これがおれの生き様だ!

■ 七日目

  朝飯 なし
  昼飯 なし
  晩飯 おから 白身フライ(19円) ご飯1合(30円) キャベツ(7円)

   計 \56
  総計 \331


このような食生活を続けていてつくづく痛感させられたことがある。メシは甘い、ということだ。この当たり前すぎる事実は、これまでブランド米だけに限った話だと思っていた。ところが実際、違うのでありますね。おれが食っている得体の知れない安米ですら米一粒一粒に甘味が凝縮されているのが分かった。どうも飢えが味覚を鋭くさせてくれているらしい。

米を一口分、咥内に放り込む。すると米の甘みがじんわりと舌に伝わっていく。その刹那、口の中には電気のようなものが突如として発生する。電気は舌先を中枢として鼻から脳へ、食道から胃へ、小腸から大腸へと走りぬけ、全身のあるゆる部位、手足の指先・爪一本一本にいたるまでに恐るべき速さで浸透していく。おれはあまりの快感に身が固まる。硬直は震えとなり、おれは全身に拡散してしまった震えを抑えつつ、再び米を咀嚼する。また更なる甘みが咥内で爆ぜる。そして、おれは喉の奥から言葉にならぬ言葉をやっとこさ搾り出す。「う、うめえ…っ」。
食事は花火であり、火薬であり、爆発である。瞬間的な破裂。四次元的エクスプロージョン。咥内で爆ぜる甘味と酸味、塩味と苦味、それに伴い発生した残滓は思考の節々にこびり付く。残滓は強烈な思い出と化す。食後、しばらくはまともに頭が働かない。ことあるごとにこの残滓は蘇り、心体は快楽に浸される。

米に限らず食事全般における話である。食事の度におれはこの快感を満喫しているのだ。まったく疲れること極まりない。贅沢な話だ。

           *

ところで、おれはグルメ本が嫌だ。
グルメ通を称しているやつはもっと嫌いだ。
食通気取りの阿呆は一度、太宰治の『食通』を読んでから、豆腐の角に頭ぶつけてくたばればいいと思っている。

そもそも「わたしはグルメ通なんですよ」などといっている輩の気が知れない。ただのバカなんじゃないか。
身近にはこれだけ美味いものがごろごろと転がっているにも関わらず、その美味いものを食い残しゴミ収集車に引き取らせては遠路はるばると出かけ大金を叩いて食い物を求め、うまいうまいとほざいておられる。
彼らの食っているものは本当に食い物なのか。カネを食っているだけではないのか。あるいは「グルメ食」を食うまでに至る苦労、誰も食えないものを食っているんだという優越感、名シェフの作った料理という権威を食っているだけなのではあるまいか。本当に純粋な味覚をもってして味わっているのか。
いや、目で食べる日本料理、というものも存在するが、彼らの姿勢は根本的に違っていると思う。


そして「頂きます」「ご馳走様」だ。
おれの知る限りでは上記の輩からこの言葉を聞いたことがない。仮にこれらの言葉が発されたとしてもおざなりな「イタダキマス」「ゴチソウサマ」であり、小学校の給食の時間に言わされていたような機械的「イタダキマス!」や機械的「ゴチソーサマデシタ!」である。
ちなみに、おれの場合の「ご馳走様」はこうだ。
はっきり言って「お食べ物様」がこれほどに旨いと申し訳なくて申し訳なくて仕方がない。ああ、勿体なや「お食べ物様」。これほどまでおれに尽くしてくれてありがとう。せめてものお返しに合掌しつつわたくしひとりしかおりませぬが言わせていただきます「ごちそうさまでありました」である。
本来ならば、打ち水で体を清め、「お食事」を神前に祭り、神酒を捧げ、恐れ多くも二拝二拍手一拝をもって拝礼し、三日三晩踊りあかした後に頬を濡らしつつ嗚咽混じりに「お食事」すべきだろう。だが、本当にやると体が持たないので、「頂きます」の一言で片付けている。申し訳ない話だ。
だからこそ白痴じみたテレビのバラエティー番組などを見ながら何となく食事する、などという暴挙は到底できるはずもない。おれが日ごろ食っている食事は神様仏様以上の存在である。この上なく神々しく、限りなく尊い。


