態になり成長することがあった。Mullin研究室ではまさにその溶液内結晶粒径変化の状態の撮影に成功していた。この撮影ではコマ送りを非常に遅くし、それに対して映写時ではコマ送りを通常のスピードにすることによって、この現象を明瞭に示すことが出来た。この理論は日本から来た人達もよく知っていたが、映像で見たのは初めてであった。これらの装置は手作りでかなり精巧に組み立てたようで、そこにイギリス研究者の伝統的な特徴を見せられた気がした。この日見学した実験装置はどちらかと云えば全体的に小型で、精巧に組み立てられており、Mullin研究室の研究姿勢が伺えた。これらの討議を通して、一緒に訪問した企業技術者も深い感銘を受けたようで、午後の観光予定を変更して全員が教授室での討議に加わった。そこで討議された概要は上記参照雑誌[ケミカルエンジニヤリング12、〈1〉、107,〈1973〉]の記事に紹介されているのでそれを参照頂くとして、その討議の様子よりMullin研究室の研究態度を一言で表わすと、“晶析について基礎現象から工業装置・生産に至る広範囲の事柄を真剣に考えている世界の代表的な研究室で有ろう”と言う印象を受けた。また、Mullin教授自身、この部屋は晶析に関する世界のサロンで、世界の一流の研究者・技術者は皆この部屋に来ていると話されていた。「・・・・それから20年くらい経ってからであろうか私の親しいドイツ人は、Mullin教授は研究者や技術者をそれなりに評価をしないと ロンドンに来ないかと言葉を掛けない」と云う話を聞いたことがある。 Mullin先生の性格を考えると訪問したいと希望する人を断ることはないと思うが、訪問客の多い先生に時間を優先的に割いて貰うことの難しさを話されたのだと思った。幸い、以降ヨーロッパに行くときは必ずMullin教授を訪問するようにしたが何時も歓迎していただいた。・・・しかし、その時は必ずその後の新しい研究や新しい情報を持参するようにした。 逆に、ロンドンに寄らないと最近は来ないなと Mullin先生から催促されたこともあった。

2) 1975年のUCL でのMullin教授との討議:

  1975年にUsti in Zechoslovakiaで開催された 6th SICではMullin教授は“Crystallizer Design and Operation ミ A Review“をレビュー講演された。その講演では工業晶析装置を外部強制循環・内部強制循環・分級層の3型式分けて講演し、それらの装置設計の状況について触れられた。しかし、その内容については豊倉らが、日本国内で研究していたことと可なり隔たりがあった。それらについてはこのシンポジ終了後青山さんと2人でUCLにMullin教授を訪問する予定をしていたので、そこで、討議することにした。ここでは、そこで議論した主な内容を紹介する。

2)-1 装置選定の主眼点:1970代の日本の晶析装置は他の多くの化学装置と同様欧米の技術の後追いであった。そのために欧米よりよい製品をより安価に生産しなければ先進国の製品に太刀打ちできない時代でもあった。当時、欧米では生産される製品に対する顧客の要望に対してギリギリの線でカバーするようにし、その分出来る限り生産コストを引き下げるべく装置型式を選定し、プラントを建設していた。それに対して日本では、常に市場の要望よりさらによい製品を生産するが生産コストは欧米先進国のそれを越えない高度の目標をもって開発研究を進めていた。当時、日本で研究対象に考えられていた晶析装置は粒径の揃った、粗粒結晶製品を生産することを目標にしていた。それに対して、Mullin教授の考えは、安価な製品を安定に生産することが第一要件であり、そのような製品を生産することによって始めて工業生産が成り立つと言うことであった。日本のプラントメーカーは技術導入に対するライセンスフィーを支払っていたが、その上その装置にさらに手を加えてより高度な技術を開発し、それを用いてよりよい製品を欧米製品より安価に生産して日本製品の競争力をつけていた。それを可能にしたのは日本人の誠実さと勤勉さに加えて日本の後進国的な安い人件費のためと考えられている。この制約と利点の上に当時の日本の新技術は開発されており、このような観点で、青山さんは湿式法で生産された燐酸の晶析法による精製技術を開発し、それを1975年のSICで発表した(E,4, Aoyama,Y.& K.Toyokura "Purification of Phosphoric Acid Hemihydrate by Crystallization" )。この装置は当時の常識を越えた円錐形分級層型晶析装置であり、UCLでこの装置を説明・討議した結果、Mullin教授は高い関心を示した。

