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豊倉賢略歴
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2004 Aム1,1:「オリジナルな技術とこれからの技術者」

  

  昭和34年(1959年)4月早稲田大学大学院に入学し, 城塚研究室所属となって晶析操作に関するテーマが与えられた。 以降45年間晶析工学・晶析技術に関する研究をしている。 1960年代は第2次大戦後の復興が軌道に乗り、世界経済も活況を呈した。 日本国内では石油コンビナートをはじめ、新しい化学工場が各地で活発に建設された。その結果化学工場を設計し、その生産能力を増強させる化学工学系技術者が不足した。この環境を改善するために、日本全国の国立大学に化学工学科が設立され、この分野で活躍できる多数の技術者が養成された。この新設学科で講義された化学工学は蒸留・吸収等の単位操作、反応工学、プロセス設計等広範な科目とそれらの演習や実験も充実されていた。 しかし、晶析は化学工学便覧でも拡散操作の目次の中に章は設けてあったが、その内容は過溶解度の概念やクリスタルーオスロ型装置など古い形式のもののみで、大学の講義ではほとんど行われていなかった。 国内大学の研究室で行われた晶析研究は、東大の宮内研で昭和20年代の後半に、東工大の藤田研で昭和30年頃より行われていた。昭和34年早稲田大学城塚研での晶析研究は、拡散操作としての晶析基礎現象の解明と晶析装置設計法の提出を目標に行うよう指導を受けた。

  昭和30年代の日本の化学工業生産技術は、多くの国内産業技術と同様欧米から導入されたものが中心で、その改良技術は一部で開発されていたに過ぎなかった。 日本で独自開発された技術はなかなか工業装置の設計や操業に使用されず、 欧米で評価されるまでは見送られることが多かった。 筆者の博士論文で提出した装置設計理論の評価も企業が所有するプラント等のテストや提携企業のデータで確認されることが必要で、その確認作業の対象になるには社内の事情や欧米提携企業などの関係で容易でなかった。 しかし、幸いなことに晶析装置設計理論に関する研究はアメリカのMiller & Saeman と イギリスのBransom らの研究があった程度で、これら理論の装置設計への適用はまだ充分検討されていなかった。そのような環境下で、Saeman らの設計理論を発展させて提出した 晶析操作特性因子(CFC:Characteristic Factor of Crystallization )に基いた連続晶析装置設計理論( CFC連続晶析装置設計理論 )は日本国内で理解された唯一の連続晶析装置設計理論であった。昭和40年頃アメリカの企業と技術提携して晶析装置の販売を始めた国内某造船企業は、顧客からの質問に対する回答をCFC設計理論を用いて作成して対応していた。この回答に対するその造船企業の評価は、2〜3ケ月後にアメリカから送られる回答との比較によって行われた。 同じころ先輩が技術課長を担当していた某化学企業の無機化学品生産晶析装置3号機立ち上げのお手伝をした。この装置はプロセス合理化の関係で1、2号機装置内溶液組成と異なっていた。そのために、装置設計に必要な設計データを取得し、その数値と1,2号機の操作条件よりCFC設計理論を用いて推算した製品結晶は稼働していた20立方メートルの工業装置で生産される結晶と一致すると見做される範囲であった。このようにして確認されたデータで設計された3号機は満足な製品を生産した。