「人間なんて、旨い不味いというのはだいたいがみんな、思い出食ってんだよ」
辻静雄

「でも、おれは粗食とグルメどちらか食えといわれたら迷わずグルメを食うよ」
隊長



■ 八日目

  朝飯 なし
  昼飯 なし
  晩飯 なし

  計 \0
 総計 \331


食うことのできる炭水化物がなかったために本日は絶食。いったん寝付けば、おれの勝ち。
午後七時就寝。

【 寝るのが一番! 】

空腹感に耐えるのは大変つらいことです。つらいならば寝てしまいましょう。
六時間寝れば六時間空腹に苦しまず、しかもその間は飲まず食わずで済むという有意義な手段です。
しかしながらこの場合、空腹感に苦しめられてなかなか寝付けないという状況にもなって参りますが、その時はうつ伏せとなって寝ること。腹の下に枕や座布団等を置くこと。腹部が圧迫されることによって空腹感がまぎれます。

お勧め度 ★★★★★



■ 九日目

  朝飯 おから
  昼飯 なし
  晩飯 カレースープ・オン・ザ・ライス(40円) おから

  計 \ 40
 総計 \371



おれはカレーが好きなのだ。だが100円は高い。あまりにも高い。だから水で薄めた。倍に薄めた。これで五人分が十人分となった。

ただこれでは、カレーというよりも「カレーの匂いがする液体」だ。当然、具はない。だからなおさら「カレーの匂いがする液体」である。
ご飯にたらすと、カレーライスというかそれはむしろ「スープの中にご飯が浮いている代物」になった。
「カレースープ・オン・ザ・ライス」と命名。

【 食べすぎに注意! 】

粗食生活を長く続けていると、ごくごく稀まれながら「ご馳走」に誘われることがあります。
ただし、これには細心の注意を払って食事に臨まねばなりません。以下、二つの危険性を秘めているからです。

1.体内環境の劇的変化
2.胃の許容量問題

「1」については、急にご馳走を体内に摂取すると体がついていかない、ということです。具体的には、腹を下す。
ダイエット業界では、「絶食した後はおかゆから食べること」が常識とされていますが、これと同じことでしょう。貧乏人は貧乏人らしく「それはお口にあいません」とうやうやしく辞退するか、下痢を覚悟した上で食事を食べる必要があります。

「2」は特に注意が必要です。これまで飢えと戦いながら必死に作り上げてきた胃はもはや芸術の域に達しております。
定食屋のメニューを片っ端から食うことに挑戦し、五人前の定食は軽く収納できた胃は今では二合のご飯を食っただけで腹いっぱいになる程の縮小化を遂げました。これぞ日本の職人芸でありましょう。
ところが、「ご馳走」を食う機会となると「腹一杯食べなさい」とのありがたいお言葉をいただくことが多いです。ここぞとばかりに普段の栄養不足を補わねばなりません。無理にでもご馳走を腹に詰め込むこととなります。久しぶりに味わう満腹感。あの過ぎ去りし飽食の日々。最後に見た夕日はいつだったろう?
と、まあがっつり食べてしまいがちになりますけど、こうなると軽い胃拡張になってしまいます。この際、胃拡張の痛みなどは腹いっぱいのメシが食えることに比べれば大したことはないでしょう。最大の痛みは後日、襲ってきます。
胃が拡がってしまったことで味わう最悪の結果とは、普段の粗食に我慢できない体になってしまうことです。食事の質をとっても量をみても到底たえられない。長年にわたって縮小化された胃は、たった一度の「普通の食事」で元に戻ります。また飢えと戦わねばなりません。地獄の苦しみです。
これを防ぐためにも「食べすぎには注意」。程ほどにしておきましょう。

お勧め度 ★★☆☆☆