2)-2 青山氏が開発した高効率連続分級層型晶析装置: 代表的な分級層型晶析装置として知られているKrystal-Oslo 型晶析装置は20世紀前半に開発され、装置設計理論は1940年代に既に研究されていた。 この装置本体内の結晶は流動層を形成し、しかも、装置内に懸濁する結晶はその粒径によって異なる沈降の終末速度と装置内を上昇する空塔速度とのバランスによって分級された。 そのような分級・流動層を安定状態で形成させるために、装置内溶液の空塔速度を比較的小さい特定域で操作しなければことがある。しかし、この装置では本体形状が円筒であると円筒部分の断面積は一定になる。そのような装置では粗大粒径の結晶が懸濁する装置底部の懸濁密度を大きくなるように操作しても、塔頂方向の各位置における結晶懸濁密度は次第に低下する。そのために分級層型装置全体としての結晶懸濁密度は、装置内結晶懸濁密度がほぼ均一となる混合型に対して小さくなる。この問題を解決するために、青山は円錐形装置は開発した。( 2004A2-1(3月)の連続式円錐形分級層型晶析装置・・参照) 一方、装置内に供給される溶液過飽和度を操作可能な範囲で最大に取っても、装置内溶液空塔速度が小さいとその溶液の装置内滞留時間が長くなり、装置内上部の溶液過飽和度が減少するため、装置全体として結晶成長速度は低下する。 その対策としてSaemanは蒸発室より晶析装置本体に濃縮液を送る下降管の上部に穴を開け、その溶液の一部を装置本体内上部に供給するようにして装置内の過飽和度低下を防ぐようにした。 その一方、分級層型装置の平均過飽和度が低い弱点を解消するために、世界の装置メーカーは装置内の流動層を通過する溶液流速を大きくし、製品の粒径分布を犠牲にして生産速度の増大を図っていた。 それに対して、青山氏は結晶分級層が形成される装置本体の外部にジャケットを設け循環する溶液温度を低下させて結晶の成長速度を大きく保つ装置を開発して発表した。[(論文は前記シンポジウムプログラムE,4)この装置の詳細は 2004A-2,2(5月)掲載]UCLの教授室でこの装置について詳細に説明し、討議をした。この一連の検討より青山さんが開発したこの装置に高い関心を示したMullin教授は、既にヨーロッパの企業に使用ライセンスを出したかと聞かれれるほどであった。


3〉〜1980年5月の UCL 滞在まで: 

  1978年開催の6th SICの訪問での主な討義は、早稲田大学で研究を始した2次核化現象の研究に集中し、工業晶析装置・操作そのものより、それらのベースになる基礎現象についてであった。 その時豊倉は1980年度外研究員候補の可能性があったので、それが決定したらUCLで受け入れられるかについてMullin教授の内諾を得た。 その後1980年度早稲田大学在外研究員が決定し、 5〜6月の約1ヶ月間UCLに滞在した。 この滞在期間に、Drs. J.Garsideの外N.Tavareら研究室に国外から来ていた研究者とも種々の討議をしたが、Mullin 教授との実のある討議は1度1時間程度の時間が持てたに過ぎなかった。 その時のMullin教授の質問は、「 日本の技術革新はすばらしいが、産業界の発展に大学研究者はどのように貢献しているか? 日本の最新の技術は何か?」であった。