  一方その頃、世界の肥料工業界では世界的な硫黄の供給不足が懸念され、硫黄消費量を削減できる燐酸系肥料生産技術の開発がアメリカ TVA 公社・肥料総合開発研究所の重要課題となっていた。その課題の中の主要開発プロジェクトテーマの一つに硝酸カルシューム4水塩の晶析工程を含むOdda プロセスの開発があった。この晶析プロセスをCFC設計理論の適用によって開発する担当者として昭和41年秋にTVA公社より招聘を受け、2年間滞在して研究した。この間研究所内の他の晶析関連技術開発の相談も受け、その手伝もした。この研究所での研究およびそこでの生活の概況は「燐硝安プロセスとそれにおける晶析操作」硫安技術、22,【4】、p.17(1969)および「オリジナルな研究はいかにして生まれるか」ケミカルエンジヤリング、15、(4)、p.35,(1970)に掲載した。 この2年間の研究期間に日本の肥料関連企業からおよそ40名の技術者やその他アメリカ企業等から多数の技術者の訪問を受けた。 そこでは肥料生産技術と晶析装置・操作の設計についての議論が主であった。 また、1968年Tampa, Florida で開催されたAIChE National Meetingに参加し、そこではDr. Alan Randolphと晶析装置設計等お互いの行っていた研究内容について興味ある話を交した。そこで、彼に渡した" Design Method of Crystallizerモ ( Memoirs of the school of Sci. & Eng. Waseda Univ., No.30, p.57,(1966) ) の別刷は、Dr Randolph より Prof Larson に伝えられた。 その後 「CFC連続晶析装置設計理論」 は Larsonの勧めで1969年Washington DC で開催されたAIChE National Meeting で発表した。この論文 メ Design of Continuous Crystallizers モ  C.E.P. Symposium Series, vol .67, No.110,145 (1971) に掲載された。この一連のことより、日本の晶析研究はアメリカで認められ、交流が始まった。 その後1990年にLarson教授の提唱でスタートしたACT ( Association for Crystallization Technology ) にも招かれ、今日の日米協力関係へと発展している。1968年11月アメリカからの帰途、University College London にMullin 教授を訪問した。その時Mullin 教授には論文 メ Design Method of Crystallizerモ をアメリカより事前に送っておいた。しかし、この時Mullin 教授は出張していて会えなかったが、研究室に客員研究員として滞在していた Dr. J.Nyvlt と晶析の討議をすることが出来た。この時Nyvlt はMullin 教授から早稲田の「CFC設計理論」の話を聞いているが、是非 “ Design Method of Crystallizer メ の別刷が欲しいと言われた。この時渡した別刷は後に検討され、Nyvlt らのデータ整理にこの論文中の豊倉の提出した関係式が適用された。これらの検討結果含め1972年に、モ Japonsky zpusob vypoctu krystalizatoruモ Vyzkumny Ustav Anorganilke Chemie, USTI NAD LABEM by J. Nyvlt としてチェコ語に翻訳され、84ページの本として出版された。このLondon 訪問での討議以降、日本の晶析研究はヨーロッパの晶析研究者にも認められるようになった。1972年にチェコスロバキヤのプラハで開催されたヨーロッパ化学工学連合のWPC ( Working Party of Crystallization )支援、チェコスロバキヤ科学アカデミー主催で初めて開催された全世界的な国際晶析会議に日本の晶析研究者・技術者が招かれた。 ( 「第5回晶析シンポジウムに参加して」ケミカルエンジニヤリング;(1),p.107 (1973) に掲載 )昭和34年に晶析研究を早稲田大学で開始し、提出した「CFC連続晶析装置設計理論」をを使って、アメリカの国立研究所で約2年間研究を行った。その後ヨーロッパを経由して大学・企業を訪問して昭和43年11月に帰国した。 帰国した当時、大同化工機技術担当常務の青山氏から 「 昭和41年12月豊倉先生がアメリカに出発される1週間前に同社大阪本社で講議を受けた CFC連続晶析装置設計理論で同社が開発した逆円錐型晶析装置の設計が容易に出来るようになった。」と伺った。( 「分級層型晶析装置による硫酸ナトリウムの晶析ムパイロットデータより工業装置へのスケールアップ」 化学工学、37巻、4号、416(1971)に適用例の発表は掲載されている。)

  この10年間の活動を振り返ると、1950年代には後発単位操作と考えられていた晶析操作の基礎現象である理学的な結晶化理論はかなり進んでいたが、所望製品を生産する装置・操作を設計する工学研究はまだ緒に就いたばかりであった。 特定分野の結晶製品は企業規模で生産され、その生産技術は企業技術者の経験に基づくノーハウによって構築されていた。しかし、晶析工学理論に従って提出された生産技術は、まだ特別な場合に限られていた。そのような状況下で行われた晶析研究は、まず既に発表されていた晶析研究成果を検討し、装置内状況を推測して適用出来るものは利用した。しかし、過去の研究成果で納得のいかないものについては工業装置・操作状況をより良く表わすモデルを設定し、それから解析の容易な関係式を誘導して新しい理論を提出した。 その理論体系は、それまでに提出された理論と異なっていたが、企業技術者は新理論より推算される結果とプラント内の状況を慎重に比較検討し、工業装置・操作の設計に適用出来るものを見出して晶析技術を構築し・生産技術を開発した。このように工業装置・操作の設計に適用できる晶析理論や技術は既に企業実績のあるものと類似なこともあるが、全く異なることもあった。 ここで、画期的な新技術の開発となったものは後者のことが多かった。この10年間の経験では日本の技術者は欧米先進国で利用されている技術と類似なものは比較的安易に受け入れる傾向があったが、それらと異なるものについては慎重で躊躇しがちであった。一方、欧米の先駆的な研究者や技術者は、過去の理論・技術と異なる斬新的なものに非常に強い関心を示し、その妥当性を躊躇なく積極的に検討した。 このような行動は豊倉の研究当初の研究活動と共通することが多く、欧米先進国の研究活動は馴染み易かった。その意味では、オリジナルな新理論・新技術を提出する場合、当初は大勢の研究者・技術者に容認されることを考えるより、その提出した理論・技術について、充分な経験と見識のある信頼出来る少数(1人で良いと思う)のスペシャリストの評価を受けられるように発展させることが大切と考えている。オリジナルな理論や技術開発成果の評価を受けるには多少長い年月がかかることもあるが、一度正当な評価を受けた時には、すでに、大勢の研究者、技術者が先を争って理解するようになることが多く、このことは帰国した昭和45年以降の研究活動でも経験している。

  第2次世界大戦後の日本の生産工業を考えると必ずしもオリジナルに開発された技術のみによって発展したわけではない。戦後まだ日本の人件費が欧米に較べて低かった時代は導入技術に対してロイヤルテーを支払っても、日本人の誠実な勤勉さと、器用さによって欧米先進国より安価で良い製品を生産していた。今から35年前アメリカで生活していたとき、親しいアメリカ人から日本製品は値段は安くて品質は世界一と言われた。当時は1ドル360円であり、単純に交換レートを比較すると現在の円はドルに対して当時の3倍になっている。人件費は世界一高い国と言われている現在では戦後のような導入技術に頼って産業立国にて日本を発展させることは出来ない。一方、欧米先進国は、過去数百年の間、高い経済力を維持しつつ発展してきた。それは適度な速度で経済発展を続け、技術者はその経済発展等と均衡の取れるような速さで生産技術の開発をしてきたからである。 これからの日本を考えた時、 技術者は何らかの形で生産技術の開発に関与しなければならない。そこで開発される技術は現行の技術と較べて、製品品質・生産コスト・安定供給などを総括的に考え、より多くの利益を生むことの出来るものでなくてはならない。しかし、近代産業においては、一つの製品に対してもその評価対象項目は多く、市場の製品に対するニーズや競合製品の動向予測も含めて考えねばならない。そのため、技術開発の最終判断は組織の然るべき責任者がすることであるが、ここでは豊倉が平素考えてる純粋な技術的なことに対象に、技術者個人として技術開発をどのようになすべきかを考え



  新技術開発を行う時、前述のように自分が提出理論、例えばCFC連続晶析装置設計理論を適用して行う場合と、既存技術を改善して目的を達成させる場合とがある。総体的には抜本的な新技術と改善技術や既存の完成技術を組み合わせて新技術を開発することがあり、何方かと言えば後者の方が多い。現実の技術開発でどのような開発に従事すべきかは、技術者の組織内の立場や自分の才能を含めた適性を考えて決めるべきである。 しかし、何方かと言えば人生のある時期には自らの適性を充分生かせる研究開発をすることが望ましい。この場合技術者は本人の適性を良く知って自分の分担を希望出来ることが望ましく、またその技術者としての得意とする才能と実力を組織のメンバーに認められるように平素から活動して同僚の信頼が得られるようにしておくことが大切である。 研究室時代学生は新聞・雑誌等でこれからはある特定の分野に関する仕事をすることがよいと言われると、自分はその分野に適性があるかのように自分自身に暗示を掛け、思い込む人がいる。このような思い込みによって隠れた才能が見出されることもあるので、他人の話に耳を傾けて自分の才能や適性を決めることも悪いことではないが、それとは別に、自分の適性を判断する方法を考えておくことも必要である。「ある仕事を1人で行う時、疲れを知らず、食事も忘れてそれに没頭して仕事が捗る場合、当事者はその仕事に適性がある」と考えている。豊倉が研究を始めた頃、晶析を研究する人は少なく、その分野の将来に疑問を持って直接忠告する人もいた。しかし、その研究課題に関心を持つ人が少ないのはまだ研究成果が出てないからで、自分で然るべき成果を上げれば、関心を持つ人は増えると信じて研究を続けた。未開の分野で研究を行う時は新しい成果を上げやすく、予想出来ない発展を期待できる。

   「終身雇用体制が崩れると予想されるこれからの時代、技術者は如何なる活動をすべきと考えるか?」 について関心のある人々と意見を交換し、討議を続けたいと考えてる。

2004年3月


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