3)-1  産業界の発展に対する大学研究者の貢献: 大学研究者の技術開発に対する貢献にはいろいろあるが、Mullin教授との討議は個々の先生が行っている研究成果を生かして産業界の発展に貢献するオリジナルな技術開発が期待されるものを対象に行った。 それには、複数の大学が協力し、学会の活動として産業界の発展への貢献が期待される組織的な活動やプロジェクト研究で、少なくとも既にある程度成果が出ていて、近未来にさらに大きな期待の持てるものと、個人研究者のオリジナルな研究成果でそれが単独に、産業界の発展に貢献すると期待される技術開発に寄与してているものにに限定して話をした。
  組織的なものとしては、研究会活動を軸とした国内・外の情報交換は活発に行われていたが、Mullin教授とのほぼ10年間の交流から予想できないような新しい産学交流や情報交換はなかったので、特にそれについての話は行わなかった。 後者の個人研究者の貢献は、豊倉研究室の研究成果による次のような技術開発への寄与を話した。

a) 晶析装置設計理論はMullin 教授も概略は承知していたが、日本の化学企業で比較的容易に工業晶析装置を設計・製作が出来るようになり、既に、一部の企業では晶析プロセスをより容易に生産プロセスに取り入れられるようになっている。今後その発展がますます期待される様子を簡潔に紹介した。
b) 早稲田大学ではシェヤーストレスに基づく2次核化現象を研究しており、それによって分級層型晶析装置に対する評価が変わり、製品結晶によっては分級層型装置がより広く用いられる新しい動きを紹介した。 この時、Mullin教授はシェヤーストレスによる2次核化現象について、特に何も話されなかった。 しかし、それから10年くらい経過したMullin教授の退職記念シンポジウムの時、2次核発生の研究について、Mullin先生は皆コンタクト核化の研究をしているが、もっとシェヤーストレスによる2次核化の研究をしなければならいと豊倉に個人的に話していた。
c) 精製晶析はエネルギー資源の乏しい日本では重要な分野で、早稲田では既に研究を始め、1976年のAIChE Symposium に論文を発表した。 この分野の研究はこれから益々重要になると思うが、ヨーロッパの状況を尋ねたが、特にそれについてのMullin教授の意見を聞くことは出来なかった。しかし、豊倉のLondon 滞在中にMullin教授が大陸に出張され帰国した時、 ヨーロッパ大陸では晶析による精製技術についての関心が高い。今度Delftに行って de Jong 教授に会った時にMelt Crystallizationについて伺えば、何か情報が得られるかも知れないとのアドバイスを受けた。

3)-2  日本の晶析に関する最新技術:
  日本で開発した晶析技術には、欧米で開発された技術の改良されたものと、日本でオリジナルに開発したものとがあるが、どちらから話そうかと尋ねたところ、改良技術はよいから、日本でオリジナルに開発した技術を紹介してくれと云われた。そこで、日本の新しい晶析技術として神戸製鋼の守時氏が開発していた高圧付与による圧力晶析装置と月島機械のDP Crystallizer CEC Crystallizer があることを話すと、後者は知っているので、圧力晶析装置について話を聞かしてくれと云われた。そこでは、圧力晶析装置の特徴は、液体の非圧縮性を生かした短時間回分操作で、高純度の結晶を効率生産することが出来、しかも生産に要する消費エネルギーは物性によっても異なるが、他の操作法より少なくなり易い特徴があることなどを説明した。この日のMullin教授との討議時間のほとんどはこの圧力晶析装置、操作の説明に費やしたが、この装置に非常に興味を持ったMullin教授は自分が編集委員を務めている雑誌 “ Separation Technology ”に高圧付与圧力晶析装置を掲載したいので、日本に連絡を取り資料を送って欲しいと、神戸製鋼のロンドン事務所にすぐ電話を入れた。その状況は直ちに豊倉から守時さんにも直接伝えた。


  これらの一連の協議より、欧米の一流の研究者や技術者は学んで修得した学問・技術を常法に従って発展させ、提出した理論や技術には余り関心は示さなかった。特にそれらが日本人にとって新しい理論であり、技術であっても、欧米人にはそれは衆知の理論・技術であると、それを改良・発展させた新しい技術でも殆ど評価の対象にならないようであった。 日本が真に技術立国するためには、海外で認知される前の新しい理論や技術について、種々の研究を重ねて他に例のないオリジナルな理論や技術を構築し、安価にすぐれた新製品を生産出きるようにすることが大切であると痛感した。

2004年5月


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